彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「無賃橋」

2006年11月20日 | 史跡
高宮布、または高宮上布と呼ばれた物、彦根藩の藩領だった神崎郡で産出される麻布がありました。
当時、高宮宿にはその布を取り扱う布座と呼ばれる今の形で表現するなら布の同業者組合の様なものがあったのです。こうして高宮宿に集められた事から高宮上布と呼ばれ、その質の良さから毎年彦根藩から将軍家に献上されていたくらいだったのです。

そして、幕末にこの高宮上布を持って九州や中国地方に売り歩いていた人物が伊藤忠兵衛でした。忠兵衛はこの時に作った地盤を元に明治時代に呉服店を開業します、これが『丸紅』の基礎となります。また貿易会社として開業した店が今の『伊藤忠商事』となるのです。

さて、そんな大物商人が生まれるきっかけにもなった高宮宿から京に向かう時に最初の難所となるのが犬上川でした。江戸時代は戦国時代とはうって変わって平和な時代になっていましたが、それでも武士たちが支配している世界であるために、常に有事に備えていたのです。このため国防の理由から大きな河川に橋を架ける事はありませんでした。
しかし天保3(1832)年、彦根藩は藤野四郎兵衛(『江州音頭』を始めた『又十』ニ代目)や小林吟右衛門・馬場利左衛門らの近隣の豪商に命じて一般から寄付を募って犬上川に橋を架けさせたのでした。
当時の橋は、通行料が徴収されていたのですが、この時に完成した橋は誰もが無料で渡れた事から『無賃橋』という名前で人々に親しまれたのです。

昭和52(1977)年、改修工事が行われた無賃橋の脚下から2体の地蔵尊が発掘されました。
昔は、大きな土木工事の時や災害の時には人柱を埋める習慣があり、犬上川でも戦国時代の元亀年間に堤防の決壊を防ぐ為にお丸という庄屋の娘が人柱となった話が残っていて、お丸が沈んだ辺りの場所をお丸坂とも呼ばれていますが、この地蔵尊がそんな人柱の代わりに橋を守る為に埋められた守り神だったに違いありません。
そう感じた近隣の人々によって無賃橋の側に地蔵尊を祀るお堂が建立されました。それが、“むちん橋地蔵尊”です。

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