楽しみにしている毎日新聞の連載。以前何度か取材を受けたことのある記者の三輪さんが治療薬の影響で骨折され、退院後リハビリを経て、この春関西へ転勤になった。引越し等でご多忙を極めておられるのは存じ上げており、体調を案じていた。
そんな中、今朝、待ちに待った新しい記事が掲載された。
拝読するに、乳がんステージ4歴10年超え、今もフルタイムで仕事を続けさせて頂いている私の気持ちをまさしく代弁してくださっている!と胸が震え、膝を打った。
長文だが、同じ立場の方たちに是非お読み頂きたいと思い、ご本人の了解を得て、以下、全文を転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
がん・ステージ4からの眺め 仲間に感謝し定年まで働く(毎日新聞2018年5月30日 東京朝刊)
今、がん患者の3人に1人は就労可能な年齢(20~64歳)で罹患(りかん)している。病状や治療の副作用は個人差が大きく、進行したステージ4でも働ける人は少なくない。必要なのは「自分らしく」働ける社会だ。
「葬式で、子どもに拍手で送ってもらえるような生き方がしたい」
腎臓がんステージ4の平松茂生さん(59)=愛知県尾張旭市=は、テレビ制作の第一線で仕事を続ける。2014年春、人間ドックで病が分かった。自覚症状はなく、「告知されても、まるで現実味がなかった」。右の腎臓を全摘。半年後、術後の治療中に肺への転移が判明した。
●「辞められない」
大学卒業後、ずっとテレビマンとして生きてきた。制作会社で順調にプロデューサーへと階段を上った。55歳での告知。役職定年を迎えて給与は減ったが、長女が大学に、長男が高校に進学するタイミングと重なった。教育費に加えて治療費が肩に重くのしかかり、「仕事は絶対に辞められなかった」。
現在、月1回の治療で約16万円を支払う。高額療養費制度で7万円ほど戻ってくるものの、負担は大きい。治療は「分子標的薬」。時期によっては強い副作用に襲われる。激しい下痢もあれば、手先の痛みでパソコンのキーをたたけなくなることもある。足の痛みがひどい時は、自宅で、はいながらトイレに行かなければならない。
「それでも、病気になって良かったことは数え切れません」。そう話す平松さんの表情に陰りはない。周囲の気遣いや、さりげない一言。制度こそ整っていないものの、会社は平松さんの働き方に、柔軟に対応してくれた。レギュラー番組は難しいが、特別番組のプロデューサーとして今も現場で指揮を執る。「仲間に恵まれた。仕事中は、病のことは忘れて走り回っています」。肺の腫瘍は治療で小さくなり、三つ目の今の薬で1年半、病をコントロールできている。
「病気の前より、ずっとアクティブになった」。告知されて「やることメモ」を作った。「あの店のあれが食べたい」というたわいのないものから、海外の思い出の地への家族旅行……。「項目が減っていくと、死が近づくようで怖い。でも、新たに増やせるのは喜びです」。半年後に定年を迎えるが、平松さんはその後の再雇用を希望するつもりだ。がんがわかってから、ロケット関連の特番を2本制作した。2年後の東京五輪の年には新型ロケットの打ち上げや「はやぶさ2」の帰還など、宇宙関連の取材テーマも尽きない。それまでも、その後も、走れる限りは走り続けたい。
●復帰渋る校長
埼玉県在住の公立中学教諭、新井美子さん(52)=仮名=に子宮体がんの存在が分かったのは15年7月。2カ月後に手術が決まり、休職に備え、終電まで自習用のプリントを作る日々が続いた。いざ開腹すると、卵巣にも腫瘍が見つかる。多重がんだった。
1カ月で復帰可能という診断だったが、抗がん剤治療も加わり、校長から「完全復帰でなければ周囲に迷惑がかかる」と言われ、翌年3月まで休職。何とか職場復帰を果たしたが、その年の12月、腹膜への転移が判明する。この時点でステージ4。昨年1月に再び休職し、抗がん剤治療を始めた。
会社員の夫(55)と長男(18)の3人家族。働かなくても暮らしは成り立つが、「この仕事が大好き。人を育てるのが楽しい」と新井さん。脱毛はあるものの副作用は比較的軽く、日常生活に支障はなかった。セカンドオピニオンを求めた腫瘍内科医からも「治療しながら仕事をする人は多い。両立を目指そう」と背中を押される。しかし新たに赴任した校長は「治るまでは治療に専念したほうがいい」と復帰を渋った。だが、ステージ4は基本的に完治は望めない。このままずっと職場に戻れないのか……。
政府の「がん対策推進基本計画」では、がん患者の就労が重点課題になっている。しかし現実には、教員といえども壁は厚い。新井さんは、がん相談支援センターや法律事務所、市教委など、あらゆる機関に相談した。結果、県の教職員組合幹部が市教委や校長と交渉してくれ、昨年8月にようやく復帰がかなった。
●サポート教員を
通院以外は、今も休むことなく仕事を続けている。「周囲の協力がなければここまで来られなかった」。職員会議で、新井さんのサポートを校長が呼びかけ、同僚も何かと手を貸してくれる。仕事は定時で終わらず、帰宅は午後9時を回るが、夫が自分の仕事を持ち帰って食事の支度をするなど、家族の協力も大きい。今、新井さんが望むのは「サポート教員」だ。通院のスケジュールに合わせて授業を組んでも、薬が変われば通院の頻度も変わる。同僚にかける負担も減らしたい。出産や育児のように、時短やサポート教員の制度が整わないものか。
現在、体の不調は感じないが、検査結果によっては薬を変える必要が出てくる。薬が尽きれば、その後は新薬を待つか治験を受けるか。
「でも、私には使える薬がまだあと二つある。こんな体だけど、定年まで働きたい」
●社会に貢献したい
乳がんステージ4の記者自身も、08年暮れの告知後、1年の休職を経て8年半、治療をしながら仕事を続けている。昨年末、骨転移の薬の副作用で大腿(だいたい)骨骨折をしたことは前回の記事(2月15日)に書いた。そしてこの4月、東京から大阪への異動が決まった。つえをついた足での引っ越しは楽ではなかったが、無事に荷造りができたのも、すべて仲間のおかげだ。
病を得ても、人生はいや応なく続く。ゴールが一瞬でも視界に入ったからには、最後まで自分らしく、そして社会に少しでも貢献できるような生き方がしたい。ステージ4でも働きたいと思う患者の多くが、そう願っているのではないか。【三輪晴美】=随時掲載
(転載終了)※ ※ ※
最初の腎臓がんステージ4の男性は、役職定年の年に初発・再発されもうすぐ定年を迎えられるという。その後もまだまだやりたいことが、とのこと。本当に眩しくも素晴らしい。
ここにあるとおり、仕事をしていると病気のことは忘れる。それこそが何よりの効果だと思う。もちろん、治療中だから体調には山あり谷ありだけれど、365日ずっと具合が悪いわけではないし、24時間床に臥せっているわけでもないし、安静にしていたからって治るものではない。そして少しでも元気で体力がある方が抗がん剤の副作用も酷く出ないという。
だからこそ、動けるときには体力を落とさないように筋肉を落とさないように、なるべく動くこと、それこそが治療に負けない身体作り、患者としてやるべきこと、というのは先日も記事にしたことだ。
私は初発43歳、再発は46歳だったから、定年には14年もあった。当時は50歳まで生きられるかどうかという認識だったから、こうして定年の話題を取り上げることが出来る日が来るなどとはゆめゆめ思わなかった。
けれど、今や定年まであと4年弱となった。2020年、東京オリンピックまで生きていられるだろうか、と言いながら旅立った患者仲間も数知れない。気付けば、遠い先と思っていたオリンピックがあと2年なのだ。もしかしたら、この目で見ることが叶うかもしれない。いや、出来れば見届けたいと思っている自分がいる。
この頃には大学5回生の息子も無事社会人として、それなりに自分の道を歩んでいることだろう。高校卒業を見ることも叶わないのではと思ったことを考えれば、子育ても充分やり遂げた、と自分なりに及第点を出してもいいのかもしれない、という気持ちだ。
そして、もし望んでもよいのならば、このまま定年まで勤め上げられれば、とも思う。もちろん、贅沢な願いであるのはわかっているから、あまり欲張らずに今までどおり一日一日を精一杯、結果としてそれがついてくればもう最高、なのだけれど。
職住近接の職場で慣れた仕事を続けさせて頂くという、出来過ぎともいえる就労環境を手放さないために、定年まで働きたいと就いた地方公務員の職を思い切って辞し、大学法人の固有職員となって4年目の春が終わろうとしている。
当時転職に尽力してくださった上司が「退職金を2回もらえるように頑張ってくださいね。」と、お茶目に笑って仰ったのをつい昨日のように思い出す。「いえ、そんなに長く生きているかどうかは・・・」と答えたのだった。今、定年まで7年を遺した50代での転職がもうすぐ折り返し地点だと思うとやはり感無量だ。定年のその先を考える余裕はまだないけれど、「え?結局○○さんは定年まで働いたの?随分しぶとかったわね~」と笑われても、それで一人でも多くの同じ病の患者さんを勇気付けることが出来れば、本望だ。
そして、二人目の女性教員のケース。
再発患者が一番辛いのは「治るまでは治療専念した方が」という上司の言葉だろう。「だって、再発したら完治はしないのですよ、治るまで休め、ということは一生復帰が叶わないということですよ」と正面切って言えたらどんなにか楽だろう。同じことを言われた記憶があるので、胸が痛む。
同じ病を患う知人に、再発してすぐに休職してしまった女性がいる。初発の時に退職しようとしていた彼女に「辞めるのはいつでも出来る、でも今は辞めないのが主流になりつつあるのだから、どうか早まらないで」と説得し、その時は復職が叶った。
けれど、それからほどなくのことだった。再発と転移がわかったのだ。復職したばかりの職場でどう言われたかはわからない。彼女の心が折れてしまったのかもしれない。結局、彼女はこのタイミングで長期休職に入ってしまった。
今も時折メールでの励ましを行っているが、レスはなかなか、ない。家で悶々とネットサーフィンをするほど哀しいことはない。なんとか復職のタイミングを見つけないとこのまま戻れないことになるのではないかと心底案じている。
周りの皆にはちゃんと知ってほしい。再発しても治療のスケジュールと体調のアップダウンをなんとかやりくりしながら働き続けられることを。再発イコール即、死であったり、即、もう働けない、ということではないということを。
私が、治療薬が変わるたびに通院の頻度も体調や副作用が変わりながらも、しぶとく勤め続けられているのは、何より職場の理解と周囲のサポートがあることに違いない。けれど、それを不可能と決め付けるのは早計なのだ。
先日、患者会の会長さんから「あなたは十分以上に役に立っている」という有難いお言葉を頂いた。
どなたかの役に立てる、そうあることがどれほど嬉しく、励みになることか。
病気にならなかったら、私はこんな言葉を頂けなかったかもしれないーそう思うと、これもまたキャンサーズギフトなのかもしれないという思いを噛み締める雨の夜である。
そんな中、今朝、待ちに待った新しい記事が掲載された。
拝読するに、乳がんステージ4歴10年超え、今もフルタイムで仕事を続けさせて頂いている私の気持ちをまさしく代弁してくださっている!と胸が震え、膝を打った。
長文だが、同じ立場の方たちに是非お読み頂きたいと思い、ご本人の了解を得て、以下、全文を転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
がん・ステージ4からの眺め 仲間に感謝し定年まで働く(毎日新聞2018年5月30日 東京朝刊)
今、がん患者の3人に1人は就労可能な年齢(20~64歳)で罹患(りかん)している。病状や治療の副作用は個人差が大きく、進行したステージ4でも働ける人は少なくない。必要なのは「自分らしく」働ける社会だ。
「葬式で、子どもに拍手で送ってもらえるような生き方がしたい」
腎臓がんステージ4の平松茂生さん(59)=愛知県尾張旭市=は、テレビ制作の第一線で仕事を続ける。2014年春、人間ドックで病が分かった。自覚症状はなく、「告知されても、まるで現実味がなかった」。右の腎臓を全摘。半年後、術後の治療中に肺への転移が判明した。
●「辞められない」
大学卒業後、ずっとテレビマンとして生きてきた。制作会社で順調にプロデューサーへと階段を上った。55歳での告知。役職定年を迎えて給与は減ったが、長女が大学に、長男が高校に進学するタイミングと重なった。教育費に加えて治療費が肩に重くのしかかり、「仕事は絶対に辞められなかった」。
現在、月1回の治療で約16万円を支払う。高額療養費制度で7万円ほど戻ってくるものの、負担は大きい。治療は「分子標的薬」。時期によっては強い副作用に襲われる。激しい下痢もあれば、手先の痛みでパソコンのキーをたたけなくなることもある。足の痛みがひどい時は、自宅で、はいながらトイレに行かなければならない。
「それでも、病気になって良かったことは数え切れません」。そう話す平松さんの表情に陰りはない。周囲の気遣いや、さりげない一言。制度こそ整っていないものの、会社は平松さんの働き方に、柔軟に対応してくれた。レギュラー番組は難しいが、特別番組のプロデューサーとして今も現場で指揮を執る。「仲間に恵まれた。仕事中は、病のことは忘れて走り回っています」。肺の腫瘍は治療で小さくなり、三つ目の今の薬で1年半、病をコントロールできている。
「病気の前より、ずっとアクティブになった」。告知されて「やることメモ」を作った。「あの店のあれが食べたい」というたわいのないものから、海外の思い出の地への家族旅行……。「項目が減っていくと、死が近づくようで怖い。でも、新たに増やせるのは喜びです」。半年後に定年を迎えるが、平松さんはその後の再雇用を希望するつもりだ。がんがわかってから、ロケット関連の特番を2本制作した。2年後の東京五輪の年には新型ロケットの打ち上げや「はやぶさ2」の帰還など、宇宙関連の取材テーマも尽きない。それまでも、その後も、走れる限りは走り続けたい。
●復帰渋る校長
埼玉県在住の公立中学教諭、新井美子さん(52)=仮名=に子宮体がんの存在が分かったのは15年7月。2カ月後に手術が決まり、休職に備え、終電まで自習用のプリントを作る日々が続いた。いざ開腹すると、卵巣にも腫瘍が見つかる。多重がんだった。
1カ月で復帰可能という診断だったが、抗がん剤治療も加わり、校長から「完全復帰でなければ周囲に迷惑がかかる」と言われ、翌年3月まで休職。何とか職場復帰を果たしたが、その年の12月、腹膜への転移が判明する。この時点でステージ4。昨年1月に再び休職し、抗がん剤治療を始めた。
会社員の夫(55)と長男(18)の3人家族。働かなくても暮らしは成り立つが、「この仕事が大好き。人を育てるのが楽しい」と新井さん。脱毛はあるものの副作用は比較的軽く、日常生活に支障はなかった。セカンドオピニオンを求めた腫瘍内科医からも「治療しながら仕事をする人は多い。両立を目指そう」と背中を押される。しかし新たに赴任した校長は「治るまでは治療に専念したほうがいい」と復帰を渋った。だが、ステージ4は基本的に完治は望めない。このままずっと職場に戻れないのか……。
政府の「がん対策推進基本計画」では、がん患者の就労が重点課題になっている。しかし現実には、教員といえども壁は厚い。新井さんは、がん相談支援センターや法律事務所、市教委など、あらゆる機関に相談した。結果、県の教職員組合幹部が市教委や校長と交渉してくれ、昨年8月にようやく復帰がかなった。
●サポート教員を
通院以外は、今も休むことなく仕事を続けている。「周囲の協力がなければここまで来られなかった」。職員会議で、新井さんのサポートを校長が呼びかけ、同僚も何かと手を貸してくれる。仕事は定時で終わらず、帰宅は午後9時を回るが、夫が自分の仕事を持ち帰って食事の支度をするなど、家族の協力も大きい。今、新井さんが望むのは「サポート教員」だ。通院のスケジュールに合わせて授業を組んでも、薬が変われば通院の頻度も変わる。同僚にかける負担も減らしたい。出産や育児のように、時短やサポート教員の制度が整わないものか。
現在、体の不調は感じないが、検査結果によっては薬を変える必要が出てくる。薬が尽きれば、その後は新薬を待つか治験を受けるか。
「でも、私には使える薬がまだあと二つある。こんな体だけど、定年まで働きたい」
●社会に貢献したい
乳がんステージ4の記者自身も、08年暮れの告知後、1年の休職を経て8年半、治療をしながら仕事を続けている。昨年末、骨転移の薬の副作用で大腿(だいたい)骨骨折をしたことは前回の記事(2月15日)に書いた。そしてこの4月、東京から大阪への異動が決まった。つえをついた足での引っ越しは楽ではなかったが、無事に荷造りができたのも、すべて仲間のおかげだ。
病を得ても、人生はいや応なく続く。ゴールが一瞬でも視界に入ったからには、最後まで自分らしく、そして社会に少しでも貢献できるような生き方がしたい。ステージ4でも働きたいと思う患者の多くが、そう願っているのではないか。【三輪晴美】=随時掲載
(転載終了)※ ※ ※
最初の腎臓がんステージ4の男性は、役職定年の年に初発・再発されもうすぐ定年を迎えられるという。その後もまだまだやりたいことが、とのこと。本当に眩しくも素晴らしい。
ここにあるとおり、仕事をしていると病気のことは忘れる。それこそが何よりの効果だと思う。もちろん、治療中だから体調には山あり谷ありだけれど、365日ずっと具合が悪いわけではないし、24時間床に臥せっているわけでもないし、安静にしていたからって治るものではない。そして少しでも元気で体力がある方が抗がん剤の副作用も酷く出ないという。
だからこそ、動けるときには体力を落とさないように筋肉を落とさないように、なるべく動くこと、それこそが治療に負けない身体作り、患者としてやるべきこと、というのは先日も記事にしたことだ。
私は初発43歳、再発は46歳だったから、定年には14年もあった。当時は50歳まで生きられるかどうかという認識だったから、こうして定年の話題を取り上げることが出来る日が来るなどとはゆめゆめ思わなかった。
けれど、今や定年まであと4年弱となった。2020年、東京オリンピックまで生きていられるだろうか、と言いながら旅立った患者仲間も数知れない。気付けば、遠い先と思っていたオリンピックがあと2年なのだ。もしかしたら、この目で見ることが叶うかもしれない。いや、出来れば見届けたいと思っている自分がいる。
この頃には大学5回生の息子も無事社会人として、それなりに自分の道を歩んでいることだろう。高校卒業を見ることも叶わないのではと思ったことを考えれば、子育ても充分やり遂げた、と自分なりに及第点を出してもいいのかもしれない、という気持ちだ。
そして、もし望んでもよいのならば、このまま定年まで勤め上げられれば、とも思う。もちろん、贅沢な願いであるのはわかっているから、あまり欲張らずに今までどおり一日一日を精一杯、結果としてそれがついてくればもう最高、なのだけれど。
職住近接の職場で慣れた仕事を続けさせて頂くという、出来過ぎともいえる就労環境を手放さないために、定年まで働きたいと就いた地方公務員の職を思い切って辞し、大学法人の固有職員となって4年目の春が終わろうとしている。
当時転職に尽力してくださった上司が「退職金を2回もらえるように頑張ってくださいね。」と、お茶目に笑って仰ったのをつい昨日のように思い出す。「いえ、そんなに長く生きているかどうかは・・・」と答えたのだった。今、定年まで7年を遺した50代での転職がもうすぐ折り返し地点だと思うとやはり感無量だ。定年のその先を考える余裕はまだないけれど、「え?結局○○さんは定年まで働いたの?随分しぶとかったわね~」と笑われても、それで一人でも多くの同じ病の患者さんを勇気付けることが出来れば、本望だ。
そして、二人目の女性教員のケース。
再発患者が一番辛いのは「治るまでは治療専念した方が」という上司の言葉だろう。「だって、再発したら完治はしないのですよ、治るまで休め、ということは一生復帰が叶わないということですよ」と正面切って言えたらどんなにか楽だろう。同じことを言われた記憶があるので、胸が痛む。
同じ病を患う知人に、再発してすぐに休職してしまった女性がいる。初発の時に退職しようとしていた彼女に「辞めるのはいつでも出来る、でも今は辞めないのが主流になりつつあるのだから、どうか早まらないで」と説得し、その時は復職が叶った。
けれど、それからほどなくのことだった。再発と転移がわかったのだ。復職したばかりの職場でどう言われたかはわからない。彼女の心が折れてしまったのかもしれない。結局、彼女はこのタイミングで長期休職に入ってしまった。
今も時折メールでの励ましを行っているが、レスはなかなか、ない。家で悶々とネットサーフィンをするほど哀しいことはない。なんとか復職のタイミングを見つけないとこのまま戻れないことになるのではないかと心底案じている。
周りの皆にはちゃんと知ってほしい。再発しても治療のスケジュールと体調のアップダウンをなんとかやりくりしながら働き続けられることを。再発イコール即、死であったり、即、もう働けない、ということではないということを。
私が、治療薬が変わるたびに通院の頻度も体調や副作用が変わりながらも、しぶとく勤め続けられているのは、何より職場の理解と周囲のサポートがあることに違いない。けれど、それを不可能と決め付けるのは早計なのだ。
先日、患者会の会長さんから「あなたは十分以上に役に立っている」という有難いお言葉を頂いた。
どなたかの役に立てる、そうあることがどれほど嬉しく、励みになることか。
病気にならなかったら、私はこんな言葉を頂けなかったかもしれないーそう思うと、これもまたキャンサーズギフトなのかもしれないという思いを噛み締める雨の夜である。