語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『生殖医療と家族のかたち -先進国スウェーデンの実践-』

2010年07月11日 | □スウェーデン
 著者は、埼玉医科大学婦人科の医師である。
 よって、本書の眼目の第一は、生殖医療の医学的解説である。
 いわく、体外受精や顕微受精と呼ばれる生殖補助医療(ART)は1990年代に治療成績が急速に向上し、治療を受ける者も急増した。2004年には、ARTにより生まれた子どもは全世界で20万人に達っした。ARTには多胎妊娠の危険があったのだが、従前の二胚移植を単胚移植に切り替えることで多胎妊娠を予防できることになった(日本では2008年4月から単胚移植を原則とする)。
 科学はどこまでも進歩する。本書は教える。・・・・男性または女性の一方に精子または卵子を得られない場合、第三者配偶子(精子または卵子)を用いた治療が可能になった。ただし、第三者の精子を用いた体外受精は比較的早くから実施されたが、第三者の卵子のそれは遅く、成功したのはようやく1984年のことである。

 生殖医療は、子どもの人権、家族のあり方、国・地域社会の宗教や文化に関わる。ことに第三者配偶子を用いた生殖医療を可とするか否か、可とする場合には生まれた子どもに出自を知らせるか否かは、国や地域によって考え方が異なる。この違いを本書は整理している。眼目の第二である。
 ちなみに、本書によれば、イタリアやトルコは第三者配偶子を用いた生殖医療を認めていない。日本では明確に禁止されていないが、第三者配偶子によるARTを行っていない。法的な整備が進んでいないからである。

 眼目の第三は、生殖医療が普及するための制度的要件である。本書が必要とみる制度的要件は、大きく二つに分かたれる。
 その一、医療費の公的負担。
 スウェーデンの場合、医療費は基本的には医療保険が負担する。ARTもしかり。ただし、年齢制限がある。女性は38歳未満、男性は55歳未満でなくてはならない。この年齢を超えると、原則すべて私費となる。これは、37歳くらいから治療成績が著しく低下し、42歳以上ではきわめて不良になるという医学的知見にもとづく。
 日本では、「特定不妊治療助成事業」がある。国の補助事業で、実施主体は、都道府県・指定都市・中核市。単年度あたり1回15万円、2回まで。通算5年支給される。ただし、所得制限がある。
 その二、(片)親の遺伝子を引き継がない子どもに係る法的権利の確保。
 スウェーデンでは、第三者に由来する卵子から生まれた子と母の関係を規定した親子法とともに、体外受精法が改正され(2003年1月施行)、第三者に由来する配偶子(卵子および精子)を体外受精に提供することが可能になった。
 日本では未整備のままだが、2010年7月10日付け新聞各紙によれば、非嫡子相続格差に係る審査が最高裁の大法廷でおこわれることになった。最高裁の審理結果しだいでは、難航している民法改正が促進され、スウェーデンの制度に一歩近づくかもしれない。

 (片)親の遺伝子を引き継がない子どもの存在は、家族のあり方について問いなおしを迫る。
 これが眼目の第四であり、本書は一章を割いて、スウェーデンにおける家族のかたちを紹介している。

 ところで、戦前の1920年ころから1970年代まで、日本のもっとも多い家族形態は「核家族」だった。ところが、一方では1980年代に入ってから離婚率が上昇した。他方では、1980年代後半から1990年代にかけて、第二次ベビーブームの女性世代(1970年前後生まれ)の未婚率が急上昇し、平均出産年齢も上昇した(都市部では、いまや30歳を超える)。要するに、(1)世代人口の減少、(2)出生率の低下、という2要因が相乗的にはたらいて、最近のいちじるしい出生数の減少をもたらしている。
 この結果、いまや「サザエさん一家」のごとき大家族は、ほとんど存在しなくなった。しかも、両親と子どものそろった世帯さえ、4分の1にすぎない。他方、片親と子どもから成る「単親家庭」が増加している。あまり知られていない事実なのだが、21世紀の日本でもっとも標準的な家庭は「単身家庭」なのだ。
  ・・・・以上のような実態をふまえ、本書は今後どんどん減っていく日本の人口において高齢者や子どもが占める割合を数値で示す。すなわち、2050年には65歳以上の人が4割、15歳未満の子どもは8.6%(実数でいまの半分以下)になるのだ。
 では、日本よりいち早く、出生率の低下という事態に直面したスウェーデンの場合はどうなのか。2008年に発表された将来人口予測統計によれば、2050年までに総人口は120万人増加し、1,050万人になるそうだ。どのような出産・子育ての支援策を推進し、どのような社会的枠組みを築いたおかげで、人口増加を予測できるようになったのだろうか。
 これが眼目の第五である。

※詳しくは、
 スウェーデンの生殖医療
 「標準家庭」の幻想
 スウェーデンの家族 ~子育て支援、家族の新しいかたち
 スウェーデンのID番号、個人情報、移民

□石原理『生殖医療と家族のかたち -先進国スウェーデンの実践-』(平凡社新書、2010)
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【読書余滴】スウェーデンのID番号、個人情報、移民

2010年07月10日 | □スウェーデン
 移民をふくめて、すべてのスウェーデン国民は個人ID番号をもつ。
 番号は、生年月日+ランダムな4桁の数字、計12桁の数字で設定される。この番号は、生涯変わることはない。すべての手続き、登録にこの番号が使われる。

   *

 スウェーデンでは、保険医療部門は地方政府が基本的な運営責任をもつ。他方、外交や年金は中央政府が運営責任をもつ。
 保健医療部門の運営には、全国の詳細なデータを収集する必要がある。責任をもつ機関として、疫学センターEpCがある。EpCは、関連するデータを収集するのみならず、統計を作り、分析して報告し、併せて疫学登録データの研究のための利用を援助し、奨励する。なお、データは、人口動態などの一般的な統計、犯罪統計、教育統計など多数の統計もデータベースとして登録されている。
 すべての統計は、個人IDにより連結することができる。 

 保健医療分野の登録統計には、癌・処方薬・妊娠分娩・病院入退院・死亡などがあり、すべてが国全体の登録である。
 いずれの登録もIDをもつ全国民を対象とし、その情報収集や登録にあたっては、本人の同意は不要である。各個人には、これらの統計から除外を求める権利はなく、逆に正確な情報を提供する義務を負う。
 そして、収集されたデータにより完成された統計は、患者および国民にすべて公開される。

 個人が特定できるデータが公開されることはない。登録された個人データは、文書による要求をおこなえば、本人はその内容を知ることができる。内容に誤りがあれば、訂正を求めることができる。
 収集されたデータは、厳重に秘密が守られる。ただし、三つの例外がある。(1)研究目的にデータを開示すること。(2)統計作成目的にデータを開示すること。(3)個人特定ができないデータを公開すること。
 こうしたしくみが作られたきっかけは、サリドマイド薬害である。この反省から、きわめて厳重な薬剤監視システムが作りあげられた。薬に限らず、すべての保健医療統計を常時モニタリングすることで、なにか不審な変動があれば、ほぼリアルタイムで問題点が把握される。

 こうした正確な統計をふまえて、政策が決定される。
 統計は、公開される。主要な統計は英語版が作成され、インターネット経由で入手できる。

 ウプサラ大学が一般国民を対象とし、2千人規模の標本調査をおこなった。方法は、アンケートである。大部のアンケート冊子だったが、回収率は女性73%、男性56%であった。
 日本で同じアンケート調査をおこなったら、回収率は25%程度だろう、と著者は推定する。
 驚くべき数字ではない、もっと普通のアンケートなら、スウェーデン人の90%くらい回答する、というのが著者の知る研究者の見解であった。
 スウェーデン人は、完璧な市民意識、完璧な市民たらんとする意識がある、というのが著者の結論である。基本的に、政府、公的機関に大きな信頼があるからだ、と。

   *

 スウェーデン人口のなかで移民の占める割合は高い。現在で5%。労働人口に占める外国出身者にしぼると、さらに高くなる。2007年現在、25歳から44歳までの女性のうち外国生まれの女性は19%、男性は15%。45歳から64歳までの場合、女性の17%、男性の15%は外国生まれである。ストックホルム市では、2008年1月1日現在、総人口の21%が外国生まれである。もっとも多い出身地はフィンランドの11.3%。以下、イラク8.8%、イラン5.7%、ポーランド5.3%、トルコ4%、ソマリア3.5%、チリ3.1%、ユーゴスラビア2.6%、ドイツ2.6%、エチオピア2.3%・・・・である。
 最近数十年の中東、東欧など激変する政治的国際情勢を反映している。
 1996年から2005年まで、少ない年で3千人台、多い年では8千人台の難民をスウェーデンは受けいれた。
 移民の受けいれは今後も続く。現在外国生まれの人の比率は12%に近いが、2050年には18%になると予測されている。

 スウェーデンでは、1930年代に出生率が著しく低下した。経済状況の悪化、人口の国外流出がその理由である。
 20世紀をとおして、1人の女性が2人の子どもを産む状況が続いていた。しかし、1990年代に、出生率が急低下した。
 大きく変化したのは、平均初産年齢である。1970年代には24歳だったが、最近まで急上昇し、29歳になった。1968年生まれ以降の女性が、明らかに子どもを持つ年齢を遅らせている。2000年には、分娩する女性の50%が30歳以上になった。
 スウェーデンで2008年に発表された将来人口予測統計によれば、2050年までに総人口は120万人増加し、1,050万人になる。
 合計特殊出生率は、1.77(2005年)から1.85(2050年)に改善する見こみだ。にもかかわらず、移民がなければスウェーデンの人口はどんどん減少していく。

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【読書余滴】スウェーデンの生殖医療

2010年07月10日 | □スウェーデン
 スウェーデンで生殖医療により生まれた子どもは、1980年代は微々たるものだった。しかし、1990年ころから著しく増加していき、最近では年間3千人くらいになっている。
 体外受精や顕微受精と呼ばれる生殖補助医療(ART)は、1990年代に治療成績がかくだんに向上した。

 ICMARTというNGOの推計によれば、2004年には全世界で130万回のARTがおこなわれ、この結果20万人の子どもが生まれた。初めて体外受精による子どもが生まれた年の1978年から2004年までに、累計350万人の子どもがさまざまなARTの結果として生まれた。
 ARTの普及のしかたや受け入れられ方は、国・地域によって著しい違いがある。北欧諸国では、ARTにより生まれた子どもの比率が高い。2006年、デンマークでは3.7%(30人に1人)、スウェーデン、ノルウェーでは2.5%、日本では2%(56人に1人)だ。

 ARTが広く用いられるようになった理由はいくつかあり、その一つは治療へのアクセスが容易になってきた、という変化だ。しかし、世界的にみて重要な変化は、女性の初婚年齢および初産年齢の上昇である。スウェーデンの平均初産年齢は、1970年代には24歳だったが、最近は29歳。ストックホルム中心部では36歳という驚くべき数値である。日本でも、都市部ではすでに30歳を超えている。

 スウェーデンでは、教育とともに医療は基本的には無料である。ARTも基本的には医療保険でカバーされる。ただし、年齢制限がある。女性は38歳未満、男性は55歳未満でなくてはならない。この年齢を超えると、原則すべて私費となる。私費診療の場合、邦貨25万円から42万円で、日本とほぼ同じ額である。また、公費によるARTの回数は3回まで、となっている。

 ARTの問題に多胎妊娠がある。
 スウェーデンでは、二胚移植と単胚移植の無作為化比較試験をふまえて、2003年に体外受精法改正時に単胚移植の原則を義務づけた。
 日本でも、2008年4月から単胚移植を原則とした。

 第三者から提供された卵子を用いる体外受精は、1984年に初めておこなわれた。
 1984年、スウェーデンで人工授精法が成立した(翌年施行)。第三者から提供された精子を用いる非配偶者間人工受精(DI)を世界で初めて法的に規制した。最大のポイントは、DIにより生まれた子どもは、18歳に達した時点でその出自を知る権利を認めたことだ。
 1988年、スウェーデンで成立した(翌年施行)体外受精法は、ARTを婚姻中またはサムボの状態にあるカップル内に限定した。
 これらの法律は、第三者に由来する卵子から生まれた子と母の関係を規定した親子法とともに、改定された。改正法は2003年1月に施行され、第三者に由来する配偶子(卵子および精子)を体外受精に提供することがスウェーデンでも可能になった。ただし、卵子および精子の双方を提供者から受けること、また胚提供は認められていない。
 ところで、人工授精法施行後に非配偶者間人工受精(DI)で生まれた子どもが18歳に到達したとき、出自を知る権利を行使した実例はなかった。理由として、二つ推定されるが、まだ結論をくだせる段階ではない。(1)法の趣旨に反してDIで生まれたことを親が隠しとおした。(2)子どもは事実をきちんと知れば生物学的な父親をあえて探すことはない。

 スウェーデンでは、2002年まで提供配偶子を用いた生殖医療は禁止されていたので、治療をもとめるカップルはフィンランドに渡航していた。前述のとおり、2003年の法改正で、これが可能になった。これまた前述のとおり、スウェーデンでは精子提供も卵子提供も非匿名である(子どもが18歳になれば求めに応じて情報が開示される)。
 スウェーデンと同じ規制をおこなうのは、フィンランド、オランダ、英国である。
 第三者配偶子を認めないのは、イタリアとトルコである。
 ちなみに、日本では明確に禁止されていないが、第三者配偶子によるARTは行っていない。法的な整備が進んでいないからである。

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【読書余滴】スウェーデンの家族 ~子育て支援、家族の新しいかたち~

2010年07月09日 | □スウェーデン
 スウェーデンは小国である。面積は45万平方メートルで、日本の1.2倍、ヨーロッパでは3番目の広さなのだが、人口は2008年現在わずか930万人にすぎない。神奈川県人口と変わらない。
 小国は、こまわりがきく。この強みを活かして、スウェーデンはさまざまな社会実験をおこなってきた。1932年から1976年まで長期間政権の座にあった社会民主党が、スウェーデン社会の基本的枠組みを確立した。
 実験の結果の一面が、「家族のあり方についてまじめに試行錯誤を続けてきた国スウェーデン」である。少子高齢化、女性の社会進出、家族の変容といった日本社会における「時代のキーワード」を考えるとき、スウェーデンの試行錯誤がとても参考になるし、パズルを解決する鍵になる、と著者はいう。
 鍵の一、二を本書から拾いだしてみよう。

 20歳から65歳までのスウェーデンの女性は、81%は就労している。零歳児をふくむ2人以上の子どもをもつ場合でも70%がフルタイムで働く。どうしてこれが可能なのか。
 鍵となる第一は、おしなべて勤務時間が短いことだ。男性も同じなのだが、週35時間労働が基本で、残業は基本的にない。休暇もきちんととる。ちなみに、妊娠前後に2年間にちかい産休と育休が保証されている。
 鍵となる第二は、子どもを持ちながら働く女性を支えるしくみがあり、そのしくみを支えるために働く女性が多数いることだ。スウェーデン女性が働く人数のもっとも多い職業は(1)看護師/看護助手、(2)幼稚園・保育園教師、(3)託児所職員である。男性と女性が均等に労働をシェアするとともに、女性が他の女性と互いに支えあうしくみになっている。

 別の鍵を本書に探せば、サムボがある。事実婚といってもよいが、日本の事実婚または同棲と違って、スウェーデンの法律に明確に規定されている。婚姻との法的な区別、差別は一切ない。わずかに、「離婚」にあたって財産分割のしかたと養育権の行き先が婚姻の場合とはすこし異なるだけである。
 スウェーデンの子どもたちの56%は、婚姻していないカップルから生まれる。
 日本では、そしておそらく世界規模で「家族」をめぐる基本的社会構造が大きく変化しているのだが、スウェーデンでは如上のように柔軟な対応をしているのだ。

 本書が伝えるスウェーデンの家族を別の面から見てみよう。
 一見奇妙な現象が生じる。スウェーデンの家族は、子どもが2人からいきなり4人になったり6人になったりするのだ。
 この謎を解くため、Mさんに登場していただこう。Mは最初のパートナーF1との間に2人の子どもC1、C2をもうけ、離婚する。C1、C2はF1とともに暮らすが、週末はMと過ごす。
 Mは、パートナーF2と再婚するが、F2は前のパートナーとの間に2人子どもC3、C4をもうけているので、Mの子どもは合計4人になる。
 F1の新しいパートナーとの間に子どもC5、C6が生まれた場合、これらの子どもたちがたまたま集まる週末には、M家の中にいる子どもは総計6人となる。
 スウェーデンの全カップル中20%以上が、現在の同居相手以外との子どもを有するのだ。
 ちなみに、スウェーデン人は18歳になると親から独立して住む。ただし、週末はサマーハウスに集まるので、親子関係は希薄ではない。反面、17歳までは親と同居するから、乳児院や養護施設は事実上まったく存在しない。

 当然ながら、子どもが生まれないカップルもある。こうしたカップルがどうしても子どもがほしい場合、養子をむかえることになる。
 スウェーデンでは、シングル女性が自ら育児することにほとんど不自由しなくなった。また、すくなくとも統計上は乳児院や養護施設がない。したがって、国内に養子をもとめることは、いまやあり得ない。
 よって、養子は必然的に国際養子となる。養子の出身国は、コロンビア、韓国、ベトナム、エチオピア、ベネズエラなど世界中にひろがっている。基本的には私費で、滞在費用など最低でも数百万円の負担がある。にも拘わらず希望者は絶えない。しかし、養子を送りだす側は、ベターな選択をしているにすぎない。今後は、国際養子はいまよりも困難になるだろう、と著者は予測する。

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書評:『アーレントとハイデガー』

2010年07月08日 | 批評・思想
 A girl meets a boy.・・・・よくある話である。
 "girl"をハンナ、"boy"をマルティンという固有名詞に置き換えても、ありふれた話であることはかわりがない。

 1924年、マールブルグ大学におけるマルティンの講義において二人は出会った。
 当時、ハンナは18歳。写真を見るからに、なかなかの美形である。
 当時、マルティンは35歳。妻と二人の息子がいた。マルティンがハンナを呼び出し、自宅あるいは旅先で密会する。マルティンが許可しないかぎりハンナからは連絡しない、といった関係が続いた。

 ハンナ・アーレントは、1906年ハノーファー生まれ。ユダヤ人なるがゆえの迫害を避け、1933年にフランスへ脱出。リスボン経由で米国へ亡命した。1975年にニューヨークて逝く。
 マルティン・ハイデガーは、1889年生、1976年没。

 通説にさからって、エルジビェータ・エティンガーは、両者の恋は一過性のものではなくて4年間にわたって続き、一時中断の後、ハンナの死まで続いたと見る。そして、その関係を3つの時期に大別する。

  (1)1925年から1930年あたりまで。
     恋仲の関係、というよりも情事。
  (2)1930年代初期から1950年まで。
     国民社会主義の台頭、第二次世界大戦、二人の関係の根底的変化。
  (3)1950年から1975年まで。
     かつての関係の復活、というよりも新しい関係の成立。

 第3期の「新しい関係」とは、ハイデガーがかつての恋人アーレントに乞い、これを受けてアーレントがハイデガーの「汚名」払拭につとめる関係である。
 すでに国際的名声を得ており、その後ますます著名になるアーレントが、ハイデガー復権にはたした役割は小さなものではなかった、と思う。

 じつのところ、ハイデガーはナチに深く加担した。
 熱狂的なナチ党員である妻エルフリーデと死に至るまで志を同じくしていた。はや1931年に『我が闘争』を読み、1933年にナチ党に加入した。同年、ヒットラーべったりということで「悪名高い」学長就任演説を行い、学長の権限によってユダヤ人を構内立入禁止とした。師のフッサールさえ大学から締め出し、フッサールの葬儀には姿を見せなかった。
 ヤスパースは、その妻(ユダヤ人)に無礼なふるまいをしたハイデガーを最後まで許していない。
 露骨に人種差別を行っただけではない。ハイデガーは、積極的に迫害した。ナチに協力しない弟子マックス・ミュラーの前途を閉ざした。あるいは、ノーベル化学賞受賞者ヘルマン・シュタウディンガーを讒言し、免職処分を勧告した。
 戦後、ナチへの協力をあいまいにするため、著者の表現を借りれば「二枚舌を、偽善を、策動を」やってのけ、ヤスパースによれば「言い逃れ」に終始した。
 アーレントは、少なくとも再会の当初は、ハイデガーの弁明を信じた。

 ハイデガーを見ると、深淵な哲学の持ち主の、卑小な社会的行動に愕然とさせられる。
 アーレントを見ると、いかに聡明な人であれ、自分が信じたいものを信じるという点では私たち凡人と異ならないらしい。

 『アーレントとハイデガー』は、未公開の二人の往復書簡に基づいて書かれた。
 未公開であるため、著者は恣意的な解釈をくだしているのではないか、という疑問が書評者から提起された。
 しかし、本書が巻き起こした騒動も一因となって往復書簡が公開される運びとなったらしいから、本書の主張は検証可能になる。

□エルジビェータ・エティンガー(大島かおり訳)『アーレントとハイデガー』(みすず書房、1996)
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書評:『出走』

2010年07月07日 | 小説・戯曲
 ミステリーは、探偵(役)が悪党の鼻をあかし、正義が勝利して終わらなければならない。さもないと、読者、善良なる市民の安寧秩序が乱される。
 ミステリーの探偵(役)の魅力は、悪党が悪辣であるほど、引き立つ。ゲームにおいて、勝利の美酒は、ライバルが強力であるほどうまいものだ。

 フランシスの競馬シリーズは、ミステリーである。よって、最後には探偵役の主人公が勝利する。その作品には、悪辣きわまる悪党が登場する。よって・・・・という論法が成り立つかどうかは別として、とにかくフランシスの長編の主人公は、いずれもたいへん魅力がある。

 ところで、お針子に針供養があり、動物実験を行う科学者にネズミ供養がある。
 ミステリーにも悪党供養があってよい。
 じじつ、ディック・フランシスは悪党供養をおこなった。それが本書である。全13編、殺し屋も顔をだすが、もっぱら金に支配された小悪党を主人公とする列伝である。ここでは、悪は常に最後には滅びるわけでは必ずしも、ない。悪党の影で別の悪党が笑い、そのまた背後で別の悪党が笑う、という構図もある。

 たとえば、「キングダム・ヒル競馬場の略奪」。
 出走馬がゲートに引き入れられた時、支配人のオフィスに電話が入った。スタンドのどこかに爆弾をしかけた、という。喫驚した支配人、すぐさま拡声器で放送すると、大観衆は我を先にと逃げ出した。詐欺師トリックシイ・ウィルコックス、34歳、一匹狼、あまり利口でない男、はほくそ笑み、無人のスタンドを見まわる職員の態をよそおって、金を奪う。だが、紳士然と整えたみなりは画竜点睛を欠き、警官から不審のまなざしを投げかけられた・・・・。

 本書は、構成を決めるエピソードからして遊び心に満ちている。短編の題名が記された低粘着性ラベルをシャンペン・クーラーにいれてかき混ぜ、著者、彼の妻と息子、著作権代理人の4人が拾い出した順に作品を配列することにしたのだ。そして、最後にシャンペンでくじに乾杯。「当然の帰結であるはずだ」
 当然・・・・酒とつまみをかたわらに「13頭立てのレース」(本書の原題)を見物するのが、著者に対する礼儀だろう。

□ディック・フランシス(菊池光訳)『出走』(早川書房、1999)
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書評:『青きドナウの乱痴気 -ウィーン1848年-』

2010年07月06日 | 歴史
 1848年のウィーンは、社会階層を反映する街の構造だった。
 当時ウィーンは、市壁と土塁の二重の壁に囲まれていた。ドーナツの穴にあたる真ん中は中世以来の都市、市内区で、市壁によって環状に囲まれていた。市壁の内側600歩までは緑なすグラシであり、市内区は4区に分かれていた。
 グラシの外が市街区で、これをリーニエと呼ばれる土塁が取り巻いた。市街区は、小市民、親方や職人が暮らす商工業の街で、34行政区に分かれていた。
 リーニエの外には「他国者」が住んだ。「プロレタリア」であり、「下民」であった。「プロレタリア」のなかには大勢のボヘミア人がいた。

 本書は、こうしたウィーンの地理的構造を背景に、1848年の3月革命から10月革命までの時間的推移を横軸にとり、社会各層の動きを縦軸にとって、はハプスブルグ家が支配する帝国の末期を立体的に描く。
 「プロレタリア」に焦点があてられるが、学生、ユダヤ人、女性の生態や動き、小市民におけるエリート層である家主や親方の生活もあまねく描きだす。
 ハプスブルグ家の帝国は、多数の民族をかかえ、民族紛争の火種をあちこちに抱えていた。民族の利害は錯綜していた。ハンガリー人は革命を支持し、ハンガリーから独立をめざすクロアチア人は革命勢力に武力で対抗した。
 今日、殊にソ連崩壊後、世界的規模で勃発する民族紛争の雛形を本書に見てとることができる。

 民衆の特異な直接行動、シャリバリが活写されていて興味深い。
 民衆のうらみをかった行政官や家主、パン屋や肉屋が、家の前に集合した民衆によって、演説、笛入りの「猫ばやし」でなじるられるのである。身体的危害は稀れだったらしいが、シャリバリをやられた側は精神的にこたえたらしい。

 10月革命は、最終的には軍隊によって蹴散らされるが、最後まで頑強に抵抗したのは無産の「プロレタリア」であった。
 著者は、マルクス主義成立史に関心をはらう研究者だが、理論に走らず、あくまで史実をたんねんに拾って歴史を再構成している。図版など史料が豊富で、眺めて飽きない。

□良知力『青きドナウの乱痴気 -ウィーン1848年-』(平凡社、1985)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、法人税減税が経済成長となる条件 ~「超」整理日記~

2010年07月05日 | ●野口悠紀雄
 増税だけで財政再建を行おうとしても、さまざまな問題が生じる。特に、消費税の税率引上げは、国債の値崩れを引き起こす可能性が強い。
 こうした問題が生じるのは、必要な増税額があまりにも大きいからだ。

 財政再建のためには、経済成長が不可欠である。
 経済成長はすべての問題を解決するわけではないが、経済成長がないと解決できない問題は山ほどある。
 たとえば、年金。受給者増加、保険料納付者減少の結果、経済成長がなければ赤字が膨張し、厚生年金は2030年頃に財政破綻する。
 一般に、経済成長がないと閉塞感が広がり、人々は意欲を喪失し、これがまた経済成長を阻害する。日本は今、深刻な悪循環に陥っている。
 政府が経済成長の方向づけを行うと、その政策はほぼ確実に失敗する。政府がまず行うべきことは、現行の企業救済策から手を引くことだ。

 経済成長に係る政府の唯一の具体的政策、法人税減税は経済成長に効果がない。
 最大の理由は、多くの企業が法人税を払っていないからだ。法人税の税収総額は、1950年代の水準の5兆円にすぎない。 
 かかる事情がないとしても、法人税は事業活動に影響しない。法人税は利益にかかる負担だからだ。利益は企業活動が招来するものであり、企業の基本的行動原理である。よって、法人税率が変化しても、それは法人の行動には影響しない。
 法人税減税→企業の手持ちキャッシュ増加→投資増加・・・・という流れにはならない。企業は、重要な投資にあたっては借り入れでもって資金調達する。借金利子は法人税上損金と見なされるので、法人税額が投資によって変わることはない。法人税率は、企業の投資決定に中立的である。
 投資減税は、原理的には企業の投資決定に影響する。しかし、今の日本のように投資需要のない状態では、投資減税をしても投資支出は増えないだろう。

 法人税減税が有効なのは、外国企業誘致の手段として使われるときである。
 欧米では、英国やアイルランドのように、外国企業の進出にオープンな姿勢をとった国が発展した。
 法人税減税は、外国企業に対してのみ行ってはどうか。賛成者は、経済成長を必要と考える人だ。反対者は、経済成長を口実に、じつは国内法人の負担軽減を求めている人だ。
 「日本人が、よそ者や異質なものを受け入れられるか否か。経済成長が実現できるか否かは、ひとえにこの点にかかっている」

【参考】野口悠紀雄『「超」整理日記No.518』(「週刊ダイヤモンド」2010年7月3日号所収)
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書評:『日本文学史序説』~加藤周一の犀利にして痛烈な批評~

2010年07月04日 | ●加藤周一
 その特徴の第一。文学の概念は広い。詩歌や小説に限定しない。
 ジャンルは、宗教的または哲学的著作から農民一揆の檄文まで。形式は、漢文から口誦の記録まで。

 第二。時代のなかでの作品と作家を簡にして要を得た紹介をする(共時的な面)ととともに、先行する作品や著者、あるいは逆に遺産を引き継いだ作品や著者との関係(通時的な面)を立体的に位置づける。
 たとえば、第9章(第四の転換期 上)では漢詩人たちをとりあげ、次のように評する。
 18世紀末に起きた漢詩文の「日本化」は、19世紀に引き継がれた。「日本化」の過程におそらく決定的な役割をはたした詩人が菅茶山である。茶山は、題材を本朝の、同時代の、しかも殊にしばしば自分が一生を暮らした農村周辺の光景にとった。故事でも名所でもないものにも詩興を託した茶山の本領は、題材の新しさよりも日常身辺の風物に対する写実的態度にあった。哲学を去り、政治を避け、空想的主題ではなくて日常的事実に即し、修辞を誇張せずに写生に徹底した。
 「かくして詩は、日記や俳文の世界に近づく。というよりも、日本の土着世界観の一つの表現形式として、和文の日記や俳文や『随筆』とならぶのである」

 ちなみに、茶山の一世代後の梁川星厳たちは、別の「日本化」をすすめ、遊里をうたう詩を流行らせた。
 ついで、漢詩の「日本化」に応じて、古典シナ語の散文の「日本化」が進行した。代表は頼山陽であった。『日本外史』の論旨は支離滅裂なのだが、読者数は多かった。「山陽の歴史は彼の詩に他ならなかったからだ」
 「政治を説明することの無能力は、同時に、人物を躍動させる能力」でもあった。・・・・かかる評価は、ひとり頼山陽のみに与えられているわけではない。日本史上名高い他の人物、たとえば吉田松陰に対する評価にも通底する。

 第10章(第四の転換期 下)において、吉田松陰を次のように評するのだ。
 松陰の思想には独創性がなく、計画には実現性がなかった。しかし、この青年詩人は、体制が割りあてた役割を超えて歴史に直接参加するという感覚を、いわば一身に肉体化していた。その感覚こそ、1860年代に若い下級武士層をして維新の社会的変化に向わしめた動因である。
 松陰よりもはるかに現実的な政治家たちが改革を実行した。
 「詩人は死に、政治家は権力を握ったが、政治家に理想を--もし理想があったとすれば--吹きこんだのは、詩人であって、その逆ではない」

 文学をして単に時代を受動的に反映するだけのものとは目さず、(無論こうした一面があるとしても)より積極的に時代を動かす動因となった力を重視するのである。
 これを加藤「文学史」の特徴の第三としてあげてよいだろう。

 第四は、時空を裁断する犀利な論旨にしばしば随伴する痛烈な諷刺だ。
 たとえば、第6章(第三の転換期)において、狩野探幽を総括していう。
 「探幽は若くして江戸幕府に出仕し(1621)、武家屋敷や寺院の襖絵・屏風の類を多作した。その大画面には金箔を用い、幹の屈曲する松や、怖ろしげな(または、こけおどしの)竜や、力の強そうな(あるいは力みかえった)虎などを濃彩で描く。豪華で、いくらか空虚で、威厳を保とうとする狩野派の、殊に探幽の画面こそは、武士支配層の美的理想を--まさに建築における日光東照宮(17世紀前半)の成金趣味とならんで--、見事に表現していた」

【参考】加藤周一の『今昔物語』論
    加藤周一の大岡昇平論

□加藤周一『日本文学史序説(上下)』(ちくま学芸文庫、1999)
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【映画談義】『八月の鯨』

2010年07月03日 | □映画
 リンゼイ・アンダーソン監督。出演者は、リリアン・ギッシュ、ベティ・デイヴィス、ヴィンセント・プライス、アン・サザーン、ハリー・ケリー・Jr・・・・という豪華な顔ぶれである。
 ただし、彼らの年齢は、上記の順に90歳、79歳、76歳、78歳、66歳である。
 この老優たちが快演する。老人たちによる、老人たちの、万人のための映画である。

 舞台は米国メイン州の小さな島。ここにあるセーラ(ギッシュ)の別荘で、セーラとリビー(デイヴィス)の姉妹は毎年避暑する。
 8月になると鯨がやってくる。
 少女時代、姉妹は鯨を見るべく大騒ぎしたのだ。今もセーラは胸が騒ぐ。
 だが、失明したリビーは、万事辛辣になって、あまつさえ死をしばしば口にする。
 永年いっしょに暮らしてきたセーラも、もうやっていけない、とさえ思うにいたる。

 それが、別荘を手放すか否かの決断を迫られたとき、セーラの気持ちは一転する。リビーも殻を脱ぎ捨てる。二人の気持ちが融けあう。このへんの呼吸がすばらしい。

 坦々たる日常のうちに小さな事件があり、人と人の間に波立ちがある。そして美しい自然。
 一登場人物は語る。・・・・月光で煌めく海面には、銀貨が散りばめられている。手を伸ばしても届かない宝物だ、と。

□『八月の鯨』(米、1987)
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【大岡昇平ノート】大岡昇平の加賀乙彦・賛

2010年07月03日 | ●大岡昇平
 大岡昇平は、『加賀乙彦短編全集2 最後の旅』月報2に、加賀乙彦の人となりを伝えるとともに、その作品、ことに短編の特徴を記す。
 以下、その要旨。

 加賀乙彦は、長編作家と目されている。デビュー作『フランドルの冬』から『錨のない船』まで、問題を正面に据えて取り組んだ。
 かと思うと、精神科医としての内輪話を軽いタッチで書いた『頭医者事始』を突然もらってびっくりした。学界誌に連載した作品なので、視野から洩れていたのだ。

 加賀は一作ごとに仲間を驚かせる作家である。折りにふれて書く短編もなかなか技巧がこらされている。『最後の旅』に所収の短編『風と死者』なぞ、視点の転換が異様な効果をあげている。
 精神病院が焼けて多数の患者が焼け死ぬ。さまざまな関係者の視点から書かれているのだが、中に焼死した患者の視点がある。「生者は死者を前にして、ずいぶん勝手なことをぬけぬけというものだ、ということがわかる。これは作者の視点からの客観描写以上の、ぞっとするような客観性に達している。単に奇抜な着想といってすむものではない」

 加賀はじつに多様な世界を展開しているが、「極限状況を好んで描くのは精神科医らしい。癌患者や山岳での遭難などが描かれる。そこには医者の冷徹な眼が働いていて、描写を誇張に導くことはない」。

 割り切れすぎていて感動に乏しい、という意見もあるが、加賀がすぐれたストリー・テラーであることは、表題作の短編『最後の旅』を読めばわかるだろう。巧みな構成だ。

 すごい話の語り手である加賀は、いつもにこにこしている。繊細な神経の持ち主であることはその作品を見ればわかるが、人と争わず、文壇とは一歩距離をおいて、仕事を積み上げてきた。

 どういう経路で知り合ったかは失念したが、始終電話で面倒な質問をしている、お世話になっている。
 先年中原中也の千葉寺の中村古峡の病院のカルテが出てきて、表紙に精神分裂病の字が書かれていた。写真が読売新聞全国版に載った。我々はあわてて、加賀に鑑定を頼み、併せて一文を草してくれと依頼した。
 精神分裂病ならこんなに早く治ることはない。表紙の病名は医者が仮に書いたものだろう。中原の病歴と作品を全部調べてからでないと病跡学的には決定的なことは言えない、うんぬん。【注】
 そう簡単に、我々の思うままに書いてはくれない。慎重な人柄なのだ。

 「しかしその円顔と大きな眼には常に笑みをたたえている。人生のすべてを見はるかす視野の広さにおいて、普通の文学者より、ひとまわり大きいのである。海外留学経験があるから、国際色がある。加賀さんが題材を、巧みにさばけるのはあたりまえだと思う。これはもともと加賀さんが大好きな私一人のひいきではないはずだ」

 【注】詳しくは、加賀乙彦『読書ノート』の「中原中也の診断」参照。

【参考】『大岡昇平全集第』第21巻(筑摩書房、1996)
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【映画談義】『カラスの飼育』

2010年07月02日 | □映画
 たんなる観客、タダの大衆が映画について語るのことができるのは、ストーリーか、科白か、俳優のいずれかである。
 まず、ストーリーについて語ろう。

 舞台はマドリード、その中心部にある中規模の屋敷。
 主人公アナは9歳。姉妹に11歳の姉イレネ、5歳の妹マイテがいる。父は軍人、母は元ピアニスト、祖母は四肢が不自由でしかも失語症(脳血管障害の後遺症か)。
 父に顧みられない母は、不遇のまま数年前に亡くなり、代わって叔母が一家をみている。叔母は慣れぬ役目に苛立つ。幸い、昔から忠実につとめる女中ロザが家事を上手に切り盛りし、子どもたちもなついている。
 こうした人間関係のうちに日常的な営みが進行し、これにアナの幻想と回想とが随所に挿入される。
 9歳の少女にも過去があるのだ。暖かく自分を慈しんでくれた生前の母、父の不倫。茂みの中の他人の妻と情事にふける父親を目撃して眼をみはるアナ。その見開いた眼が印象的だ。
 父の裏切りは、母の不幸を招いた。その記憶ゆえに、頓死した父の葬式で棺の中の父に口づけしない。
 幼いがゆえに強情である。情熱は、暗いものだ。ラテン民族の血は激しい。
 姉妹と隠れん坊する回想の一シーンでは、鬼のアナは見つけた姉妹に「死ね!」と叫ぶ。これがスペインふうの隠れん坊らしいが、「死ね!」の叫びの何と激しいことか。
 重曹を毒薬と誤って信じたアナは、「死にたい」と意思表示する祖母に重曹を持参する。祖母はかすかに笑って首をふるが、死を望む者に、愛情からだとはいえ(自分が信じるところの)毒薬を渡そうとするその無邪気さが怖い。
 叔母の姦通シーンを目撃し、目撃された叔母が後でアナに辛くあたると、重曹をミルクに入れて叔母にさしだす。翌朝、叔母は何ごともなく子ども部屋を訪れる。その叔母を硬直したようにジッと見つめるアナの大きな眼。

 科白は少なく、行動によって人物の、ことにアナの心理の微妙なあやを浮き彫りにする。言葉数の少ない子どもゆにえ、ことに効果的な撮影法だ。

 カルロス・サウラ監督、アナ・トレント、ジェラルディン・チャップリン出演。
 アナは、7歳で主演したビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(1973)で、フランケンシュタインの怪物の存在を信じる無垢な少女を演じて絶賛された。
 ナタリー・ポルトマンとスカーレット・ヨハンソンが豪華共演する『ブーリン家の姉妹』(英、2008)では、ヘンリー8世の最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴンを演じ、気品、権威、剛い意志をみせていた。さすがだ。

□『カラスの飼育』(西、1975)
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【読書余滴】読書道楽の7つの要件 ~加藤周一自選集9~

2010年07月02日 | ●加藤周一
 仕事に関わりのない本を読む愉しみ、すなわち読書道楽の成立要件は7つある。

(1)暇
 釣りは山野に、ゴルフはゴルフ場に出むかなければならないが、読書の場所と時間には制限がない。

(2)カネ
 書物の値段は総じて安い。図書館から借りればタダである。

(3)体力
 読むためには強い足腰を必要としない。病人であろうと、老人であろうと、晩年の永井荷風であろうと。

(4)知力
 格別の知力は不要である。知識のない少年であろうと、物忘れの著しい老人であろうと、それぞれ異なる条件に応じて異なる本がある。

(5)相手
 囲碁は二人、麻雀は四人を必要とするが、読書は独りでも道楽できる。

(6)言葉
 理解する言語が多ければ多いほど愉しみの範囲は広くなる。永井荷風の「万巻の書」の大部分は、おそらく日本語・古典中国語・フランス語の3か国語で書かれていた。「河野与一先生はその三倍ほどの言語を読んだので、愉しみの範囲があまりに広く、常に本を読んでいて、本を書く暇を得なかったほどである」

(7)知的好奇心
 レヴィ=ストロースは言った、すべての人間社会の基本欲求は(a)食欲、(b)性欲、(c)環境保全の欲求である、と。「何故」は知的好奇心の現れである。「知的好奇心は個人において稀には失われることがある。また人によっての強弱もある。しかし多かれ少なかれ誰にも備わっているのが普通である。その知的好奇心が強ければ強いほど、読書の愉しみは増すことになるだろう」
 「人生の環境--自然的および文化的な--はきわめて複雑であり、したがって知的好奇心の対象にはかぎりがない」

【参考】加藤周一『読書道楽』(鷲巣力編『加藤周一自選集』第9巻、岩波書店、2010、所収)
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【読書余滴】デュマをめぐる雑談 ~『モンテ・クリスト伯』・ダルタニャン物語~

2010年07月01日 | 小説・戯曲
 桑原武夫はいう。「文学は、はたして人生に必要なものであろうか? この問いはいまの私には、なにか無意味のように思われる。私はいま、二日前からトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいるからだ」(『文学入門』、岩波新書、1950)。

 『アンナ・カレーニナ』は通俗小説である。すくなくとも丸谷才一『文学のレッスン』によれば、池澤夏樹はそう見ていたらしい。
 しかし、純文学よりも通俗小説あるいは大衆小説こそ、世の多数へ影響するところは大きい。
 多数の一人として、桑原武夫は暗記するほど『三国志演義』に読みふけった。哲学者の木田元も『闇屋になりそこねた哲学者』によれば、猿飛佐助その他の講談に熱中した時期があった。そして、桑原武夫も木田元も、その文章はとても読みやすい。大衆が読みやすい文章のコツを会得しているのだ。

 加賀乙彦は、『頭医者』の留学記によれば、船により渡仏したのだが、その船はマルセイユに入港したので『モンテ・クリスト伯』の舞台になったシャトー・ディフ(イフ城)を見物した。この監獄島、出発直前まで1年半監獄医をつとめていた加賀乙彦には興味津々だったが、同行者の一人、スタンダール研究家はちっとも関心を払わなかった。デュマのごとき通俗文学には目もくれない人なのであった。
 この研究家、スタンダールの中の文章でタクシーの運転手に話しかけたが、ちっとも通じないのであった。

 『モンテ・クリスト伯』の翻訳は、涙香黒岩周六によって『巌窟王』と題され、1901~1902年に刊行された。
 涙香は、ジャーナリストらしく、ネーミングが卓抜だった。エミール・ガボリオ“ Le petit vieux des Batignolles (バティニョールの小男)”を『血の文字』、F・D・ボアゴベイ“La Vieillesse de Monsieur Lecoq (ルコック氏の晩年)”を『死美人』などとやってのけた。ヴィクトル・ユーゴー“Les Miserables (レ・ミゼラブル) ”を『噫無情』と訳したにいたっては、ああ見事、と賛嘆するしかない。涙香が翻訳した(というか翻案した)100以上の小説のタイトルは、おおむねこういった調子だ。
 
 涙香にかぎらず、むかしの日本人は、よほどネーミングの感覚が発達していたらしい。かつて日本で公開された洋画のタイトルは、とてもシャレていた。たとえば、日本人にいまなお人気のあるオードリー・ヘップバーン出演作品から拾ってみよう。
 “Funny Face ”(1957)は『パリの恋人』だ。“The Children's Hour”(1961)は『噂の二人』、“How to Steal a Million”(1966)は『おしゃれ泥棒』、“They All Laughed”(1981)は『ニューヨークの恋人たち』、“Love Among Thieves”(1986)は『おしゃれ泥棒2』・・・・。
 いまの映画は、原題をカタナカ表記にすることでお茶をにごしている。

 ところで、ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』に、印象的な場面がある。
 旧ソ連の、インテリ囚人を集めた特殊研究所で、日ごろなにかと当局に反逆的な言動をとるネルジンが、ふと別の囚人が手にしている『モンテ・クリスト伯』に目をとめ、彼には珍しく辞を低うして乞い、借り受ける。そして、ふだんなら勇躍参加するような論争にくわわらず、ひたすら読みふけるのである。
 スターリニズムの犠牲者である囚人が読みふける復讐譚・・・・という構図には、なにか胸をつくものがある。

 『巌窟王』とくると、牢獄から脱出したところで事が成就したかのような印象を与える。いまは亡きスティーブ・マックィーン主演の映画『パピヨン』のように。あるいは、後にカーメル市長になったクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』のように。両方とも実話がもとになっている。
 しかし、『モンテ・クリスト伯』では、エドモン・ダンテスが牢獄で呻吟する場面は、小説全体のごく一部でしかない。大部分は壮大にして手間のかかる復讐にページが割かれている。したがって、『巌窟王』というタイトルは、『モンテ・クリスト伯』の内容を過不足なく表しているとは言いがたい。
 とはいえ、『巌窟王』は、日本人を惹きつけるタイトルだ。自分も「巌窟」の中に置かれている、という閉塞感が日本人を魅するのかもしれない。あるいは、あるいは、自分をとりまくややこしい社会情勢に倦み疲れて、時々シンプルな立場に身をおいてみたくなるのかもしれない。囚人の生活はシンプル・ライフのきわみである。佐藤優も、また牢獄に入って読書に没頭したい、と何処かで冗談をいっていた。
 21世紀のわがテレビ・アニメでもこのタイトルが採用された(テレビ朝日、2004-2005年。また、NHK衛星第二、2008年、全24話)のも、しかるべき理由があったのだろう、と思う。

 かくのごとく『モンテ・クリスト伯』の人気は高いのだが、爽快さという点ではやはりダルタニャン三部作の後塵を拝する。
 第三部『ブラジュロンヌ子爵』の後半を訳した『仮面の男』に、こんな場面がある。

----------------(引用開始)----------------
 「(前略)おれは君に嘘をつけとは命令せんよ。それは君にできんことだからな」
 「うむ、それで?」
 「だから我々二人のためにおれが嘘をつこう。ガスコーニュ人の気質と、習慣からいっても、これは容易な問題だからな!」
 アトスは微笑した。(後略)
----------------(引用終了)----------------

 アトスの気質、ダルタニャンの機略と実行力、そして二人の友情を短い会話に描いて間然するところがない。
 そして、アラミス、ポルトスをふくめた4人の友情は、物語に複数の視点を与えるとともに、意外な波紋、予想外の展開をもたらす。目的限定的な復讐譚にはないおおらかさがあって、このあたりが爽快な所以だろう。

【参考】アレクサンドル・デュマ(石川登志夫訳)『仮面の男』(角川文庫、1998)
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