ちょうど1年前の2011年12月10日、JR二条駅西側で、西三条院(西三条第)が発見されて話題になり、管理人も現地説明会に行きました。
この時は、ここから「三条院釣殿高杯」や「政所」と書かれた土器が発見されて、この地が藤原良相の屋敷跡だったことが判明したことが大きな話題になったのです。
それから一年、今度はこの地で発掘された土器に書かれた文字がひらがなもしくは草仮名(万葉文字を草書体にした、漢字とひらがなの間の文字)であることが判明したのです。
この地の主であった藤原良相は867年に亡くなっている人物で、今まで歴史上では905年の『古今和歌集』にひらがなが使われたのが最初に見る例であり、草文字として多賀城跡で発掘されたものや867年の使用例があったのですが、今回の発見で草文字の歴史は数年、ひらがなの歴史は半世紀近く遡ることになったのです。
そんなひらがなが書かれた土器は、京都市考古資料館で公開されました。
ますは、昨年も見た覚えがある「三条院釣殿高杯」と漢字で記された物
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他にも漢字を記した土器もありました。
そしてひらがなへ
とても大切に展示されてました。
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この左側の土器には「かつらきへ」これは神楽歌『朝倉』に登場する「葛城へ」ではないかとの説です。
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右から縦に
□れ(なれ)
□わあな
□(なき)く
□ま□
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同じく右から縦へ
□そこ
□なしも
そまほる
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これも、右から縦に
□かくは
□たにひ
は ら
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メインになるものは解説がありました
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後半に、
ち す きな ひとに
く し とお□われ
とあり、特に後半は「人憎しと思われ」と読めるとのことです。
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また写真ではありませんが、高杯の横に『日本書紀』に登場する「なかつせ(中つ瀬)」との文字も見つかったとのことでした。
藤原良相は、応天門事件をきっかけに兄の藤原良房との関係がこじれてしまうのですが、それまでは権力もあり、姉の藤原順子が仁明天皇の中宮であったこともあり、将軍としてだけではなく文化人としても著名だったのです。
その文化人が、流行りだしたひらがなを自らのサロンのようなところで使ったのか? それとも場合によっては世の中が草仮名になりだしたのを見て、良相サロンのメンバーがもっと崩したひらがなを発明したのか?
真相がわかることは、たぶんタイムマシーンでもできない限りないと思います。
でも、確実にひらがなの歴史は最低でも半世紀近く遡ることになり、自分たちが使っている文字の1150年以上前の形を目の当たりにしているのです。
この時は、ここから「三条院釣殿高杯」や「政所」と書かれた土器が発見されて、この地が藤原良相の屋敷跡だったことが判明したことが大きな話題になったのです。
それから一年、今度はこの地で発掘された土器に書かれた文字がひらがなもしくは草仮名(万葉文字を草書体にした、漢字とひらがなの間の文字)であることが判明したのです。
この地の主であった藤原良相は867年に亡くなっている人物で、今まで歴史上では905年の『古今和歌集』にひらがなが使われたのが最初に見る例であり、草文字として多賀城跡で発掘されたものや867年の使用例があったのですが、今回の発見で草文字の歴史は数年、ひらがなの歴史は半世紀近く遡ることになったのです。
そんなひらがなが書かれた土器は、京都市考古資料館で公開されました。
ますは、昨年も見た覚えがある「三条院釣殿高杯」と漢字で記された物
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他にも漢字を記した土器もありました。
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そしてひらがなへ
とても大切に展示されてました。
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この左側の土器には「かつらきへ」これは神楽歌『朝倉』に登場する「葛城へ」ではないかとの説です。
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右から縦に
□れ(なれ)
□わあな
□(なき)く
□ま□
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同じく右から縦へ
□そこ
□なしも
そまほる
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これも、右から縦に
□かくは
□たにひ
は ら
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メインになるものは解説がありました
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後半に、
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く し とお□われ
とあり、特に後半は「人憎しと思われ」と読めるとのことです。
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また写真ではありませんが、高杯の横に『日本書紀』に登場する「なかつせ(中つ瀬)」との文字も見つかったとのことでした。
藤原良相は、応天門事件をきっかけに兄の藤原良房との関係がこじれてしまうのですが、それまでは権力もあり、姉の藤原順子が仁明天皇の中宮であったこともあり、将軍としてだけではなく文化人としても著名だったのです。
その文化人が、流行りだしたひらがなを自らのサロンのようなところで使ったのか? それとも場合によっては世の中が草仮名になりだしたのを見て、良相サロンのメンバーがもっと崩したひらがなを発明したのか?
真相がわかることは、たぶんタイムマシーンでもできない限りないと思います。
でも、確実にひらがなの歴史は最低でも半世紀近く遡ることになり、自分たちが使っている文字の1150年以上前の形を目の当たりにしているのです。