彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:生麦事件(8月21日)

2012年08月21日 | 何の日?
文久2年(1862)8月21日、生麦事件が起こりました。

兄島津斉彬の意思を継いで、薩摩藩兵を率いて上洛し、勅使と共に江戸城に入ることによって幕府の人事に口出しをして一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に就任させた島津久光は、上機嫌で鹿児島への帰路へ旅立ちました。

文久2年8月21日、東海道を下っていた一行は未の刻(午後2時頃)に生麦村に入ったのです。
西洋の暦では日曜日だったこの日、空も快晴だったことからイギリス人商人のマーシャル・クラーク・マーガレット(マーシャルの義妹)・リチャードソンは横浜の自宅から川崎大師まで乗馬を楽しんでいたのです。

生麦村に入った時、久光の行列に対して一人の外国人が下馬して膝を付いたのを目撃していた一行は、行列の前方からやってくる4人のイギリス人も当然そのようにするものだと思っていたのです。
しかし4人は馬を降りる気配が無かったため、薩摩藩士は身ぶり手ぶりで4人に脇に寄るように伝えたのです。その意味を解さなかった4人はそのまま行列の中を逆行する形で通ってしまい、久光の駕籠に近くなったために藩士たちが慌てたのです。
4人は周囲の殺気だった雰囲気に危険を感じ、乗馬したまま向きを変えて行列から出ようとしましたが、その動きが慌てていて無秩序になってしまったために複数の藩士が刀を抜いてしまったのです。

奈良原喜左衛門がリーチャードソンを斬り、逃れようしたところを久木村治休が斬ってリチャードソンは落馬、海江田信義(有村次左衛門の長兄)が止めを刺したのです。
マーシャルとクラークも斬られますが、マーガレットを先に逃がすことに努め、マーガレットが帽子に一撃を受けながらも無傷で走り去ったことを認めてから馬を駆けさせたのです。
マーガレットは横浜居留地へ逃れ、マーシャルとクラークは神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に入り、ここで治療を受けて一命を取り留めたのです。

結局、生麦事件は
1名死亡
2名重症
という惨劇となりました。

この報告を駕籠の中で聞いた久光は、何事もなかったかのように駕籠を進めました。

こののち、報復としてイギリスが薩摩を攻める薩英戦争が起こるきっかけとなったのです。
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