文久3年(1863)2月1日、賀川肇の首が東本願寺門前に晒されました。
和宮降嫁に関わった四奸二嬪(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直と今城重子・堀河紀子)の一人に挙げられていた千種の家臣である賀川肇が暗殺されたのは1月28日の事でした。
28日夜に、賀川宅を十数名の浪人が襲ったのです。しかし賀川の姿が見えなかったために、子どもを殺そうとしました。
これには賀川も観念し、浪士たちの前に姿を示し、首を斬られたのです。この浪士たちの中に田中新兵衛や岡田以蔵がいたとも言われています。
そんな賀川の遺体をバラバラの切り裂いた浪士たちは、2月1日になって右腕を千種邸に、左腕を岩倉邸に投げ込んで「二嬪が女官に復帰するらしいが、もしそうなったら同じ目に合うと伝えろ」との文を添えました。
そして首が、一橋慶喜の宿舎である東本願寺の門前に晒されて、「本気で攘夷をしないなら、天下の有志は黙っていない。攘夷の期限を確定して天下の疑惑を取り除け。この首は粗末だが攘夷の血祭りに献上するので、一橋公に披露しろ」と老中や大目付宛に書かれていたのです。
東本願寺は一時大騒ぎになりましたが、水戸藩の武田耕雲斎が吉兆と進言し、慶喜は翌日に賀川の首に清酒を献じて、「攘夷の前に生首を得たのは吉兆だ」と公言して騒ぎを沈静化させたのです。
和宮降嫁に関わった四奸二嬪(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直と今城重子・堀河紀子)の一人に挙げられていた千種の家臣である賀川肇が暗殺されたのは1月28日の事でした。
28日夜に、賀川宅を十数名の浪人が襲ったのです。しかし賀川の姿が見えなかったために、子どもを殺そうとしました。
これには賀川も観念し、浪士たちの前に姿を示し、首を斬られたのです。この浪士たちの中に田中新兵衛や岡田以蔵がいたとも言われています。
そんな賀川の遺体をバラバラの切り裂いた浪士たちは、2月1日になって右腕を千種邸に、左腕を岩倉邸に投げ込んで「二嬪が女官に復帰するらしいが、もしそうなったら同じ目に合うと伝えろ」との文を添えました。
そして首が、一橋慶喜の宿舎である東本願寺の門前に晒されて、「本気で攘夷をしないなら、天下の有志は黙っていない。攘夷の期限を確定して天下の疑惑を取り除け。この首は粗末だが攘夷の血祭りに献上するので、一橋公に披露しろ」と老中や大目付宛に書かれていたのです。
東本願寺は一時大騒ぎになりましたが、水戸藩の武田耕雲斎が吉兆と進言し、慶喜は翌日に賀川の首に清酒を献じて、「攘夷の前に生首を得たのは吉兆だ」と公言して騒ぎを沈静化させたのです。