彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:足利三代木像梟首事件(2月22日)

2013年02月22日 | 何の日?
文久3年(1863)2月22日、足利将軍である尊氏・義詮・義満の木像の首が賀茂川の河原に晒される足利三代木像梟首事件が起こりました。

この当時、徳川光圀が編集させていた『大日本史』の影響で、天皇の正当性は三種の神器を保有していたかどうかで決められていて、南北朝時代には南朝が三種の神器を保有していたことから正当性が認められていました。
そうすると、南朝に対抗した北朝の任命した征夷大将軍である足利尊氏・義詮・義満は朝敵と言う扱いになったのです。

持統院に祀られていた木像は、前日に位牌と共に奪われていて、目をくり抜かれ首を斬られた状態で晒されました。そして斬奸状には「朝廷を守るのがこの国の本来の姿なのに、源頼朝が幕府を開いて以来、北条・足利と朝廷を悩ませた。本来なら本人の首を斬りたいところだ無理なので尊氏とその子孫の木像の首を刎ねてその不満を晴らす」と書かれていたのです。
犯人は平田派国学の三輪田元綱、師岡正胤とされています。

この事態を怒った松平容保は、犯人捕縛を厳命します。
4月の犯人捕縛後に三条実美が、一橋慶喜を通じて赦免を要求しますが聞き入れられず8月に主計されたのです。

この事件は、容保に大きな影響を与え、それまでは融和路線を執っていたのですが、翌日に上洛する浪士組から派生した新選組を登用するなどの強硬路線を執ることになったのです。
こう考えると、幕末の尊王攘夷派の悲劇って、自分で起こしたものだとも言えますね。
コメント
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