ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.9.27 本当にやさしくなるには

2016-09-27 22:14:41 | 日記
 毎日新聞のコラム 香山リカさんの「ココロの万華鏡の最新号」で気になった記事があったので、以下、転載させて頂く。

※    ※    ※(転載開始)

香山リカのココロの万華鏡「真のやさしさ」とは (2016年9月27日 03:00)

 大学の少人数クラスで、学生からおもしろい質問が出た。
 「先日“心がひどく傷ついたことのある人こそが真のやさしさを知る”という文章を見たのですが、それは本当なのでしょうか?」

 その学生は、これまでそれほど傷ついたことがなく「私はやさしさに欠けるのか」と悩んでしまったのだという。そう思うことじたい、やさしさの証しだとは思うが、ほかの学生にも意見をきいてみた。「心に傷を負うと自分のことに敏感になるから、ひとのことまで思いやるのはむずかしい」と自分の経験をもとに話す学生、「やっぱり人それぞれだと思う」と答える学生もいて、なかなか結論が出ない。

 私は「たしかに自分も傷つく経験をしたほうが、同じ痛みを持つ人に心を寄せることはできると思う」と答えたあと「でも」と続けた。「それから相手をなぐさめ、励ますためには、自分の問題はある程度、乗り越えている必要があるんじゃないかな」

 誰かの悲しい経験をきいて「私も同じ思いを味わいました」と言えば、相手は「わかってもらえた」と少し気が楽になるだろう。
 ただ、そのあと、心を寄せた側は自分の過去の痛みを思い出して、再び悲しみがこみ上げるようなことになるのは問題だ。「あなたの気持ちはわかります、でも大丈夫。きっと私みたいに乗り越えられますよ」と、どっしりかまえているためには、自分の問題は解決ずみでなくてはならない。

 診察室に通っている人の中で、ときどき「私も先生みたいな心のケアをする仕事をしたい」と言う人がいる。私はそういうとき、なるべくおだやかにこう告げることにしている。「いいですね、あなたならきっと、相談者の気持ちに寄り添うカウンセラーになれるでしょうね。そのためにもまず、あなたがいま抱えている心の傷をゆっくり癒やしていきましょう」

 会社の経営者や政治家の中にも「子どものときに苦労をした」と言う人がいる。その中には、だからこそひとへのやさしさを忘れない人もいれば、逆に「みんなも私のように努力すべきだ」と、厳しすぎたり冷たすぎたりする人もいる。後者はきっと、まだ自分の心の傷が十分に癒えていないのかもしれない。

 まずは自分の心の痛みを癒やして、そのうえで誰かをケアしたり多くの人のリーダーになったりする道を目指す。その2段がまえで「本当にやさしい人」を目指してほしい。(精神科医)

(転載終了)※    ※    ※

 ラストの「本当にやさしい人」になるためには2段がまえで、というくだりになるほどな、と思った。自分の心の痛みが癒されていないうちに、誰かを癒したりするのは難しい。本当にそうなのだ、と頷く。

 たとえば患者会。同じ病を経験して、無事に治癒して、今はサバイバーとしてその痛みを乗り越えた人なら、新たに患者になった人に対してどんと構えて相談に乗ることが出来るだろう。けれど、治療を続けたけれど、不運にも再発しエンドレスの治療中である身だったらどうだろう。私も再発治療期間がまもなく9年になり、今でこそその事実を受け入れ、病とともにあること、共存していることが今の自分の“普通の”状態になったけれど、本当のところ、心の痛みが癒されているか、と問われれば、答えに窮するというのが本音だ。

 自分はこうして今まで乗り越えてきた、こうして心穏やかにいようと努力している、ということが、実は香山さんが書いておられるように「だからあなたも私のように(努力)すべきだ、こういう乗り越え方をすべきだ」などと、厳しすぎたり冷たすぎたり・・・ということになってはいないか。
 されば、私はまだ自分の心の傷が十分に癒えていないのかもしれない。

 まあ、いつまた治療薬変更となるか、いつ病状が増悪するかといった不安についても現在進行中の身であるから、充分に心の傷が癒えて達観するというのは凡人の私にとってはとても難しいことだ。
 となれば、再発患者同士とはいってもどんと構えて相談相手になる、というのも口で言うほど容易くはないということに気付く。とはいえ、全く経験していない人がその荷を負うのは、それはそれで無理な話だ。

 かつて患者会支部で、「再発組の世話役はやはり再発組でないと」と、再発組が初発後治癒した世話役をやんわりと拒絶したことがあったということを聞いた。なるほど、世話役が実際に再発治療を経験したことがなければ、再発治療組の悩みに寄り添うことは出来てもリアルに自分の事として受け止めるのは難しいだろうし、逆に再発組が世話役に「だからあなたは私たちの気持ちの代弁は出来ないでしょう」と言ってしまうのも、それはそれで酷な話だ。自ら再発治療を続け体調管理をしつつ再発治療者のお世話を続けるのは並大抵のことではない。

 ずっと治療が続いて生涯患者であり続けるのは再発治療の患者たちだけ。初発治療でうまく卒業することが出来ればその治療には必ず終わりが来る。体験者であっても患者ではなくなる。これは厳然たる事実だ。

 本当にやさしい人は強い人だとよく言われるけれど、果たして皆が皆そうなれるわけでもないだろう。考えれば考えるほど、悩ましい問題である。

 今朝、学内を歩いているとキンモクセイの香りが鼻をくすぐった。ああ、今年もまたこの季節なんだ、と思った。週末からは早くも10月である。
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2016.9.26 ワークショップあれこれ

2016-09-26 21:40:45 | ヨガ
 先日、珍しく地元のスタジオでワークショップが開催されたので参加してきた。

 1つ目はヴォイス・ヒーリング・ヨガ。
 90分のクラスは「このWSでは自分の持つ『声』を使い、ご自身の波動を体感します。意識的に話したり歌ったりするのとは違う感覚で、自然に声が引き出されます。それは癒し、浄化、疲労回復、エネルギーチャージ、ヨガのポーズの内観の深まり。様々なメッセージを届けてくれます。あなたもご自身の内なる声、聴いてみませんか?」というもの。

 少しはポーズをとったりして動くのかしらと思っていたけれど、実際はまず参加者19名の出席を取り(!)波動エネルギーについてのお話があった後、お隣同士ペアになって自己紹介。普段お見掛けしている方たちが殆どだったけれど、スタジオ内は私語厳禁なのでなかなかお話する機会がない。すっかり和んで笑い声があちこちで出始める。

 続いて、楽な姿勢で壁に寄りかかり、インストラクターのHaさんの誘導により瞑想に入る。そこから自然な声を引き出すワークに。どんな声でも良い、ひたすら出したい声を出す。あくびでもため息でも高い声でも低い声でも何でもOK。踊りたくなったら踊ってもよいし、眠ってしまってもいい、くらい自由なもの。

 瞑想の途中気持ちよくて眠りそうになったけれど、あちこちで色々な声が出始めると、それが不思議と不協和音にならず、共鳴して天井が高くなったような、包み込まれるような感じがとても気持ちよかった。終わってみると、なんと45分もこの声出しワークが続いていたとのことで一同びっくり。

 その後、車座になって全員が一言ずつ感想を述べ合った。さらに実際に波動というものがどんなものなのか、Haさんがシンギングボールに水を貼って、その縁を棒で回すと、水が踊り出すかのように動くのを目の当たりにして皆で目を見張った。こうして声を出すことで喉のチャクラが開放されて、気持ちを素直に伝えられるようになりコミュニケーション能力がアップされているのだという。

 最後にはヴォーカリストでもあるというHaさんがアカペラでYou Raise Me Upの曲を披露してくださって、90分があっという間に終わった。殆ど座って声を出していただけなのに不思議なくらい汗びっしょり。やけにデトックスしたな~という実感があった。

 ヴォイスヒーリングが自分を癒すというのは、今では「美律ホルモンヨガ」と名前を変えた「インナービューティヨガ」のクラスで経験済みだったけれど、こんなに長く、目を瞑ったまま好きな声を出したのは初めての経験。なかなか面白かった。

 2つ目は「癒しと再生のヨガ~reborn yoga」。
 こちらも90分のクラス。「あなたにとっての癒しとはなんですか?『ここ』に究極の寛ぎと開放があります。このクラスでは様々なヒーリング、呼吸法、瞑想法等を用いて自らを癒し、再生していきます。見守り、寄り添います。気付き、受け入れます。認め、許します。そして、本質の尊さを思い出し、開放されていきます。」というもの。インストラクターのHoさんはヒーラーでもあるという。

 クラスは鏡を背にしていつもと逆方向が前。鏡で自分の姿を追うとどうしても心が動くからだという。癒されたい人は、インストラクターと向き合える前列が一番エネルギーが大きく受け取れてベストポジションです、と伺い皆が少しずつ前につめる形になった。

 90分のうち60分は仰向けに寝ているので、ということで丸めたバスタオルを複数枚使って背中からほぐし、寛ぎながらBGMのようなHoさんの言葉に耳を澄ます。その後、やさしい動きのフローヨガで少し体が温めた後は、まるでお風呂上りで気持ちよく汗をかいたようなリラックス感。そして再びマットの上に仰向けに。汗をかいた身体が冷えないように、タオルをかけて深く長いシャヴァアーサナ(安らぎのポーズ)とヨガニードラ(眠りのヨガ)という内容だった。

 なんといってもHoさんの声がとても優しく心地よく、レッスン中ずっとまどろんでいるかのような幸せな雰囲気に包まれて、気持ちよく癒された。

 お二人ともトップインストラクターで、都内に限らずあちこちのスタジオに出張して、こうしたワークショップを開催されている売れっ子の方々。Hoさんは「この後、同じ沿線の2つのスタジオで同じワークショップを行いますので、もしよろしければ私と一緒に動きましょう。」とおっしゃっていた。ほんわかした雰囲気なのに実にパワフルである。それぞれ11月以降2泊3日のリトリートを受け持つので、興味のある方は90分だけでなく、どうぞどっぷりと2泊3日ご参加くださいとのことだった。

 10月からは後期の指導者養成コースも始まるので、既に手帳はある程度埋まってきている。毎度の事ながら欲張りすぎなのだけれど、もし日程があえば参加してみたいな~と、またまたやりたい気持ちがムクムクともたげる相変わらず身の程知らずに単純な私である。

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2016.9.25 結局のところ興味本位、最初から筋書きは出来ているのか

2016-09-25 20:35:31 | 日記
 ようやく晴れ間が出た日曜日。これはもうのんびり寝ている場合ではない、と洗濯機を2回廻し、ベランダ中所狭しと洗濯物を干す。
 気持ち良い朝だ。洗濯物を干しながら朝の爽やかな風を吸い込むことの出来るささやかな幸せを、素直に有り難いと思える。悪くない人生だと思う。

 ここのところ来る日も来る日もずーっと雨続き。夫と2人暮らしになったことから、息子がいた時分よりも洗濯の回数は減ってはいる。それでも乾燥器のない我が家では、雨が続くと部屋干しのまま満艦飾のように洗濯物が吊るされ、気持ちは滅入る一方だった。

 昨日は午後から、実家で司法書士と税理士さんとの相談。現状とこれからのことをざっと説明頂き、ようやくなんとか頭を整理することが出来た。どう頑張ってみたところで、素人でかつ曲がりなりにもフルタイムで働いている治療中の自分が、全て自力でやるのは無理がある。今後のことなど不確定要素は多々あるし、心配事は尽きないが、あとは専門家にお任せして、出来るだけ心穏やかに日々を過ごしていきたいと思う。

 さて、表題のこと。以前にも「マスコミ報道もさることながら」の記事で書いたけれど、小林さんご本人がブログで発信され始めてから、またしても世間はあれこれ喧しくなっている。
 彼女のブログを日々チェックしているわけではないけれど、たまたまアップされた写真を拝見して、ああ、どんなに若い方でもタキサン系の治療で眉毛や睫毛も全て抜け落ちて顔色が悪くなると、こうも病人然としてしまうのか、とかつての自分を思い出しながら胸が痛んだ。

 けれど、よく考えてほしい。ステージ4でも治療を続けながら病と10年近く(もっといえば所属している患者会には再発転移後10年以上の方も一人や二人ではない。)共存している人は決して少なくない。
 なのに、何とかの一つ覚えのように若い人は進行が速いだの、骨や肺に転移しているステージ4は末期だから余命半年だの3か月だの、言いたい放題である。

 最初から結論があって、その流れに沿ってそれに合うように記事を書いているようにしか見えないこのような記事は、無責任かつ不勉強極まりないとしか言いようがない。何度も繰り返すけれど、生涯のうち2人に1人ががんになる時代である。その程度の生半可な知識で記事を書かないでほしい。そういう書き手の方たちは、今後、もし自分がその立場になったなら、絶望して無治療でも選ぶのだろうか。

 それより私が悲しく思うのは、現にご自身がステージ4であっても治療が継続出来ていながら、自らのことをなぜか末期がん患者と銘打って(マッキーなどとオチャラケて書いている方すらいる。)ブログ等で発信をしている人たちが少なくないということだ。

 これはどうしたものだろう。ステージ4イコール末期ではない、とここでは何度も書いている。ステージ4とは治癒することはないものの、ある程度長い時間治療を続けながら自分の生活を維持し続けるために頑張る、すなわち共存することが出来る時期なのだ。
 さらにいえば、骨に転移したからといって他の内臓転移のように命に直結するというわけではない。もちろん骨転移の痛みは辛いものだし、部位によっては歩行困難や麻痺を引き起こす可能性もあるけれど、痛みを取ってコントロールすることも十分に可能だ。人様々ではあるけれど、私自身は骨や肺に多発転移してからほゞ9年を生き永らえている。

 結局のところ、それでは絵や話題にはならないから、ステージ4イコール末期、すなわちもう助からない、余命僅か、まだ若いのにお気の毒に・・・、その方がよほど盛り上がる、人の不幸は蜜の味ということのように感じてならないのである。

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2016.9.23 一昨日の通院日に読んだ3冊

2016-09-23 21:43:06 | 読書
 1冊目は松原惇子さんの「老後ひとりぼっち」(SB新書)。
 帯には「結婚してても、子アリでも、最後はひとり。4割が『独居老人』の時代に!!」という衝撃的な言葉が並ぶ。いや、本当にそうなのですけれど。
 まあ、私が老人と言われる年齢まで生き長ら得ることが出来るかどうかは神のみぞ知るだけれど、テンポよく読みやすく、頁を繰る手が止まらずにあっという間に読破した。

 裏表紙には「ひとりぼっち時代の乗り切り方」とある。松原さんは老後ひとりぼっちといえども、寂しいひとりぼっちもいれば、幸せなひとりぼっちもいると言う。だからこそ、悲惨な老後ひとりぼっちにならないために、として最終章で「今から押さえておくべき20のこと」を挙げておられる。どれもこれも頷ける内容だ。

 全編を通じて幸せなひとりぼっちになろう、という愛に満ちているように感じた。保証人なしでは入院・手術も出来ない日本という国を憂い、保証人がいないひとりぼっちの人は死ねというのか?!と問いかけながら、ひとりぼっち時代の問題点、乗り切り方を指南する。

 おひとりさま女性を応援する団体を立ち上げて20年の松原さん。30年近く前に「クロワッサン症候群」などを書いておられた。相変わらず歯切れの良い元気な文章を書かれているが、ふと略歴を見れば47年生まれ。もうすぐ70歳だが、現役バリバリだから古希などという呼称はとても失礼だな、と思わずにはいられなかった。

 2冊目は山岡淳一郎さんの「長生きしても報われない社会―在宅医療・介護の現実」(ちくま新書)。
 3年前に義母を、先日父を見送ったこともあり、なんとなく惹かれるようにして手に取った。帯には「末期がん、認知症、寝たきり・・・。病院以外に行先はあるのか?大往生どころか、普通に死ねない。」とある。これまたなんと暗いこと・・・。

 山岡さんは59年生まれで、80歳を超えたご両親は地方都市でお元気で暮らしておられるという。それでもご自身も50代後半になり、色々思うこともあるようだ。
 健康長寿は何より素晴らしいことだ。けれど、平均寿命と健康寿命の間に歴然とタイムラグがあるのは厳しい現実だ。

 内表紙には「長い療養が必要な病気にかかったとして、安静に過ごせる居場所はあるだろうか。『病院から地域へ』という掛け声のもと、地域包括ケアシステム、在宅医療が推奨されているが、その内実は患者をないがしろにするものが多い。そういった環境の中で、私たちは安心して長生きし、死を迎えることが出来るのだろうか」とある。その重い問いかけの中、身近な現場から地域、自治体、国へと枠を広げながら日本の医療の問題点とそこに残された可能性を探った本書は、読みながらしんどくなって何度も深呼吸をしながら読み進めた。

 3冊目は小林聡美さんの「読まされ図書室」(宝島社文庫)。
 帯には「ときに奮闘、ときに思案 14人の推薦本をめぐる小林聡美の読書日記 待望の文庫化 読書の愉しみが広がる1冊」とあり、迷わず手に取った。
 そう、これは挿絵を描かれたさかざきちはるさんの言葉をお借りすれば、「小林さんが色々な方から薦められた本を読み、推薦者から投げかけられた本というボールを受け止めて、鮮やかに返球した小林さんのエッセイ集」である。

 つまり、ご本人によるお薦め作品を紹介するものではなく、「職業いろいろ、老若男女から他人勝手に推薦された本から生まれたエッセイ集である。ときにそれは他愛に満ちた本、ときに偏愛に満ちた本、挑戦に満ちた本―。送り込まれる数々の難球を打ち返してきた小林さんによる汗と涙の記録でもあるのです・・・」と冒頭にご本人が書いておられるが、こんな機会がなければ一生手に取らなかっただろう本が沢山。

 14人14色の個性豊かな様々な本たち。推薦人も豪華絢爛のラインナップ。井上陽水さん、群ようこさん、長塚圭史さん、酒井順子さんなどなど。恥ずかしながら告白すれば、この14冊のうち、私が読んだことのあるのは僅か2冊・・・であった。シュン。

 そのうちの1冊、よしもとばななさんが推薦された佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」。小林さんは「元気にのん気に死ぬ方法」と書いておられるが、佐野さんが転移性乳がんを患っておられたこともあり、私自身とても興味深く読んだのを思い出した。

 そしてよしもとさんと小林さんの「本から始まる生きる気まんまん!な話」と題されたスペシャル対談、これもまた面白くあっという間に読んでしまった。1冊なのになんだか14冊読んだかのように心豊かになった気分。
 小林さんの緩急極めたエッセイ力に脱帽である。
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2016.9.22 紙に潰されて命を落とすかもしれない・・・

2016-09-22 21:44:44 | 日記
 何を隠そう夫から言われた言葉である。
 「貴女はこのままでは紙で命を落とすよ」と。つまりは所有している紙(書類等)が多すぎる、ということだ。

 先日の3連休、実家訪問した初日を除き、ほぼ2日間を丸々潰して、これまでアンタッチャブルだったリビングの壁面棚の断捨離に着手した。
 これは全面的に片付けなければまずい・・・と重い腰を上げたのは、ある探し物が見つからなかったから(片付け始めてからほどなくして、無事見つかった。)。

 とはいえ、ちょっと上っ面でお茶を濁していても抜本的な解決にはならない。冷静に考えれば、土日のうち1日は実家詣に取られ、1日は溜まった家事をこなし、ちょっと息抜きもしたいとなれば、断捨離のためにまとまった時間を取ることは難しい。どこかで1日休暇を頂くとか、3連休で2日自由に使えるという日以外考えられない。ということで、敬老の日を当て込んで決行した。

 初日は朝から晩まで1日9時間以上、2日目は出かける予定を除き、それでも5時間ほどだったか。捨てても捨てても、出てくる、出てくる紙、紙、紙。紙の洪水である。

 以前、母は非常に物持ちが良いと書いたけれど、私の物持ち(夫に言わせれば溜め込み癖・・・ヨーガ八支則のヤマ(禁戒)5番目のアパリグラハ(非所有)である。)も相当のものであることに今更ながら気付いた。
 20年くらい前の書簡など平気で保管している。どうしても手書きのハガキや手紙が捨てられない。ちょっと読み始めてしまうと当時のことが蘇って・・・。息子を出産後、育児と仕事の両立に悩んでいた頃のもの、病を得た折、お見舞いに頂いた励ましのカード類、息子の受験関係の書類等々、エトセトラエトセトラ。けれど、今回心を鬼にして処分することにした。

 先日、母から「あなたのが出てきたのだけど・・・」と譲り受けた小学校時代の健康カードに啞然としたのだが、それに比べればまだ30数年新しい息子の小学校から高校の健康カードや成績表類・・・、これもごくごくエッセンスだけ残してファイリングした。
 人様から頂いて封筒に入りっぱなしのスナップ類や、旅行先での記念写真は処分出来ず、別にまとめた。
 まだまだスッキリ!というわけではないけれど、どこに何が入っているのか、頭に入れ直すことが出来た。

 そして、まっさらのエンディングノートも2冊出てきた(1回ではなくて2回請求しているところが整理の悪さを物語っており、トホホである)。これも追い追い書いておかなければ、と思う。先日父の葬儀を経験して、書いておくべきことや書いておいた方がいいと思うことは具体的にわかったので、以前より数段書き易くなっているかもしれない。

 そんなわけで、ダイニングテーブルから床から、足の踏み場もないほどの書類にまみれ、休日をいいことに昼食、夕食まで夫に作ってもらい、ひたすら紙に埋もれ埃を吸って、クシャミや咳をしながら断捨離にどっぷり浸かった。
 こうして背中側がスッキリしてくると、今度は目の前の書棚も気になってくる。つい先日、自分の体重ほどの文庫本を捨てたばかりなのに、いつの間にかまた増殖している。
 これらの新書や文庫の類は私が亡くなったらお世話になっている病院に寄付してほしい、と夫には頼んでいるので、書棚に入らなくなっているものだけ見繕って処分しなくては。

 要は綺麗に片付けて暮らすことが出来れば、綺麗をキープしたくなる、ということだろう。掃除や片付けを怠ければ家の中も気持ちも荒んでくる。けれど、綺麗になった部屋をあえて汚したくはなくなるものだから、綺麗はキープ出来る筈だ。こうして良い循環を呼び込みたいものだ。

 というわけでこの秋分の日も、紙で命を落とさないために黙々とお片づけに取り組むつもり・・・だった。
 ところが、朝は起きたものの体調がとても悪い。なんとか溜まった洗濯を干し、朝食の支度はしたけれど、怠くてフラフラして頭も痛いし、気持ちも悪い。力が入らない。天気の所為か気圧の所為か、はたまた昨日の治療疲れか副作用か。よくわからないがとにかくダメである。

 出勤ならば気力で頑張るのだが、今日は休みということで身体がダラリとしてしまったのか。予約したヨガもキャンセルし、断捨離どころか終日ソファで横になってしまうという体たらくだ。せっかくお片付けモードになったのに、と一人ごちていると、夫が「まずは体調管理が一番でしょ。」と。仰る通りなのだけれど・・・。

 一昨日届いたお花のこと。記録のためにメモしておく。デンファレが3本、黄色いソリダコが2本、赤い実が可愛らしいヒペリカムが2本、そしてドラセナの葉。私が病院前泊のため不在だったので、夫が「実は活け花界の奇才なのだ。」と投げ入れ、LINEで送ってくれていた。
 花言葉はそれぞれ「美人」、「永遠の少年」、「きらめき」だという。奇しくも我が家の仏様のお彼岸のために買ってきたお花がデンファレとスプレーカーネーションとドラセナの葉。仏花には相応しくないかと思うが、義父母はこうしたハイカラな花が好きだったので、ということで和花よりも洋花を選んでいる。

 明日は元気になっていますように。週末はまた実家で打ち合わせが控えている。
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