文久3年(1863)2月8日、浪士組が京に向けて出発しました。
当初50人程度を予定していた浪士組は、最終的に240人の大所帯となって、江戸を出発したのです。
この時、浪士たちには10両の手当てが支給されました。
一般的な説では、浪士取締役の松平主税助が、人数の多さに驚いて職を辞して鵜殿長鋭に代わったといわれていますが、松平はこれより前に職を降りていますので、浪人の人数には関わっていません。
また、当初は50人で一人50両の手当てが、200人以上になったので10両になったとの話もありますが、これも当時の史料を調べていくと最初から10両だった可能性が高いのです。
ちなみに浪士取締役には鵜殿の他にも清河八郎や石坂周造・山岡鉄舟なども就いていて、上洛の道中で、芹沢鴨もこの任に就くのです。
またこの出発に際して浪人たちは7組に分けられますが、近藤勇は平扱いで、なぜか先発隊として浪人たちの宿を確保する役割を受け持つのです。
こうして8日に出発した浪士組は23日に京に入るのです。
当初50人程度を予定していた浪士組は、最終的に240人の大所帯となって、江戸を出発したのです。
この時、浪士たちには10両の手当てが支給されました。
一般的な説では、浪士取締役の松平主税助が、人数の多さに驚いて職を辞して鵜殿長鋭に代わったといわれていますが、松平はこれより前に職を降りていますので、浪人の人数には関わっていません。
また、当初は50人で一人50両の手当てが、200人以上になったので10両になったとの話もありますが、これも当時の史料を調べていくと最初から10両だった可能性が高いのです。
ちなみに浪士取締役には鵜殿の他にも清河八郎や石坂周造・山岡鉄舟なども就いていて、上洛の道中で、芹沢鴨もこの任に就くのです。
またこの出発に際して浪人たちは7組に分けられますが、近藤勇は平扱いで、なぜか先発隊として浪人たちの宿を確保する役割を受け持つのです。
こうして8日に出発した浪士組は23日に京に入るのです。