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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(3)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
12月8~11日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米軍が達したのは、12月8日アルブエラ、9日グンガブ、10日タリヤサン川であった。(20) 10日にはしかし、すでに米軍はオルモックの町に入り、日本軍の西海岸防衛は崩壊していた。(20)

12月10日
<ダムラアンの戦い>
 ■大川大隊(Ⅱ/11is)残兵約100名はタリヤサン川南方高地に集中し、最後の決戦を試みた。同日夕方まで高地は米軍の手に落ち、大川大隊は全滅した。(20) しかし、26D兵器勤務隊は、タリサヤン川南岸高地の「死守」を命じられ、12月15日まで頑張った。(20)

12月10日
<オルモックの戦い>
 【US】ダムラアンから北上中の米軍は、タリサヤン川左岸マリトボ(ブラウエンに向かう山道の分かれるところ、「和号作戦」の補給物質が蓄積されていた)の線に達した。(23) 1730、米軍はオルモックは完全に占拠した。(23)
 ■日本軍はレイテ島西海岸の2つの補給基地を同時に失ったことになる。(23)

12月12日
<オルモックの戦い>
 ■上陸に成功した陸戦隊約300名が今堀支隊の指揮下に入った。しかし、沼と米迂回部隊に妨げられて、結局オルモック防衛戦には参加せず、2月下旬、パロンポン東方に現れた。(23)

12月12~13日
<オルモックの戦い>
 ■砲撃で受けた日本軍の損害は大きかった。(23)

12月13日
<オルモックの戦い>
 【今堀】夜、今堀大佐は35軍司令部に電話し、聯隊旗をあずかってほしい、と申し入れた。2日間の砲撃で、上条大隊はすでに全滅、6キロ先にフアトンの軍司令部が控えるブロックハウスを死守していた立石大隊とも連絡が途切れていた。斬り込む覚悟を察知した友近少将は、声を励まして「貴隊の任務は持久である」と諫めた。(23)

12月14日
 ■レイテ島決戦は事実上放棄された。(23)

12月15日
 【US】米2個連隊がミンドロ島サンホセに上陸した。(23)

12月16日
 ■日本軍は翌日の攻撃を準備中であった。今堀支隊は、オルモック東北の山脚地帯を「赤屋根高地」に向かって移動、77聯隊はフアトン南方の本道両側に展開した。日米両軍は互いに敵の右翼を迂回し、すれ違いの形になった。「本来なら翌日の戦いは相打ちになるところだが、悲しいかな、兵力が懸絶しているので、日本軍の壊滅に終わるのである」(24)
 ■この頃、タリヤサン川上流、河原がやや広くなったところに、26D司令部ほか約600名が駐屯していた。(20)

12月17日
 【US】0800、国道の西2キロのティピィクにあった米306連隊は攻撃発起し、日本兵は明らかに不意打ちされ、組織的抵抗を示さなかった。(24) 0830、本道両側にあった305連隊は攻撃を開始した。左翼第1大隊方面の抵抗は少なかったが、1145、東北ドロレスへ向かう道が分かれるタンブコに達した頃から日本軍の抵抗が強くなった。(24)
 【今堀】今堀支隊の残兵は、夕刻「赤屋根高地」へ接近したが、強力な反撃にあって撃退された。(24) 12月17日のオルモック反撃失敗後、今堀支隊の残兵400はドロレス東北の山地にあった。
 ■77聯隊第2大隊は、前日立石大隊が突破されたのを知り、この方面に退いて防禦陣地を築いた。火砲はおそらく到着していなかった。(24)
 ■フアトンの35軍司令部の状況は極めて悪かった。(24)
 ■12月17日のオルモック奪回は成らず、却って軍司令部はリボンガオに後退を強いられた。フアトン南方に孤立した77聯隊は東方山中に入った。(24)

12月18日
 ■大本営、レイテ島決戦放棄。<年>
 ■「12月18日、マリトボ方面にあった斎藤支隊の沿岸高地固守部隊の残部が、山に入った。26師団主力はアルブエラ上陸の敵攻撃の命令を受けていたが、脊梁山脈中で、米511降下連隊と交戦しながらの退却は難渋を極め、戦力を消耗していた。師団司令部はタリサヤン上流の河谷中に露営して、逐次退却して来る兵を収容した。形ばかりの野戦病院も開設されていた」(25)
 【重松】白井聯隊長の手記に「その後重松大隊と共に西進した。重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であった」とある。推定100名以下。「和号作戦」参戦の高千穂降下部隊、26D、16Dの生還者は皆無なので、詳細不明。<重>

12月18日頃
 ■「アルブエラ方面の26Dの残部は、まだこの頃は部隊の形を保っていた」(27)
 ■師団兵器勤務隊は、ダムラアン方面の斎藤支隊の補給を行い、カモテス海沿岸が退却戦になってからは、野砲隊の一部とともに、マリトボ東方の高地の死守を命ぜられていた。12月10日、米7D主力はここを通過してオルモックに向かったが、12月18日まで部隊はなお高地に残っていた。「山森曹長が功績簿を持って、タリサヤン川上流地帯に入った時、師団司令部ほか約600名の敗残兵が野営しているのを見た」(27)
 ■「26師団の退却も、16師団の退却も、往路で落伍した者の死体が白骨化している。それを道標にしたと伝えられる」(25)
 ■「オルモック平野の35軍司令部と隷下部隊もすでに壊滅状態にあった。12月18日の時点で、なお軍隊として規律と戦力を残していたのは、リモン峠の1D(玉)とピナ山方面の102師団(抜)だけだったといっても過言ではない」(25)

12月19日
 ■残存部隊、カンキボット山地に集結、持久戦体制へ移行。<年>

12月20日
 【US】米7D32連隊は、タリヤサン川左岸の2つの稜線に拠る強力な日本軍(26D)に妨げられて進出を停止。2日間交戦し、東方にいた187グライダー連隊が山中に迷った511連隊と交替して攻撃し、やっと突破することができた。(27)

12月21日
 ■1D、リモン峠から転進開始。<年>

12月22日
 【重松】18日以後も重松大隊と行動していた白井聯隊長、287高地で野中大隊と合致。<重>
 ■第14方面軍、第35軍に自戦自活命令。<年>

12月下旬
 ■26D主力は、山脚地帯を斜行してドロレスをめざしたが、1月下旬、軍司令部のパロンポン転進を知ってドロレスを諦め、ダナオ湖をめざした。急な稜線を上がったり降りたりする辛い行軍であった。(27)
 ■師団司令部と主力は、ドロレスからバレンシアでオルモック街道を越える近道を選んだ。(27)

12月25日
 ■総軍は、35Aに南部比島における永久抗戦を命じた。併せて、バコロド(ネグロス島)、カガヤン及びダバオ(ミンダナオ島)の各飛行基地群の確保を命じた。(27)
 ■大本営・南方軍、第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結。<年>

12月25日~20年3月
 ■総軍の命令(12/25)に基づき、35A司令部、1D、102Dの一部が西海岸からレイテ島を脱出した。鈴木35A司令官は、3月までレイテ島にとどまった。(27)

12月25日~
 ■「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。1D、第102師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起る。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っている暇はなかった。/ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第16師団、26Dの状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、これらの部隊は以来2カ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった」(27)
 ■諸隊の集合地はダナオ湖(オルモックの東北15キロ、ドロレスからハロへ越える山径に沿った火口湖))だったらしい。(27)

12月27日
 ■第35軍司令部、カンギポット着。<年>

12月28日
 【重松】軍参謀高橋公平少佐によれば、重松大隊長、白井聯隊長は12月28日まで287高地で追撃の米軍と交戦している その後白井聯隊長出発後、重松大隊も転進を開始。米軍の迫撃と交戦しつつ後衛尖兵としての任務を果たした。転進は難渋を極めた。この頃、大隊の戦力は3分の1にすぎなかった。<重>
 【重松】道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリア、栄養失調と戦いながら、多くの谷越え、岩攀りを強いられながら、オルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた。オルモックも既に日本軍は撤退しており、ダナオ湖経由で一路カンギポット目指し、苦難の転進は続いた。周辺は26D主力が転進して行った跡で、各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられた。後に、この転進街道は白骨街道といわれるようになった。<重>

【昭和20年】
1月2日
 ■26Dのタリヤサン上流の集結状況が軍司令部に伝わった。(28)
 ■1月2日現在、カンギポット周辺にあった日本兵だけで約1万名である(16師団、26D、今堀支隊は未掌握)。軍属、漂着船員を含めば、2万名近くであった。(28)

1月5日~9日
 【今堀】今堀支隊の残兵400名は、12月17日オルモック反撃失敗後、ドロレス東北の山地にあった。(28) オルモック東方の山脚にあった今堀支隊の残兵500名は、マタコブ山地南方への転進命令を受けて、1月5日、米3日分と携帯口糧1日分を持ち、3個梯団に分かれて転進を開始した。夜暗に乗じて、タンブコの南で街道を越え、パグサンガハン下流の乱流湿地帯を渡った。1月9日、ナガング山の南に集結した。「この頃この方面は米軍の作戦区域外になっていたから、転進は支障なく行われた模様である」(27)(28) ナガング山は、バグサンガハン川西方、パロンポンの東10キロ、オルモック西方10キロ、マタコブの南同じく10キロである。支隊は付近に多くの16師団兵士がいるのを見出した。(27)(28)(29) 「住民は逃亡していたが、折柄収穫期なので民家には米、トウモロコシ、モンゴ(小豆)などの蓄積があり、芋、バナナの畑もあった」(28) 最初は食糧も豊富だったが、米軍に所在を知られ、サンホセの重砲の射撃を受けるようになった。(29)

1月上旬
 ■26D司令部は1月上旬までタリサヤン川方面にあったが、アルブエラ方面の敵攻撃の任務を持っていたからであった。26Dは後退中さらに兵力を消耗し、タリヤサン上流の河谷に集結しただけで、攻撃していない。攻撃を実施する戦力を持っていなかったのである。(23)

1月9日
 ○米第6軍、ルソン島上陸(空母12隻外、リンガエン湾)。<年>

1月10日付け
 ■アルブエラ方面にあった26Dにも、1月10日付けでナグアン山に集結を命じてあった。しかし、その後、師団長以下、師団主力は行方不明となった。(29)

1月12~20日
 ■1D主力、セブ島へ転進。<年>

1月中旬
 ■オルモック東方にあった今堀支隊からの連絡将校が、26D司令部に到着し、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令が伝えられた。(27)

1月下旬
 ■26D主力も、タリサヤン川上流の露営地を捨て、脊梁山脈の西側を移動していた。オルモックを起点とする米パトロール隊との接触を避けて山中の道をたどり、一部はダナオ湖で、16師団と合流した。しかし、日本兵の集合を知ったゲリラの目標となった。(29)

1月25日
 【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29)

2月初旬
 【重松】重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。推定数十名。<重>

2月3~23日
 ■<マニラ攻防戦><年>

2月5日
 ○米軍、フクの武装解除命令。<年>
 【今堀】歩兵の包囲攻撃を受けて撤退。(29)

2月8日
 【今堀】カンギポット山の軍司令部に到着した。(29)

2月
 ■「2月に入って、今堀支隊及び26D残部がカンギポットに到達してから以後は、北、中、南三つの自治区に分かち、諸隊が分散して一挙に殲滅されるのを避けたという」(29)
 ■南自活隊はアビハオ以南で、77聯隊、58B及び伊東陸戦隊。中自活隊はアビハオからシラドまでで、軍司令部、高階支隊(8D)、金田集成隊(102D)、1D、41聯隊(30D)、68B。「北自活隊はシラド以北で、最も遅く到着した26師団と今堀支隊を配置した」(29)
 ■「脊梁山脈北部に圧迫された16師団、26Dの敗兵が、飢えと疲れで斃死しつつあった間に、カンギポット山の軍司令部周平に集結した第1師団の残部、68旅団、102師団、今堀支隊は、米77師団の攻撃を受けていた」(29)
 ■「2月中旬には16師団、26師団の兵の大部分はダナオ湖=ドロレスを結ぶ山径を越えていたと思われる」(29)

2月11日
 【今堀】西海岸のシラド付近の指定の位置に移って自活態勢に入った。その時の残存兵力は400。(29)

2月20日
 【US】米軍500がシラド北方15キロのマルカンボに上陸した。(29)

2月20~25日
 【今堀】今堀支隊は軽機2、3挺を持っていたらしいが、小銃は全部に行きわたらない欠損部隊である。米軍の迫撃砲にアウトレインジされて、次々と撃破されていく。(29)

2月23日以降
 【US】米軍は新しい攻勢をとったが、主として北自活区に指向された。(29)

2月25日
 【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29) 以上が第一次戦闘である。(29)

3月18~25日
 ■第二次戦闘は、ビリヤバを拠点にやや大規模に行われた。新しい攻勢は主として北自活区に指向され、中と南は比較的閑散だった。(29)

3月23日
 ■35軍司令部、レイテ島脱出(4/19、鈴木中将、ミンダナオ島渡航中戦死)。<年>

3月26日
 ○米軍、セブ島上陸。<年>

3月29日
 ○米軍、ネグロス島上陸。<年>

3月
 【今堀】オチン北方510高地に圧迫された今堀支隊は、今堀部隊長自ら畑を探して芋を掘り、バナナを採った。(30)
 【重松】重松大隊、泉師団自活自戦地域シラットに移転。<重>

4月10日
 【重松】戦闘で山本第10中隊長戦死。<重>

4月18日
 ○米軍、ミンダナオ島上陸。<年>

4月
 【重松】自活自戦。当初は転進途中で日本軍の遺棄食料を拾得し、かつ、師団より若干の分配を受けて凌いでいたが、次第に底を尽き、5月頃から毎日潮汲みと食料捜しの毎日であった模様。<重>

5月
  【重松】 この頃、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。<重>

5月8日
 ○米軍、レイテ作戦終了(サン・イシドロ半島の掃討をゲリラ部隊に一任)。<年>
 ※ドイツ降服。

5月下旬~
 【今堀】西北方カンポクポク方向からゲリラの攻撃を受け、再びカルブゴス山に圧し戻された。すでに兵器なく弾もない。負傷兵を治療する薬もなかった。この方面には26Dの主力がいたが、ブラウエン作戦当時から飢餓に陥っていて、今堀支隊よりひどい状態であった。(30)
5月末頃  26Dはカンギポット山の洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀支隊、工兵聯隊の一部、約200名にすぎなかった。<重>

5月28日
 【今堀】カルブゴス山東南方からゲリラまたは自警団による新しい攻撃があり、部隊は再び北方へ移動した。(30) 今堀部隊長の周囲にいる将兵は20名足らずとなった。部隊は食糧を求めて再び進路を西方平地にとった。(30)

6月9日
 ○コモンウェルス議会招集さる。<年>

6月10日
 【重松】重松大隊長、マラリヤと栄養失調のため、自決。<重>
 【今堀】敵襲で5名、7月日の敵襲で4名が戦死、再び東方山中に入った。(30)

7月4日
 【今堀】今堀部隊長は下痢と栄養失調のため行動不能に陥り、同日2100、軍旗焼却、同日2200拳銃で自決した。

7月5日
 ○マッカーサー、フィリピン諸島戦闘終了を宣言。<年>

9月3日
 ■山下大将、降服。<年>
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【大岡昇平ノート】重松大隊の最後 ~『レイテ戦記』にみる第26師団・補遺~

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 『レイテ戦記』「15 第26師団」にいう。「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」。
 はっきりした僅かの事実から重松大隊の運命を追跡したのが、重松正一編『レイテ島カンギポットに散華せし父を偲ぶ 独立歩兵第13聯隊(泉5316部隊)第3大隊の戦記』(私家版、2000年刊)。私家版というより手作りの小冊子で、僅々82ページ。しかも肝心の「戦記」は実質4ページにすぎず、残余は資料である。逆にいえば、多数の資料から、ようやく「戦記」4ページを再構成できたのだ。
 この小冊子は、国会図書館におさめられているから、誰もが閲覧できる。
 以下、「戦記」を抄出するとともに、「戦記」添付資料および『レイテ戦記』から若干補足する。
 なお、「聯隊」「連隊」の区別、部隊名、役職名、地名の表記は『レイテ戦記』に統一した。

  *

 重松大隊は、南方軍第14方面軍直轄の第26師団独立歩兵第13聯隊の第3大隊である。
 重松勲次は、昭和18年12月に第3大隊長となり、昭和19年8月、比島転進の途中、釜山において、陸軍少佐となった。
 重松大隊は、昭和19年8月10日に伊万里湾を出港。22日にマニラ港入港。停泊すること1日半でリンガエン湾の警備に就いた。27日、中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐した。
 9月17日、海没した安尾大佐の後任として、斎藤二郎大佐が第13聯隊長に着任した。
 11月2日、マニラ港出港。重松大隊のオルモック上陸の期日は、「戦記」では明らかではないが、第1大隊と同じ11日と推定される。重松大隊は重機関銃も揚陸し、後に迫撃砲6門が増加したが、師団の他の部隊が揚陸できたのは携行兵器のみであった。ただちに、師団主力とともに「不気味にも荒れ果てた」オルモック街道をオルモック北方のドロレス付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。
 11月12日、14方面軍は、「和号作戦」を35軍に下達。35軍からの命令を受けて、26師団主力は、ダムラアンをめざして進撃を開始した。
 11月15日、重松大隊、マホナグ着。
 11月17日、26師団の先頭は、山間のルビまで進出。ルビからブラウエンまでの脊梁山脈越えには道がない。ジャングルを切り開きながらの強行軍でも6昼夜かかった。
 11月20日、重松大隊、ルビ南東2キロに進出。米軍と遭遇し、撃退。
 11月22日、重松大隊、マタグバ西方287高地に進出。「ブラウエン方面に的を見ず」
 11月26日、重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊200名(102師団の士官候補生をもって編成された斬込隊)を掌握。
 11月28日、重松大隊、「マタグバ方面に敵第86師団進出あるがごとし」と報告。重松大隊は山中に入ってすでに半月。補給は十分でないから、多くの栄養失調、マラリヤ、下痢患者が発生していた。1230~1800、287高地後方に進出した米軍100名を奇襲。ダキタン川渓谷に沿った小高地をめぐって米511連隊としのぎをけずった。
 12月1日、師団の主力はマリートボックから東進を開始し、ブラウエンに向かった。師団主力といっても実兵力は、先遣重松大隊を除けば、独立第12聯隊の2個大隊と野中大隊(第30師団に属するが、当時26師団に配属されていた)の3個大隊にすぎなかった。
 12月3日、重松大隊主力は、ブラウエンまで2キロの205高地付近に進出した。
 12月6日夜、ブラウエン西方数キロの山中、205高地付近に到着していた重松大隊は、夜、4~5名1組の斬込隊を40組、ブラウエン飛行場に「予定どおり突入」させた。帰ってきた斬込隊の隊員若干名は、飢餓のため体力の限界に達して動けない者が多かった。なお、突入したのは重松大隊のみで、師団全体は動いていない。なお、2000、第2挺身団(高千穂挺進隊)挺進第3聯隊の260名が降下している。
 12月7日未明から8日朝、重松大隊と空挺第3聯隊、第16師団との連絡が成立、行動を共にする。滑走路の天幕や高射砲などを破壊した。
 12月9日、7日払暁の米77師団2個連隊のデポジト上陸にともない、26師団は一部をもってブラウエン、オルモック平地に転進し、上陸中の米軍を攻撃、16師団を収容する、との命令が下された。飢餓と体力消耗、弾薬の補給もない重松大隊だったが、殿軍を命じられ、この地に残留した。
 12月18日、挺進第3聯隊長白井恒春少佐以下残存兵力12名は、マタグバ東北4キロ付近のジャングルのなかで、「幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロの有様」の重松大隊の推定100名と遭遇し、行動を共にする。
 12月22日、287高地で野中大隊と合致。
 12月28日まで、重松大隊、高千穂挺進隊は、287高地で追撃の米軍と交戦している。野中大隊と行動をともにすることとなった白井聯隊長以下が出発後、重松大隊も転進を開始した。殿軍の任務を果たしながらの転進は難渋をきわめた。この時期の重松大隊の戦力は3分の1以下に過ぎなかった、と推定される。
 脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリヤなどの病気、栄養失調に悩まされながら、谷を越え、岩をよじのぼり、米艦船の占めるオルモック湾を遠望しつつ、転進はつづいた。ダナオ湖をへて、カンギポットをめざした。26師団主力が転進していった跡の各所に集中して多くの白骨死体が遺されていた。いわゆる白骨街道である。
 昭和20年2月4日、白井聯隊長、陣没。
 2月初旬、重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。祖国を出発したときは千数百名だった重松大隊の生存者は、推定数十名となっていた。
 3月頃、重松大隊は26師団自活自戦地域のシラットに移転。
 4月10日、重松大隊第12中隊長山本利博中尉、戦死。
 4月、自活自戦。当初は転進途中で日本軍が遺棄した食糧を拾得し、かつ、師団から若干の分配を受けてしのいでいたが、しだいに底をつき、5月頃から潮汲みと食糧探しの毎日であった。5月、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。
 前年の8月に祖国を出発したときは1万3千名だった26師団は、9か月後の5月末頃、師団参謀長加藤芳寿大佐を中心とする今堀支隊、工兵第26聯隊の一部の200名が生存するにすぎなかった(カンギポット山の洞窟に所在)。
 6月10日、重松大隊長、自決。マラリヤと栄養失調で力はなかったが、銃声が周囲に与える影響をおもんばかり、軍刀を喉に突き立てた。
 重松大隊隊員のその後の運命は、「戦記」には記されていない。
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【大岡昇平ノート】レイテ島作戦陸軍部隊における第26師団の位置づけ

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 【出典】『レイテ戦記』及びその付録「レイテ島作戦陸軍部隊編成表」ほか

南方軍
 第14方面軍(10月23日)
   ○直轄
      第1師団(玉) (上海から輸送中)
      第8師団 (ルソン島)
      第26師団(泉) (ルソン島)
         司令部
         独立歩兵第11聯隊
           ★第2大隊の一部 ⇒ 斎藤支隊
         独立歩兵第12聯隊 = ★今堀支隊:(第2大隊欠)1,000名。
           ★第2大隊の一部 = 井上支隊
           ★第2大隊の一部 ⇒ 斎藤支隊
         独立歩兵第13聯隊
           ★第1大隊、第2大隊を基幹に、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた
             ⇒ 斎藤支隊
           ★第3大隊 = 重松大隊
         独立砲兵第11聯隊
         工兵第26聯隊
         第26師団通信隊
         輜重兵第26聯隊
         第26師団兵器勤務隊
         第26師団野戦病院
         第26師団病馬廠
         独立臼砲第21大隊
         独立工兵第65大隊
         独立速射砲第25大隊
     第103師団 (ルソン島)
     第105師団 (ルソン島)
     戦車第2師団(撃) (ルソン島)
     <高千穂挺身隊>
     独立混成第55旅団 (主力ホロ島、一部セブ島)
     独立混成第58旅団 (ルソン島)
     独立混成第61旅団 (バタン島、バブヤン島)
     独立混成第68旅団(星) (在台湾)

  ○管下 第35軍(尚)
     軍司令部
     第16師団(垣) (主力レイテ島、一部サマール島)
     第30師団 (ミンダナオ島)
     第100師団 (ミンダナオ島)
     独立混成第54旅団 (ミンダナオ島)
     第102師団(抜) (ビサヤ諸島)

  ○管下 第41軍
     第8師団(杉)
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(1) ~はじめに~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
 『野火』は、戦争で精神を病んだ者の手記という体裁をとっている。手記は「一 出発」から「三六 転身の頌」までで、フィリピンはレイテ島における山中の孤独な彷徨を記す。
 ちなみに、「三七 狂人日記」から「三九 死者の書」までは、帰国後に収容された病院における独白である。
 病院で治療にあたるのは医師だが、生活歴の聞き取りは、今ならメディカル・ソーシャル・ワーカーの役目だ。しかし、「手記」を資料として主人公の生活誌を拾い出そうとすると、困惑するにちがいない。5W1Hを旨とするケース記録に記載するには、あまりにも不明の部分が多いからである。
 では、『野火』を資料として主人公の生活誌をどこまで再構成できるだろうか。つまり、思想や感情はひとまず措いて、行動のみに着目すれば、どのような履歴となるだろうか。
 以下は、その試みである。
 なお、レイテ戦は、投入兵力84,006名、戦没者79,261名。生還者2,500名。生還率は、わずかに3%にすぎない。
 大岡昇平が主人公の所属として念頭においた第26師団(泉)は、小説では小泉兵団となっている。『野火』は、第26師団の動向と照応させると興味深い【注】。

 テキストは、『大岡昇平全集』第3巻(筑摩書房、1994)とする。
 『大岡昇平全集』第3巻所収の『野火』は、『大岡昇平集』第3巻(岩波書店、1982)を底本としている。『大岡昇平集』第3巻の「作者の言葉」によれば、初稿が1948-49年、訂正決定稿が1951年。外国語に翻訳されるとき、1957年に1か所追記された(「36 転身の頌」の「天使である」の前の「私はもう人間ではない。」)。
 なお、【補注】の<>内は、『レイテ戦記』の各章である。

【注】『ダナオ湖まで』(『大岡昇平集2』、岩波書店、所収)に次の文面がある。
 私の『野火』の主人公田村一等兵は泉兵団に所属と仮定した。山越えのブラウエンへ斬込みを命じられるが、部隊は先頭をゲリラに押し返され、山際でぶらぶらしている。喀血して病院へ送られるが、結局どこでも断られて、山中を彷徨する戦線離脱者いわゆる遊兵となる。
 この状況は当時レイテ戦に関する唯一の記録友近少将の『軍参謀長の手記』に基づき、レイテ島収容所内の伝聞を基にして設定していたものである。『野火』はフィクションであるから、主題の展開のためにはこれくらいで十分であろう。
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(2) ~主人公の行動~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
■比島上陸まで
 『野火』の主人公は、姓名が明らかでない。いや、姓は田村だが、名は不明である。生年月日も年齢も明記されていない。
 ここで非公式の資料を援用すれば、主人公の姓名は、田村鶴吉。昭和20年3月の時点で推定32、3歳である。埼玉県の地主の息子であり、文学を愛して東京の某私立大学に遊学、戦争中郷里に帰って結婚し、家業を継いだ。昭和19年に応召。長身、痩躯。
 ちなみに、非公式の資料とは、初稿(「文体」第3号、1948年12月刊)には記されているが、定稿では削除された部分である。

 応召するまでに、異性との交渉は多々あったらしい。少女から年上の女性まで。彼女たちの性格は多様で、得恋もあれば、逆に棄てられたこともあった。(01)
 結核の病歴がある。(02) 上陸後、軽い喀血をした。(03)
 昭和何年かは明記されていないが(おそらく昭和19年)、6月に日本から輸送船でフィリピンへ向かった。(04) フィリピン到着後、マニラ城外で3カ月間駐屯した。(05)(06)
 ここでは部隊名は不祥だが(おそらく「小泉兵団」)、混成旅団である。(07) 隊員の中には満州から転属した者もいた。(08) しかし、大部分は内地から田村一等兵と一緒に来た補充兵であった。(06)

■生還の希望
 長居は無用、とばかり小屋に戻った田村は、ブラウエン斬込み隊の生き残りの兵士たちと会い(27)、彼らからパロンポンへの退却命令を聞いた。(28) 生還の希望が生まれた。(29)
 被甲の中身をすてて根芋を収め、伍長の先導で出発した。最初この畠へ上って来た道を逆行して河原へ降り、暫く流れに沿って下ってから、最初の屈折点で、別の丘へ取りついた。北を目指した。オルモック街道がリモンの北で2つに分れ、1つがパロンポンに向っている地点がある。そこから半島に入ることが出来るはずだった。2つの丘と2つの川を杣道で越すと、牛車の通れるくらいの幅の道に出た。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に現われて道に加り、やがて1個中隊ほどの蜒々たる行軍隊形になった。道が草原に露出しているところでは、列は道を外れて林に潜り、先でまた林に入ってくる道を捉えた。兵達の状態は、見違えるように悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髯が延びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光り、その眼は互いに隣人を窺ように見た。上り坂の両側は休む、或いは倒れた兵の列であった。(30)
 被爆の危険を避けて夜間に行軍し、月が細るに及んで昼間の行軍に返った。(31)
 ある日、病院の前で別れた2人の病兵に再会した。今では歩けないのは安田であり、若い永松は元気になっていた。彼は通行の兵士に煙草を薦めていた。(32)
 レイテ島は雨季に入った。生物の体温を持つ厚ぼったい風が1日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちてきた。(33)
 雨は頭上に飛ぶ米機を減らしたが、自働小銃を持つゲリラが側面から脅かすようになった。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、ゲリラの攻撃によってさらに山奥の杣道へ追い込まれた。川もいくつか越えねばならなかった。(34)
 オルモックを左後にした頃から、山脈は低くなり丘と谷が錯綜してきた。低い丘が海岸方面に連り、道はその裏側をまわった。丘と脊梁山脈の前山との間は、泥の平原が埋めていた。(35)
 濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道原駐地以来穿いていた靴は山中の畠を出た時既に底に割れ目が入っていたが、ある日完全に前後が分離した。裸足になった。(36)
 脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到り、平地になって尽きるところで、西へ半島が張り出している。半島は、脊梁山脈とは別の山系に属する低い山脈が南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱いていた。半島の西南端に位置するパロンポンが集結場所である。湾の底部の、いわば耳朶の附根にオルモックが位置している。平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、いわゆるオルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。(37)

■生還へのあがき
 リモン、バレンシヤ等、沿道の要地はことごとく米軍が占領していた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があった。パロンポンへ到達するにはこの国道を突破しなければならない。リモン北方でパロンポンへ向う1道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、その先の湿原の抜けるのに楽だから、特に敗兵達によって窺われた地点であった。戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた。(37)
 草原が丘に囲まれて行き止ったところから一方の丘に上ると、頂上に兵達が群れ、繁みに身を潜めて稜線の彼方を窺っていた。前は湿原が拡がり、土手で高められた一条の広い道が横に貫く国道があった。湿原は左側に開け、遠い林まで到っているが、右側は道の向うに木のよく繁った丘が出張り、さらに裾から低い林を湿原の上に延ばしていた。林の上に遠く、半島山脈の主峰カンギポット山(歓喜峰)に雲がかかっていた。右手、視野のはずれの国道上に、少しばかり人家のかたまったところが「三叉路」だった。パロンポンへ行く道は、そこから分れ、ほぼカンギポット山(歓喜峰)に向って、前方の丘裾の林の中を廻って行く。(38)
 夜になった。雨は依然として湿原を曇らせつつ、まず遠いカンギポット山(歓喜峰)が消え、アカシヤの木が消え、次いで前面の林が消えて、やがて何も見るもののない闇となった。米軍の車輛の往来もとまった。(39)
 国道の土手の線が闇を横に長く切ってほのかに空と境しているあたりが目標であった。泥はますます深く、膝を越し、なかなか近づかない。疲れてきた。前方の泥がこれ以上深ければ、完全に動けなくなる。そのまま夜が明けてしまえば、泥から上半身を出した姿で、道を通る米兵に発見される。(40)
 国道は闇の中に、白く左右に延びていた。固い砂利に肱をつき、銃を曳きずって横切った。対面の草の斜面を素速く滑り降りた。水がそこに音を立てて流れていた。跨いで越した先の泥は、踝までしか入らなかった。匍って行った。前方には黒々と林の輪郭が見えた。肱と膝を用いる中腰の匍匐の姿勢です早く進んだ。周囲の闇には兵士の群で満ちていた。そこへ弾が来た。戦車であった。(41)
 再び泥を渡って引き返した。銃はいつかのまにか手になかった。そのためか、帰路は往路よりよほど楽だった。(42)

■孤独な彷徨
 幾日か、独りで歩いた。その間の記憶は定かではない。(43)
 集合地に向かおうとする兵士はいたが、突破は絶望的であった。(44)

■飢餓
 飢えがこうじ、道傍に見出す屍体の肉を食べたいと思った。(45)
 他の兵士も屍肉を食べたいと思うにちがいない。屍体のみならず、生きている人間の肉をも。生存していることを示さなければ自分が犠牲になる。「おう」という気合いで生きていることを証明するのだ。(46)
 屍体にたかる蛭から血を啜った。(47) さらに人肉に手をつけようとすると、自分でも意外なことに、剣を持った私の右の手首を、左の手が握って止めた。(48)
 飢えのはて、銃口でねらわれるのを感じて倒れたところを永松に救われた。(49) 水と肉を口に押し込まれた。(50) 肉は美味であった。「猿」の肉であった。(51)
 翌朝から雨になった。(52) 今日は2月10日だと聞いて驚いた。三叉路を越せなかったのは1月初めだったから、ひと月、1人でさまよっていたのである。雨はなかなか止まなかった。永松は猟に出ず、肉の割当も1日1片に減った。田村と永松はもう安田のテントへ行かず、火種を持ってきて別に火を起し、互いに差向いで、1日膝を抱いて坐っていた。彼の私を見る眼は険しくなった。肉はもうなくなっていた。(53)
 永松が猟に失敗した。猟の対象を知った。「猿」は日本兵であった。(54)
 田村が不注意にも手榴弾を安田にとられたことを知った永松は、安田殺害を決意した。(55) 永松が安田を射殺した後、不注意におき忘れた銃を田村は手にとった。田村が差し向けた銃口を永松は握ったが、遅かった。そこまでは記憶しているが、永松を撃ったかどうか、田村の記憶は欠けている。だが、肉はたしかに食べなかった。食べたなら、憶えているはずである・・・・。(56)
 非情な自然。手の中の、菊花の紋がばってんで刻んで消してある38銃。手拭を出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭ったところで田村の記憶は途切れる。(57)

■文明社会ふたたび
 俘虜になったのはオルモック付近である。(58)
 俘虜となって6年後、この手記を書いた。(59)
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~

2010年07月18日 | ●大岡昇平
【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~

【注】
(01)「それは私が過去の様々な時において、様々に愛した女達に似ていた。踊子のように、葉を差し上げた若い椰子は、私の愛を容れずに去った少女であった。重い葉扇を髪のように垂れて、暗い蔭を溜めている一樹は、私への愛のため不幸に落ちた齢進んだ女であった。誇らかに四方に葉を放射した一樹は、互いに愛し合いながら、その愛を自分に告白することを諾じないため、別れねばならなかった高慢な女であった。(中略)私は月光の渡った空への渇望が、或る女が私が彼女を棄てる前に私を棄てた時、私の感じた渇望に似ていることに思い当った」(「9 月」)

(02)「十一月下旬レイ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである」(「1 出発」)

(03)「十一月下旬レイテ島の西岸に上陸するとまもなく、私は軽い喀血をした。水際の対空戦闘と奥地への困難な行軍で、ルソン島に駐屯当時から不安を感じていた、以前の病気が昂じたのである。私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)

(04)「もっとも私は内地を出て以来、こういう不条理な観念や感覚に馴れていた。例えば輸送船が六月の南海を進んだ時、ぼんやり海を眺めていた私は、突然自分が夢の中のように、整然たる風景の中にいるのに気がついた」(「2 道」)
 【補注】第26師団は、30数隻の輸送船団を組み、8月10日に九州の伊万里湾を出港した<「十五 第二十六師団」>。

(05)「比島の熱帯の風物は私の感覚を快く揺った。マニラ城外の柔らかい芝の感覚、スコールに洗われた火焔樹の、眼が覚めるような朱の梢、原色の朝焼と夕焼、紫に翳る火山、白浪をめぐらした珊瑚礁、水際に蔭を含む叢等々、すべて私の心を恍惚に近い歓喜の状態においた。こうして自然の中で絶えず増大して行く快感は、私の死が近づいた確実なしるしであると思われた」(「2 道」)
 【補注】第26師団は、輸送船4隻沈没、4隻大破の損害を受け、8月22日、マニラ着。軍需資材疎開に従事し、26師団の兵士たちは決戦参加に先立って、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた<「十五 第二十六師団」>。

(06)「彼等は大部分内地から私と一緒に来た補充兵である。輸送船の退屈の中で、我々は奴隷の感傷で一致したが、古兵を交えた三カ月の駐屯生活の、こまごました日常の必要は、我々を再び一般社会におけると同じエゴイストに返した。」(「1 出発」)
出発」)
 【補注】第26師団は、歩兵2個聯隊を基幹として、昭和10年2月に熱河省承徳で編成された独立混成第11旅団を改編したものである。昭和12年、第3師団管区から現役兵をもって補充、師団に昇格した。独立歩兵第11聯隊、同第12聯隊、同第13聯隊の書く聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、対ゲリラの経験を持つ歴戦の部隊であった<「十五 第二十六師団」>。

(07)「タクロバン地区における敗勢を挽回するため、西海岸に揚陸された、諸兵団の一部であったわが混成旅団は、水際で空襲され、兵力の半数以上を失っていた。重火器は揚陸する隙なく、船諸共沈んだ。しかし我々は最初の作戦通りブラウエン飛行場目指して、中央山脈を越える小径を行軍したが、山際で先行した別の兵団の敗兵に押し戻された。先頭は迫撃砲を持つ敵遊撃隊の活動によって混乱に陥り、前進不可能だという。我々は止むを得ず南方に道なき山越えの進路を取ったが、途中三方から迫撃砲撃を受けて再び山麓まで下り、この辺一帯の谷間に分散露営して、なすところなくその日を送っていた」(「1 出発」)
 【補注】第26師団第12聯隊今堀支隊(第2大隊欠)のみ、10月31日、マニラ発。11月1日、レイテ島オルモック港着。11月2日中に上陸完了、ドロレスから脊梁山脈を越えて、ハロを見下ろすラアオ山に進出、師団進出を待っていた。11月8~11日、「多号作戦」第三次、第四次輸送によって送られた師団の人員は、師団司令部、第11聯隊の第2大隊、第12聯隊の第2大隊、及び第13聯隊の3個大隊で、兵員総力は歩兵5個大隊と野砲2個大隊、輜重、野戦病院、総計およそ1万である。師団からの帰還者は300余名だが、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22、計23名にすぎない。「万事はっきりしないことの方が多いのである」<「十五 第二十六師団」>。
 【補注】11月23日発令の和号作戦は、12月5日から10日までのいずれかの決行日(第二挺身団=高千穂空挺隊が降下する翌日)に、26師団の先頭1個大隊および16師団残部1,500が飛行場を攻撃、確保する。16師団は北方のブリ飛行場(ブラウエン北飛行場)、26師団はサンパブロ飛行場とバユグ飛行場(ブラウエン南飛行場)に突入する。その後、26師団主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦火を拡大する・・・・というもの<「十九 和号作戦」>。しかし、「兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は、最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった<「十七 脊梁山脈」>。

(08)「衛兵司令の兵長はしかし私の形式的な申告を聞くと顔色を変えた。満州の設営隊から転属になったこの色白の土木技師は、彼自身の不安を想起させられたのである」(「1 出発」)
 【補注】上陸した26師団の兵士1万は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった<「十六 多号作戦」>。

(09)「オルモックを出発する時携行した十二日分の食糧は既になかった。附近に住民が遺棄した玉蜀黍その他雑穀も、すぐ食べつくした。実数一個小隊となった中隊兵力の三分の一は、かわるがわる附近山野に出動して、住民の畠から芋やバナナを集めて来た。というよりは食い継ぎに出て行った。四、五日そうして食べて来ると、交替に次の三分の一が出動する間、留守隊を賄うだけの食糧を持って帰って来るのである。附近のに散在する部隊も、同様の手段で食糧をあさっていて、我々は屡・出先で畠の先取権を争い、出動の距離と日数は長くなった」(「1 出発」)
 【補注】太平洋戦争では、戦闘で死んだ兵士よりも餓死した兵士が圧倒的に多い(立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』、文春新書、2009)。

(10)「空には遠く近く、いつも爆音があった。様々の音色を持った音の中で、一つポンポンと軽く断続する音があった。これは航空機にはあり得ない音である。むしろモーター・ボートの音に近かった。ではどこかに海があるのだろうか。/私は改めて私の現在地を反省した。病院が砲撃されてから幾日経ったか、あてどなく歩く間に、計算を失していたが、凡そ十日であろう。私の伝って来た谷は、月がそれを直角に渡ったところをみれば、南北に横わっていた。その谷を私は十二粁北上したと思われる。結局私は現在中隊の宿営地から、約二十粁北方にいるはずである。中隊は当時オルモックから四十粁南方にあったから、私はほぼその中間にいるわけである。海岸との距離は不明であるが、中隊の宿営地からの距離、つまり八粁とみて大過あるまい。/北極星の位置から判断すると、私の小屋は東北に向いている。してみれば向うの斜面は西南、つまり海に面しているわけである」(「11 楽園の思想」)
 【補注】オルモックから20キロ南方にカリダード、50キロ南方にバイバイが位置する。

(11)「の中はアカシヤの大木が聳え、道をふさいで張り出した根を、自分の蔭で蔽っていた。住民の立ち退いた家々は戸を閉ざし、道に人はなかった。敷きつめた火山砂礫が、褐色に光り、村をはずれて、陽光の溢れる緑の原野にまぎれ込んでいた」(「2 道」)

(12)「病院は正面の丘を越えて、約六粁の行程である」(「2 道」)

(13)「敵発火点は不明であるが、これが我々の今まで受けた迫撃砲撃とは違い、組織的な攻撃であることは明白であった。或いは上陸前の艦砲射撃かも知れない。レイテ西海岸の平野は浅く、我々は海岸と四粁メートルと離れていなかった」(「7 砲声」)

(14)「私は五日分の食糧を与えられ、山中に開かれていた患者収容所へ送られた。血だらけの傷兵が碌々手当も受けずに、民家の床にごろごろしている前で、軍医はまず肺病なんかで、病院へ来る気になった私を怒鳴りつけたが、食糧を持っているのを見ると、入院を許可してくれた。/三日後私は治癒を宣されて退院した。しかし中隊では治癒と認めない、五日分の食糧を持って行った以上、五日おいて貰え、といった。私は病院へ引き返した。あの食糧は五日分とはいえない、もう切れたと断られた。そして今朝私は投げ返されたボールのように、再び中隊へ戻って来たのであるが、それはただ私の中隊でもまた「死ね」というかどうかを、確めたかったからにすぎない」(「1 出発」)
 【補注】「父のレイテ戦記」によれば、「野戦病院での負傷者の食糧は一日ににぎりめし二個だった」。

(15)「私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。/「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」」(「1 出発」)

(16)「幾日かがあり、幾夜かがあった。私を取り巻く山と野には絶えず砲声が響き、頭上には敵機があったが、私は人を見なかった」(「8 川」)

(17)「私がさまよい込んだ丘陵地帯は、ブラウエン、アルベラ、オルモックの各作戦地区を頂点とする三角形の中心に近く、いわば颱風の眼のように無事であった」(「8 川」)

(18)「或る明方北西に砲声が起り、青と赤の照明弾が、花火のように中空に交錯するのが見られた。その夜頂上から見渡すと、輝かしい燈火が、見馴れたオルモックの町の輪郭を描いていた。西海岸唯一の友軍の基地にも、米軍が上陸したのである」(「8 川」)
 【補注】昭和19年12月7日、米軍はデボジトに逆上陸。12月15日、オルモック港は米軍により完全に封鎖された。

(19)「しかし倒木の間を下りて行きながら、私は鶏の食べているものを確める必要がないのを知った。根株の間に到るところ、カモテ・カホイ(木の芋)と呼ばれる、木のような高い茎を持つ芋が植えてあった。蔓芋の葉も匐っていた。私はすぐカモテ・カホイの直立した茎の一本を倒した。地下茎が千成瓢箪のようについていた。手で土を払いかじった」

(20)「それから毎日、倒木を渡ってこの斜面に坐り、海を眺めるのが私の日課となった。群島にかこまれたカモテス海は静かであった。夕方、かつて私の駐屯したセブ島の山々が、内海を飾る三角の小島のうしろに、巨大な影絵を浮べた。その上に空は夕焼け、真紅の雲が放射線をなして天頂まで、延びて来た。海は次第に暗く、セブは霞んで来た。私は我慢して小屋に帰った」(「12 象徴」)

(21)「オルモックが陥ちた今、あそこにいる人間が日本人である可能性はまずなかった。湾に船がないところから見て、米軍がいないのは確かとしても、比島人はいるであろう。そして彼等がいくら彼等同士の間で、あの十字架の下で信心深い生を営むとしても、私に対してはすべて敵であった」(「12 象徴」)
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(4) ~注(2)~

2010年07月17日 | ●大岡昇平
【注】
(22)「ビサヤ内海の静かな水が拡がっていた。岸に迫った岬から、蝉の声が湧いて水にこだました。その連続した音は、依然として沖のどこかを渡るらしい、米軍の内火艇の音によって破られた」(「16 犬」)

(23)「扇状に拡がって、ゆるく海へ傾いた斜面は、三十軒ばかりのニッパ・ハウスによって占められ、一本の道路が真直に降りていた」(「16 犬」)

(24)「殊に彼等は屍体であること既に永く、あらゆるその前身の形態を失っていた。彼等の穿った軍袴のみ、わずかに彼等の人間たりし時の痕跡であったが、屍汁と泥で変色し、最早人間の衣服の外観を止めていなかった。周囲の土と正確に同じ色をしていた」(「17 物体」)

(25)「私は音を立てた。話声がとまった。私は立ち上り、銃で扉を排して、彼等の前に出た。/二人は並んで立ち、大きく見開かれた眼が、椰子油の灯を映していた。/「パイゲ・コ・ポスポロ(燐寸をくれ)」と私はいった。/女は叫んだ。こういう叫声を日本語は「悲鳴」と概称しているが、あまり正確ではない。それは凡そ「悲」などという人間的感情とは縁のない、獣の声であった。人類は立ち上って胸腔を自由に保たないならば、こういう声は出せないであろう。/女の顔は歪み、なおもきれぎれに叫びながら、眼は私の顔から離れなかった。私の衝動は怒りであった。/私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に拡がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた」(「19 塩」)

(26)「私は私の犠牲者がここまで来た理由に好奇心を起し、室に彼等の行為の跡を探した。床板があげられ、下に一つのドンゴロスの袋が口を開けていた。中に薄黒く光る粗い結晶は、彼等人類の生存にとっても、私の生存にとっても、甚だ貴重なものであった。塩であった」(「19 塩」)

(27)「ふむ。仕様がねえ奴だ……もっともお前も」と傍の上等兵を顧みて「ブラウエンで落しちゃったな」」(「21 同胞」)
 【補注】12月1日、マリトボにあった26師団は、脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。当時、26師団の実質は2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(独歩13聯隊第三大隊)は、すでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアンでさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲をもたず、斬りこみ程度の効果しか発揮できそうもなかった。12月5日、方面軍派遣田中光祐少佐はルビの軍戦闘司令所に着き、周辺を視察してぞっとした。「密林の山中にこもって、飢餓に瀬している泉兵団の兵たちは、いずれも眼ばかり白く凄みをおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」。師団主力は12月1日にマリトボを出発する時、少なくとも5日分の食糧を携行していたはずなので、これは先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況でなければならないが、やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍似たような状況に陥る。12月6日未明、16師団の150名が、同日夜、26師団の一部が斬り込んだ<二十一 ブラウエンの戦い>。12月7日の米軍のオルモック上陸により、ブラウエン作戦は中止。12月16日現在、タリサヤン川上流の河原がやや広くなった地点に、26師団の約600が集結<二十 ダムラアンの戦い>。

(28)「「班長殿達はパロンポンへ行かれるのでありますか」/「おめえ、まだ知らねえのか。レイテ島上の兵は尽くパロンポンに集合すべし、って軍命令が出ている。お偉ら方もやっと、とてもいけねえと気がついたらしい。どの隊もみんなそっちへ退却中だ。パロンポンから大発で、セブへ渡してくれるって話だ――ははあ、その命令を知らねえから、こんなとこでうろうろしてやがんだな」」(「21 同胞」)

(29)「希望が生れていた。昨日からの出来事は、悪夢の名残のように、後頭部についていたが、この時パロンポン集合という一片の軍命令に要約された生還の希望を、私が信じ込んでしまった速さを考えると、中隊を出て以来、私の奇妙な経験と夢想が、すべて私が戦場で隊から棄てられたという、単純な事実に基いていたことがわかる」(「21 同胞」)

(30)「さらに二、三本を倒して根芋を取り、僚友にならって、被甲の中身をすてて、そこにも収めると、我々は出発した。/伍長が先導した。私が最初この畠へ上って来た道を逆行して河原へ降り、暫く流れに沿って下ってから、最初の屈折点で、別の丘へ取りついた。/北を目指すべきであった。東西両海岸の米軍の連絡は既に成っていたが、オルモック街道がリモンの北で二つに分れ、一つがパロンポンに向っている地点がある。そこから半島に入ることが出来るであろうという、伍長の判断であった。/二つの丘と二つの川を杣道で越した後、牛車の通れるくらいの幅の道に出た。/「飛行機に気をつけるんだぞ。道はねらって来るからな」と伍長がいった。/米機が道をねらうのはもっともであった。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に現われて、道に加った。そしてやがて一個中隊ほどの蜒々たる行軍隊形になった。/道が草原に露出しているところでは、列は道を外れて林に潜り、先でまた林に入って来る道を捉えた。そういう林中の道は、時々都会の鋪道のように雑沓した。/兵達の状態は、見違えるように、悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髯が延びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光っていた。その眼は互いに隣人を窺ように見た。/パロンポンへ、パロンポンへ。彼等はそれぞれ飢え、病み、疲れた体を引きずって、一つの望みにつながり、人におくれまいとして、一条の道を歩いて行った。上り坂の両側は休む、或いは倒れた兵の列であった。(「22 行人」)

(31)「夜が明けると、林に入って眠り、夕方行軍を開始した。夜道の方が爽やかで、被爆の危険がなかったからであるが、月が、細く暗くなるに及んで、昼間の行軍に返った」(「22 行人」)

(32)「或る日私は、病院の前で別れた二人の病兵に会った。今では歩けないのは安田であり、若い永松は元気になっていた。彼は通行の兵士に煙草を薦めていた」(「22 行人」)

(33)「それから雨になった。生物の体温を持った、厚ぼったい風が一日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちて来た。レイテ島は雨季に入ったのである」(「23 雨」)
 【補注】『俘虜記』に、レイテ島の雨季は10月から、とある。
 「フィリピンワークキャンプ2002」によれば、レイテ島のアルブエラはカリガタナン村の気候は、熱帯モンスーン気候に属し、気温は年間を通じてほぼ26~27度で、乾季の12~5月と雨季の6~11月に分けられ、最も涼しいのは11~2月であるよし。

(34)「雨のため頭上に飛ぶ米機が減ったかわりに、敗兵の列は自働小銃を持つゲリラによって、側面から脅かされた。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、そういうゲリラの攻撃によって、我々はさらに山奥の杣道へ追い込まれた。/川もいくつか越えねばならなかった。水嵩を増した濁った流れが、飢え疲れた兵士の足をさらって、呆気なく川下に運んで行った」(「23 雨」)

(35)「オルモックの町の灯を左後にした頃から、山脈は低くなり丘と谷が錯綜して来た。磯波のようにまくれ返った頂上を並べた低い丘が、海岸方面に連り、道はその裏側を廻った。丘と脊梁山脈の前山との間は、出水の後の泥のような、平らな原が埋めていた。/丘と原は雨に煙っていた。雲がさがって、丘の頂の木を包み、突然吹く風に、低く遠く吹き散らかされた。その度に野を蔽う雨の条に、縞が移動した」(「23 雨」)

(36)「濡れた兵士の歩みは遅く、間隔は長くなった。濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道端に脱ぎ棄てられた。しかし「履けない」という判断は人によって異るとみえ、それ等脱ぎ棄てた靴を拾って穿き、次に棄てられた靴を見出すと穿き替え、そうして穿き継いで行く者もあった。/私が原駐地以来穿いていた靴は、山中の畠を出た時既に、底に割れ目が入っていたが、或る日完全に前後が分離した。私は裸足になった」

(37)「地勢は、脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到る平地になって尽きるところ、西へ耳のように張り出した半島から成立っている。脊梁山脈とは別の山系に属するらしい低い山脈が半島を南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱き、湾の底部の、いわば耳朶の附根に、オルモックの町を位置させている。/平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、所謂オルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。/米軍の東西の連絡は成り、リモン、バレンシヤ等、沿道の要地は尽くその手に落ちていた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があって、この国道を突破するのが、半島の西南端パロンポン集結の軍命令を受けた、レイテ島の全将兵の重大問題であった。リモン北方でパロンポンへ向う一道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達によって窺われた地点であった。/戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた」(「24 三叉路」)

(37)「地勢は、脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到る平地になって尽きるところ、西へ耳のように張り出した半島から成立っている。脊梁山脈とは別の山系に属するらしい低い山脈が半島を南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱き、湾の底部の、いわば耳朶の附根に、オルモックの町を位置させている。/平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、所謂オルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。/米軍の東西の連絡は成り、リモン、バレンシヤ等、沿道の要地は尽くその手に落ちていた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があって、この国道を突破するのが、半島の西南端パロンポン集結の軍命令を受けた、レイテ島の全将兵の重大問題であった。リモン北方でパロンポンへ向う一道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達によって窺われた地点であった。/戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた」(「24 三叉路」)

(38)「草原が巾着の底のように、丘に囲まれて行き止ったところから、一方の丘に上ると、頂上に兵達が群れていた。繁みに身を潜め、稜線の彼方を窺っていた。/前は湿原が拡がり、土手で高められた一条の広い道が、横に貫いていた、これが国道であった。/湿原は左側に開け、孤立したアカシヤの大木を、島のように霞ませつつ、遠い林まで到っているが、右側は道の向うに木のよく繁った丘が岬のように出張り、さらに裾から低い林を、磯のように、湿原の上に延ばしていた。/林の上に遠く、一つの岩山が雲をかぶっていた。半島山脈の主峰カンギポット山は、敗軍の首脳部によって「歓喜峰」と呼ばれていたが、その年老いた鐘状火山の山容は、レイテの敗兵にとって、「歓喜」よりは「恐怖」をもって形容されるに、ふさわしかった。/右手、視野のはずれの国道上に、少しばかり人家のかたまったところが、「三叉路」だということである。パロンポンへ行く道は、そこから分れ、ほぼ「歓喜峰」に向って、前方の丘裾の、林の中を廻って行く」(「24 三叉路」)

(39)「雨は依然として湿原を曇らせつつ、次第に暗くなって行った。まず遠い「喜峰」が消え、アカシヤの木が消え、次いで前面の林が消えて、やがて何も見るもののない闇となった。米軍の車輛の往来もとまった」(「25 光」)

(40)「頭を下げると、国道の土手の線が前方の闇を横に長く切って、ほのかに空と境しているのが見えた。それが目標であった。しかしなかなか近くならない。/泥はますます深く、膝を越した。片足を高く抜き、重心のかかった他方の足が、もぐりそうになるのをこらえ、抜いた足で、泥の上面を掃くように、大きく外に弧を描いて前へ出す。その足がずぶずぶと入る勢に乗って、後に残した足を抜き、同じように前へ出す。/私は疲れて来た。もし前方の泥がこれ以上深ければ、完全に動けなくなる。そしてそのまま夜が明けてしまえば、私は泥から上半身を出した姿で、道を通る米兵に射たれねばならぬ」(「25 光」)
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【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(5) ~注(3)~

2010年07月17日 | ●大岡昇平
【注】
(41)「国道は闇の中に、白く左右に延びていた。固い砂利に肱をつき、銃を曳きずって横切る時、私はその道の白さが、蟻のように匍う黒いもので埋められているのを認めた。犬の声がまた耳について来た。/対面の草の斜面を素速く滑り降りた。水がそこに音を立てて流れていた。音を聞きながら跨いで越した先の泥は、昼間見知らぬ兵士が予言したように、踝までしか入らなかった。何気なく立ち上って歩こうとすると、/「馬鹿、匍え」と声がかかった。/我々は匍って行った。前方には黒々と林の輪郭が見えた。あそこまで行けばよい。肱と膝を用いる中腰の匍匐の姿勢で、早く進んだ。/周囲の闇が私と同じ方向に進む、兵士の群で満ちているのを私は感じた。私は再び私ではなく我々になった。/チッとその群の中で、金属が金属に当る音がした。途端に前から光が来た。同時に弾が来た。「戦車」と二、三の声が叫んだ」(「25 光」)

(42)「そこで暫く休んだ後、私は再び泥を渡り出した。銃はいつか手になかった。そのためか、帰路は往路より、よほど楽なような気がした」(「25 光」)

(43)「ここに私の最も思い出し難い時期が始まる。それからなお幾日か、私が独りで歩いた時間は、暦によって確認されるが、その間私が何をし、何を考えたかを思い出すのに、著しい困難を感じる」(「27 火」)

(44)「「パロンポンはこっちですか」と彼は喘ぎながらいった。/「こっちには違いないが、米軍がいて通れやしねえぜ」」(「27 火」)

(45)「少し前から、私は道傍に見出す屍体の一つの特徴に注意していた。海岸の村で見た屍体のように、臀肉を失っていることである。/最初私は、類推によって、犬か烏が食ったのだろうと思っていた。しかし或る日、この雨季の山中に蛍がいないように、それらの動物がいないのに気がついた。雨の霽れ間に、相変らずの山鳩が、力無く啼き交すだけであった。蛇も蛙もいなかった。/誰が屍体の肉を取ったのであろう――私の頭は推理する習慣を失っていた。私がその誰であるかを見抜いたのは、或る日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を食べたいと思ったからである」(「28 飢者と狂者」)

(46)「生きた人間に会った。彼の肉体がなお力を残していることは、その動作で知られた。立ち止り、調べるように私の体を見廻す彼の眼付を、私は理解した。彼も私を理解したらしい。/「おう」/と気合に似た叫びが、その口から洩れた。そして摺れ違って行った。/林の中に天幕を張り、眼を光らして坐っている、四、五人の集団を見た。/「おう」/と、今度は私の方から、声をかけて通過した」(「28 飢者と狂者」)

(47)「雨が来ると、山蛭が水に乗って来て、蠅と場所を争った。虫はみるみる肥って、屍体の閉じた眼の上辺から、睫毛のように、垂れ下った。/私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽すのを、無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。/この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、血をすするのと、原則として何の区別もないわけである」(「29 手」)

(48)「私は誰も見てはいないことを、もう一度確めた。/その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、私の左手は自然に動いて、私の匙を持つ方の手、つまり右手の手首を、上から握るのである。/私が行ってはならないところへ行こうと思う。私の左手は、幼時から第一歩を踏み出す習慣になっている足、つまり右足の足首を握る。/そしてその不安定な姿勢は、私がその間違った意志を持つのを止めたと、納得するまで続くのである」

(49)「そして遂に彼が現われた。萱を押し開いて、そこに立ち、私を見下した。/蓬々と延びた髪、黄色い頬、その下に勝手な方向に垂れた髯、眠たげに眼球を蔽った瞼は、私がこれまでに見た、どんな人間にも似ていなかった。/その人間が口を利いた。しかも私の名を呼んだ。/「田村じゃないか」/声は遠く、壁の向うの声のように耳に届いた。届くより先、私は彼の口が動き、汚れた乱杭歯を現わすのを、見知らぬ動物の動作でも見るような無関心で、見ていた。/「田村じゃないのか」とその口は重ねていった。/私は見凝めた。見凝めると、却って霞んで行くその顔貌を、私は記憶を素速く辿った。いや、私はこの老人を知らなかった。彼は「神」だろうか。いや、神はもっと大きいはずであった。/ぼろぼろに破れた衣服が、日本兵の軍服の色と形を残していた。/「永松」/と、遂に病院の前で知った、若い兵隊の名を呼ぶと、目先が昏くなった。(「32 眼」)

(50)「足の先まで冷さが走るのを感じ、私は我に返った。傍に永松の顔があった。彼の手は私の首の下にあり、水が私の顔を濡らしていた。彼は笑っていた。/「しっかりしろ。水だ」/私はその水筒を引ったくり、一気に飲み干した。まだ足りなかった。永松はじっと私を見ていたが、雑嚢から黒い煎餅のようなものを出し、黙って私の口に押し込んだ。/その時の記憶は、干いたボール紙の味しか、残していない。しかしそれから幾度も同じものを食べて、私はそれが肉であったのを知っている。干いて固かったが、部隊を出て以来何カ月も口にしたことのない、あの口腔に染みる脂肪の味であった」(「33 肉」)

(51)「肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。私の左右の半身は、飽満して合わさった。/私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。/「猿の肉さ」」(「33 肉」)

(52)「明方から雨になった。永松の造った萱の屋根は、巧みな勾配を持ち、周囲に雨溝も掘ってあったので、雨は中に入っては来なかった。/「雨か」と舌打ちして、永松は起き上った。「さあ、行こう」/「火は大丈夫だろうか」/「心配するな。火の番は安田の商売だ」/いかにも、安田は工夫していた。燠を飯盒に入れ、火が消えない程度に隙間をあけて、蓋をしていた。ただ炉は使えなかったので、朝食は干肉のままかじった。/「雨が降ったじゃないか」/と安田は、永松を睨んだ。/「それが、俺のせいかね」/「猿が獲れねえじゃねえか」」(「35 猿」)

(53)「「今日、幾日だろう」/「そいつは俺がちゃんとつけてる」と安田が答えた。「二月の十日だ。月末にゃ、レイテの雨季は明けるはずだ」/私は驚いた。私が三叉路を越せなかったのは、たしか一月の初めであったから、あれから私はひと月、一人でさまよっていたのである。/しかし雨はなかなか止まなかった。永松は猟に出ず、肉の割当も一日一片に減った。我々はもう安田のテントへ行かず、火種を持って来て別に火を起し、永松と差向いで、一日膝を抱いて坐っていた。彼の私を見る眼は険しくなった。/「お前を仲間へ入れてやったのは、よっぽどのこったぞ。よく覚えとけ」と彼はいった。肉はもうなくなっていた」(「35 猿」)

(54)「その時遠く、パーンと音がした。/「やった」と安田が叫んだ。/私は銃声のした方へ駈けて行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駈けていた。髪を乱した、裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは永松ではなかった。/銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駈け続けた。/振返りながらどんどん駈けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。/これが「猿」であった。私はそれを予期していた。/かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。そして私は一つの場所に多くの足首を見た。/足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した、それら物体の累積を、叙述する筆を私は持たない。/しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたと書けば、誇張になる。人間はどんな異常の状況でも、受け容れることが出来るものである。この際彼とその状況の間には、一種のよそよそしさが挿まって、情念が無益に掻き立てられるのを防ぐ。/私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。/ただ私の体が変らなければならなかった」(「35 猿」)

(55)「永松の銃は土にもたせて、そこへ照準をつけてあった。銃声と共に、安田の体はひくっと動いて、そのままになった。/永松が飛び出した。素速く蛮刀で、手首と足首を打ち落した」(「36 転身の頌」)

(56)「私は立ち上り、自然を超えた力に導かれて、林の中を駈けて行った。泉を見下す高みまで、永松が安田を撃った銃を、取りに行った。/永松の声が迫って来た。/「待て、田村。よせ、わかった、わかった」/新しい自然の活力を得た彼の足は、私の足より早いようであった。私は辛うじて、一歩の差で、彼が不注意にそこへおき忘れた銃へ行き着いた。/永松は赤い口を開けて笑いながら、私の差し向けた銃口を握った。しかし遅かった。/この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに食べなかった。食べたなら、憶えているはずである」(「36 転身の頌」)

(57)「次の私の記憶はその林の遠見の映像である。日本の杉林のように黒く、非情な自然であった。私はその自然を憎んだ。/その林を閉ざして、硝子絵に水が伝うように、静かに雨が降り出した。/私は私の手にある銃を眺めた。やはり学校から引き上げた三八銃で、菊花の紋がばってんで刻んで、消してあった。私は手拭を出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭った。/ここで私の記憶は途切れる……」(「36 転身の頌」)

(58)「「私が比島人に捕えられた地点は、俘虜票にオルモック附近とあるのみで、正確な証言を欠いているが、私の記憶に残る最後の地点は、たしか海岸からはかなり隔った山中で、ゲリラの来そうなところではなかった。してみれば、私が行ったのでなければならぬ」」(「39 再び野火に」)

(59)「あれから六年経った。銃の遊底蓋を拭ったままで、私の記憶は切れ、次はオルモックの米軍の野戦病院から始まっている。私は後頭部に打撲傷を持っていた。頭蓋骨折の整復手術の痛さから、私は我に返り、次第に識別と記憶を取り戻して行ったのである」(「37 狂人日記」)
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書評:『碁打秀行』

2010年07月16日 | ノンフィクション
 2010年4月1日付けで11歳6か月のプロ棋士が誕生。超治勲25世本因坊の11歳9か月を抜き、日本囲碁界では史上最年少記録だ。
 この少女、藤沢里菜の父は、おなじく棋士の藤沢一就八段、祖父は藤沢秀行名誉棋聖である。2009年5月に亡くなった祖父から直接指導を受けたことはほとんどなかったが、その鬼才と逸話は耳に入っていただろう。

 『碁打秀行』は、藤沢秀行名誉棋聖の奔放不羈な自伝である。
 希代の借金王であった。その額は、一個人としては天文学的な数字だったらしい。昭和50年代、1億5千万円の収入があっても大半は返済に消えた。喜劇役者藤山寛美の、当時マスコミにとり沙汰された借金額より自分のそれのほうが多かった、と述懐している。競輪に憑かれて利子1日1割の借金を重ね、副業の不動産業がらみで後先の考えもなく小切手をきりまくる。小切手が期限がくれば、高利貸から借りて充てるというありさまであった。博才はあっても、商才はなかったのである。債鬼に追われる苦しさから浴びるように酒を呑み、呑めば前後を忘れて、留置場で朝を迎えたこともあった。
 だが、碁にかける情熱は衰えなかった。生活が破綻した時に棋聖戦6連覇の偉業を達成、66歳になってもタイトル(王座)を獲得した(史上最高齢)。

 碁は芸である、と秀行はいう。「芸を磨くことがプロのつとめである、と思っている。勝ち負けは結果にしかすぎない。芸が未熟なら負ける。相手より芸がまさっていれば勝つ。ただ、それだけの話である」
 指導碁、置碁にも学ぶものを見いだす。どんな下手を相手にしても、局面の最善手を考えて真剣に打った。
 芸を磨くこの姿勢は、プロに勝っていい気分になりたいアマには都合がわるい。つまり、「あやす」のが下手ということになる。腕をあげた、と自信満々の社長に「三子置きなさい」とずけずけ言って、二度と声がかからなくなったこともある。社会的地位相応の甘言を受けないと満足しないトップは多い。

 捨てる神あれば拾う神あり。彼の芸道を愛した人もいた。右翼の黒幕、頭山満(中江兆民『一年有半』にその名が見える)は、秀行が初段の時代から目をかけた。後援会を組織した河野一郎、大野伴睦ほか、政財界の錚々たる人物が秀行と厚誼をむすんだ。

 細君も理解した。一度競輪に同行した。すって残り2千円となり、さすがに気がとがめて「飯を食って帰ろうか」と誘うが、即座に「せっかくそのつもりでもってきたお金なんですから、全部、つかってしまいましょうよ」
 行き着くところまで行くしかない人だ、と腹をくくっていたのである。

 秀行が囲碁の普及と振興にはたした役割は大きい。販売術に無知なために2号でつぶれたが、「囲碁之研究」という月刊紙をだしたことがある。また、日本棋院渉外担当理事としては、名人戦創設(第一期名人戦は1961年)に奔走した。船を借りてプロとアマの船旅を企画し、囲碁ツアーの草分けとなった。あるいは、四次にわたる秀行塾で多数の若手を育てあげた。古くは、のちに韓国棋界の重鎮となった曹薫鉉がいる。依田紀基、小松英樹、高尾紳路、 森田道博、 三村智保・・・・これら囲碁界をひっぱる実力者たちがいずれも門下だ。

 囲碁の国際的な普及にも尽力した。ふと思いたって韓国へ出かけ、3日間ホテルを一歩も出ないまま曹薫鉉と碁について語りつづけたり、いくたびも「秀行軍団」をひきいて中国へ出かけては日中の囲碁外交につとめた。

 1998年に引退。二度ガンに罹患し、体力が落ちたためである。一度の対局で2-3キロ体重が減るのだが、回復が容易ではなくなったのだ。公式戦には出なくなったが、勉強はやまない。「ヘボが精進を続けているかぎり、老け込むことはないだろう」

 本書は、当初日経紙のコラム「私の履歴書」に連載され、1993年に日本経済新聞社から単行本として刊行された。文庫化にあたって、単行本刊行後の動向が加筆されている。破天荒な行跡がおもしろいだけではない。芸に徹するプロ意識が読者に感銘を与える。囲碁ファンだけに独占させるにはもったいない自伝である。

□藤沢秀行『碁打秀行』(角川文庫、1999)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、日本経済回復の方向づけ

2010年07月15日 | ●野口悠紀雄
 野口悠紀雄は、第8章「日本の進むべき道は何か」で提言する。以下、要旨。

1 新興国シフトは日本の自殺行為
 外需を新興国にもとめても、日本の製造業は復活しない。なぜなら、(1)GDPが増えたといっても、米国にくらべるとまだ小さい。成長率が高くても、需要総額はさほど大きくなく、(2)新興国の一人当たりの所得水準がきわめて低いからだ。
 新興国むけの低価格最終需要消費財は「コモディティ」である。コモディティ生産では、価格競争によって利益と賃金が低下する。日本の賃金は中国なみの水準に低下する。この方向を志向すれば、日本は貧しくなる。「デフレ脱却」とは正反対の方向にいく。
 新興国むけ最終消費財の生産は、拠点を海外に展開せざるをえない。企業の存続には役立つかもしれないが、国内の過剰な生産能力に対する解決にはならない。
 需要を拡大することで過剰生産能力を覆い隠そうとする政策は、15年間続けられて失敗した。これ以上継続することはできないのだが、いま日本は同じ過ちを拡大したかたちで繰り返そうとしている。日本は「再び失われる15年」の入り口に立っている。
 基本的な方向は、新興国の需要を追求することではなく、新興国の安価な労働力を利用することである。適切な国際分業、水平分業を実現することだ。

2 内需主導型の経済へ
 冷戦終結後、旧社会主義圏に閉じこめられていた大量の労働力が市場経済にはいり、製造業のコストを引き下げた。これが国際分業の条件を基本的に変化させた。
 1980年代以降、中国の工業化により、国際分業の条件は大きくかわった。中国工業化の影響が顕在化した1990年代から、産業構造改革の必要性がますます重大になった。
 自民党政権は、輸出主導型製造業を基盤にしていた以上、外需主導型からの脱却は不可能だった。高度成長期に強かった分野(従来タイプの製造業)に固執した。その延命のため、円安、金融緩和政策に頼ってきた。
 延命措置は小泉純一郎内閣時代に顕著になり、財政引き締め・金融緩和が強化された。円安方向への政策が積極的に行なわれた。輸出が伸び、外需依存型の景気回復が実現したことで、問題は覆い隠されてしまった。小泉内閣は、構造改革を行ったどころか、まったく逆に、古い構造を温存したのだ。
 こうした経済成長は、2007年以降の世界経済危機のなかで破綻した。
 生産能力を所与として販売を拡大する、というビジネスモデルは、もう継続できない。現在存在する過剰施設を廃棄せず、それに見合う需要を探しだす、という考えに基づく「潜在成長力」の概念には問題がある。日本の産業構造を大転換させる必要がある。
 とりわけ、製造業で過剰になっている労働力を吸収できる産業をつくることだ。
 新しい需要は、現在の生産能力とは別のところに見出されなければならない。需要の、ことに個人消費支出の継続的拡大が重要である。
 財政支出拡大を日本の構造を改革する促進剤とし、これにより日本経済の大転換を図ることは可能だ。具体的には、(1)介護などの分野に資源と労働力を投入する。(2)都市基盤の整備を図る。(3)農業を改革して、未来の日本を支える産業に転化する。

3 介護における雇用創出プログラム
 雇用調整金やエコカーへの買い換え補助などの一時しのぎの緊急避難策から脱却し、強力な雇用創出プログラムを開始する必要がある。
 日本の完全失業者は324万人である(2010年2月現在)。また、雇用調整金の申請対象となっている労働力は172万人存在する(2010年1月現在)。さらに、企業内過剰労働力は、500~600万人規模で存在すると推定される。
 他方、介護分野は、現在でも労働力が不足しているし、2014年には140~160万人の介護労働者が必要になると試算されている。しかし、現状では、必要な労働力が確保できるか、定かではない。
 介護関係労働者を必要な数だけ確保できないのは、低賃金だからだ。2008年の平均年収をみると、全労働者452.8万円、訪問介護員263.2万円、介護支援専門員367.5万円。ちなみに、看護師は415.9万円である。他職種との格差が鮮明だ。
 2007年の訪問介護員・介護職員の離職率は21.6%(入職率は27.4%)で、全労働者ベースの15.4%と比較するとかなり高い数値だ。
 ふつうは、人手が足りなくなれば給与水準が上がり、それによって人手が集まる。しかし、現在の制度(介護保険)では、給与を高くすると保険料が高くなり、人々の負担が増える。ここに問題の深刻さがある。制度やしくみをを換える必要がある。
 介護費用は保険と公費でまなかっている。
 介護は医療に似ているが、医療とちがって、必ずしも専門的な知識が必要とされるわけではない部分は市場化することが可能であり、必要でもある。介護保険では最低限のサービスを確保することとし、市場でのサービス供給を拡大していくとよい。
 介護分野に異業種からの参入があって然るべきだ。製造業がその施設と人員を転用して介護分野に進出してもよい。転換で利潤が確保できるかどうかは、料金体系や公的補助などをどうするかにもよる。工場を福祉施設に転換する際に、補助があってもよい。

4 日本の最大の悲劇は政治の貧困
 内需主導型の経済とは、ある意味で花見酒経済だ。
 輸出産業が外貨を稼がないと、経済活動に必要な原材料を海外から買う資金がなくなる。介護産業と消費財生産活動だけが拡大すれば、日本は早晩行き詰まってしまう・・・・という心配は当たらない。
 現在の日本は225兆円という巨額の対外純資産を保有している(2008年末)。ここからの収入である所得収支が巨額で、1兆2,468億円の黒字がある(2009年7月)。海外から資源その他を購入するための資金は、これによって賄うことができる。
 内需中心の経済構造に移行すれば、貿易黒字は縮小し、あるいはマイナスが固定化する。しかし、所得収支の黒字がこれを補うので、国際収支上の問題が生じることはない。1980年代には外貨を稼ぐ必要性が高かったが、この点で日本は変わったのである。
 内需拡大策は、原理的には可能である。
 生活基盤施設整備や介護サービスの拡充などに関しては、公的主体の役割が大きく、財政が重要な役割をはたす。財源の確保もさりながら、都市の新しいビジョン、介護のシステムや制度の見直しが必要だ。
 ところが、都市基盤整備にしても介護や農業についても、現在日本の政治状況では実現できない。経済的・原理的には解決可能でありながら、現実の制度を変える政治的なリーダーシップがないために、どの分野でも立ち往生してしまう。
 問題は、経済面にはなく、政治面にあるのだ。この重大な時点において、政治がまったく機能していないのである。
 さらに問題なのは、日本の政策決定能力が低下していることだ。1980年代までの日本は、官僚機構が政策の立案をおこなってきた。しかし、1990年代以降、「官は悪」という考え方が強くなり、この部門が弱体化した。政治も劣化した。したがって、いまの日本には、まともな経済政策を立案する体制がほとんどない。ために、経済政策は従来型の産業の救済を目的としたものになってしまっている。

【参考】野口悠紀雄『世界経済が回復するなか、なぜ日本だけが取り残されるのか 』(ダイヤモンド社、2010.5)
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【読書余滴】俳句における日常と脱・日常 ~渡辺白泉と戦争~

2010年07月14日 | 詩歌
 大岡信『百人百句』は、20年以上にわたって朝日新聞に連載したコラム「折々のうた」で採りあげられた古今の句から百人の百句を抜粋する。
 解説は新たに書き下ろしているが、作品ないし俳人によって、解説に精粗がある。
 季別に分類されているが、無季の作品が7句も採録されている。7%という数値は、小さくない。推計学でいう危険率は1%、幅を広げても5%である。注目してよい数値だ。
 これは、大岡信が俳人ではなく、詩人、しかも前衛的な詩人であることと無関係ではあるまい。現代詩に占める季節感の役割は、きわめて小さい。
 無季に分類される俳人の一人が渡辺白泉で、採りあげられたのは昭和14年作の次の作品である。

   戦争が廊下の奥に立つてゐた

 「廊下の奥というささやかな日常生活に、戦争という巨大な現実は容赦なく進入してくる」というのが大岡信の見立てである。「この不安が一種のブラックユーモアとして言いとめられている」うんぬん。
 不安であって、恐怖ではない。この点は強調してよい。不安とは、対象が明かでない場合に発生する感情である。廊下の奥に立っているものが具体的に記されていないから、漠然たる不安が醸しだされる。それだけ作品の柄が大きくなる。
 この句が生まれる具体的なモチーフが何かあったはずだ。「廊下の奥に立つてゐた」のは赤紙を配達する郵便夫である、というのが一つの解である。ただし、そうだとしても、白泉に対する召集ではなかった。彼の応召は昭和19年である。配達された赤紙は、自分に対するものではないが、己が近く直面しなければならない近未来の応召を予感させるものであった。隣近所に配達された赤紙という具体的なものを「戦争」という抽象に転化させるだけの、若干の余裕と、残り時間が砂時計の砂のように確実に減っていくと感じさせる緊張感があった。

 大岡信はさらに「夏の海水兵ひとり紛失す」「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」「まんじゆしゃげ昔おいらん泣きました」の3句についても鑑賞し、作品成立前後の事情を解説する。
 大岡信は、「夏の海」の句の「紛失す」という措辞の分析から軍隊の非情さを剔抉している。
 ところで、「戦場へ」の句は、一個の人間が部分に分解されるところに非情さが生じるのだが、この非情さは、「馬場乾き少尉の首が跳ねまはる」で将校に適用されると、奇妙なことに諷刺が生まれる、と思う。
 なお、大岡信はとりあげていないが、

  銃後といふ不思議な町を丘で見た

という句は、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と対をなすと思う。こちらが日常生活に侵入する戦争であるならば、「銃後といふ不思議な町」は、戦争が日常になったころ、まさにその日常性の異様さを問うのだ。

 白泉には無季の句が多い。
 篠原鳳作を論じて大岡信は論評する。「無季俳句には結果として未来がな」い、と。無季俳句には、季語がない分、「別の意味でなるほどと思わせる勢いがないといけない」
 白泉の無季句には「勢い」があった。目の前に戦争という現実があり、その現実に批判的な強い情念があり、批判には弾圧が待ちかまえているという不安があり、これらの緊張関感が「勢い」をつくった、と思う。

【参考】大岡信『百人百句』(講談社、2001)
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【言葉】ルネ・マルグリットと複製芸術

2010年07月14日 | 批評・思想
 写真を含む複製システムについて、最後のコメントを述べよう。マルグリットは芸術作品を唯一無二の作品と考える立場とはまったく無縁であった。彼は注文に応じて自分の作品をコピーしさえした。もちろん必要な修正を施しはしたが。それゆえマルグリットは、写真技術が提供する可能性に強い関心を示した。彼が肖像画の制作に写真を利用したことは、すでに述べたとおりである。

 別の例を示そう。ブリュッセル、シャルルロワ、それにクノッケ・ヘイスト/ル・ズートの壁画の注文を受けたとき、マルグリットはためらうことなく自分の絵を撮影したカラースライドを使った。画家が選んだ絵を直接壁に投影し、最終的な構図が決まった後に、装飾画家が彩色したのである(p.162-163)。このような技術を応用したのは、おそらくマルグリット一人ではなかったであろう。ところで、絵画に対する一般の関心をどう思うかと質問されたとき、マルグリットはこう答えた。「絵画を見る必要はありません。私には複製で十分です」。
 この点において、マルグリットはヴァルター・ベンヤミンと一致していた。このドイツ人哲学者は、「芸術作品の技術的な複製の可能性が、芸術に対する大衆の態度を変える」(ベンヤミン、1955)と断言した。「大衆」に対する態度については、マルグリットが広告と密接な関係にあったことを忘れてはならない。マルグリットは生活のために広告を手掛けた。広告デザイナーはしばしばマルグリットをコピーした。それというのも、マルグリットの着想や画法は、新しい広告のデザインと非常によくマッチしたからである。だが、広告より機械的なもの、したがってまた複製的なものがほかにあるだろうか。

 最後に、マルグリットと写実主義の概念について、20世紀に初めて一人の画家が、現実的なものを回避せずに、現実的なものによって神秘を表現しようとした。それはマルグリットが最初で、そしておそらく最後であった。彼は絵に表せない漠然とした印象や感情に対し、自然をあたかも一つの対象として扱うという、まったく新しいアプローチをとった。マルグリットが常に教えているもの、そして何度繰り返してもけっして十分ではないもの、それは「人がある対象に見るものは、隠された別の対象なのだ」ということである。

【出典】ジャック・ムーリ(Kazuhiro Akase訳)『マグリット 1898-1967』(タッシェン・ジャパン、2009)pp.99-100
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書評:『「野村学校」の男たち』

2010年07月13日 | ノンフィクション
 本書は、「野村学校」ないし「野村再生工場」によって蘇った野球人37人の証言録である。

 「さりげないひと言」の効用がある。
 たとえば、楽天の選手、山崎武司の場合、「お前はオレによう似とるところがあって、勘違いされる性格やろ」のひと言に、野村監督は自分をよく見ていて、わかってくれているのだ、と悟り、以後素直になった、という。
 あるいは、伝説的な江夏豊の場合。阪神を追われた江夏豊を呼びだした野村監督(当時南海)は、殺し文句をささやいた。「ウチに来て、野球の革命を起こそうやないか」
 坂本龍馬のすきな江夏は、このひと言で気持ちは動いた。江夏はいまでも野村を「自分の野球観を変えてくれた恩人」と呼ぶ。
 そして、野村の情は、江夏という逸材をつうじて、プロ野球のシステムを変えた。先発、中継ぎ、抑えの専業化である。

 しかし、情で人を活かすのは、なにも野村克也監督の専売特許ではない(所属は2009年9月1日現在。以下、断りのないかぎり同じ)。
 「野村学校」の特徴は、綿密な観察、観察を蓄積した膨大なデータ、データに基づく理論、理論から導きだされる具体的技術的なj対策であり攻略法、である。

 たとえば、先にあげた山崎武司のケースの場合、第一に、ポリシーが明確に提示された。野村監督は「ミーティングで『状況におけるバッティング』の話をする。4番打者でも、イニングの最初は先頭打者の気持ちになれと説く。逆に一発狙いが許される場面もある」
 第二に、具体的なバッティング技術を教示された。野村監督は、常々、一発狙いが許される場面で、カウントが2-3の場合、「割り切れ」という。つまり、ヤマをはるのだ。状況を読んで、直球か変化球のいずれかを待つ。かくて、2009年の6試合目、山崎はストライクをとりやすい直球を待って、今季第1号のホームランを放った。

 こうした事例は、枚挙にいとまがない。
 たとえば、フォア・ザ・チームに徹し、脇役に徹した飯田哲也(ヤクルト守備走塁コーチ)は、「状況」を具体的に語る。ランナー1塁のとき、右打ちで走者を進めるのが常道と思いこんでいた飯田に対して、野村監督(当時ヤクルト)はいった。ショートはセカンドよりだ、それならば三遊間が開いているだろう、と。

 あるいは、1997年、カープからヤクルトに移籍した小早川毅彦(カープ打撃コーチ)は、前年ヤクルト選手が6敗した斎藤雅樹・巨人・投手(当時)についてミーティングで聞く。カウントが1-3のとき、次にカーブがきて、それを見のがして、結局打ちとられてしまっていた、誰か、そのカーブを打ってくれ・・・・。
 その年の開幕戦で、小早川は、斎藤から、3打席連続でホームランを放った。 

 本書は、17回にわたる 「週間アサヒ芸能」の連載をもとに加筆され、全部で22章仕立てになっている。
 話のタネにしたいだけの人には、1時間で読めるし、再読の必要性はあまりない。書店の店頭で、あるいは椅子のサービスがある書店ならば、買わずに一読することも可能である。となると、1,300円という価格は高い。
 ただし、蘇生、再生の必要を感じる人、人材を育成したい人ならば、永年にわたって座右においてもよい。その場合、1,300円という価格はちっとも高くない。
 徹頭徹尾、野球のことしか語られていないが、他のジャンルに応用できる人は応用するだろう。

□永谷脩『「野村学校」の男たち -復活・変身37選手が明かした「ノムラの教え」-』(徳間書店、2009)
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【読書余滴】佐藤優の、魂は一つではない

2010年07月13日 | ●佐藤優
 「沖縄には独特の生命観がある。一人の人間に魂が複数あるのだ。その一つひとつの魂が個性をもっており、それぞれの生命をもっている。従って、一人の人間は複数の魂に従って、いくつもの人生を送ることができる。複数の魂によって多元性が保証されている。魂の数だけ、真理もあるのだろう」

 こう書いて、佐藤優は、作家にして臨済宗福聚寺副住職の玄侑宗久の一文を引く。以下、要旨。

 魂が一つしかないということ自体、西洋的な見方にすぎない。ユングも、その見方は世界では少数だ、と書いている。沖縄では一人の人間に魂は六つ、ラオスでは32あるという。それほどあると、なんだか「ゆとり」を感じてしまう。
 土地ごとに魂のことを語るレトリックがあり、その土地ではその土地に根ざした真理があるのだろう。真理は一つではない、と思いたい。
 魂は6個かもしれないし、32個かもしれない。宗教者としては、その豊かさのほうを尊びたい。

【参考】佐藤優『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小学館、2009)
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書評:『荒れ野』 ~藤沢周平の見事な詐術~

2010年07月12日 | 小説・戯曲
 『闇の穴』は、武家を描いた2編、町民を描いた4編、僧侶を主人公とする1編、計7編の短編をおさめる。
 藤沢周平作品として一風かわっているのは『荒れ野』。小説のストーリーは、次のようなものだ。

   *

 山を越えれば陸奥というあたりで道に迷い、若い僧侶の明舜は野原に座りこんでしまった。日は暮れ、懐中に食物はない。
 そこに忽然とあらわれた女の澄んだ声に導かれ、村里を離れた一軒家に泊まった。粟飯に生き返る。
 女の懇切なもてなしに、あと一日の養生が、ずるずると伸び、たちまちひと月たってしまった。
 女は寡黙だが、夜は乱れた。
 食膳にのぼる干肉は美味であった。力が漲る思いがした。

 そろそろ出かけなくては、と思いつつ、女の住居をぶらりと離れること幾許か。10軒たらずのを見つけて近寄った。
 無人であった。
 人骨がひとまとめに積み重ねられていた。
 ちょうどそこを通りかかった武士が、ぽつりと言った。「あれはこのあたりに棲む鬼女の仕業じゃ」「ここは油断ならぬ土地じゃ。ご坊も喰われぬようにいたせ」

 翌朝、女が畑へ向かったのを見はからい、明舜は旅装束をつけ、忍びでた。下の別れ道までもうひと息。
 そこを女が追いかけてきた。
 白髪の老婆の形相であった。無惨にしゃがれた声、顔は痩せほそり、眼光は爛々と。口は耳元まで裂けている。空を蹴る脛(すね)は銅(あかがね)のように赤黒く痩せている。
 明舜は必死に駆けた。
 ようやく別れ道にたどり着き、ふりかえると、鬼女は台地に立ち止まっている。人影を認めて諦めたようだ。
 明舜は助けを求めて叫んだ。
 馬に乗った武士は従者に鋭い声で命じ、すばやく弓に矢をつがえた。しかし、武士はやがて不審そうな声で言った。
 「鬼とは思えぬがの。あれは百姓女ではないか」

 以下、原文をそのまま引用しよう。
 「明舜は眼をあげた。台地の上を、一人の女が背を見せ、うなだれてとぼとぼと立ち去るところだった。女の肩は丸く、髪は黒く、裾から出ている脛は日の光をはじくほど白かった。/背に悲しみを見せたその後姿が遠ざかるのを、明舜は従者に促されるまで、茫然と見送った」

   *

 見事な、賛嘆おくあたわざる結末である。
 福島県安達郡の安達太良山東麓の原野、安達ケ原の鬼女の伝説にのっかるがごとき進行なのだが、最後にうっちゃりをくわされる。
 ひとの言葉をうのみにすると、幻覚が生じ、恐怖が生まれる。恐怖にとらわれると「銅のように赤黒く痩せている」ように見えた脛は、矢をつがえた頼りがいのある武士とともに見直せば、「日の光をはじくほど白」いのである。
 かくて、明舜は安住の地を失い、ふたたび放浪の身に戻った。
 じつに寓意性に富む短編である。

□藤沢周平『荒れ野』(『闇の穴』、新潮文庫、1985、所収)
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