12月8~11日
<ダムラアンの戦い>
【US】米軍が達したのは、12月8日アルブエラ、9日グンガブ、10日タリヤサン川であった。(20) 10日にはしかし、すでに米軍はオルモックの町に入り、日本軍の西海岸防衛は崩壊していた。(20)
12月10日
<ダムラアンの戦い>
■大川大隊(Ⅱ/11is)残兵約100名はタリヤサン川南方高地に集中し、最後の決戦を試みた。同日夕方まで高地は米軍の手に落ち、大川大隊は全滅した。(20) しかし、26D兵器勤務隊は、タリサヤン川南岸高地の「死守」を命じられ、12月15日まで頑張った。(20)
12月10日
<オルモックの戦い>
【US】ダムラアンから北上中の米軍は、タリサヤン川左岸マリトボ(ブラウエンに向かう山道の分かれるところ、「和号作戦」の補給物質が蓄積されていた)の線に達した。(23) 1730、米軍はオルモックは完全に占拠した。(23)
■日本軍はレイテ島西海岸の2つの補給基地を同時に失ったことになる。(23)
12月12日
<オルモックの戦い>
■上陸に成功した陸戦隊約300名が今堀支隊の指揮下に入った。しかし、沼と米迂回部隊に妨げられて、結局オルモック防衛戦には参加せず、2月下旬、パロンポン東方に現れた。(23)
12月12~13日
<オルモックの戦い>
■砲撃で受けた日本軍の損害は大きかった。(23)
12月13日
<オルモックの戦い>
【今堀】夜、今堀大佐は35軍司令部に電話し、聯隊旗をあずかってほしい、と申し入れた。2日間の砲撃で、上条大隊はすでに全滅、6キロ先にフアトンの軍司令部が控えるブロックハウスを死守していた立石大隊とも連絡が途切れていた。斬り込む覚悟を察知した友近少将は、声を励まして「貴隊の任務は持久である」と諫めた。(23)
12月14日
■レイテ島決戦は事実上放棄された。(23)
12月15日
【US】米2個連隊がミンドロ島サンホセに上陸した。(23)
12月16日
■日本軍は翌日の攻撃を準備中であった。今堀支隊は、オルモック東北の山脚地帯を「赤屋根高地」に向かって移動、77聯隊はフアトン南方の本道両側に展開した。日米両軍は互いに敵の右翼を迂回し、すれ違いの形になった。「本来なら翌日の戦いは相打ちになるところだが、悲しいかな、兵力が懸絶しているので、日本軍の壊滅に終わるのである」(24)
■この頃、タリヤサン川上流、河原がやや広くなったところに、26D司令部ほか約600名が駐屯していた。(20)
12月17日
【US】0800、国道の西2キロのティピィクにあった米306連隊は攻撃発起し、日本兵は明らかに不意打ちされ、組織的抵抗を示さなかった。(24) 0830、本道両側にあった305連隊は攻撃を開始した。左翼第1大隊方面の抵抗は少なかったが、1145、東北ドロレスへ向かう道が分かれるタンブコに達した頃から日本軍の抵抗が強くなった。(24)
【今堀】今堀支隊の残兵は、夕刻「赤屋根高地」へ接近したが、強力な反撃にあって撃退された。(24) 12月17日のオルモック反撃失敗後、今堀支隊の残兵400はドロレス東北の山地にあった。
■77聯隊第2大隊は、前日立石大隊が突破されたのを知り、この方面に退いて防禦陣地を築いた。火砲はおそらく到着していなかった。(24)
■フアトンの35軍司令部の状況は極めて悪かった。(24)
■12月17日のオルモック奪回は成らず、却って軍司令部はリボンガオに後退を強いられた。フアトン南方に孤立した77聯隊は東方山中に入った。(24)
12月18日
■大本営、レイテ島決戦放棄。<年>
■「12月18日、マリトボ方面にあった斎藤支隊の沿岸高地固守部隊の残部が、山に入った。26師団主力はアルブエラ上陸の敵攻撃の命令を受けていたが、脊梁山脈中で、米511降下連隊と交戦しながらの退却は難渋を極め、戦力を消耗していた。師団司令部はタリサヤン上流の河谷中に露営して、逐次退却して来る兵を収容した。形ばかりの野戦病院も開設されていた」(25)
【重松】白井聯隊長の手記に「その後重松大隊と共に西進した。重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であった」とある。推定100名以下。「和号作戦」参戦の高千穂降下部隊、26D、16Dの生還者は皆無なので、詳細不明。<重>
12月18日頃
■「アルブエラ方面の26Dの残部は、まだこの頃は部隊の形を保っていた」(27)
■師団兵器勤務隊は、ダムラアン方面の斎藤支隊の補給を行い、カモテス海沿岸が退却戦になってからは、野砲隊の一部とともに、マリトボ東方の高地の死守を命ぜられていた。12月10日、米7D主力はここを通過してオルモックに向かったが、12月18日まで部隊はなお高地に残っていた。「山森曹長が功績簿を持って、タリサヤン川上流地帯に入った時、師団司令部ほか約600名の敗残兵が野営しているのを見た」(27)
■「26師団の退却も、16師団の退却も、往路で落伍した者の死体が白骨化している。それを道標にしたと伝えられる」(25)
■「オルモック平野の35軍司令部と隷下部隊もすでに壊滅状態にあった。12月18日の時点で、なお軍隊として規律と戦力を残していたのは、リモン峠の1D(玉)とピナ山方面の102師団(抜)だけだったといっても過言ではない」(25)
12月19日
■残存部隊、カンキボット山地に集結、持久戦体制へ移行。<年>
12月20日
【US】米7D32連隊は、タリヤサン川左岸の2つの稜線に拠る強力な日本軍(26D)に妨げられて進出を停止。2日間交戦し、東方にいた187グライダー連隊が山中に迷った511連隊と交替して攻撃し、やっと突破することができた。(27)
12月21日
■1D、リモン峠から転進開始。<年>
12月22日
【重松】18日以後も重松大隊と行動していた白井聯隊長、287高地で野中大隊と合致。<重>
■第14方面軍、第35軍に自戦自活命令。<年>
12月下旬
■26D主力は、山脚地帯を斜行してドロレスをめざしたが、1月下旬、軍司令部のパロンポン転進を知ってドロレスを諦め、ダナオ湖をめざした。急な稜線を上がったり降りたりする辛い行軍であった。(27)
■師団司令部と主力は、ドロレスからバレンシアでオルモック街道を越える近道を選んだ。(27)
12月25日
■総軍は、35Aに南部比島における永久抗戦を命じた。併せて、バコロド(ネグロス島)、カガヤン及びダバオ(ミンダナオ島)の各飛行基地群の確保を命じた。(27)
■大本営・南方軍、第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結。<年>
12月25日~20年3月
■総軍の命令(12/25)に基づき、35A司令部、1D、102Dの一部が西海岸からレイテ島を脱出した。鈴木35A司令官は、3月までレイテ島にとどまった。(27)
12月25日~
■「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。1D、第102師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起る。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っている暇はなかった。/ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第16師団、26Dの状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、これらの部隊は以来2カ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった」(27)
■諸隊の集合地はダナオ湖(オルモックの東北15キロ、ドロレスからハロへ越える山径に沿った火口湖))だったらしい。(27)
12月27日
■第35軍司令部、カンギポット着。<年>
12月28日
【重松】軍参謀高橋公平少佐によれば、重松大隊長、白井聯隊長は12月28日まで287高地で追撃の米軍と交戦している その後白井聯隊長出発後、重松大隊も転進を開始。米軍の迫撃と交戦しつつ後衛尖兵としての任務を果たした。転進は難渋を極めた。この頃、大隊の戦力は3分の1にすぎなかった。<重>
【重松】道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリア、栄養失調と戦いながら、多くの谷越え、岩攀りを強いられながら、オルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた。オルモックも既に日本軍は撤退しており、ダナオ湖経由で一路カンギポット目指し、苦難の転進は続いた。周辺は26D主力が転進して行った跡で、各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられた。後に、この転進街道は白骨街道といわれるようになった。<重>
【昭和20年】
1月2日
■26Dのタリヤサン上流の集結状況が軍司令部に伝わった。(28)
■1月2日現在、カンギポット周辺にあった日本兵だけで約1万名である(16師団、26D、今堀支隊は未掌握)。軍属、漂着船員を含めば、2万名近くであった。(28)
1月5日~9日
【今堀】今堀支隊の残兵400名は、12月17日オルモック反撃失敗後、ドロレス東北の山地にあった。(28) オルモック東方の山脚にあった今堀支隊の残兵500名は、マタコブ山地南方への転進命令を受けて、1月5日、米3日分と携帯口糧1日分を持ち、3個梯団に分かれて転進を開始した。夜暗に乗じて、タンブコの南で街道を越え、パグサンガハン下流の乱流湿地帯を渡った。1月9日、ナガング山の南に集結した。「この頃この方面は米軍の作戦区域外になっていたから、転進は支障なく行われた模様である」(27)(28) ナガング山は、バグサンガハン川西方、パロンポンの東10キロ、オルモック西方10キロ、マタコブの南同じく10キロである。支隊は付近に多くの16師団兵士がいるのを見出した。(27)(28)(29) 「住民は逃亡していたが、折柄収穫期なので民家には米、トウモロコシ、モンゴ(小豆)などの蓄積があり、芋、バナナの畑もあった」(28) 最初は食糧も豊富だったが、米軍に所在を知られ、サンホセの重砲の射撃を受けるようになった。(29)
1月上旬
■26D司令部は1月上旬までタリサヤン川方面にあったが、アルブエラ方面の敵攻撃の任務を持っていたからであった。26Dは後退中さらに兵力を消耗し、タリヤサン上流の河谷に集結しただけで、攻撃していない。攻撃を実施する戦力を持っていなかったのである。(23)
1月9日
○米第6軍、ルソン島上陸(空母12隻外、リンガエン湾)。<年>
1月10日付け
■アルブエラ方面にあった26Dにも、1月10日付けでナグアン山に集結を命じてあった。しかし、その後、師団長以下、師団主力は行方不明となった。(29)
1月12~20日
■1D主力、セブ島へ転進。<年>
1月中旬
■オルモック東方にあった今堀支隊からの連絡将校が、26D司令部に到着し、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令が伝えられた。(27)
1月下旬
■26D主力も、タリサヤン川上流の露営地を捨て、脊梁山脈の西側を移動していた。オルモックを起点とする米パトロール隊との接触を避けて山中の道をたどり、一部はダナオ湖で、16師団と合流した。しかし、日本兵の集合を知ったゲリラの目標となった。(29)
1月25日
【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29)
2月初旬
【重松】重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。推定数十名。<重>
2月3~23日
■<マニラ攻防戦><年>
2月5日
○米軍、フクの武装解除命令。<年>
【今堀】歩兵の包囲攻撃を受けて撤退。(29)
2月8日
【今堀】カンギポット山の軍司令部に到着した。(29)
2月
■「2月に入って、今堀支隊及び26D残部がカンギポットに到達してから以後は、北、中、南三つの自治区に分かち、諸隊が分散して一挙に殲滅されるのを避けたという」(29)
■南自活隊はアビハオ以南で、77聯隊、58B及び伊東陸戦隊。中自活隊はアビハオからシラドまでで、軍司令部、高階支隊(8D)、金田集成隊(102D)、1D、41聯隊(30D)、68B。「北自活隊はシラド以北で、最も遅く到着した26師団と今堀支隊を配置した」(29)
■「脊梁山脈北部に圧迫された16師団、26Dの敗兵が、飢えと疲れで斃死しつつあった間に、カンギポット山の軍司令部周平に集結した第1師団の残部、68旅団、102師団、今堀支隊は、米77師団の攻撃を受けていた」(29)
■「2月中旬には16師団、26師団の兵の大部分はダナオ湖=ドロレスを結ぶ山径を越えていたと思われる」(29)
2月11日
【今堀】西海岸のシラド付近の指定の位置に移って自活態勢に入った。その時の残存兵力は400。(29)
2月20日
【US】米軍500がシラド北方15キロのマルカンボに上陸した。(29)
2月20~25日
【今堀】今堀支隊は軽機2、3挺を持っていたらしいが、小銃は全部に行きわたらない欠損部隊である。米軍の迫撃砲にアウトレインジされて、次々と撃破されていく。(29)
2月23日以降
【US】米軍は新しい攻勢をとったが、主として北自活区に指向された。(29)
2月25日
【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29) 以上が第一次戦闘である。(29)
3月18~25日
■第二次戦闘は、ビリヤバを拠点にやや大規模に行われた。新しい攻勢は主として北自活区に指向され、中と南は比較的閑散だった。(29)
3月23日
■35軍司令部、レイテ島脱出(4/19、鈴木中将、ミンダナオ島渡航中戦死)。<年>
3月26日
○米軍、セブ島上陸。<年>
3月29日
○米軍、ネグロス島上陸。<年>
3月
【今堀】オチン北方510高地に圧迫された今堀支隊は、今堀部隊長自ら畑を探して芋を掘り、バナナを採った。(30)
【重松】重松大隊、泉師団自活自戦地域シラットに移転。<重>
4月10日
【重松】戦闘で山本第10中隊長戦死。<重>
4月18日
○米軍、ミンダナオ島上陸。<年>
4月
【重松】自活自戦。当初は転進途中で日本軍の遺棄食料を拾得し、かつ、師団より若干の分配を受けて凌いでいたが、次第に底を尽き、5月頃から毎日潮汲みと食料捜しの毎日であった模様。<重>
5月
【重松】 この頃、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。<重>
5月8日
○米軍、レイテ作戦終了(サン・イシドロ半島の掃討をゲリラ部隊に一任)。<年>
※ドイツ降服。
5月下旬~
【今堀】西北方カンポクポク方向からゲリラの攻撃を受け、再びカルブゴス山に圧し戻された。すでに兵器なく弾もない。負傷兵を治療する薬もなかった。この方面には26Dの主力がいたが、ブラウエン作戦当時から飢餓に陥っていて、今堀支隊よりひどい状態であった。(30)
5月末頃 26Dはカンギポット山の洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀支隊、工兵聯隊の一部、約200名にすぎなかった。<重>
5月28日
【今堀】カルブゴス山東南方からゲリラまたは自警団による新しい攻撃があり、部隊は再び北方へ移動した。(30) 今堀部隊長の周囲にいる将兵は20名足らずとなった。部隊は食糧を求めて再び進路を西方平地にとった。(30)
6月9日
○コモンウェルス議会招集さる。<年>
6月10日
【重松】重松大隊長、マラリヤと栄養失調のため、自決。<重>
【今堀】敵襲で5名、7月日の敵襲で4名が戦死、再び東方山中に入った。(30)
7月4日
【今堀】今堀部隊長は下痢と栄養失調のため行動不能に陥り、同日2100、軍旗焼却、同日2200拳銃で自決した。
7月5日
○マッカーサー、フィリピン諸島戦闘終了を宣言。<年>
9月3日
■山下大将、降服。<年>
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<ダムラアンの戦い>
【US】米軍が達したのは、12月8日アルブエラ、9日グンガブ、10日タリヤサン川であった。(20) 10日にはしかし、すでに米軍はオルモックの町に入り、日本軍の西海岸防衛は崩壊していた。(20)
12月10日
<ダムラアンの戦い>
■大川大隊(Ⅱ/11is)残兵約100名はタリヤサン川南方高地に集中し、最後の決戦を試みた。同日夕方まで高地は米軍の手に落ち、大川大隊は全滅した。(20) しかし、26D兵器勤務隊は、タリサヤン川南岸高地の「死守」を命じられ、12月15日まで頑張った。(20)
12月10日
<オルモックの戦い>
【US】ダムラアンから北上中の米軍は、タリサヤン川左岸マリトボ(ブラウエンに向かう山道の分かれるところ、「和号作戦」の補給物質が蓄積されていた)の線に達した。(23) 1730、米軍はオルモックは完全に占拠した。(23)
■日本軍はレイテ島西海岸の2つの補給基地を同時に失ったことになる。(23)
12月12日
<オルモックの戦い>
■上陸に成功した陸戦隊約300名が今堀支隊の指揮下に入った。しかし、沼と米迂回部隊に妨げられて、結局オルモック防衛戦には参加せず、2月下旬、パロンポン東方に現れた。(23)
12月12~13日
<オルモックの戦い>
■砲撃で受けた日本軍の損害は大きかった。(23)
12月13日
<オルモックの戦い>
【今堀】夜、今堀大佐は35軍司令部に電話し、聯隊旗をあずかってほしい、と申し入れた。2日間の砲撃で、上条大隊はすでに全滅、6キロ先にフアトンの軍司令部が控えるブロックハウスを死守していた立石大隊とも連絡が途切れていた。斬り込む覚悟を察知した友近少将は、声を励まして「貴隊の任務は持久である」と諫めた。(23)
12月14日
■レイテ島決戦は事実上放棄された。(23)
12月15日
【US】米2個連隊がミンドロ島サンホセに上陸した。(23)
12月16日
■日本軍は翌日の攻撃を準備中であった。今堀支隊は、オルモック東北の山脚地帯を「赤屋根高地」に向かって移動、77聯隊はフアトン南方の本道両側に展開した。日米両軍は互いに敵の右翼を迂回し、すれ違いの形になった。「本来なら翌日の戦いは相打ちになるところだが、悲しいかな、兵力が懸絶しているので、日本軍の壊滅に終わるのである」(24)
■この頃、タリヤサン川上流、河原がやや広くなったところに、26D司令部ほか約600名が駐屯していた。(20)
12月17日
【US】0800、国道の西2キロのティピィクにあった米306連隊は攻撃発起し、日本兵は明らかに不意打ちされ、組織的抵抗を示さなかった。(24) 0830、本道両側にあった305連隊は攻撃を開始した。左翼第1大隊方面の抵抗は少なかったが、1145、東北ドロレスへ向かう道が分かれるタンブコに達した頃から日本軍の抵抗が強くなった。(24)
【今堀】今堀支隊の残兵は、夕刻「赤屋根高地」へ接近したが、強力な反撃にあって撃退された。(24) 12月17日のオルモック反撃失敗後、今堀支隊の残兵400はドロレス東北の山地にあった。
■77聯隊第2大隊は、前日立石大隊が突破されたのを知り、この方面に退いて防禦陣地を築いた。火砲はおそらく到着していなかった。(24)
■フアトンの35軍司令部の状況は極めて悪かった。(24)
■12月17日のオルモック奪回は成らず、却って軍司令部はリボンガオに後退を強いられた。フアトン南方に孤立した77聯隊は東方山中に入った。(24)
12月18日
■大本営、レイテ島決戦放棄。<年>
■「12月18日、マリトボ方面にあった斎藤支隊の沿岸高地固守部隊の残部が、山に入った。26師団主力はアルブエラ上陸の敵攻撃の命令を受けていたが、脊梁山脈中で、米511降下連隊と交戦しながらの退却は難渋を極め、戦力を消耗していた。師団司令部はタリサヤン上流の河谷中に露営して、逐次退却して来る兵を収容した。形ばかりの野戦病院も開設されていた」(25)
【重松】白井聯隊長の手記に「その後重松大隊と共に西進した。重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であった」とある。推定100名以下。「和号作戦」参戦の高千穂降下部隊、26D、16Dの生還者は皆無なので、詳細不明。<重>
12月18日頃
■「アルブエラ方面の26Dの残部は、まだこの頃は部隊の形を保っていた」(27)
■師団兵器勤務隊は、ダムラアン方面の斎藤支隊の補給を行い、カモテス海沿岸が退却戦になってからは、野砲隊の一部とともに、マリトボ東方の高地の死守を命ぜられていた。12月10日、米7D主力はここを通過してオルモックに向かったが、12月18日まで部隊はなお高地に残っていた。「山森曹長が功績簿を持って、タリサヤン川上流地帯に入った時、師団司令部ほか約600名の敗残兵が野営しているのを見た」(27)
■「26師団の退却も、16師団の退却も、往路で落伍した者の死体が白骨化している。それを道標にしたと伝えられる」(25)
■「オルモック平野の35軍司令部と隷下部隊もすでに壊滅状態にあった。12月18日の時点で、なお軍隊として規律と戦力を残していたのは、リモン峠の1D(玉)とピナ山方面の102師団(抜)だけだったといっても過言ではない」(25)
12月19日
■残存部隊、カンキボット山地に集結、持久戦体制へ移行。<年>
12月20日
【US】米7D32連隊は、タリヤサン川左岸の2つの稜線に拠る強力な日本軍(26D)に妨げられて進出を停止。2日間交戦し、東方にいた187グライダー連隊が山中に迷った511連隊と交替して攻撃し、やっと突破することができた。(27)
12月21日
■1D、リモン峠から転進開始。<年>
12月22日
【重松】18日以後も重松大隊と行動していた白井聯隊長、287高地で野中大隊と合致。<重>
■第14方面軍、第35軍に自戦自活命令。<年>
12月下旬
■26D主力は、山脚地帯を斜行してドロレスをめざしたが、1月下旬、軍司令部のパロンポン転進を知ってドロレスを諦め、ダナオ湖をめざした。急な稜線を上がったり降りたりする辛い行軍であった。(27)
■師団司令部と主力は、ドロレスからバレンシアでオルモック街道を越える近道を選んだ。(27)
12月25日
■総軍は、35Aに南部比島における永久抗戦を命じた。併せて、バコロド(ネグロス島)、カガヤン及びダバオ(ミンダナオ島)の各飛行基地群の確保を命じた。(27)
■大本営・南方軍、第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結。<年>
12月25日~20年3月
■総軍の命令(12/25)に基づき、35A司令部、1D、102Dの一部が西海岸からレイテ島を脱出した。鈴木35A司令官は、3月までレイテ島にとどまった。(27)
12月25日~
■「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。1D、第102師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起る。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っている暇はなかった。/ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第16師団、26Dの状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、これらの部隊は以来2カ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった」(27)
■諸隊の集合地はダナオ湖(オルモックの東北15キロ、ドロレスからハロへ越える山径に沿った火口湖))だったらしい。(27)
12月27日
■第35軍司令部、カンギポット着。<年>
12月28日
【重松】軍参謀高橋公平少佐によれば、重松大隊長、白井聯隊長は12月28日まで287高地で追撃の米軍と交戦している その後白井聯隊長出発後、重松大隊も転進を開始。米軍の迫撃と交戦しつつ後衛尖兵としての任務を果たした。転進は難渋を極めた。この頃、大隊の戦力は3分の1にすぎなかった。<重>
【重松】道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリア、栄養失調と戦いながら、多くの谷越え、岩攀りを強いられながら、オルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた。オルモックも既に日本軍は撤退しており、ダナオ湖経由で一路カンギポット目指し、苦難の転進は続いた。周辺は26D主力が転進して行った跡で、各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられた。後に、この転進街道は白骨街道といわれるようになった。<重>
【昭和20年】
1月2日
■26Dのタリヤサン上流の集結状況が軍司令部に伝わった。(28)
■1月2日現在、カンギポット周辺にあった日本兵だけで約1万名である(16師団、26D、今堀支隊は未掌握)。軍属、漂着船員を含めば、2万名近くであった。(28)
1月5日~9日
【今堀】今堀支隊の残兵400名は、12月17日オルモック反撃失敗後、ドロレス東北の山地にあった。(28) オルモック東方の山脚にあった今堀支隊の残兵500名は、マタコブ山地南方への転進命令を受けて、1月5日、米3日分と携帯口糧1日分を持ち、3個梯団に分かれて転進を開始した。夜暗に乗じて、タンブコの南で街道を越え、パグサンガハン下流の乱流湿地帯を渡った。1月9日、ナガング山の南に集結した。「この頃この方面は米軍の作戦区域外になっていたから、転進は支障なく行われた模様である」(27)(28) ナガング山は、バグサンガハン川西方、パロンポンの東10キロ、オルモック西方10キロ、マタコブの南同じく10キロである。支隊は付近に多くの16師団兵士がいるのを見出した。(27)(28)(29) 「住民は逃亡していたが、折柄収穫期なので民家には米、トウモロコシ、モンゴ(小豆)などの蓄積があり、芋、バナナの畑もあった」(28) 最初は食糧も豊富だったが、米軍に所在を知られ、サンホセの重砲の射撃を受けるようになった。(29)
1月上旬
■26D司令部は1月上旬までタリサヤン川方面にあったが、アルブエラ方面の敵攻撃の任務を持っていたからであった。26Dは後退中さらに兵力を消耗し、タリヤサン上流の河谷に集結しただけで、攻撃していない。攻撃を実施する戦力を持っていなかったのである。(23)
1月9日
○米第6軍、ルソン島上陸(空母12隻外、リンガエン湾)。<年>
1月10日付け
■アルブエラ方面にあった26Dにも、1月10日付けでナグアン山に集結を命じてあった。しかし、その後、師団長以下、師団主力は行方不明となった。(29)
1月12~20日
■1D主力、セブ島へ転進。<年>
1月中旬
■オルモック東方にあった今堀支隊からの連絡将校が、26D司令部に到着し、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令が伝えられた。(27)
1月下旬
■26D主力も、タリサヤン川上流の露営地を捨て、脊梁山脈の西側を移動していた。オルモックを起点とする米パトロール隊との接触を避けて山中の道をたどり、一部はダナオ湖で、16師団と合流した。しかし、日本兵の集合を知ったゲリラの目標となった。(29)
1月25日
【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29)
2月初旬
【重松】重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。推定数十名。<重>
2月3~23日
■<マニラ攻防戦><年>
2月5日
○米軍、フクの武装解除命令。<年>
【今堀】歩兵の包囲攻撃を受けて撤退。(29)
2月8日
【今堀】カンギポット山の軍司令部に到着した。(29)
2月
■「2月に入って、今堀支隊及び26D残部がカンギポットに到達してから以後は、北、中、南三つの自治区に分かち、諸隊が分散して一挙に殲滅されるのを避けたという」(29)
■南自活隊はアビハオ以南で、77聯隊、58B及び伊東陸戦隊。中自活隊はアビハオからシラドまでで、軍司令部、高階支隊(8D)、金田集成隊(102D)、1D、41聯隊(30D)、68B。「北自活隊はシラド以北で、最も遅く到着した26師団と今堀支隊を配置した」(29)
■「脊梁山脈北部に圧迫された16師団、26Dの敗兵が、飢えと疲れで斃死しつつあった間に、カンギポット山の軍司令部周平に集結した第1師団の残部、68旅団、102師団、今堀支隊は、米77師団の攻撃を受けていた」(29)
■「2月中旬には16師団、26師団の兵の大部分はダナオ湖=ドロレスを結ぶ山径を越えていたと思われる」(29)
2月11日
【今堀】西海岸のシラド付近の指定の位置に移って自活態勢に入った。その時の残存兵力は400。(29)
2月20日
【US】米軍500がシラド北方15キロのマルカンボに上陸した。(29)
2月20~25日
【今堀】今堀支隊は軽機2、3挺を持っていたらしいが、小銃は全部に行きわたらない欠損部隊である。米軍の迫撃砲にアウトレインジされて、次々と撃破されていく。(29)
2月23日以降
【US】米軍は新しい攻勢をとったが、主として北自活区に指向された。(29)
2月25日
【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29) 以上が第一次戦闘である。(29)
3月18~25日
■第二次戦闘は、ビリヤバを拠点にやや大規模に行われた。新しい攻勢は主として北自活区に指向され、中と南は比較的閑散だった。(29)
3月23日
■35軍司令部、レイテ島脱出(4/19、鈴木中将、ミンダナオ島渡航中戦死)。<年>
3月26日
○米軍、セブ島上陸。<年>
3月29日
○米軍、ネグロス島上陸。<年>
3月
【今堀】オチン北方510高地に圧迫された今堀支隊は、今堀部隊長自ら畑を探して芋を掘り、バナナを採った。(30)
【重松】重松大隊、泉師団自活自戦地域シラットに移転。<重>
4月10日
【重松】戦闘で山本第10中隊長戦死。<重>
4月18日
○米軍、ミンダナオ島上陸。<年>
4月
【重松】自活自戦。当初は転進途中で日本軍の遺棄食料を拾得し、かつ、師団より若干の分配を受けて凌いでいたが、次第に底を尽き、5月頃から毎日潮汲みと食料捜しの毎日であった模様。<重>
5月
【重松】 この頃、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。<重>
5月8日
○米軍、レイテ作戦終了(サン・イシドロ半島の掃討をゲリラ部隊に一任)。<年>
※ドイツ降服。
5月下旬~
【今堀】西北方カンポクポク方向からゲリラの攻撃を受け、再びカルブゴス山に圧し戻された。すでに兵器なく弾もない。負傷兵を治療する薬もなかった。この方面には26Dの主力がいたが、ブラウエン作戦当時から飢餓に陥っていて、今堀支隊よりひどい状態であった。(30)
5月末頃 26Dはカンギポット山の洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀支隊、工兵聯隊の一部、約200名にすぎなかった。<重>
5月28日
【今堀】カルブゴス山東南方からゲリラまたは自警団による新しい攻撃があり、部隊は再び北方へ移動した。(30) 今堀部隊長の周囲にいる将兵は20名足らずとなった。部隊は食糧を求めて再び進路を西方平地にとった。(30)
6月9日
○コモンウェルス議会招集さる。<年>
6月10日
【重松】重松大隊長、マラリヤと栄養失調のため、自決。<重>
【今堀】敵襲で5名、7月日の敵襲で4名が戦死、再び東方山中に入った。(30)
7月4日
【今堀】今堀部隊長は下痢と栄養失調のため行動不能に陥り、同日2100、軍旗焼却、同日2200拳銃で自決した。
7月5日
○マッカーサー、フィリピン諸島戦闘終了を宣言。<年>
9月3日
■山下大将、降服。<年>
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