この世に生を受けたときから列車の走行音を聞いて育ち、半ば運命づけられたように鉄道ファンへと歩み出した私は、ある時期までは他の多くの鉄道ファンと同様、「鉄道記録映画とはあくまでも鉄道車両を中心とした記録であるべきだ」と考えていた。その作品に出会うまで、鉄道車両を基軸に据えない記録作品はドキュメンタリー映画の本流ではあり得ても鉄道記録映画としては傍流であると思っていたから、好んで視聴する鉄道記録映画も「20系特急あさかぜ」(1958年、岩波映画製作所)や「貨物列車日本縦断」(1968年、理研映画社)のような趣味的要素の強いものが多かった。これらの作品は、制作から30年以上経った今なおビデオ化されていることからもわかるように、いずれも秀逸・名作と評せられるものばかりであったが、どの作品も一様にニュース映画的色彩が強く、視聴者を圧倒するような迫力という点では物足りなさも感じていた。
そんななか(2001年頃だったと記憶するが)、山陰地方のあるローカル線の撮影に関係して深い付き合いをしていた鉄道ファンの友人が「お勧めのビデオだ。ぜひ見ろ。絶対見ろ」と1本のVHSビデオテープを私に貸してくれた。その中に収録されていた作品こそ、土本典昭監督のデビュー作「ある機関助士」だった。
この映画が作られる直前、国鉄は長くその歴史に汚点を残す三河島事故を引き起こしていた。敗戦でズタズタになった鉄道施設をろくに更新もできないまま、急激な経済成長で爆発的に輸送人員が増えたことにより、老朽化した施設の上を過密ダイヤで列車が走っていた当時の国鉄の安全はガタガタだった。とりわけ東海道本線と比べて近代化が遅れていた東北本線・常磐線でその危険は顕著であり、なかでも一部に単線区間や平面交差を抱えていた東北本線は、国鉄でも神と呼ばれる領域の人にしかダイヤが描けないと言われるほどのアクロバット的運行を強いられていた。
首都圏~東北の輸送は現在でこそ東北本線(新幹線)ルートが主役であり、在来線特急「スーパーひたち」しか走っていない常磐線は脇役に過ぎないが、蒸気機関車全盛の当時の事情は現在とは全く違っていた。蒸気機関車は上り勾配に極端に弱く、すぐに速度が落ちてしまうため、蒸気機関車時代は多少遠回りでも平坦なルートを通る方が早いことが多かったからだ。そのため、内陸を通って勾配が急な東北本線より沿岸ルートで比較的平坦な常磐線のほうが首都圏~東北のメインルートを占めていたのである(ついでに言えば、三原~広島間で蒸気機関車C62けん引の急行「安芸」が山陽本線でなく呉線を経由したのも同じ理由からである)。
「ある機関助士」はこうした時代背景の下に生まれた。常磐線を走る急行「みちのく」を舞台に、鉄道の安全と定時性を両立させるため奮闘する機関車乗務員に密着。顔をススだらけにしながら、全身をバラバラに打ち砕かんばかりの過酷な騒音と振動のなかで、通常よりも調子の悪い「暴れ馬」を乗りこなしてついには遅れを回復し、ダイヤを定時に戻す鉄道員の生き様を圧倒的な迫力で描き出す。当時、国鉄の安全はガタガタだったが、その一方には「新人乗務員の運転訓練で、拙い運転操作をした者には助士席から教導運転士の蹴りが飛んでくる」と言われるほどの鉄道員魂と、それに裏付けられたバンカラな気風が現場にみなぎっていた。「ある機関助士」の誕生は土本監督の技量と着眼点もさることながら、こうした国鉄乗務員の魂あってこそ初めて可能になったと私は考えている。
「ある機関助士」の根底には、あくまで人間を重視する土本監督の思想が脈打っている。このような描写は、ある層の人々からは精神主義であり科学的でないと批判されかねないものだったが、そうした批判は初めから織り込み済みだったに違いない。土本監督自身が、「どう考えても、そのときの国鉄の状況で安全がPRできるとは思わないし、特に東北へ向かう常磐線は、東海道本線なんかに比べると、新しい安全装置の設置も遅れがちなわけで、だから同じ路線が安全であるという保障はない」「でも僕は同じ路線で安全を描かなければ趣旨に沿わないだろうと思った。事故を起こしたその路線がどうなっているかを描かないと」と語っていたことからもそれは明らかだろう。土本監督は、無理を承知の上で、あえて三河島事故の舞台となった常磐線を選び、そして精神主義に傾斜する不完全さを抱えながらも、真摯に職務に精励する職員の姿を通じて安全の尊さを極限まで描き切ることに成功したのである。
一方で、英雄主義を排し、ひとりひとりの労働者に密着する土本監督の思想と手法は、支配層にとって受け入れがたいものだったのかもしれない。事実、「ある機関助士」のできあがり具合を見て国鉄上層部は公開をためらったとされる。最後には数々の賞を受賞したこともあって国鉄は公開に踏み切ったが、みずからが制作を依頼しておきながら国鉄のクレジットさえ挿入しない当局の姿勢に、この映画に対するスタンスをかいま見ることができる。その姿勢は、後述する「豪雪とのたたかい」の冒頭に「企画 日本国有鉄道」という誇らしげなクレジットが挿入されているのとあまりに対照的である。
私はこの作品と出会ったことで、人間が鉄道記録映画の主役になりうることを初めて理解した。考えてみれば、どんなに優れた鉄道車両も結局は運転する人間があって初めて動くのだ。その単純な事実に気付こうともしなかった自分の視野の狭さを再認識させてくれた作品でもあった。
土本監督自身、認識していたかどうか今となっては知る由もないが、「ある機関助士」は鉄道記録映画の世界に強烈なインパクトを与えたと思う。それ以前にも、「つばめを動かす人たち」(1954年、岩波映画製作所)のように、人間を主人公にした鉄道記録映画があるにはあった。しかしそれらの作品もまた、どこかニュース映画臭くて迫力に欠けていた。しかし、「ある機関助士」の公開と前後して、鉄道職員を主役にした優れた鉄道記録映画が世に多数出るようになった。北陸本線・今庄駅で455センチの積雪を記録し、まる1ヶ月にわたって北陸全域の鉄道が不通となった1963年北陸豪雪からの復旧作業を記録した「豪雪とのたたかい」(毎日映画社)や「僕はねぇ、機関士になりたかったんだよ!」という退職間際の駅長の声と蒸気機関車のドラフト音で始まる「駅」(1964年、岩波映画製作所)などは、今見ても作中の鉄道員たちがブラウン管からお茶の間に飛び出してきそうなほどの迫力に満ちあふれており、人間を主人公にした鉄道記録映画としては第一級の作品である。
時代を超えて今なお語り継がれるこうした鉄道記録映画のほとんどは1955~65年の間に生み出され、鉄道ファンの間では概ねこの10年間が「鉄道記録映画の黄金時代」と言われている。その黄金時代の末期に「人間」を鉄道記録映画の主役へと押し上げるうえで決定的な役割を果たした人物こそ、土本典昭監督その人なのである。
土本さんは79年の生涯を終え、旅だった。ご存命のうちに、ぜひ一度お会いして「ある機関助士」について心ゆくまで語らい合いたいという私の希望はかなわないままとなった。
このところ、国鉄闘争やその周辺で悲しい別れが続いている。2008年だけで、高岩仁監督、労働情報の石田精一さん、そして土本監督とかけがえのない仲間を失った。もし「プロレタリア映画史」というものがこの国にあるならば、徹底して労働者階級と弱者の側に立ち続けた高岩、土本両監督を失った2008年はこの国のプロレタリア映画史が終わった年といえるかもしれない。
しかし私は悲観していない。高画質のビデオカメラが廉価となったことで、誰もがビデオカメラを手に街頭に立ち、時代の記録をインターネットを通じて発信できるようになった。未曽有の貧困と命の危機のなかで、若者たちが従来の発想にとらわれない新たな闘いを生み出し、それがインターネットを通じて即時世界に発信され始めている。その闘いのなかから、新たな土本典昭は必ずや生まれてくるだろう。
趣味的な鉄道記録映画の楽しみ方しか知らなかった若き日の私を社会派鉄道ファンへといざなった偉大な監督。英雄主義が大嫌いだった映画界の巨星は、みずからが撮り続けたレンズの中の労働者のように、最後まで飾らず、自然体で旅立った。土本さんらしい最期だった。
(2008/6/25・特急たから)