文久2年(1862)12月12日、長州藩士の高杉晋作・久坂玄瑞らが品川に建築中だったイギリス公使館に放火をして焼いてしまいます。
この少し前までイギリスの公使館は品川・東禅寺にありましたが、1861年5月28日に水戸藩士14人に襲撃されてイギリス人2名が負傷、翌年5月29日にも警護兵のはずの松本藩士・伊藤軍兵衛が水兵2名を斬り殺してから切腹するという事件が起きました。
高杉晋作は、早くから海外に目を向けている先見性がある人物で、上海に留学に行ったりもしましたが、そこで目にしたのは阿片戦争に敗れたために列強と呼ばれる欧米諸国の人々に虐げられている中国人の姿でした。
こんな経験から外国の言いなりになる危険性を感じた晋作は自分の態度を示す一環として焼き討ち事件を起こしたのです。
当時こういった事件にはあっちこっちで起こっていましたが、その全てが高杉晋作のような大きな意志があった訳ではなく、ただの外国嫌いから来ている事も多くあったのです。
では、なぜそこまで日本人が外国人を嫌ったのかといえば、黒船来航にあったのです。
ペリーが黒船に乗ってやって来ることは前年にオランダを通じて幕府に報告されていましたが、幕府はこれを信用せず、上層部だけの秘密にしていまい、いざ黒船が来た時に何も知らない現場の人間が大慌てをしてしまったのです。
その後も威圧的に外交を行うペリー一行の姿を見た人々は「不意打ちを行った上に余りにも無礼」として外国人を憎んでしまいました。
いわば、目隠しをされた状態にも近かく、何も知らないままに暴走してしまったのです。
もし、最初の段階で上層部がちゃんとした指示を出していたなら幕末の日本の混乱は半分以下で済んだだろうと言われています。
どの時代でも言える事だとは思いますが、今の現状はそのまま共有してこそ解決方法が生まれるのではないでしょうかね。
この少し前までイギリスの公使館は品川・東禅寺にありましたが、1861年5月28日に水戸藩士14人に襲撃されてイギリス人2名が負傷、翌年5月29日にも警護兵のはずの松本藩士・伊藤軍兵衛が水兵2名を斬り殺してから切腹するという事件が起きました。
高杉晋作は、早くから海外に目を向けている先見性がある人物で、上海に留学に行ったりもしましたが、そこで目にしたのは阿片戦争に敗れたために列強と呼ばれる欧米諸国の人々に虐げられている中国人の姿でした。
こんな経験から外国の言いなりになる危険性を感じた晋作は自分の態度を示す一環として焼き討ち事件を起こしたのです。
当時こういった事件にはあっちこっちで起こっていましたが、その全てが高杉晋作のような大きな意志があった訳ではなく、ただの外国嫌いから来ている事も多くあったのです。
では、なぜそこまで日本人が外国人を嫌ったのかといえば、黒船来航にあったのです。
ペリーが黒船に乗ってやって来ることは前年にオランダを通じて幕府に報告されていましたが、幕府はこれを信用せず、上層部だけの秘密にしていまい、いざ黒船が来た時に何も知らない現場の人間が大慌てをしてしまったのです。
その後も威圧的に外交を行うペリー一行の姿を見た人々は「不意打ちを行った上に余りにも無礼」として外国人を憎んでしまいました。
いわば、目隠しをされた状態にも近かく、何も知らないままに暴走してしまったのです。
もし、最初の段階で上層部がちゃんとした指示を出していたなら幕末の日本の混乱は半分以下で済んだだろうと言われています。
どの時代でも言える事だとは思いますが、今の現状はそのまま共有してこそ解決方法が生まれるのではないでしょうかね。