人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

当ブログのご案内

当サイトは列車の旅と温泉をメインに鉄道・旅行を楽しみ、また社会を考えるサイトです。

「あなたがすることのほとんどは無意味でも、あなたはそれをしなくてはなりません。それは世界を変えるためではなく、あなたが世界によって変えられないようにするためです」(マハトマ・ガンジーの言葉)を活動上の支えにしています。

<利用上のご注意>

当ブログの基本的な運営方針

●当ブログまたは当ブログ付属サイトのコンテンツの利用については、こちらをご覧ください。

●その他、当サイトにおける個人情報保護方針をご覧ください。

●当ブログ管理人に原稿執筆依頼をする場合は、masa710224*goo.jp(*を@に変えて送信してください)までお願いします。

●当ブログに記載している公共交通機関や観光・宿泊施設等のメニュー・料金等は、当ブログ管理人が利用した時点でのものです。ご利用の際は必ず運営事業者のサイト等でご確認ください。当ブログ記載の情報が元で損害を被った場合でも、当ブログはその責を負いかねます。

●管理人の著作(いずれも共著)
次世代へつなぐ地域の鉄道——国交省検討会提言を批判する(緑風出版)
地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望(緑風出版)
原発を止める55の方法(宝島社)

●管理人の寄稿
規制緩和が生んだJR事故(国鉄闘争共闘会議パンフレット「国鉄分割民営化20年の検証」掲載)
ローカル鉄道に国・自治体・住民はどう向き合うべきか(月刊『住民と自治』 2022年8月号掲載)
核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

●安全問題研究会が、JRグループ再国有化をめざし日本鉄道公団法案を決定!

●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

書くこととしゃべること

2013-02-06 23:29:26 | 日記
妻が思うところあって買ってきた週刊「AERA」1月28日号の養老孟司さんのコラムを興味深く読んだ。普段の養老さんは、保守的な言論がかいま見えることもあって、当ブログ管理人はあまり好きではなかったのだが、「読み書きをおろそかにしたくない」と題した今回のコラムは私にとって大変好感の持てる内容だった。

『ここ最近の政治家を見て感じるのは、「しゃべる」ことには長けているが、書くものを読みたいとは思わない、ということ。書くといってもせいぜいツイッターかフェイスブックだろうが、それらは後々読みたい類のものではなく、あくまでも「瞬間芸」。その芸に、世の中がすっかり振り回されている。

 昭和を生きた政治家、とりわけ首相経験者であれば、その日記や回顧録には史料的価値があった。没後、仰々しい箱入りの本が出るのは一つの定番だった。平成以降、そんな本が出る政治家は果たしているだろうか』

『書くことは後世に歴史を残すことにつながるが、弁論はその場を制する手段である。その違いはかなり大きい』

『いま、日本でも書くよりしゃべるほうが優位になってきた。弁が立つことがもてはやされる。しかし、いかにもイデオロギー風の議論にどんな意味があるのか。読んで書くことを大切にしてきた日本語の本当の価値は、100年後か200年後かはわからないが、必ずや評価される日が来ると思う』

橋下徹・大阪市長が登場して以来、私がずっと感じていたモヤモヤ、違和感の正体を養老さんが解き明かしてくれたような気がする。橋下市長に典型的なのだが、最近の政治家は「今、この場で」相手を論破するのは大変うまい。それこそが政治家に最も必要な能力だと言わんばかりの風潮もある。

だが、こうした政治家には時間軸が欠落している。彼らにあるのは「今、目の前にある瞬間」だけだ。時間軸が欠落しているから、過去は「過ぎ去ってしまったどうでもいいこと」であり、未来は「そんなの知ったことではない」のである。だから、過去の自分の言動と今の言動が不一致であることに罪の意識もなく、その場その場のムードでヒラヒラと言動を翻して恥じないのだ。

『書くことは後世に歴史を残すこと、弁論はその場を制する手段』というところに、物書きとしての養老さんの矜持、意地を感じる。彼はここまではっきりと断言はしていないけれど、「しゃべることは『その場』で勝負することなのに対し、書くことは『歴史的時間軸』の中で勝負することなのだ」と主張したかったに違いない。

当ブログ管理人は、(おそらく養老さんも同じと思うが)書くことは好きだが、話すことは好きでも得意でもない。プレゼンや講演などのように、人前で何か話さなければならない場面ではいつまで経っても緊張から解き放たれることはないし、原稿を用意していないと要領よく話すこともできない。バラエティ番組に出演するタレントのような気の利いたアドリブなど決してできない。

それでも私は、しゃべることが得意な人たちに対し劣等感を抱いたことはあまりない。本当に大切なことは、これまでも会話ではなく文章で伝えてきたし、どんな形であれ文章に書いたものは残って蓄積されていくからだ。録音・録画技術が発達した今、書くよりしゃべるほうが得意な人たちも自分の言葉を記録して後世に伝える手段を得た。しかし、500年後に今のDVDと互換性を持つ再生機が残っているかはわからないし、ICレコーダーの使い方を500年後の人類が理解できるかどうかもわからない。それに対し、紙に文字で自分の言葉を書いておけば、500年後の日本人にも確実に伝わり、彼らに政治的、社会的影響を与えることができるだろう。結局のところ、最もシンプルな手段で自分の言葉を書き残すことができる者が歴史の上では勝利する、と考えることもできる。

私が、世間的には実にくだらないと思うようなことも当ブログに記録し続けているのにはこのあたりにも理由がある。当ブログのような思想・信条・言論を持つ者は今の日本社会では少数派だろう。口下手な少数派が橋下市長と同じ土俵で勝負することは得策とは言えない。「始末してやるから、さっさとかかって来いやコラ」と挑発するケンカ上手の相手に対し、ノコノコとリングに上がるのは愚の骨頂だ。それよりも大切なことは長い歴史を見据えて行動し「最後に勝つ」ことである。それには書くことが最も有効な手段といえる。

ケンカに負けた者が「覚えてろよ。最後に勝つのは俺だ」という捨て台詞を残して去る、というシーンはドラマや漫画、小説ではよくあるが、政治的な闘いではそれが冗談ではなく実現することもある。ケンカ上手のポピュリストに政治的に勝つため市民派は何をすべきか、このところインターネット上での議論が続いているが、そうした人たちもまた「憎たらしい橋下を今、この場で打倒してやりたい」と考えている時点で彼らの術中にはまってしまっている。残念なことだが、栄枯盛衰は世の習わし、そのうち時代が転換するときが来る、と気長に未来を見据えて頑張るしかない。

虎は死して毛皮を残し、市民は死して書を遺す。それに対し、しゃべることしか能がない馬鹿どもには死して遺すものすら何もない。今は時代の寵児として飛ぶ鳥を落とす勢いだったとしても、結局、彼らは虎以下で終わるのではないだろうか。

養老さんのコラムを読んで、そんなことを思い、なんとなく勇気が湧いた。当ブログも今、あわてて勝ちに行くのではなく、書くことの地道な蓄積を通じて「歴史で勝つ」ことに努めたいと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする