ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.10.29 早朝の訃報と退院後初通院

2015-10-29 22:31:00 | 日記
 朝、ベッド脇に置いたスマホのランプが点滅しているのに気づく。従姉からの、伯母が早朝息を引き取ったというLINEだった。
 今回の両親の入院・手術・施設入所に際し、従姉はとても気にかけてくれて、母に付き添ってくれたり、父を見舞ってくれたり、と随分助けて頂いた。
 父のショートステイ先にほど近い施設にいる伯母のお見舞いに、来月同行させてもらう約束をしたばかり。伯母は母と同い年の酉年。従姉からは点滴栄養にしたので、年単位の延命は難しいということは聞いていたのだが、こんなに早く・・・と、とても驚いた。
 折しも今日は母の退院後初の通院日。休暇を頂き、朝一番で実家を訪れるので、母には私から話すということにして実家に向かった。
 昨日とは打って変わって、予報通り小雨がぱらつく肌寒い日だ。実家に着くと、ガレージに洗濯物が干してある。ああ、またか・・・と思うと、やはり明け方に酷い下痢をしてやむなく洗濯をしたところだという。とりあえずお腹周りを暖かくして、タクシーで病院を目指す。

 自動再来受付機でIDカードを通すのは、私が通院している病院と同じシステム。まずは採血室に向かう。殆ど待たずに入室。止血が確認出来るまで座らせて頂き、2階の外科へ移動。通院の際には必ず文庫本を持っているのだけれど、今日は母の付き添いだし荷物持ちだし、ということで読むものがない。活字中毒の気のある私はなんだか落ち着かず、待合に置いてあるリーフレットを読んだりして時間潰し。
 採血結果が出てからの診察だから1時間はたっぷり待つことになることを母に告げると、心配だからお手洗に行っておこうかしら、と席を立つ。すると斜め向かいに待っていた年配の女性が「どこが悪いんですか」と訊かれるので、「大腸がんの手術をしたばかりなんです」とお答えすると、「あら、大腸がんって女の人でもなるのね、男の人だけなんだと思っていた」との反応。こちらも何と答えるべきか苦笑い。「お歳は?」などと質問タイムになってしまい、うーん、どうしようかと思っていると中待合入室のランプが点灯したので失礼した。

 ここで30分程待ってT先生が顔を出され、名前を呼ばれた。先生は今日もミニスカートで紺のハイソックス、ローファー履きの若々しいドクターだ。「どうでしたか」と質問され、一昨日胃液のようなものを吐いて、便を柔らかくする薬(私もサインバルタの副作用止めでお世話になっているマグラックスである。)を飲んだら、今朝酷い下痢になって・・・」と申し訳なさそうに話す母。先生が「うーん、苦労されていることはよく判りました。どうしてか、なかなか落ち着きませんね~」とおっしゃる。
 「神経質で、怖がりなので・・・」と私が受けると、先生もちょっと困った笑顔になる。「お腹の傷の右側はなんともないですが、左側が痛むのです」と母が言い、ベッドで触診をして頂く。「あまり心配することはないと思いますが、何かあったら、いつでもいいので診せて下さい」と言って頂く。とりあえず4週間後に予約が入り、マグラックスと傷口の痒み止めのレスタミン軟膏を処方して頂いた。
 処方箋が出るまで再び待合で待った後、会計へ。自動支払機に並んだが、前回の緊急入院の精算もあったために窓口支払いになった。
 道路を渡って向かいの薬局へ。初めてということで母に代わって問診票を書き、処方まで15分程待つ。「待ち時間が長いわね」と母が言うが、私から言わせれば何のこれしき、という感じ。点滴があるわけでなし、病院と薬局の滞在時間で2時間とちょっとだった。
 
 退院後、自宅の庭先にしか出ていなかった母は初めて外を歩くわけで、私の腕につかまってなんとなく不安げなヨチヨチ歩きである。ああ、82歳の病み上がりなのだな、と改めて実感する。
 薬局の隣にあるカフェに入って2人でランチ。外で珈琲を飲んだのは1か月ぶりという。消化の良さそうなサンドイッチとグラタンをシェアして頂きながら、「ああ、美味しい、こういうのが食べたかった」と嬉しそうである。

 再びタクシーで自宅まで戻り、母から頼まれた日用品の買い物をするために独りで駅前のスーパーまで出かける。フラワーショップで可愛らしいミニシクラメンがあったので、ダイニングテーブル用に一つ買い求めて帰宅した。

 日曜日には父が施設から帰ってくる。ケアマネSさんに今日の通院報告とこれからのケアの相談の電話をし、お弁当の宅配サービスに11月から再開のお願いをした後、紅茶を淹れてお喋りの相手をし、夕方自宅まで戻ってきた。

 怒涛のように色々あった10月ももうすぐ終わりだ。
 とにかく体調を崩さずになんとか過ごせたことに感謝である。
 
 

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2015.10.28 末期がんは十把一絡げではない

2015-10-28 21:45:50 | 日記
 朝日新聞の医療サイトアピタルを見ていて、気になる記事があった。
 奥様を乳がんで亡くされ、ご自分もステージⅣの大腸がんとともにある、闘病記専門の書店を経営されている星野史雄さんの文章だ。とても頷けたので、長文ではあるが、以下、転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

末期がん患者と呼ばないで 星野史雄 (ほしの・ふみお) 闘病記おたくの闘病記(2015年10月27日)

「がん」の進行度(病期)を表す言葉に「ステージ」があることは、みなさんご存じだと思います。リンパ節や他臓器へ転移しているか否かで、五段階に分類されます。

 ある闘病記を読んでいたら、著者が「ステージは五段階」とだけ覚えていて、医師から「ステージⅣ」と告げられた時に、「まだⅣならば、末期の手前だな」と誤解したとありました。ステージは、ステージ0からステージⅣまでの五段階に分類されるので、Ⅳはどん詰まりになります。

 私が大腸がん(直腸がん)と診断されたのは2010年の8月、58歳になったばかりでした。トイレでイチゴジャムのような血便を目にして、近所のクリニックに駆け込みました。クリニックでは血液検査と内視鏡検査を行った結果、「うちでは手に負えない」と、その場で大きな病院への紹介状を書いていただきました。大腸がんであることは言うまでもありません。数日後に訪れた病院では、初診の日に入院日や種々の検査、手術の日まで決まってしまいました。後に「手術の日」だけ一日ずれるのですが、もう落ちこんでいる暇もありません。ただ、クリニックでの血液検査の結果、肝機能に少し異常があることが分かっていましたので嫌な予感がしていました。

 私は医療の専門家ではありませんが、闘病記専門のネット古書店を経営していましたので、闘病記を人一倍読んでいます。目を通さないと分類できませんから。集めた数は370種類の病名別に3400冊ほど。手元には大腸がんの闘病記だけで百冊以上あります。読んで分かるのは「大腸がんは肝臓と肺、更には腹膜などに転移する」ということ。一般的に肝臓に転移があると、予後が悪いということも知っていました。実際、「大腸がんが見つかり、肝臓に転移があって、手術が出来ないらしい」と言った知人は、がん専門病院で治療を受けたのですが、一年もたたずに亡くなりました。

 私自身は入院後に一週間かけて検査した結果、直腸がんで肝臓に二カ所転移があることが判明します。幸い肝臓の転移は手術出来る場所にあり、若い主治医に七時間かけて手術してもらうのですが、私は「余命一年くらいか!」と思っていました。

 一カ月の入院後、退院した翌日からXELOX(ゼロックス)療法とアバスチンという化学療法を開始します。当時女子大で非常勤講師をしていた私は、何とか講義を続けながら身辺整理を考えます。身辺整理といっても、私の最大の荷物は「本」。一部を新古書店に売却し、一部を廃棄しましたが、少しも減りません。減ったと思うと抗がん剤治療の合間に新古書店を巡り、また買ってしまうのです。

 ゼロックス療法を続けたものの、翌年2月には右肺にポチッと転移が見つかります。今度こそ「万事休すか」と、私は再度身辺整理を始めます。身辺整理といっても、(…以下、略。)

 右肺への小さな転移は内視鏡手術で取っていただきました。直後から、FOLOILI(フォルフィリ)療法という、大腸がんの抗がん剤治療では主流の化学療法を開始します。その後はCTでも異常は発見されず、経過観察が続いていたのですが、2013年の8月に再び右肺に多発転移が見つかります。多発転移した場合、どの部位のがんでも基本的に手術はしません。抗がん剤治療で抑えるのですが、やがて抗がん剤は効かなくなります。

 手術が出来ないということは今度こそ最期だと、私は三度目の身辺整理を考えます。身辺整理といっても、(…以下、略。)

 それ以降、使っていた抗がん剤が効かなくなるたびに「もう駄目か」と思うのですが、身辺整理は諦めました。減らしたはずの本は数カ月で元のもくあみ、もう「なるようになれ!」です。

 かくして五年が経ったのですが、私の場合は当初から肝転移が分かっていましたから「ステージⅣ」からの出発でした。いわゆる「末期がん患者」を五年以上続けていることになります。

 最近はがんで亡くなられた著名人が「ステージⅣ」と診断されていたとすると、一律にマスコミは「末期がんだった」と報じることがあります。これに反発して「ステージⅣをいちいち末期がんと言うな」という患者の意見を目にしました。

 確かに「ステージⅣ」といっても、そこには更に「病期」があります。患者の立場で大雑把に言うと(個人の見解です 笑)、まず「他臓器に転移があるが、手術で取りきれる」状態が「ステージⅣの初期」です。次に「他臓器に多発転移して手術出来ないが、抗がん剤で抑えている」状態が「ステージⅣの中期」。「抗がん剤が効かなくなってきた」状態が「ステージⅣの末期」でしょう。

 そもそも同じステージⅣでも「乳がん」や「前立腺がん」、「胃がん」、「胆管がん」、「膵臓(すいぞう)がん」では深刻度が違います。同じ胃がんでも、そのうちの10%程度という「スキルス胃がん」は、また別物です。

 私自身は大腸がんの「末期の末期」に近いのですが、「一律にステージⅣを末期がんと呼ぶな」というご意見は、なるほどと思えるのです。医学的なステージを詳細に明記するか、はじめからステージには触れないか、どちらかですね。

(転載終了)※   ※   ※

 確かに、遠隔転移がある場合はステージⅣ。ステージⅤまではないのだから、末期といえば末期なのだけれど、かといってステージⅣは十把一絡げに末期とは決して言えない、と常々私も思っていた。もちろんこれは私個人の見解、患者を続けてきての感想であることはいうまでもない。

 乳がんの場合、骨転移として遠隔転移が出現するケースが多い。けれど、骨に転移しても命に直結するわけではない。そのため、脳、肺、肝臓といった骨以外の臓器に転移した場合とは予後が大分異なる。だから、ああ、骨に転移した・・・、私はもうすぐ死んでしまうのだ、というのは全くの早計であると思う。
 実際に骨転移があっても、ホルモン剤を内服するだけで、抗がん剤投与することもなく10年以上穏やかにコントロールされている方も少なくはない。

 星野さんが書いておられるように、多発でなければ手術も出来るのだろう。大腸がんの肝転移で大きな手術を繰り返したジャーナリストの鳥越氏は今もお元気で活躍中だ。
 私は8年半前に再発が判明した時に既に胸骨、鎖骨、縦隔リンパ節、両肺多発転移だったから、残念ながら手術適応外。つまり星野さん流に言えば、「ステージⅣの初期」ではなかった、ということだ。
 けれど、これまで手を変え品を変え、8年半の間多種多様のホルモン療法、化学療法を続けて完全奏功はなかったもののそれなりに奏功してきたので、今がある。とはいえ、既に使ってしまって耐性がついた薬の方が断然多いわけだから、冷静に考えれば「ステージⅣの中期」から「ステージⅣの末期」に向かっているというのが正直なところだろう。
 といっても、これまた星野さんが書いておられるように、乳がんは比較的進行が遅いから、難治がんの膵臓がんや胆管がん、スキルス胃がんとは深刻さが異なるというのも事実だろう。

 それでも、ステージⅣだの末期だのという言葉は自分からは言ってみても、勝手なもので人から言われると、傷つくものだ。がん保険の勧誘の電話がしつこかった時には、「私は末期がんなのですが、それでも加入できるのですか」と聞いたりしてしまうが、それ以外の場面では自分から末期だなどと言うつもりはない。

 とにかく今を大切に生きること。今後どういう未来が待ち受けているかは神のみぞ知るだけれど、徒に将来を憂いてみたところでどうなるものでもない。体調管理をしながら今出来る治療を精一杯続け、心穏やかに潔く日々を重ねていくことに限る、と思うのだが、どうだろう。



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2015.10.27 祝・ブログ開設6周年!ちょっと幸せ

2015-10-27 21:46:05 | 日記
 自分で「祝!」もないものだが・・・の書き出しで例年書いているので、今年もしぶとくこのまま続けたいと思う。
 5年前の1周年、4年前の2周年・・・、一昨年の5周年に引き続き、今年もまた、の記事である。6年間で1,809という数の記事を書き続けてこられたことに、今年もまた感謝したい(昨年の記事によると5年間で1,530だったので、この1年で278である。)。
 言うまでもないことだが、昨年同様、治療を続けながらごく普通の生活を続けることが出来ている体力と環境に、家族、友人、職場の方たちを含めた沢山の方たちに支えられて生き永らえてこられたことにも心から感謝である。

 繰り返しになるが、生と死はとても紙一重なこと。生きている限り、誰にとっても二度と同じ日、同じ時は来ない。かけがえのない一瞬は何よりも重いものだ。生身の人間、いつ何が起こるか分からない。これが最後になるとは思わなくとも、最後になってしまうことがあるのは言うまでもない。
 繰り返すまでもなく、エンドレスの延命治療を続ける私たち進行再発がん患者にとって、1年1年は本当に重い。
 だからいきなり、「次は10周年を目指します。」などと高すぎるハードルは掲げない(し、掲げられない。)。
 昨年の目標が「来年2015年10月27日に“祝!ブログ開設6周年を目指したい。」だったから、今年の目標は迷うことなく、「来年2016年10月27日に“祝!ブログ開設7周年”を目指したい。」である。7周年、しぶとく頑張っていれば何かラッキーなことがあるかもしれない。
 コメントを頂ける設定にしたのは2011年の元日からだ。そのため、ブログ開設記事関連では2周年の時からコメントを頂戴している。3周年4周年5周年とコメントを頂いた方で、今はコメントを頂くことが出来なくなった方が複数おられることが、辛い。
 けれど、こうして生かされている私が後ろを向いて悲しんでばかりいることを、精一杯生き抜いた彼女たちは喜ばないだろう。だから、外野が何と言おうと、細く長くしぶとく前を向いて生きていきたい。

 さて、今日のお題の後半―“ちょっと幸せ”は夫から聞いた話である。
 昨日のこと、出張先のレストラン街でランチを終えて、下りのエレベーターを待っていたそうである。突然、2歳くらいの男の子が夫に両手を伸ばして手を繋いできて、ジャンプを始めたのだという。夫はびっくりしてそのジャンプに何回か付き合った後、しゃがんで、「僕、お名前は?」と訊いたそうだ。男の子はお父さんだとばかり思っていた男の人が我が夫だったことにびっくりして、いきなり手を離して2人ほど離れたところに立っていたお父さんを見つけて飛んでいき、ぱっと隠れたという。
 確かに小さな子どもは大人と目線が違う。私もスーパーでいきなり小さな手が伸びてきたことが何度もある。お母さんだと思って手を繋ごうとしたのである。けれど、あれっ?と私が下を向くと、あっ、間違えちゃった、お母さんではない人と手を繋いでしまった!と、びっくりして手を離し、やおらお母さんを探しにキョロキョロし始めるというような。
 けれど、この男の子は手を繋ごうとしただけでなく、ジャンプ!を始めたというから、いかにも元気が弾けそうな2歳くらいの男の子ではないか。いつもお父さんにこうしてジャンプをしてもらっていたのだなと微笑ましい。息子が小さかった時のことを懐かしく思い出して、ほっこりする。
 「お父さんからは、“すみません”って言われたけれど、自分としてはあの2歳くらいの可愛らしい柔らかい手を触って、ちょっと幸せだった」という夫の話を聞いて、私も“ちょっと幸せ”になった。
 生きているってやはり素晴らしい!と改めて想う秋の日である。

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2015.10.26 職場婦人科検診、無事終了

2015-10-26 20:13:09 | 日記
 今日は午後から都心で行われる婦人科検診の日。一昨日、早くも木枯らし一号が吹いたそうで、抜けるような青空の良いお天気だけれど、風が強く冷たい。まだ11月でもないのに、早くも足元はタイツデビューしてしまった。冷やしていいことは何もないし、今年は足の痺れと痛みでブーツも履けないかもしれない。間違いなく厚地のタイツに長いことお世話になるだろう。
 
 朝一番の定例会議の後、さっさと仕事を片づけ、都心の検診機関に向かった。今年はここ3年と違い、4年前に診て頂いた検診機関だ。4年前に初めて診て頂いた時、ドクターから「貴女のような(再発治療中の)人はわざわざこうしたスクリーニング検査をするよりも、現に今治療している病院で十分なのではないか」というコメントがあったので、今年もそう言われたらどうしようかな、と思い出しちょっと気が重かった。
 とはいえ、せっかく職場が与えてくれた機会なのだし、乳がん検診だけでないわけだからみすみす無駄にすることはあるまい。

 昼食を会場の近くで済ませ、最寄駅から徒歩15分以上かかる検診機関を目指し、指定時間より5分前に到着。去年までの検診機関とは全く規模が違い、こじんまりしてアットホームな雰囲気である。受付を済ませ、着替えてからロッカーに荷物を預けて問診に呼ばれるのを待つ。
 15分ほど待って問診。現在の治療状況を報告し、左の傷口付近には押されると痛みがあり、右にはポートも入っているので、例年どおりマンモグラフィはキャンセルをお願いする。
 再び15分ほどして、婦人科検診。何度受けても幾つになっても最初はリラックスが出来ない。女性ドクターによる子宮頸がんの細胞診、超音波、内診と続いた。子宮・卵巣とも腫れもなく、特に問題なさそうとのことだった。
 さらに15分ほど待ち、今度は乳腺の超音波。まずは健側の右から。ゼリーが温めてあって有難い。局所再発だけでなく骨や肺等に転移があることを話すと、当初から腫瘍がかなり大きかったのかどうか訊かれる。そんなことはなく1cmのステージI早期だったので、放射線治療を終え、ノルバデックスを飲み、5年間で治療終了の予定だったのですが・・・と苦笑い。
 続いて術側の左も確認して頂き、とりあえず終了。「ドクターに画像を送りますので、呼ばれるまでまた外でお待ちください。」と言われ、再び待合廊下に出た。
 15分ほどして今度はドクターによる視・触診。超音波でも視触診でも両方とも特に問題なさそうだとのこと。「今更がん検診もないのかもしれませんが、通っている病院が腫瘍内科で乳腺の検査はよほどのことがない限りして頂けないので・・・」とこちらから言うと、「そんなことはなありません。(健側も)かえって普通の人よりも頻繫に検査した方が良いと思いますが、診て頂いている病院が乳腺外科ではないということなら、ご自身でも定期的に視触診をしてくださいね」とのこと。とりあえずほっとして、御礼を言い診察室を後にした。

 正式な結果の通知が届くのは後日。先週末に訪れた職場の同僚から、とても混んでいたと聞かされていたが、思ったよりずっと順調で検診機関での滞在時間は1時間半ほど。小さいながらもそこそこ混雑していた待合室も、私が帰る頃には大分少人数になっていた。
 いつもより少し早く帰宅することが出来たが、やはり都心往復の検診は結構疲れるイベントである。
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2015.10.25 貴女の笑顔は永遠に

2015-10-25 21:37:12 | 日記

 Kさんが亡くなったというご連絡を受けてから1週間。
 先週の通院後、お通夜に伺ったけれど、お焼香を済ませご主人とご子息にご挨拶だけして早々に失礼し、柩の中の彼女のお顔を拝見することはしなかった。
 ただ、白と彼女が大好きだったピンク色の花々で設えられた祭壇に飾られたKさんの遺影と、お清めの席に飾られていた数多くのご家族との幸せな写真だけを拝見してきた。

 心が疲れていて自然に防衛本能が働いて、きちんとお別れをすることが出来なかったのかもしれない、と思う。
 彼女と初めてお目にかかったのは2010年1月、患者会東京支部の集まりだったか。Sさんに紹介して頂いたのだったと思う。その年の6月くらいから今年の1月まで、殆ど毎月のようにランチ会でご一緒してきた。
 私より10歳年上で、会の中ではお姉さんの役割。とても高校生のお孫さんがいらっしゃるとは思えない若々しさとバイタリティ。色々と相談に乗って頂いたけれど、いつも前向きで、ご主人と二人の息子さんたちにとても愛され大切にされていて、文字通り笑顔が向日葵のような明るい方だった。

 今年1月末のランチ会―あの時がKさんとの最後になるとはとても思えなかった。
 新年早々に会のメンバーだったTさんが亡くなったばかりで、もっぱらそのお別れの時の話でもちきりだったと記憶している。
 その時に彼女が考え抜いた様子でこう言われた。「言ったらいけないなって思うけど、それを承知で言うね。(棺桶の中のTさんを見て)“死んだら終わりだ”って、思った。」と。
 一緒にいたSさんと答えに窮したのを覚えている。
 亡くなったTさんと同じ部位に転移があり、いったん厳しい治療を終えていた彼女はどれほど不安で怖かったのだろうと思うと、言葉がない。
 お目にかからなくなってからも時折メール等で連絡を差し上げていたけれど、お返事は殆ど途絶え、直接彼女から返事があったのは7月が最後だった。そして、ご主人からメールを頂いたのは8月末のこと。

 彼女の訃報に接した時「Kさん、死んだら終わりだって言ってたじゃない!なのに、なぜ?」―そう叫びたかった。
 冗談で「もし、棺桶に入ったときにカツラがずれていたら、こっそりちゃんと直してよね」とお互いに言い合ったこともある。
 でも、冗談でなく柩に入ってしまった彼女の姿を、私はとうとう見ることが出来なかった。

 9ヶ月近くお目にかかっていなかったから、まだ、会がお休みになっているから会えないだけ。元気になってまた会うことは出来る、とどこかで信じていたいのかもしれない。

 初発から14年、再発治療を11年続けてこられた。
 Kさん、私の中で貴女の笑顔は永遠です。長い間本当にお疲れ様でした。どうぞ、天国でもその笑顔で待っていてくださいね。

 合掌。
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