ナチス・ドイツの侵攻、軍事政権などギリシャ現代史を題材とした作品で人気を博したギリシャの巨匠、テオ・アンゲロプロス監督【注】が交通事故死した。合掌。
さて、本題。
●なぜ民主党政権は停滞したか
民主党政権が停滞している要因は、片山善博・前総務相が挙げた3点のほかに、
(4)日本社会や国民生活の現状に対する危機意識が決定的にない(致命的欠陥)。しかも、疲弊している日本に震災と原発事故が襲いかかったのに、政府の力で解決しなければならない問題が何なのかについて、問題意識がまったく共有できていない。鳩山政権の時、辛うじて「命を大切にする政治」「居場所と出番のある社会」などのスローガンを打ち出し、再度日本社会の再統合を進めようとする使命感も感じられたが、いつの間にか消えてしまった。菅首相は、3・11以前には、全く方向性を欠いた政策を進めようとしていた(小泉改革の亡霊)。政権交代が政策の転換と全く連動していない。
●「民主党らしさ」にこだわりがない民主党
いまの政治は、「既得権を持っている人vs.全く持たない人」の対立軸になっている。橋下徹・大阪市長は、その対立軸をうまく演出した。既得権といっても、とりあえず正社員である、とか、ある程度の年金をもらっている、という程度のことなのに、そうした人たちを叩くことによって、何の希望も持てない人々の自暴自棄的な支持を吸い寄せる。既成政党は、こうした大波に飲まれようとしている。民主党の政治家は、社会の現状に対する危機感をしっかり持つべきだ。
●政策の連続性が欠けている
総理の交代によって政権の軸も変わった。政党政治としては大問題だ。
民主党は、野党時代に自民党の総理総裁のたらい回しをさんざん批判し、自分たちは党としてのアイデンティティや基本政策の軸を持って政治を推進する、と言っていた。が、自分たちも同じように総理を入れ替えることになると、新総理は前総理と全く違うことを言い出す。政策の連続性が欠けている。鳩山元総理から菅前総理に変わった際、大きな転換があった。3・11後、菅政権は脱原発へと新機軸を打ち出そうとしたが、野田政権になると、そうした軸は失われた。せっかく前の政権が打ち出しかけた良い政策の芽を全部摘んでしまう。民主党らしさのカラーをむしろ灰色へ塗りつぶすようなことをする。これも大きな失敗の一つだ。
民主党内の社会民主主義勢力を派閥化しようと勉強会などの活動をしたが、政策研究グループと権力闘争とが重ならない。
●財源論というマインドコントロール
弱者は、もはやマイノリティではない。3・11が教えるように、日本に住んでいる者は潜在的弱者だ。災害、雇用不安定。いまや正規・非正規という概念も、一握りの弱者を支えるのが福祉だという概念も見直すべきだ。民主党政権も、やはり外部からの宮本太郎・北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター長などの尽力で「人生全般をカバーする社会保障」という言葉は出されている。しかし、なぜ税制改革を行うのか、といった根本的な目標としての社会ビジョンについて民主党の政治家は何も言っていない。
●形式倒れの政治主導
小沢二郎も菅直人も、英国詣でで、英国議会政治についていろいろ調べた。彼らが訊いたのは非常に細かい制度、形式のことばかりだった。マニフェストにしても、目的語がはっきりしていて、それを実現する段取りや仕組みにおいて官僚の支配を排除して政治家のイニシアチブでアジェンダ設定をしていくはずなのに、中身のない形式に終わっている。
●統治を拒否しつつリーダーシップを求める人々
一方で、底流に人々の統治に対する拒否がある。官僚は自分らの組織利益ばかり追求しているし、政党もろくなものじゃない、と統治されることを拒否しつつ、リーダーシップを希求する、という非常に矛盾した状況に置かれている。その矛盾が選挙に反映されて、その都度いろいろなところに票が流れる、という過剰流動性が出て来る。
民主主義は、国民が権力者をチェックする、民意で権力者を交代させる、という側面がもちろん大事だが、統治を支える、という要素を我々も軽んじてきたのかもしれない。ともかく政府は批判していればいい、と。参議院選挙ではお灸を据えて、野党を勝たせてやる。ところが、それでは国の統治がうまくいかないことが非常に明瞭になった。
特にねじれ国会はとても深刻な問題だ、ということが多分2010年になってから初めてわかった。特例公債法案を人質に取られたら、総理大臣の首を差し出さざるを得ない。これは民主政治といえるか、疑問だ。ここで与野党ともに一回立ち止まって新しい憲政の常道をつくらないと、本当に1930年代の政党政治の崩壊劇を平和なはずのいまの時代に繰り返すことになる。
財政法第4条で、赤字国債が出せないことになっているから、石油ショック後の1975年以来、毎年特例公債法という形を避けてきたが、これは確かに予算の議決に関する衆議院の優越を実質的に否定している。
自民党も民主党もねじれに手を焼く経験をしているのだから、野党としての自制心を働かせて次の慣習をつくらないと、本当に国政が麻痺してしまう。もし自民党が政権を奪回しても、ねじれは続くだろうから、参議院が予算関連法案を潰して内閣が1年ごとに代わる、という事態がずっと続くかもしれない。
政権交代でできたこと、成功したことは、ちゃんと確認しておかなければいけない。新しい公共や貧困対策、障害者福祉、自殺対策という自民党政治、官僚支配では無視されてきた問題が政策のテーマとして認識された、という大きな変化はあったのだから。NPO法と寄付税制もそうだが、社会運動とうまく連携したテーマでは成功している。そういう意味では、民主主義は無力ではない。人々が実際に動くことによる政治、政策決定の変化はある。
民主党は、英国の議院内閣制や二大政党制をモデルにしてきたのに、肝心のことが模倣できていない。フロントベンチとバックベンチの明確な差、政治家の能力主義だ。10回当選しても、閣僚になれない人が大勢いる一方、有能であれば2、3回目で大臣になる人もいる。それを当たり前と思わなければ強力なチームはできない。
英国では、政党の地方組織が選挙に強い。党の公認を外されたら、国会議員にはなれない。だから政党には求心力が働く。日本は、個人後援会で票を集めて勝ち上がった人も多く、一騎当千の意識がどうしても残っている。布団とベンチとバックベンチの段差が日本に定着しない、というのは組織論として非常に大きな問題だ。例えば、小沢二郎が政治とカネの問題などがあって主流派に入れないとなれば、小沢グループはバックベンチに座ってしばらく我慢するしかない。それができなくて党内を掻き回して権力闘争を起こす、というところからして、政党政治の論理がわかっていない。
●ローカルポピュリズムの防壁とは
大阪W選挙に3回応援に入った。図書館、障害者支援、子育てサークルなどの地域活動をしている人々の間では、橋下徹を支持する人は全くいない、と聞いた。非常に腑に落ちた。トクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する方癖とは、そうした地域での活動なのだ。
市民の参加や直接民主制には2つの可能性がある。(1)河村・名古屋市長のリコール請求や橋下流のように、シングルイシューで既存の仕組みを壊す方向に直接性を動員していく。(2)自治体の大きな事業について住民が議論して住民投票で起債するかを決めるような、熟議による直接民主制。・・・・似ているようでも、方向は全然違う。
脱原発は、非常に大事な機会になっていくだろう。1997年の新潟県巻町の住民投票が示すように、真剣に議論して地域の将来の誤りない選択をした実績はある。日本の市民が独裁者に躍らされやすい、とは思わない。
●私たちがどういう社会をつくるのか
政策課題としては、(1)消費税、(2)税と社会保障改革とTPP・・・・が2012年の2大テーマだ。非常に難しい舵取りだ。逃げて通れない問題だ。スケジュール闘争ではなく、ちゃんとした議論を国会でも論壇でもメディアでも、地域レベルの集まりでもこつこつ重ねていくしかない。
税金の議論は、政治を考える最大のきっかけになる。増税については、私たちがどういう社会をつくるのか、という基本をちゃんと議論してからでいい。ここで何か民主党らしいことをやらないと、結局1回政権交代をやっただけで雲散霧消しかねない。
以上、鼎談:片山善博(慶應義塾大学教授・前総務相)/山口二郎(北海道大学教授)/柿崎明二(共同通信社編集委員)「なぜ政治が機能しないのか ~改めて問う「政権交代の意義~」(「世界」2012年月号)から、山口二郎の議論を抜粋、要約した。
【参考】「【社会】片山善博の、なぜ政治が機能しないのか」
*
野党時代、自民党の政策にずっとアンチテーゼだった。だから、与党として政治的な期限を定めて段取りをつけ、物事を進めるという習慣がない。自民党復活の恐怖から、当初、自民党の支持基盤を叩きつぶすことを意識しすぎた。しかし、ねじれ国会になると、自民党・公明党の主張を受け入れる方向になった。野田首相は、自民党と運命共同体だった官僚を尊重し、取り込まれた。結局、自分たちがどう行動するか、リアルに考えずに政権をとってしまったところが、今日の結果になっている。【柿崎明二】
●なぜ民主党政権は停滞したか
民主党政権が停滞している要因は、片山善博が挙げた3点のほかに、
(4)日本社会や国民生活の現状に対する危機意識が決定的にない(致命的欠陥)。しかも、疲弊している日本に震災と原発事故が襲いかかったのに、政府の力で解決しなければならない問題が何なのかについて、問題意識がまったく共有できていない。鳩山政権の時、辛うじて「命を大切にする政治」「居場所と出番のある社会」などのスローガンを打ち出し、再度日本社会の再統合を進めようとする使命感も感じられたが、いつの間にか消えてしまった。菅首相は、3・11以前には、全く方向性を欠いた政策を進めようとしていた(小泉改革の亡霊)。政権交代が政策の転換と全く連動していない。【山口二郎】
●「民主党らしさ」にこだわりがない民主党
いまの政治は、「既得権を持っている人vs.全く持たない人」の対立軸になっている。橋下徹・大阪市長は、その対立軸をうまく演出した。既得権といっても、とりあえず正社員である、とか、ある程度の年金をもらっている、という程度のことなのに、そうした人たちを叩くことによって、何の希望も持てない人々の自暴自棄的な支持を吸い寄せる。既成政党は、こうした大波に飲まれようとしている。民主党の政治家は、社会の現状に対する危機感をしっかり持つべきだ。
●政策の連続性が欠けている
総理の交代によって政権の軸も変わった。政党政治としては大問題だ。民主党は、野党時代に自民党の総理総裁のたらい回しをさんざん批判し、自分たちは党としてのアイデンティティや基本政策の軸を持って政治を推進する、と言っていた。が、自分たちも同じように総理を入れ替えることになると、新総理は前総理と全く違うことを言い出す。政策の連続性が欠けている。鳩山元総理から菅前総理に変わった際、大きな転換があった。3・11後、菅政権は脱原発へと新機軸を打ち出そうとしたが、野田政権になると、そうした軸は失われた。せっかく前の政権が打ち出しかけた良い政策の芽を全部摘んでしまう。民主党らしさのカラーをむしろ灰色へ塗りつぶすようなことをする。これも大きな失敗の一つだ。
民主党内の社会民主主義勢力を派閥化しようと勉強会などの活動をしたが、政策研究グループと権力闘争とが重ならない。
●財源論というマインドコントロール
弱者は、もはやマイノリティではなく、3・11が教えるように、日本に住んでいる者は潜在的弱者だ。災害、雇用不安定。いまや正規・非正規という概念も、一握りの弱者を支えるのが福祉だという概念も見直すべきだ。民主党政権も、やはり外部からの宮本太郎・北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター長などの尽力で「人生全般をカバーする社会保障」という言葉は出されている。しかし、なぜ税制改革を行うのか、といった根本的な目標としての社会ビジョンについて民主党の政治家は何も言っていない。
●形式倒れの政治主導
小沢二郎も菅直人も、英国詣でで、英国議会政治についていろいろ調べたが、彼らが訊いたのは非常に細かい制度、形式のことばかりだった。マニフェストにしても、目的語がはっきりしていて、それを実現する段取りや仕組みにおいて官僚の支配を排除して政治家のイニシアチブでアジェンダ設定をしていくはずなのに、中身のない形式に終わっている。
●統治を拒否しつつリーダーシップを求める人々
一方で、底流に人々の統治に対する拒否がある。官僚は自分らの組織利益ばかり追求しているし、政党もろくなものじゃない、と統治されることを拒否しつつ、リーダーシップを希求する、という非常に矛盾した状況に置かれている。その矛盾が選挙に反映されて、その都度いろいろなところに票が流れる、という過剰流動性が出て来る。
民主主義は、国民が権力者をチェックする、民意で権力者を交代させる、という側面がもちろん大事だが、統治を支える、という要素を我々も軽んじてきたのかもしれない。ともかく政府は批判していればいい、と。参議院選挙ではお灸を据えて、野党を勝たせてやる。ところが、それでは国の統治がうまくいかないことが非常に明瞭になった。
特にねじれ国会はとても深刻な問題だ、ということが多分2010年になってから初めてわかった。特例公債法案を人質に取られたら、総理大臣の首を差し出さざるを得ない。これは民主政治といえるか、疑問だ。ここで与野党ともに一回立ち止まって新しい憲政の常道をつくらないと、本当に1930年代の政党政治の崩壊劇を平和なはずのいまの時代に繰り返すことになる。
財政法第4条で、赤字国債が出せないことになっているから、石油ショック後の1975年以来、毎年特例公債法という形を避けてきたが、これは確かに予算の議決に関する衆議院の優越を実質的に否定している。
自民党も民主党もねじれに手を焼く経験をしているのだから、野党としての自制心を働かせて次の慣習をつくらないと、本当に国政が麻痺してしまう。もし自民党が政権を奪回しても、ねじれは続くだろうから、参議院が予算関連法案を潰して内閣が1年ごとに代わる、という事態がずっと続くかもしれない。
政権交代でできたこと、成功したことは、ちゃんと確認しておかなければいけない。新しい公共や貧困対策、障害者福祉、自殺対策という自民党政治、官僚支配では無視されてきた問題が政策のテーマとして認識された、という大きな変化はあったのだから。NPO法と寄付税制もそうだが、社会運動とうまく連携したテーマでは成功している。そういう意味では、民主主義は無力ではない。人々が実際に動くことによる政治、政策決定の変化はある。
民主党は、英国の議院内閣制や二大政党制をモデルにしてきたのに、肝心のことが模倣できていない。フロントベンチとバックベンチの明確な差、政治家の能力主義だ。10回当選しても、閣僚になれない人が大勢いる一方、有能であれば2、3回目で大臣になる人もいる。それを当たり前と思わなければ強力なチームはできない。
英国では、政党の地方組織が選挙に強い。党の公認を外されたら、国会議員にはなれない。だから政党には求心力が働く。日本は、個人後援会で票を集めて勝ち上がった人も多く、一騎当千の意識がどうしても残っている。布団とベンチとバックベンチの段差が日本に定着しない、というのは組織論として非常に大きな問題だ。例えば、小沢二郎が政治とカネの問題などがあって主流派に入れないとなれば、小沢グループはバックベンチに座ってしばらく我慢するしかない。それができなくて党内を掻き回して権力闘争を起こす、というところからして、政党政治の論理がわかっていない。
●ローカルポピュリズムの防壁とは
大阪W選挙に3回応援に入った。図書館、障害者支援、子育てサークルなどの地域活動をしている人々の間では、橋下徹を支持する人は全くいない、と聞いた。非常に腑に落ちた。トクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する方癖とは、そうした地域での活動なのだ。
市民の参加や直接民主制には2つの可能性がある。(1)河村・名古屋市長のリコール請求や橋下流のように、シングルイシューで既存の仕組みを壊す方向に直接性を動員していく。(2)自治体の大きな事業について住民が議論して住民投票で起債するかを決めるような、熟議による直接民主制。・・・・似ているようでも、方向は全然違う。
脱原発は、非常に大事な機会になっていくだろう。1997年の新潟県巻町の住民投票が示すように、真剣に議論して地域の将来の誤りない選択をした実績はある。日本の市民が独裁者に躍らされやすい、とは思わない。
●私たちがどういう社会をつくるのか
政策課題としては、(1)消費税、(2)税と社会保障改革とTPP・・・・が2012年の2大テーマだ。非常に難しい舵取りだ。逃げて通れない問題だ。スケジュール闘争ではなく、ちゃんとした議論を国会でも論壇でもメディアでも、地域レベルの集まりでもこつこつ重ねていくしかない。
税金の議論は、政治を考える最大のきっかけになる。増税については、私たちがどういう社会をつくるのか、という基本をちゃんと議論してからでいい。ここで何か民主党らしいことをやらないと、結局1回政権交代をやっただけで雲散霧消しかねない。
【注】テオ・アンゲロプロス、1935年4月27日生、2012年1月24日没。享年76。主な監督作品は次のとおり。
「旅芸人の記録」(1975年)・・・・カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞。
「アレクサンダー大王」(1980年)・・・・ベネチア映画祭金獅子賞。
「シテール島への船出」(1984年)・・・・カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞。
「霧の中の風景」(1988年)・・・・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞
「ユリシーズの瞳」(1995年)・・・・カンヌ映画祭審査員特別グランプリ賞。
「永遠と一日」(1998年)・・・・カンヌ映画祭パルムドール賞。
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さて、本題。
●なぜ民主党政権は停滞したか
民主党政権が停滞している要因は、片山善博・前総務相が挙げた3点のほかに、
(4)日本社会や国民生活の現状に対する危機意識が決定的にない(致命的欠陥)。しかも、疲弊している日本に震災と原発事故が襲いかかったのに、政府の力で解決しなければならない問題が何なのかについて、問題意識がまったく共有できていない。鳩山政権の時、辛うじて「命を大切にする政治」「居場所と出番のある社会」などのスローガンを打ち出し、再度日本社会の再統合を進めようとする使命感も感じられたが、いつの間にか消えてしまった。菅首相は、3・11以前には、全く方向性を欠いた政策を進めようとしていた(小泉改革の亡霊)。政権交代が政策の転換と全く連動していない。
●「民主党らしさ」にこだわりがない民主党
いまの政治は、「既得権を持っている人vs.全く持たない人」の対立軸になっている。橋下徹・大阪市長は、その対立軸をうまく演出した。既得権といっても、とりあえず正社員である、とか、ある程度の年金をもらっている、という程度のことなのに、そうした人たちを叩くことによって、何の希望も持てない人々の自暴自棄的な支持を吸い寄せる。既成政党は、こうした大波に飲まれようとしている。民主党の政治家は、社会の現状に対する危機感をしっかり持つべきだ。
●政策の連続性が欠けている
総理の交代によって政権の軸も変わった。政党政治としては大問題だ。
民主党は、野党時代に自民党の総理総裁のたらい回しをさんざん批判し、自分たちは党としてのアイデンティティや基本政策の軸を持って政治を推進する、と言っていた。が、自分たちも同じように総理を入れ替えることになると、新総理は前総理と全く違うことを言い出す。政策の連続性が欠けている。鳩山元総理から菅前総理に変わった際、大きな転換があった。3・11後、菅政権は脱原発へと新機軸を打ち出そうとしたが、野田政権になると、そうした軸は失われた。せっかく前の政権が打ち出しかけた良い政策の芽を全部摘んでしまう。民主党らしさのカラーをむしろ灰色へ塗りつぶすようなことをする。これも大きな失敗の一つだ。
民主党内の社会民主主義勢力を派閥化しようと勉強会などの活動をしたが、政策研究グループと権力闘争とが重ならない。
●財源論というマインドコントロール
弱者は、もはやマイノリティではない。3・11が教えるように、日本に住んでいる者は潜在的弱者だ。災害、雇用不安定。いまや正規・非正規という概念も、一握りの弱者を支えるのが福祉だという概念も見直すべきだ。民主党政権も、やはり外部からの宮本太郎・北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター長などの尽力で「人生全般をカバーする社会保障」という言葉は出されている。しかし、なぜ税制改革を行うのか、といった根本的な目標としての社会ビジョンについて民主党の政治家は何も言っていない。
●形式倒れの政治主導
小沢二郎も菅直人も、英国詣でで、英国議会政治についていろいろ調べた。彼らが訊いたのは非常に細かい制度、形式のことばかりだった。マニフェストにしても、目的語がはっきりしていて、それを実現する段取りや仕組みにおいて官僚の支配を排除して政治家のイニシアチブでアジェンダ設定をしていくはずなのに、中身のない形式に終わっている。
●統治を拒否しつつリーダーシップを求める人々
一方で、底流に人々の統治に対する拒否がある。官僚は自分らの組織利益ばかり追求しているし、政党もろくなものじゃない、と統治されることを拒否しつつ、リーダーシップを希求する、という非常に矛盾した状況に置かれている。その矛盾が選挙に反映されて、その都度いろいろなところに票が流れる、という過剰流動性が出て来る。
民主主義は、国民が権力者をチェックする、民意で権力者を交代させる、という側面がもちろん大事だが、統治を支える、という要素を我々も軽んじてきたのかもしれない。ともかく政府は批判していればいい、と。参議院選挙ではお灸を据えて、野党を勝たせてやる。ところが、それでは国の統治がうまくいかないことが非常に明瞭になった。
特にねじれ国会はとても深刻な問題だ、ということが多分2010年になってから初めてわかった。特例公債法案を人質に取られたら、総理大臣の首を差し出さざるを得ない。これは民主政治といえるか、疑問だ。ここで与野党ともに一回立ち止まって新しい憲政の常道をつくらないと、本当に1930年代の政党政治の崩壊劇を平和なはずのいまの時代に繰り返すことになる。
財政法第4条で、赤字国債が出せないことになっているから、石油ショック後の1975年以来、毎年特例公債法という形を避けてきたが、これは確かに予算の議決に関する衆議院の優越を実質的に否定している。
自民党も民主党もねじれに手を焼く経験をしているのだから、野党としての自制心を働かせて次の慣習をつくらないと、本当に国政が麻痺してしまう。もし自民党が政権を奪回しても、ねじれは続くだろうから、参議院が予算関連法案を潰して内閣が1年ごとに代わる、という事態がずっと続くかもしれない。
政権交代でできたこと、成功したことは、ちゃんと確認しておかなければいけない。新しい公共や貧困対策、障害者福祉、自殺対策という自民党政治、官僚支配では無視されてきた問題が政策のテーマとして認識された、という大きな変化はあったのだから。NPO法と寄付税制もそうだが、社会運動とうまく連携したテーマでは成功している。そういう意味では、民主主義は無力ではない。人々が実際に動くことによる政治、政策決定の変化はある。
民主党は、英国の議院内閣制や二大政党制をモデルにしてきたのに、肝心のことが模倣できていない。フロントベンチとバックベンチの明確な差、政治家の能力主義だ。10回当選しても、閣僚になれない人が大勢いる一方、有能であれば2、3回目で大臣になる人もいる。それを当たり前と思わなければ強力なチームはできない。
英国では、政党の地方組織が選挙に強い。党の公認を外されたら、国会議員にはなれない。だから政党には求心力が働く。日本は、個人後援会で票を集めて勝ち上がった人も多く、一騎当千の意識がどうしても残っている。布団とベンチとバックベンチの段差が日本に定着しない、というのは組織論として非常に大きな問題だ。例えば、小沢二郎が政治とカネの問題などがあって主流派に入れないとなれば、小沢グループはバックベンチに座ってしばらく我慢するしかない。それができなくて党内を掻き回して権力闘争を起こす、というところからして、政党政治の論理がわかっていない。
●ローカルポピュリズムの防壁とは
大阪W選挙に3回応援に入った。図書館、障害者支援、子育てサークルなどの地域活動をしている人々の間では、橋下徹を支持する人は全くいない、と聞いた。非常に腑に落ちた。トクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する方癖とは、そうした地域での活動なのだ。
市民の参加や直接民主制には2つの可能性がある。(1)河村・名古屋市長のリコール請求や橋下流のように、シングルイシューで既存の仕組みを壊す方向に直接性を動員していく。(2)自治体の大きな事業について住民が議論して住民投票で起債するかを決めるような、熟議による直接民主制。・・・・似ているようでも、方向は全然違う。
脱原発は、非常に大事な機会になっていくだろう。1997年の新潟県巻町の住民投票が示すように、真剣に議論して地域の将来の誤りない選択をした実績はある。日本の市民が独裁者に躍らされやすい、とは思わない。
●私たちがどういう社会をつくるのか
政策課題としては、(1)消費税、(2)税と社会保障改革とTPP・・・・が2012年の2大テーマだ。非常に難しい舵取りだ。逃げて通れない問題だ。スケジュール闘争ではなく、ちゃんとした議論を国会でも論壇でもメディアでも、地域レベルの集まりでもこつこつ重ねていくしかない。
税金の議論は、政治を考える最大のきっかけになる。増税については、私たちがどういう社会をつくるのか、という基本をちゃんと議論してからでいい。ここで何か民主党らしいことをやらないと、結局1回政権交代をやっただけで雲散霧消しかねない。
以上、鼎談:片山善博(慶應義塾大学教授・前総務相)/山口二郎(北海道大学教授)/柿崎明二(共同通信社編集委員)「なぜ政治が機能しないのか ~改めて問う「政権交代の意義~」(「世界」2012年月号)から、山口二郎の議論を抜粋、要約した。
【参考】「【社会】片山善博の、なぜ政治が機能しないのか」
*
野党時代、自民党の政策にずっとアンチテーゼだった。だから、与党として政治的な期限を定めて段取りをつけ、物事を進めるという習慣がない。自民党復活の恐怖から、当初、自民党の支持基盤を叩きつぶすことを意識しすぎた。しかし、ねじれ国会になると、自民党・公明党の主張を受け入れる方向になった。野田首相は、自民党と運命共同体だった官僚を尊重し、取り込まれた。結局、自分たちがどう行動するか、リアルに考えずに政権をとってしまったところが、今日の結果になっている。【柿崎明二】
●なぜ民主党政権は停滞したか
民主党政権が停滞している要因は、片山善博が挙げた3点のほかに、
(4)日本社会や国民生活の現状に対する危機意識が決定的にない(致命的欠陥)。しかも、疲弊している日本に震災と原発事故が襲いかかったのに、政府の力で解決しなければならない問題が何なのかについて、問題意識がまったく共有できていない。鳩山政権の時、辛うじて「命を大切にする政治」「居場所と出番のある社会」などのスローガンを打ち出し、再度日本社会の再統合を進めようとする使命感も感じられたが、いつの間にか消えてしまった。菅首相は、3・11以前には、全く方向性を欠いた政策を進めようとしていた(小泉改革の亡霊)。政権交代が政策の転換と全く連動していない。【山口二郎】
●「民主党らしさ」にこだわりがない民主党
いまの政治は、「既得権を持っている人vs.全く持たない人」の対立軸になっている。橋下徹・大阪市長は、その対立軸をうまく演出した。既得権といっても、とりあえず正社員である、とか、ある程度の年金をもらっている、という程度のことなのに、そうした人たちを叩くことによって、何の希望も持てない人々の自暴自棄的な支持を吸い寄せる。既成政党は、こうした大波に飲まれようとしている。民主党の政治家は、社会の現状に対する危機感をしっかり持つべきだ。
●政策の連続性が欠けている
総理の交代によって政権の軸も変わった。政党政治としては大問題だ。民主党は、野党時代に自民党の総理総裁のたらい回しをさんざん批判し、自分たちは党としてのアイデンティティや基本政策の軸を持って政治を推進する、と言っていた。が、自分たちも同じように総理を入れ替えることになると、新総理は前総理と全く違うことを言い出す。政策の連続性が欠けている。鳩山元総理から菅前総理に変わった際、大きな転換があった。3・11後、菅政権は脱原発へと新機軸を打ち出そうとしたが、野田政権になると、そうした軸は失われた。せっかく前の政権が打ち出しかけた良い政策の芽を全部摘んでしまう。民主党らしさのカラーをむしろ灰色へ塗りつぶすようなことをする。これも大きな失敗の一つだ。
民主党内の社会民主主義勢力を派閥化しようと勉強会などの活動をしたが、政策研究グループと権力闘争とが重ならない。
●財源論というマインドコントロール
弱者は、もはやマイノリティではなく、3・11が教えるように、日本に住んでいる者は潜在的弱者だ。災害、雇用不安定。いまや正規・非正規という概念も、一握りの弱者を支えるのが福祉だという概念も見直すべきだ。民主党政権も、やはり外部からの宮本太郎・北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター長などの尽力で「人生全般をカバーする社会保障」という言葉は出されている。しかし、なぜ税制改革を行うのか、といった根本的な目標としての社会ビジョンについて民主党の政治家は何も言っていない。
●形式倒れの政治主導
小沢二郎も菅直人も、英国詣でで、英国議会政治についていろいろ調べたが、彼らが訊いたのは非常に細かい制度、形式のことばかりだった。マニフェストにしても、目的語がはっきりしていて、それを実現する段取りや仕組みにおいて官僚の支配を排除して政治家のイニシアチブでアジェンダ設定をしていくはずなのに、中身のない形式に終わっている。
●統治を拒否しつつリーダーシップを求める人々
一方で、底流に人々の統治に対する拒否がある。官僚は自分らの組織利益ばかり追求しているし、政党もろくなものじゃない、と統治されることを拒否しつつ、リーダーシップを希求する、という非常に矛盾した状況に置かれている。その矛盾が選挙に反映されて、その都度いろいろなところに票が流れる、という過剰流動性が出て来る。
民主主義は、国民が権力者をチェックする、民意で権力者を交代させる、という側面がもちろん大事だが、統治を支える、という要素を我々も軽んじてきたのかもしれない。ともかく政府は批判していればいい、と。参議院選挙ではお灸を据えて、野党を勝たせてやる。ところが、それでは国の統治がうまくいかないことが非常に明瞭になった。
特にねじれ国会はとても深刻な問題だ、ということが多分2010年になってから初めてわかった。特例公債法案を人質に取られたら、総理大臣の首を差し出さざるを得ない。これは民主政治といえるか、疑問だ。ここで与野党ともに一回立ち止まって新しい憲政の常道をつくらないと、本当に1930年代の政党政治の崩壊劇を平和なはずのいまの時代に繰り返すことになる。
財政法第4条で、赤字国債が出せないことになっているから、石油ショック後の1975年以来、毎年特例公債法という形を避けてきたが、これは確かに予算の議決に関する衆議院の優越を実質的に否定している。
自民党も民主党もねじれに手を焼く経験をしているのだから、野党としての自制心を働かせて次の慣習をつくらないと、本当に国政が麻痺してしまう。もし自民党が政権を奪回しても、ねじれは続くだろうから、参議院が予算関連法案を潰して内閣が1年ごとに代わる、という事態がずっと続くかもしれない。
政権交代でできたこと、成功したことは、ちゃんと確認しておかなければいけない。新しい公共や貧困対策、障害者福祉、自殺対策という自民党政治、官僚支配では無視されてきた問題が政策のテーマとして認識された、という大きな変化はあったのだから。NPO法と寄付税制もそうだが、社会運動とうまく連携したテーマでは成功している。そういう意味では、民主主義は無力ではない。人々が実際に動くことによる政治、政策決定の変化はある。
民主党は、英国の議院内閣制や二大政党制をモデルにしてきたのに、肝心のことが模倣できていない。フロントベンチとバックベンチの明確な差、政治家の能力主義だ。10回当選しても、閣僚になれない人が大勢いる一方、有能であれば2、3回目で大臣になる人もいる。それを当たり前と思わなければ強力なチームはできない。
英国では、政党の地方組織が選挙に強い。党の公認を外されたら、国会議員にはなれない。だから政党には求心力が働く。日本は、個人後援会で票を集めて勝ち上がった人も多く、一騎当千の意識がどうしても残っている。布団とベンチとバックベンチの段差が日本に定着しない、というのは組織論として非常に大きな問題だ。例えば、小沢二郎が政治とカネの問題などがあって主流派に入れないとなれば、小沢グループはバックベンチに座ってしばらく我慢するしかない。それができなくて党内を掻き回して権力闘争を起こす、というところからして、政党政治の論理がわかっていない。
●ローカルポピュリズムの防壁とは
大阪W選挙に3回応援に入った。図書館、障害者支援、子育てサークルなどの地域活動をしている人々の間では、橋下徹を支持する人は全くいない、と聞いた。非常に腑に落ちた。トクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する方癖とは、そうした地域での活動なのだ。
市民の参加や直接民主制には2つの可能性がある。(1)河村・名古屋市長のリコール請求や橋下流のように、シングルイシューで既存の仕組みを壊す方向に直接性を動員していく。(2)自治体の大きな事業について住民が議論して住民投票で起債するかを決めるような、熟議による直接民主制。・・・・似ているようでも、方向は全然違う。
脱原発は、非常に大事な機会になっていくだろう。1997年の新潟県巻町の住民投票が示すように、真剣に議論して地域の将来の誤りない選択をした実績はある。日本の市民が独裁者に躍らされやすい、とは思わない。
●私たちがどういう社会をつくるのか
政策課題としては、(1)消費税、(2)税と社会保障改革とTPP・・・・が2012年の2大テーマだ。非常に難しい舵取りだ。逃げて通れない問題だ。スケジュール闘争ではなく、ちゃんとした議論を国会でも論壇でもメディアでも、地域レベルの集まりでもこつこつ重ねていくしかない。
税金の議論は、政治を考える最大のきっかけになる。増税については、私たちがどういう社会をつくるのか、という基本をちゃんと議論してからでいい。ここで何か民主党らしいことをやらないと、結局1回政権交代をやっただけで雲散霧消しかねない。
【注】テオ・アンゲロプロス、1935年4月27日生、2012年1月24日没。享年76。主な監督作品は次のとおり。
「旅芸人の記録」(1975年)・・・・カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞。
「アレクサンダー大王」(1980年)・・・・ベネチア映画祭金獅子賞。
「シテール島への船出」(1984年)・・・・カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞。
「霧の中の風景」(1988年)・・・・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞
「ユリシーズの瞳」(1995年)・・・・カンヌ映画祭審査員特別グランプリ賞。
「永遠と一日」(1998年)・・・・カンヌ映画祭パルムドール賞。
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