表門から彦根山を登ると、彦根城本丸に入る直前に建っている門が太鼓門櫓です。
この櫓は、建物の一部の壁が取り払われて、そこから一間が廊下になっているという全国でも稀な構造となっているのです。
そう言った不思議な構造から、建物の名前にもなっている太鼓が設置されていて、その太鼓が遠くまで響く為だったとも思われています。
城という物は、軍事的な意味合いが多かった為にこう言った工夫はあっちこっちで独自の方法をとられていた事が窺える一つの例なのかもしれませんね。
ただし、これは伝説で、本当にそうだったかどうかは分かりません。
さて、彦根城は詳しい方に言わせると「リサイクル城」と呼ばれるくらいに、使用されている建物や資材の殆んどが近江国内の城から移築された物が多かったのです。
例えば、天守は大津城天守閣・天秤櫓は長浜城大手門から移築されたという説があります。また石垣も、佐和山城・安土城など方々から運んできたとも伝わっています。
そして、太鼓門櫓も移築されてきた建物なのです。
以前は、彦根城築城前に彦根山に建っていた「彦根寺」の山門ではないかという説が濃厚でした。
・・・と言いますのも、彦根寺は観音信仰の寺だったのですが、古い時代の観音信仰の寺では納める札を柱に釘で打ちつける風習があり、太鼓門櫓にはそんな釘の跡が沢山残っていたからです。また、「ちょうなめ」という跡が残っている事もこの建物が古い事を表す証拠となっていました。
「ちょうなめ」は、平安時代まで遡る事が出来るといわれている建築儀式の一つで、鋸・手斧・鉋などを使って原料を製材にするまでの様子を表現して工事の安全を祈願する儀式での事を“ちょうなめ始め”とも呼んでいるくらいです、現在でも一部の神社や企業が行なっていますが、それほどによく用いられる儀式でもなかったのです。
そんな「ちょうなめ」の跡があるという事は寺社の建物ではなかったのか? と思われても当然かも知れませんね。
しかし、昭和31年から行われた解体修理工事に伴う調査で、彦根寺山門説は否定され、どこかの城の門を縮小して移してきた事が解かったのです。
ただし、どこの城門であったかは謎が残っているんですよ。
この櫓は、建物の一部の壁が取り払われて、そこから一間が廊下になっているという全国でも稀な構造となっているのです。
そう言った不思議な構造から、建物の名前にもなっている太鼓が設置されていて、その太鼓が遠くまで響く為だったとも思われています。
城という物は、軍事的な意味合いが多かった為にこう言った工夫はあっちこっちで独自の方法をとられていた事が窺える一つの例なのかもしれませんね。
ただし、これは伝説で、本当にそうだったかどうかは分かりません。
さて、彦根城は詳しい方に言わせると「リサイクル城」と呼ばれるくらいに、使用されている建物や資材の殆んどが近江国内の城から移築された物が多かったのです。
例えば、天守は大津城天守閣・天秤櫓は長浜城大手門から移築されたという説があります。また石垣も、佐和山城・安土城など方々から運んできたとも伝わっています。
そして、太鼓門櫓も移築されてきた建物なのです。
以前は、彦根城築城前に彦根山に建っていた「彦根寺」の山門ではないかという説が濃厚でした。
・・・と言いますのも、彦根寺は観音信仰の寺だったのですが、古い時代の観音信仰の寺では納める札を柱に釘で打ちつける風習があり、太鼓門櫓にはそんな釘の跡が沢山残っていたからです。また、「ちょうなめ」という跡が残っている事もこの建物が古い事を表す証拠となっていました。
「ちょうなめ」は、平安時代まで遡る事が出来るといわれている建築儀式の一つで、鋸・手斧・鉋などを使って原料を製材にするまでの様子を表現して工事の安全を祈願する儀式での事を“ちょうなめ始め”とも呼んでいるくらいです、現在でも一部の神社や企業が行なっていますが、それほどによく用いられる儀式でもなかったのです。
そんな「ちょうなめ」の跡があるという事は寺社の建物ではなかったのか? と思われても当然かも知れませんね。
しかし、昭和31年から行われた解体修理工事に伴う調査で、彦根寺山門説は否定され、どこかの城の門を縮小して移してきた事が解かったのです。
ただし、どこの城門であったかは謎が残っているんですよ。