昭和60年4月1日、私が就職した日である。あれから30年が経った。今でもあの日に着ていたスーツ、式典を終えて外に出た時に頬を撫でた春風の感じ、駅前のレストランで摂った昼食迄ハッキリと覚えている。
定年まで働きたい-そう思って選んだ職だ。だとすれば、あと7年働き続けることが出来る筈だった。
この年度末で大学法人への派遣が10年満期になった。ここで大学から本庁等に戻らなければならないという、どうしても曲げられない大きなルールがある。
いろいろ迷い、上司も何とか今の身分を保持したまま働き続けられる道はないか、と多大な力添えをしてくださった。けれど、今の再発治療と体調を考えると、毎日往復3時間の通勤時間を費やして、フルタイムで働き続ける体力がないのは自分自身が一番分かっていた。
そして、残り7年を残して、公務員の職を辞することにした。
今日の夕方、本庁に出向き、定年退職の先輩方に交じって退職辞令と感謝状を頂いた。
思えば丸の内庁舎に6年、新宿庁舎には5年お世話になった。ピカピカだった新宿庁舎も既に四半世紀近くが経過し、今やメンテナンスの真っ最中だ。新宿庁舎と同じ年に現在地に移転した大学は、法人化に伴い10年前にその名前を変えたが、今日まで19年間勤務させて頂いた。
在職中の知事も5人を数えた。お一人目には秘書として直接謦咳に接するという幸運にも恵まれた。
青空に聳えるツインタワーを見上げながら、職員としてこの建物に入ることはもうないのだな、とちょっぴりセンチメンタルな気持ちになる。
最初の10年は色々な仕事を覚え、沢山の上司や先輩たちに可愛がって頂き、本当に毎日が充実していた。私生活でも家庭を持ち、仕事と家事の両立に努力したつもりだ。
次の10年では一人息子が誕生し、仕事でも昇任があり、部下を持つ身になり子育てに家事に、両立どころか共倒れになるのでは、とそれこそ悪戦苦闘の毎日だった。
そして最後の10年。子育てが大分落ち着きかけた頃、また仕事にシフト出来るかな、と思った頃、病を得た。その後再発してエンドレスの治療が続く中、とにかく仕事だけは続けたいという思いで踏ん張ってきた。
「ポンコツなお前はもう来なくていいよ」という戦力外通知の印籠を渡されず、曲がりなりにもフルタイムの仕事を続けることが出来た私は、本当に恵まれているのだと思う。治療のために休暇を取りながらも、働き続けさせてくれた職場にも上司にも同僚にも。
けれど、それをずっと支えてくれたのは他でもない夫である。夫の理解と協力がなければ30年の間、こうして働き続けることは決して出来なかったと思う。そして、働き続けてきたことで一人息子にも随分淋しい思いをさせた、とも思う。
今回、退職の話は夫が息子に告げたのだが、ほどなくして息子から長いLINEをもらった。その言葉を見た時に、ああ、あの子はこんなふうに思っていたんだ、もうこれで死んでもいいな、とさえ思った。その言葉は、これからもずっと、自分の胸だけに大切に仕舞っておくつもりだ。
明日はもう一つ、新しい節目のセレモニーの日である。
大学法人の固有職員として再出発の日だ。いかにもトウが立った新人ではあるが、沢山の方たちに支えられて今の私がある。
少しでも恩返しが出来るように、と感謝を込めて思う弥生晦日、26年度の大晦日。
桜が満開の夜である。
定年まで働きたい-そう思って選んだ職だ。だとすれば、あと7年働き続けることが出来る筈だった。
この年度末で大学法人への派遣が10年満期になった。ここで大学から本庁等に戻らなければならないという、どうしても曲げられない大きなルールがある。
いろいろ迷い、上司も何とか今の身分を保持したまま働き続けられる道はないか、と多大な力添えをしてくださった。けれど、今の再発治療と体調を考えると、毎日往復3時間の通勤時間を費やして、フルタイムで働き続ける体力がないのは自分自身が一番分かっていた。
そして、残り7年を残して、公務員の職を辞することにした。
今日の夕方、本庁に出向き、定年退職の先輩方に交じって退職辞令と感謝状を頂いた。
思えば丸の内庁舎に6年、新宿庁舎には5年お世話になった。ピカピカだった新宿庁舎も既に四半世紀近くが経過し、今やメンテナンスの真っ最中だ。新宿庁舎と同じ年に現在地に移転した大学は、法人化に伴い10年前にその名前を変えたが、今日まで19年間勤務させて頂いた。
在職中の知事も5人を数えた。お一人目には秘書として直接謦咳に接するという幸運にも恵まれた。
青空に聳えるツインタワーを見上げながら、職員としてこの建物に入ることはもうないのだな、とちょっぴりセンチメンタルな気持ちになる。
最初の10年は色々な仕事を覚え、沢山の上司や先輩たちに可愛がって頂き、本当に毎日が充実していた。私生活でも家庭を持ち、仕事と家事の両立に努力したつもりだ。
次の10年では一人息子が誕生し、仕事でも昇任があり、部下を持つ身になり子育てに家事に、両立どころか共倒れになるのでは、とそれこそ悪戦苦闘の毎日だった。
そして最後の10年。子育てが大分落ち着きかけた頃、また仕事にシフト出来るかな、と思った頃、病を得た。その後再発してエンドレスの治療が続く中、とにかく仕事だけは続けたいという思いで踏ん張ってきた。
「ポンコツなお前はもう来なくていいよ」という戦力外通知の印籠を渡されず、曲がりなりにもフルタイムの仕事を続けることが出来た私は、本当に恵まれているのだと思う。治療のために休暇を取りながらも、働き続けさせてくれた職場にも上司にも同僚にも。
けれど、それをずっと支えてくれたのは他でもない夫である。夫の理解と協力がなければ30年の間、こうして働き続けることは決して出来なかったと思う。そして、働き続けてきたことで一人息子にも随分淋しい思いをさせた、とも思う。
今回、退職の話は夫が息子に告げたのだが、ほどなくして息子から長いLINEをもらった。その言葉を見た時に、ああ、あの子はこんなふうに思っていたんだ、もうこれで死んでもいいな、とさえ思った。その言葉は、これからもずっと、自分の胸だけに大切に仕舞っておくつもりだ。
明日はもう一つ、新しい節目のセレモニーの日である。
大学法人の固有職員として再出発の日だ。いかにもトウが立った新人ではあるが、沢山の方たちに支えられて今の私がある。
少しでも恩返しが出来るように、と感謝を込めて思う弥生晦日、26年度の大晦日。
桜が満開の夜である。