これは ナサニエル・フィルブリック 「復讐する海」を読む その2の続きです
これまでの粗筋:1820年11月20日米国ナンタケット島を基地とする捕鯨船「エセックス号」は全長26メートル、尾の横幅12メートルもある雄のマッコウクジラに二度も体当たりされほとんど瞬時に沈没してしまいます
捕鯨ボート3艘に乗り分けた乗組員20名は5400キロ程の帆走を決意、南米大陸を目指します 帆走30日後ヘンダーソン島にたどり着くました 3名の残留希望者を残しイースター島を目指します
ここからが続きです
11月27日出発時のボートと乗員の組み合わせを再掲します
ボート1:
艇長;ジョン・ポーラッド・ジュニア(白・ナンタケット島出身)通し番号(1の1--通し番号1でボート1に乗り組み、以下同じ)、、舵取りオービッド・ヘンドリックス(白・ナ)通し番号(2-1)、水夫オウェン・コフィン(白、ナ)通し番号(3-1)、水夫チャールズ・ラムズデル(白・ナ)通し番号(4-1)、水夫バージライ・レイ(白・ナ)通し番号(5-1)、水夫サミュエル・リード(黒人)通し番号(6-1)
ボート2:
艇長;オウエン・チェス(白・ナ)通し番号(7-2)、舵取りベンジャミン・ロレンス(白・ナ)通し番号(8-2)、士官付ボーイのトマス・二カーソン(白・ナ)通し番号(9-2)、水夫アイザック・コール(白・そ)通し番号(10-2)、水夫リチャード・ピーターソン(黒人)通し番号(11-2)
ボート3:
艇長;マシュー・ジョイ(白・ナ)通し番号(12-3)、、水夫ジョセフ・ウエスト(白・そ)通し番号(13-3)、水夫ローソン・トマス(黒人)通し番号(14-3)、水夫チャールズ・ショウター(黒人)通し番号(15-3)、水夫アイザック・シェパード(黒人)通し番号(16-3)、給仕人ウイリアム・ボンド(黒人)通し番号(17-3)の17名である
これまでの反省から「極力天体観測その他で現在地の把握に努めます」
しかし1月3日風と波は無常にもイースター島に進路を取る事が出来ず行き過ぎた事がわかります チリ沿岸までは4000キロ以上あり、これまでの帆走より距離があります もはや食料は1日コップ1杯の水と85グラムの乾パンのみです
1月10日 マシュー・ジョイ死亡 航海前からの病気と今回の遭難による衰弱です 通し番号(12-3)、彼は丁重に水葬されました
3号ボートの艇長の死に船長ポラードは自分の舵取りのオービット・ヘンドリックス通し番号(2-1)を艇長に任命します
さて1月12日の夜激しい嵐に見舞われ翌朝になると2号ボートは1号と3号ボートと離れてしまいます 両集団は共にショックを受け少ない乾パンを更に半分にしてチリー沿岸まで1900キロを別々に目指します
1月20日2号ボートのリチャード・ピーターソン通し番号(11-2)死亡、彼の遺体も水葬に付されました
同じ日1号3号ボートではローソン・トマス死亡通し番号(14-3)、3号艇ではジョイが病気の為、食料の管理が不十分でありそれをポラードの食料で補填した為乾パンさえ切れかけていました
ヘンドリックスとポラードは「おそろしくも嘆かわしい提案と思いながら飢えを満たすとの圧倒的な欲求の前に負けた」
これまでの海難事件の食人の霊に倣えば:人間らしさを思い出させる部分;頭、手足、皮膚などを捨て、内臓と肉を削ぎあぶって食べた
著者は学者の意見として人間の過食部分は30キログラムとしているが既に飢餓に晒されたトマスは脂肪のない繊維質の肉が13,4キロ取れたであろうと書いている ポラードの一行もありがたく頂戴した
1月23日(船を離れ63日目)チャールズ・ショーター通し番号(15-3)が死亡し、食料となった
そのころ160キロ南では2号ボートの4名は生きていたが空腹に加え荒天と寒さの中、ボートの操作もおぼつかなくなっていた
1月27日3号ボートのアイザック・シェパード通し番号(16-3)死亡、
翌日28日にはポラードのボートでただ一人の黒人サミュエル・リード通し番号(6-1)も食料となった
29日の夜1号ボートのポラードは3号ボート(白人2、黒人1生き残り)が見えないのに気づいたが、探すだけの体力が無かった
両ボートはチリー沿岸2400キロの海で離れ離れになった 3号ボートはコンパスも象限器もなしに大海をさ迷う事となった
2月6日1号ボートではサミュエル・リードの「最後のひとかけら」がなくなった後ナンタケット島出身の白人四名は「犠牲者のくじ引き」を相談していた
「くじ引き」はポラードのいとこオウエン・コフィンに当たった
慫慂と死に付いた彼の身体もたちまち跡形なくなった
さて1821年1月28日2号ボートでは乾パンを食い延ばし4人は生きていた 乾パンは今の配給で14日分はあるがこのままでは数日で死ぬだろうと思われた
そこでチェイスは「当面必要な分だけ食べてボートは運に任せる事」とした
2月8日(帆走79日目)アイザック・コール通し番号(10-2)死亡、
2月9日水葬の準備中、チェイスはコールを食料にする事を提案、同意を得る
残った乾パン3日分はいよいよ最後の時に持ち越す事が出来た
さて1号ボートでは2月11日(くじ引きから僅か5日後バージラル・レイ通し番号(5-1)が死亡. ポラードとラムズデルの二人はレイの遺体とコフィンとリードの骨で命を繋ぐしかなかった
さて2月14日(85日目)2号ボートのチェイス、ロレンス、ニッカーソンの3名はコールを食べつくした 島まであと500キロ位だ 上手く行けば5日で付く
しかし乾パンは後三日分しかない
2月18日身体も動かないまま目を外にしたロレンスが帆を見つける
「船が見える!」決死の追走3時間 3人は商船インデァン号に救助された
エセックス号をはなれて89日目、南緯33度45分、西経81度3分 マスアフェラ島まで帆走半日の距離であった
1号ボートはその頃それより南500キロの所をまだ航海を続けていた
2月23日、94日目、バージラル・レイが死んでから12日目ボートはチリ沖の線とメアリー島に近づいていた 捕鯨船ドーフィン号が骨が散乱するボートの中で横たわる二人の男を見つけた
生き残り5名は5月までに体力を回復してナンタケット島へ戻った
デュシー島(本当はヘンダーソン島)の3名は救出の手配により4月9日商船サリー号により救出された 彼等もあと一月は持たなかったであろうと診断された
さて3号ボートの3名はどうしたであろうか
サリー号がデュシー島を捜査してから数ヶ月たってから別の船が岸に打ち上げられている捕鯨ボートとその中に4体の骸骨を発見した
20名でエッセクス号を離れ僅か5名がボートで生き残り、3名が島で生き残った
その4に続く
これまでの粗筋:1820年11月20日米国ナンタケット島を基地とする捕鯨船「エセックス号」は全長26メートル、尾の横幅12メートルもある雄のマッコウクジラに二度も体当たりされほとんど瞬時に沈没してしまいます
捕鯨ボート3艘に乗り分けた乗組員20名は5400キロ程の帆走を決意、南米大陸を目指します 帆走30日後ヘンダーソン島にたどり着くました 3名の残留希望者を残しイースター島を目指します
ここからが続きです
11月27日出発時のボートと乗員の組み合わせを再掲します
ボート1:
艇長;ジョン・ポーラッド・ジュニア(白・ナンタケット島出身)通し番号(1の1--通し番号1でボート1に乗り組み、以下同じ)、、舵取りオービッド・ヘンドリックス(白・ナ)通し番号(2-1)、水夫オウェン・コフィン(白、ナ)通し番号(3-1)、水夫チャールズ・ラムズデル(白・ナ)通し番号(4-1)、水夫バージライ・レイ(白・ナ)通し番号(5-1)、水夫サミュエル・リード(黒人)通し番号(6-1)
ボート2:
艇長;オウエン・チェス(白・ナ)通し番号(7-2)、舵取りベンジャミン・ロレンス(白・ナ)通し番号(8-2)、士官付ボーイのトマス・二カーソン(白・ナ)通し番号(9-2)、水夫アイザック・コール(白・そ)通し番号(10-2)、水夫リチャード・ピーターソン(黒人)通し番号(11-2)
ボート3:
艇長;マシュー・ジョイ(白・ナ)通し番号(12-3)、、水夫ジョセフ・ウエスト(白・そ)通し番号(13-3)、水夫ローソン・トマス(黒人)通し番号(14-3)、水夫チャールズ・ショウター(黒人)通し番号(15-3)、水夫アイザック・シェパード(黒人)通し番号(16-3)、給仕人ウイリアム・ボンド(黒人)通し番号(17-3)の17名である
これまでの反省から「極力天体観測その他で現在地の把握に努めます」
しかし1月3日風と波は無常にもイースター島に進路を取る事が出来ず行き過ぎた事がわかります チリ沿岸までは4000キロ以上あり、これまでの帆走より距離があります もはや食料は1日コップ1杯の水と85グラムの乾パンのみです
1月10日 マシュー・ジョイ死亡 航海前からの病気と今回の遭難による衰弱です 通し番号(12-3)、彼は丁重に水葬されました
3号ボートの艇長の死に船長ポラードは自分の舵取りのオービット・ヘンドリックス通し番号(2-1)を艇長に任命します
さて1月12日の夜激しい嵐に見舞われ翌朝になると2号ボートは1号と3号ボートと離れてしまいます 両集団は共にショックを受け少ない乾パンを更に半分にしてチリー沿岸まで1900キロを別々に目指します
1月20日2号ボートのリチャード・ピーターソン通し番号(11-2)死亡、彼の遺体も水葬に付されました
同じ日1号3号ボートではローソン・トマス死亡通し番号(14-3)、3号艇ではジョイが病気の為、食料の管理が不十分でありそれをポラードの食料で補填した為乾パンさえ切れかけていました
ヘンドリックスとポラードは「おそろしくも嘆かわしい提案と思いながら飢えを満たすとの圧倒的な欲求の前に負けた」
これまでの海難事件の食人の霊に倣えば:人間らしさを思い出させる部分;頭、手足、皮膚などを捨て、内臓と肉を削ぎあぶって食べた
著者は学者の意見として人間の過食部分は30キログラムとしているが既に飢餓に晒されたトマスは脂肪のない繊維質の肉が13,4キロ取れたであろうと書いている ポラードの一行もありがたく頂戴した
1月23日(船を離れ63日目)チャールズ・ショーター通し番号(15-3)が死亡し、食料となった
そのころ160キロ南では2号ボートの4名は生きていたが空腹に加え荒天と寒さの中、ボートの操作もおぼつかなくなっていた
1月27日3号ボートのアイザック・シェパード通し番号(16-3)死亡、
翌日28日にはポラードのボートでただ一人の黒人サミュエル・リード通し番号(6-1)も食料となった
29日の夜1号ボートのポラードは3号ボート(白人2、黒人1生き残り)が見えないのに気づいたが、探すだけの体力が無かった
両ボートはチリー沿岸2400キロの海で離れ離れになった 3号ボートはコンパスも象限器もなしに大海をさ迷う事となった
2月6日1号ボートではサミュエル・リードの「最後のひとかけら」がなくなった後ナンタケット島出身の白人四名は「犠牲者のくじ引き」を相談していた
「くじ引き」はポラードのいとこオウエン・コフィンに当たった
慫慂と死に付いた彼の身体もたちまち跡形なくなった
さて1821年1月28日2号ボートでは乾パンを食い延ばし4人は生きていた 乾パンは今の配給で14日分はあるがこのままでは数日で死ぬだろうと思われた
そこでチェイスは「当面必要な分だけ食べてボートは運に任せる事」とした
2月8日(帆走79日目)アイザック・コール通し番号(10-2)死亡、
2月9日水葬の準備中、チェイスはコールを食料にする事を提案、同意を得る
残った乾パン3日分はいよいよ最後の時に持ち越す事が出来た
さて1号ボートでは2月11日(くじ引きから僅か5日後バージラル・レイ通し番号(5-1)が死亡. ポラードとラムズデルの二人はレイの遺体とコフィンとリードの骨で命を繋ぐしかなかった
さて2月14日(85日目)2号ボートのチェイス、ロレンス、ニッカーソンの3名はコールを食べつくした 島まであと500キロ位だ 上手く行けば5日で付く
しかし乾パンは後三日分しかない
2月18日身体も動かないまま目を外にしたロレンスが帆を見つける
「船が見える!」決死の追走3時間 3人は商船インデァン号に救助された
エセックス号をはなれて89日目、南緯33度45分、西経81度3分 マスアフェラ島まで帆走半日の距離であった
1号ボートはその頃それより南500キロの所をまだ航海を続けていた
2月23日、94日目、バージラル・レイが死んでから12日目ボートはチリ沖の線とメアリー島に近づいていた 捕鯨船ドーフィン号が骨が散乱するボートの中で横たわる二人の男を見つけた
生き残り5名は5月までに体力を回復してナンタケット島へ戻った
デュシー島(本当はヘンダーソン島)の3名は救出の手配により4月9日商船サリー号により救出された 彼等もあと一月は持たなかったであろうと診断された
さて3号ボートの3名はどうしたであろうか
サリー号がデュシー島を捜査してから数ヶ月たってから別の船が岸に打ち上げられている捕鯨ボートとその中に4体の骸骨を発見した
20名でエッセクス号を離れ僅か5名がボートで生き残り、3名が島で生き残った
その4に続く