昨年、2人の著者からその著書をいただいた。1冊は、石山ヨシエ『浅緋』で、著者は朝日新聞鳥取県版の俳句欄の選者だ。その感想はすでに書いた(「【読書余滴】石山ヨシエ第二句集『浅緋』 ~風土~」)。
もう1冊は、中村真生子『メルヘンの木』だ。新書版の瀟洒な装丁だ。ポケットにしのばせて、気の向いたときに、任意のページを開いて一編の詩と向かい合うことができる。じじつ、一編は見開き2ページを越えない。まことに読みやすい配置だ。
本書は、昨年の暮に拝受し、この正月に一読、再読した。まず目にとまったのは、「冬の薔薇」だ。
何度も何度も雪に埋もれながら
見事に咲き切った冬の薔薇よ。
ひょろひょろとした枝の先で
傷ついた黄色の頭(こうべ)を
祈るように
垂れている冬の薔薇よ。
葉はすでに一枚もなく
しかし新しい芽を身体いっぱいに
孕んでいる冬の薔薇よ。
苛酷な世界の中で
生き抜くことのせつなさを
教えてくれた冬の薔薇よ。
私も静かに頭を垂れよう
今日も命をつないでいることに。
『形象詩集』時代のリルケを好む私としては、その題材(薔薇)からしても、集中もっとも親しみやすい一編だ。
モノ自体への接近は、「おじいさんの鞄」にも見られる。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
ポケットには黒い折り畳みの傘と
黄色い封筒の手紙の束。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
おじいさんの汗が
おじいさんの思い出が染みついている鞄。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
うだるような暑い日も、
北風吹く寒い日も
おじいさんと旅してきた鞄。
おじいさんの人生が
きっしり詰まった鞄。
鞄のようにぎっしりと
いろんなものが詰まっている
おじいさんの人生。
『人生処方詩集』のエーリッヒ・ケストナーをちらと思い起こしたりもするが、モラリスト的観察において重なる面があっても、ここにはケストナーの痛烈な諷刺はない。それはそうだろう。ケストナーはナチス政権下のドイツ国内でファシズム批判を貫いた(ただし、ヴァルター・ベンヤミンはその政治的立場の曖昧さを衝いている)。ケストナーの強靱な諷刺の背後には、政治的な重圧があった。幸いと、著者の世代には、こうした恐るべき緊張関係はない。だから、鞄に集約される「おじいさんの人生」をそのまま慈しむように肯定することができる。
政治やら社会的事件やら、前大戦を経験したドイツ詩人とちがって俗事に目を向けないですむ分、著者は自己観照に向かう。「誰かになりたかったとき」を引こう。
誰かになりたかったとき、
誰にもなれなかった。
誰かになるのをやめたとき、
私になってきた。
私になったとき、
もう誰にもなれなくなっていた。
それで、ちょっぴりほっとした。
もう、ひとりぼっちじゃなくなった。
「冬の薔薇」および「おじいさんの鞄」と並んで完成度の高い作品だ。2行1連で4連、わずか8行の詩だが、第1連から第3連まで、それまでの全人生が圧縮されている。この6行を記すに至るまでに、膨大な時間が流れている、と思う。
そして、第3連と第4連の間には、第1連から第3連までとは質的に異なった転換がある。自意識過剰からくる自縄自縛を脱して、西欧的市民の要件たる相対化という自由を獲得している。
贅言ながら、自分の自我/個性の確立は、他人の自我/個性を正確に見極める前提だ。それが「ひとりぼっちじゃなくな」くするか、ますます「ひとりぼっち」にさせるか、議論の余地はあるにせよ、いずれにせよ、「誰かにな」ろうとしている限り「自分もまた一個の他人」(アルチュール・ランボー)の状態が続く。
「誰かになりたかったとき」をみれば、詩は青春に独占されるものではないことがよくわかる。朱夏には朱夏の、白秋には白秋の、玄冬には玄冬の詩があるのだ。いや、むしろ生活年齢が青春、朱夏、白秋、玄冬と変遷しても、精神年齢は青春が続く、ともいえる。中村草田男はいみじくも謳った。「焚火火の粉吾の青春永きかな」
『メルヘンの木』を読んでいると、いろんな対話を仕掛けたくなる。正解は、必ずしも求めなくてもよいだろう。「甚だしく解することは求めず」(陶淵明)だ。
本書に収められた作品は、自己観照が多い。自己観照は概して静的なものだが、著者が「あとがき」で記すところの、自分の内外から湧いてくる/降ってくる言葉を書き留める作業は動的だ。たぶん著者の関心が、人間の生き方にあるからだろう。そして、感傷が見事に欠如しているのは、終始一貫して過去より現在、それも未来を孕んだ現在に目が向いているからだ。それは、例えば「誕生日に」のような表れ方をする。仮に私が現代詩人代表作選集を編むなら採らないが、それでも、この作品に横溢する向日性は捨てがたい。
年を取るということは
残りの日数が少なくなること?
いいえ!
よかった日が増えること。
「今日もよい1日でした」という日を
去年よりもたくさん持っているということ。
記録を更新した
あなたに、私に
「心から・・・・
お誕生日、おめでとう!」
□中村真生子『メルヘンの木』(祐園、2005)
↓クリック、プリーズ。↓
もう1冊は、中村真生子『メルヘンの木』だ。新書版の瀟洒な装丁だ。ポケットにしのばせて、気の向いたときに、任意のページを開いて一編の詩と向かい合うことができる。じじつ、一編は見開き2ページを越えない。まことに読みやすい配置だ。
本書は、昨年の暮に拝受し、この正月に一読、再読した。まず目にとまったのは、「冬の薔薇」だ。
何度も何度も雪に埋もれながら
見事に咲き切った冬の薔薇よ。
ひょろひょろとした枝の先で
傷ついた黄色の頭(こうべ)を
祈るように
垂れている冬の薔薇よ。
葉はすでに一枚もなく
しかし新しい芽を身体いっぱいに
孕んでいる冬の薔薇よ。
苛酷な世界の中で
生き抜くことのせつなさを
教えてくれた冬の薔薇よ。
私も静かに頭を垂れよう
今日も命をつないでいることに。
『形象詩集』時代のリルケを好む私としては、その題材(薔薇)からしても、集中もっとも親しみやすい一編だ。
モノ自体への接近は、「おじいさんの鞄」にも見られる。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
ポケットには黒い折り畳みの傘と
黄色い封筒の手紙の束。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
おじいさんの汗が
おじいさんの思い出が染みついている鞄。
駅のベンチに置かれている
おじいさんの古い鞄。
うだるような暑い日も、
北風吹く寒い日も
おじいさんと旅してきた鞄。
おじいさんの人生が
きっしり詰まった鞄。
鞄のようにぎっしりと
いろんなものが詰まっている
おじいさんの人生。
『人生処方詩集』のエーリッヒ・ケストナーをちらと思い起こしたりもするが、モラリスト的観察において重なる面があっても、ここにはケストナーの痛烈な諷刺はない。それはそうだろう。ケストナーはナチス政権下のドイツ国内でファシズム批判を貫いた(ただし、ヴァルター・ベンヤミンはその政治的立場の曖昧さを衝いている)。ケストナーの強靱な諷刺の背後には、政治的な重圧があった。幸いと、著者の世代には、こうした恐るべき緊張関係はない。だから、鞄に集約される「おじいさんの人生」をそのまま慈しむように肯定することができる。
政治やら社会的事件やら、前大戦を経験したドイツ詩人とちがって俗事に目を向けないですむ分、著者は自己観照に向かう。「誰かになりたかったとき」を引こう。
誰かになりたかったとき、
誰にもなれなかった。
誰かになるのをやめたとき、
私になってきた。
私になったとき、
もう誰にもなれなくなっていた。
それで、ちょっぴりほっとした。
もう、ひとりぼっちじゃなくなった。
「冬の薔薇」および「おじいさんの鞄」と並んで完成度の高い作品だ。2行1連で4連、わずか8行の詩だが、第1連から第3連まで、それまでの全人生が圧縮されている。この6行を記すに至るまでに、膨大な時間が流れている、と思う。
そして、第3連と第4連の間には、第1連から第3連までとは質的に異なった転換がある。自意識過剰からくる自縄自縛を脱して、西欧的市民の要件たる相対化という自由を獲得している。
贅言ながら、自分の自我/個性の確立は、他人の自我/個性を正確に見極める前提だ。それが「ひとりぼっちじゃなくな」くするか、ますます「ひとりぼっち」にさせるか、議論の余地はあるにせよ、いずれにせよ、「誰かにな」ろうとしている限り「自分もまた一個の他人」(アルチュール・ランボー)の状態が続く。
「誰かになりたかったとき」をみれば、詩は青春に独占されるものではないことがよくわかる。朱夏には朱夏の、白秋には白秋の、玄冬には玄冬の詩があるのだ。いや、むしろ生活年齢が青春、朱夏、白秋、玄冬と変遷しても、精神年齢は青春が続く、ともいえる。中村草田男はいみじくも謳った。「焚火火の粉吾の青春永きかな」
『メルヘンの木』を読んでいると、いろんな対話を仕掛けたくなる。正解は、必ずしも求めなくてもよいだろう。「甚だしく解することは求めず」(陶淵明)だ。
本書に収められた作品は、自己観照が多い。自己観照は概して静的なものだが、著者が「あとがき」で記すところの、自分の内外から湧いてくる/降ってくる言葉を書き留める作業は動的だ。たぶん著者の関心が、人間の生き方にあるからだろう。そして、感傷が見事に欠如しているのは、終始一貫して過去より現在、それも未来を孕んだ現在に目が向いているからだ。それは、例えば「誕生日に」のような表れ方をする。仮に私が現代詩人代表作選集を編むなら採らないが、それでも、この作品に横溢する向日性は捨てがたい。
年を取るということは
残りの日数が少なくなること?
いいえ!
よかった日が増えること。
「今日もよい1日でした」という日を
去年よりもたくさん持っているということ。
記録を更新した
あなたに、私に
「心から・・・・
お誕生日、おめでとう!」
□中村真生子『メルヘンの木』(祐園、2005)
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