ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.4.28 ハーセプチン91回目、ゾメタ35回目

2010-04-28 21:35:07 | 治療日記
 今日は朝から土砂降りの雨。通院の曜日が変わってもやっぱり天気には恵まれない、と思いつつ家を出た。案の定電車が遅れていて、次の乗換え駅でも1台遅れてしまった。
 病院に到着後、小一時間待って診察室に入った。先日、喫煙席に座った後に咳き込んで息苦しくなったこと、その後も何となく息苦しさと空咳があることをお話しする。喉を見て頂くと、少し赤いということだった。
 次回は2週間後の5月12日に会議が入っていることと、薬(アロマシン)がちょうど5月10日の朝で切れるので、2日早いが10日に採血、レントゲンの一通りの検査の後、診察と点滴。レントゲンの結果により、腫瘍マーカーの結果は待たずに、アロマシンを続けるか新しい薬にするか判断して頂くことにした。
 処置室も満席で、廊下で30分ほど待つ間に売店でお昼のおにぎりを買いに行き、その後点滴椅子に移動した。血圧測定後、お昼前に点滴スタート。今日は刺針があまり痛くなかったので、「今日は痛くなかったです。お上手でした。」と言ったところ、看護師さんから「この年になると(私よりお若いのに・・・)なかなか誉めてもらえなくなるけれど、やっぱり誉めてもらうと嬉しいです。」と言われた。そう、大人だって、ちゃんとやって当然、ではなくて、頑張っていることに誉めてもらえると嬉しいのだ、と改めて思う。
 念のため、ということで胸の音も聞いて頂き、指先の酸素量も測定して頂いた。「特に異常なし」と言われほっとした。これで連休が不安なく過ごせる。まったく毎週お騒がせ、である。

 今日は2冊読めた。
 1冊目はピーター・メイル著・池央耿さん訳『南仏プロヴァンスの昼さがり』(河出文庫)。言わずと知れたプロヴァンスエッセイ3部作の完結編。南仏というと、私はニースのカーニヴァルを覗いたことがあるだけだが、冬の灰色の空の下に数ヶ月いた後に、別世界のような青い海、青い空を見たときの開放感が本当に生き返ったように嬉しかったのを覚えている。“人間や社会の欠陥をあげつらうのはいたって容易だが、著者は「肯定的にものを見る」ことからスタートしているので、めったに人を切り捨てない。お互いに傷つけあわない限り、好きに生きたらいいと不干渉の共存を理想としている。”と訳者のあとがきにあったけれど、生きていく上での安らぎと喜び、平穏と静寂など、読みながらその姿勢にとても共感する。
 2冊目は佐藤優さんの「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮文庫)。“外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して(さすがに驚くべき記憶力である。)『国策調査』の真相を明かす”と裏表紙にあったが、本当に息苦しさを覚えつつ一気呵成に読んだ。「人は内側から崩れる」という言葉に実に重み(などという言葉ではとても片付けられないのだが)があった。

 さて、ブログ開設からちょうど半年が経った。
 先日ある新聞のHPから闘病記サイトというのを見つけた。患者本人が書く、第二の患者である家族が書く、などいくつかのパターンはあれど、“闘病記を書いてみる”ということの効用について、丁寧に述べられていた。

 本当にそうだ、と思う。書くことで冷静になれる、気持ちが整理できる、ということを日々実感している。そして書くことで癒されるし、ああこんなことにくよくよしていたんだ、と落ち着いて自分の気持ちを書き出してみると、なあんだ・・・・、と拍子抜けするようなことも沢山ある。それを頭の中で誰にも相談できず悶々としているのは精神衛生上実に良くない。

 病気になって以降、特に再発して以降は無理にいろいろなお付き合いに出席しなくなった。そのため、親しい人たちに不義理を重ねて申し訳ない気持ちがあった。それでもいちいち各人宛に手紙やメールを送ったり、くどくどと説明するのは相手にとってはあまりに重たいだろうし、どなたにどこまで話したか、記憶がそれこそごっちゃになってしまいそうだった。それで、こうしてブログを始めたことは本当に良かったと思う。
 もちろん自分の膿を出すだけの意味しかないという内容になってしまったときには、それを公開することの是非はあるだろうから、自重しなければいけないけれど。

 今、最初に「治療日記」を書くという機会を与えて頂き、その後「自分のブログを開設したら」と背中を押してくださった「あけぼの会」には改めて感謝している。このブログがなかったら、今もきっとついつい鬱々としてネットサーフィンをすることに時間を費やしていただろうと思う。

 自分でブログを書き始めてからは、先回りしてあまり余計な情報を得ようとするなど情報の海に翻弄されなくなった。それは今、私が主治医との関係にもとても恵まれているし、家族にも職場にも恵まれている、というとても幸せな環境だから、ということなのだと改めて思う。

 これからも自分のために、そして私の安否を気遣ってくださる人たちのために、できるだけ細く長くこのブログを書き続けていきたいと思う。
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2010.4.27 取捨選択ということ

2010-04-27 20:19:06 | 日記
 ひとつを選ぶことはそれ以外のことを捨てること。
 限りある人生を進めていく上では、あらゆることを取り入れることは到底出来ないから、何かを選ぶことはイコール何かを捨てること、ということは残念ながら致し方ないことだ。進学しかり、就職しかり、どんな人も岐路に立った時に、ひとつの道を選ぶことでそれ以外の道を捨ててきているはずだ。その時その時自分にとってベストだと思ったことを選んで。
 もちろん超スーパーマンで気力・体力・精神力・財力が人並み以上の方は、複数かけもちが出来るのかもしれないけれど、私のような凡人は1つが精一杯。自分にとっての優先順位がきちんとしていてブレることがなければ、のちのちいろいろ後悔することも少なくなるのだろう。

 特に最近そう思うことが多い。不思議と再発後は自分が選んだことについて、あまり後から思い悩むことがなくなったように思う。自分にとって、何が今一番大切なのか、何をなすべきか、はたまた何をあきらめるべきか、わりとすんなり決められるのだ。後から(やっぱりああすればよかった・・・)と思わなくなった。その時、ベストだと思って選択したことがちゃんとベストのままでいてくれる感じ。こう思えることはとても幸せで嬉しいことだ。(それしか選びようがない・・・、ということかもしれないけれど。)

 ちょっと無理すればこちらの方がいいかもしれない、でもそれは後で自分の首を絞めることになりそうだからやはりこちらにしておこう、というような勘が“動物的”という言葉がしっくりくる感じで働くようになった。人付き合いも同じで、無理しても行くべき集まりかどうか、体調優先で失礼してもよいものかどうかがスルリと決められるようになった。それに従っておくとミスチョイスがない、と思う。
 今の状況で、八方美人でいるのはとてもじゃないけれど難しい。だんだん自分にとって本当に大切なものだけが残っていくのだろう。

 先日患者会の友人とおしゃべりしたとき、彼女もそう言っていた。
 患者としては私より5年も先輩だけれど、再発したのはほぼ同時期。転移の部位は異なるけれど、今では同じ様な治療を続けてきている同い年だ。

 やはりずっと仕事を続けているのだが、当然休職したり短時間勤務をしたりと、体調に応じてやりくりされているので、人事査定の評価が厳しくなっているという。「毎日フルタイムで普通に頑張っている人が普通の評価なのだから、休んでいる自分がそれより低い評価を受けるのは当然なんだ、とわかっている。わかっているけれど、やっぱり悔しい・・・」と言っていた。彼女の心の叫びに体ごと共鳴した。それは私もまったく同じ。実に同感だ。「今まできちんと仕事をしてきた人であれば、今の状況が悔しいのは至極当然のこと。私も本当は今の役職について降格を申し出た方が良いのかもと思うことがある。」と話した。

 なりたくて病気になったわけでもないし、行きたくて毎週通院しているわけでもない。それでも治療を続けなければ命をつないでいけない、という厳然たる事実。私たち患者はエンドレスに続く治療を受けながら、少しでも長く高額な治療費を支払い続けられるように、仕事も続けたいのだ。そして少しでも長く普通の生活を送りたい。それは単にわがままで迷惑なことなのだろうか。もちろん職場に迷惑をかけたくないし、かけるのは良くない、そう思ってもいるのは当然だ。
 それでも人間は生身。元気で活躍している職場の同僚もいつ同じ立場になるかは神のみぞ知るだ。

 情けは人のためならず、困ったときはお互い様・・・の雰囲気がいろいろな職場にもう少しあれば、病気を抱えている私たち患者だけでなく、子育て中の人も介護中の人もみんながもっともっと働きやすくなるのに、と強く思う。もちろん現在のように不況で就職難の厳しい現実の下、病気を抱えつつ、通院休暇を取得しつつ、こうして働き続けられるということだけでも感謝しなければならないことは間違いないのだが。

 今、私がこの状況で職場を退職してしまったら、再就職することは年齢的にも健康上も望むべくもない。ブログのタイトルでは「再び誇り高く美しく、を目指す日々」と謳いつつも、哀しいかな、現実は見苦しいのは承知で、みっともなくしがみつく生き方・・・をしてしまっているなあと思う。

 さて、もともとタバコの煙は大の苦手。禁煙席でもただスペースを分けただけのものではだめで、しっかり別室になっていないと長居は出来ない方だ。
 先日、どうしても禁煙席に空席がなく何分待つかわからないと言われ、見たところ喫煙中の人がいない席だったので、やむなくそこに座った。すると、隣の若者がとんでもないペースで喫煙を始めた。もちろん喫煙席なのだからそこにいる人たちは吸うのが当然だし、そこで嫌だ、と言ってみても始まらないのは承知の上なので、そそくさと食事を済ませて逃げるように立ち上がった。
 が、その後、ひどい咳き込みが始まり、何度深呼吸をしてみても、夜ベッドに入ってからもずっと肺に空気が入っていかない感じで、どちら側に寝返りを打っても息苦しく肺がつぶされたような感じでずっと寝付けなかった。呼吸が出来ないって本当に苦しい。息を引き取る、というのは決して眠るように静かに、とはいかないよなあ、としみじみ思った。

 そのことを話したら「普通でない(両肺に転移がある)体なんだからそんな場所に座る自分が悪い。」と夫に叱られてシュンとした。
 そう、自分の身はちゃんと自分で守らなければ、と反省した。今後は喫煙席には近づかない、喫煙が予想される会合には自分からは出ていかない、と決めた。残念ながら、また選択肢が減ってしまったけれど。

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2010.4.25  あけぼのハウス・講演会参加

2010-04-25 21:27:48 | あけぼの会
 今日は3月から毎週開催されることになった「あけぼのハウス・第7回」の4月講演会に参加した。「虹のサロン」でご一緒したSさんとKさんと最寄り駅で待ち合わせして行った。

 今日のテーマは『乳がんと心のケア』。講師は埼玉医大国際医療センター精神腫瘍科の大西秀樹先生。先着順、定員72名だったが、会場は満席だった。

 日本では腫瘍内科と同様、精神腫瘍科医(サイコオンコロジスト)-がん患者の心のケアを専門にする医師―は本当にまだ少数だ。そのため、精神腫瘍科の先生のお話が直接聴ける、ということで今日はとても楽しみだった。大西先生(昨年9月より日本サイコオンコロジー〔精神腫瘍学〕学会代表理事に就任)によると、今年ようやく「登録精神腫瘍科医制度」の認定が始まり、第一期生が出るのだという。

 13時から始まった講演はたっぷり1時間半。その間、先生の穏やかだけれどとてもユーモラスで暖かい語り口にすっかり魅了され、たくさん癒されて、たくさん笑って、たくさん頷いて、たくさん涙ぐみそうになった。これまでに出会われた症例を複数出されて、具体的で実にわかりやすいお話だった。

 患者のほぼ2人に1人が精神科の対象になるそうだ。適応障害やうつ病。さらに2年後は当初対象外であった人たちの2割がうつ病になる、とのことだ。病院ではうつ病の患者は1割、さらに終末期になると2割になるという。一般にとても苦しいと言われている化学療法よりもずっと苦しい精神症状だという。治療をしていく上で、悪いこと(○○が出来なくなったなど)でなく、一日ひとつでも良かったこと(空気が美味しかったなど)を思い浮かべるだけで辛い症状が改善していくのだというお話にとても納得した。

 その後1時間にわたって質疑応答。どんどん手が挙がった。まだ告知されて間もない方、手術を目前にしてとても不安な方、とりあえず10年経過したけれど、これからどうしたら・・・という方、等等いずれの質問もその方のお気持ちが良くわかり、その頃の自分に照らし合わせながら何度も何度も頷いた。

 私はようやく今の状況を受容するしかない、という気持ちになったけれど、こうなるまでには実にいろいろあったと思う。それでも先生の「人には立ち直る力がある」という言葉に大変励まされた。そう、浮き沈みがあって当然なのだという。逆に(病気のことを)何も考えない、というのは「否認」であり、それはそれでまた危険なことなのだ。だからこそ、これからもまた何度も落ち込むこともあるだろうけれど、またきっと這い上がることが出来る、と思う。
 そしてどれだけ家族が(特に夫が)メンタルヘルスの面では『第二の患者』なのか、ということも痛感した。自宅で「私は患者なんだから!」といばっていてはいけない、夫や息子のメンタルケアもしなければなあ・・・と反省しきりである。

 その後、「乳がんディクショナリー」の改訂版の打ち合わせ。年末から関わってきたが、ようやく初校が上がってきた段階だった。今日、新たに2人の方がお手伝いしてくださることになり、編集長の事務局Tさんと私を含めて4人の『編集委員会』が立ち上がった。
 次回5月の「あけぼのハウス・講演会」も予約して、帰り道Sさんと30分ほどお茶をして帰宅した。

 今週もまた土・日に好きなことをして出歩いてしまった。そんなわけで今日も結局外食になってしまったけれど、こうして私のわがままを許してくれている夫にも息子にも改めて感謝、感謝・・・である。



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2010.4.24 第九最後のオケとの合同練習 

2010-04-24 20:22:09 | 合唱
 今日はいよいよ前日のゲネプロを除く最後の練習日となった。
 簡単な発声練習の後、オケあわせ。間に10分ほど休憩をはさみ、本当にあっという間の2時間半。ようやく声が出てきたかな、というくらいで「お疲れ様でした。」になった。当日、合唱団は横1列32人が縦10列のひな壇を作るそうだ。緊張し過ぎなどで体調が悪くなったら絶対我慢しないで袖に下がるか、下の段に、という注意があった。確かに10段目はかなり怖いかもしれない。
 指揮者氏から「それでは体調管理をしっかりと、よろしくお願いします。」とお言葉があり、拍手で合唱団は解散。オケの方たちは残っての練習となった。
 休憩時間に先日ご挨拶したオケの先輩が声をかけてくださった。当日は同級生であった奥様も聞きに来てくださるそうだ。

 今日は往復で1冊読んだ。
 山田昌弘さんの「新平等社会 『希望格差』を超えて」(文春文庫)。前著「希望格差社会」の続編とのことだったが、「ワーキング・プア化する若者、『中流』の崩壊と貧困母子家庭の急増、貧困高齢者の『底抜け』などの具体例を挙げつつ、その処方箋を示す。混迷する現代社会に希望を与える刮目の書」と裏表紙にはあったけれど、努力しても報われない絶望感が随所にちりばめられ、やはりとてつもなく重い内容で何度も何度もため息をついた。「人はプライドで生きる存在であり、単に『食べていけること』ではない。」という筆者の考えには実に同感だ。努力しても小さな希望すら持って生活ができない社会はやはりおかしいと思う。解説は雨宮処凛さん。彼女の実体験に基づく文章には本当に迫力がある。

 書くことが好きだし、自分の治療経験なりその時々のいろいろな思いを伝えておきたいということでブログを始めたけれど、当然のことながら中味がないのにアウトプットだけをし続けることは出来ないので、自然とインプットに力を注ぐことになった。

 今では私の生活の上で大きな柱となっている病気の治療のこと、仕事のこと、子育てのこと、それ以外にもなるべくいろいろなことに興味を持ち、偏らないようにいろいろな分野の気になる本を読む、気になった映画を観るなど、日々わくわくしながら柔らかい心で過ごすこと。その結果、前向きに病気と対峙していける・・・上に書いたそうしたこと全てがそういう生き方の助っ人だ。

 今更のように文章は「読まない」と「書けない」な、と思う。
 こんなことは文章を書く他の方々はとっくにご存知なことなのだろうけれど、恥ずかしながら仕事で書く事務連絡等の文章以外、人様に読んで頂くことを意識した文章をずっと書いてこなかった私は、遅まきながらようやく実感している。

 当然ながら自分の中できちんと課題が整理されていないと、文章がのた打ち回ってしまう。自分では十分わかっていたつもりになっていたことを書いた文章なのに、後から日をおいて読むと、てんでわからない。だから、特にこうして数日に一度アップしている日記で事実を羅列する以外の部分-自分の言いたいことや想いなど-はその時に書きたいと思ったことをそのまま書きなぐってアップすることはしないで、なるべく自分の中で何日か寝かせて熟成するのを待ち、もう一度読み直して、少しでも推敲して書くように努めている。このことが分かってはいても「・・・どうしても書きたい!」と思ったことを勢いで書いてしまって、あとから後悔することもたびたびだ。

 いずれにせよ、書くことは、やはり冷静になって気持ちを整理することだ。書くことで問題が全て解決しなくとも、一度“解放”されるような気がしている。少し客観的になれる、ということだろうか。そう思えるだけでとても幸せなことだと思う。

 「読まない」と「書けない」というのは、人の話をよく「聞けない」と本当の意味で納得いくように「話せない」ということとも通じるのだろうか。

 人前できちんと話すのは子どもの頃から本当に苦手で、あがると天性の早口に拍車がかかってしまう。ゆっくり、ゆっくり、と言い聞かせながら話しても知らず知らずに速くなる。自分で一番話しやすい速さというものが 誰しもあるのではないかと思う。だからあまりに自分にとっての適正速度からかけ離れてしまうと、思考が停止して何を話していたかわからなくなる、という経験を幾度もした。

 そうはいっても毎回あせって前のめりにまくし立てて話すのは絶対良くない、と反省する。これもきちんと自分の中で熟成されていないからだろう。病気になってからはなるべくゆっくり話すことを心がけるように意識しているつもりだ。一日一日、一瞬一瞬を大切に、丁寧に。やはりせっかちの私に病気が贈ってくれたものはつくづく大きいなあ、と思う。
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2010.4.21 ハーセプチン90回目 

2010-04-21 19:23:54 | 治療日記
 今日は内科受付後、30分ほど待って診察室へ。特に変わったことはないことをご報告。先生からは「その後、ほくろは大きくなっていないですね?」と気にかけて頂く。またお騒がせしてしまった。
 次週で4月の通院は最後だ。その次の週は連休中の5日になるので、連休明けはお休みして10日の週でよい、とのこと。ハーセプチンは(薬の血中濃度の)半減期が短い、ということで毎週投与とされているが、それほどでもないことが判ってきたそうだ。看護師さんは「とにかく連休明けは予約が大混雑ですごいことになりそう。」とおっしゃっていた。
 今日は日中汗ばむほどのいいお天気だった。点滴椅子も一番窓側でぽかぽかと温室のようだった。血圧測定後、針刺、1時間ほど待って順調に点滴が始まった。

 今日は2冊読んだ。
 1冊目は正高信男さんの「ケータイを持ったサル 『人間らしさ』の崩壊」(中公新書)。題名に惹かれて手に取ったのだが、社会的かしこさは40歳で衰える、の章はちょっぴり落ち込みながら読んだ。「確かに生物学的に見れば人間は『必要以上』に相対的に長い寿命を持つ点では、大変ユニークである。(「必要」とは繁殖を指す。)だから、本来社会的に有用性を失った存在がその知能を衰退させたとしてもさほど不可思議ではなく、むしろ寿命が延長する方向へ進化したことのほうがはるかに謎」という部分には唸ってしまった。さらに少子化の問題等にも論が及び中身満載だった。
 2冊目は湊かなえさんの「告白」(双葉文庫)。今朝のニュースで今年の本屋大賞が発表されていたが、これは昨年の大賞作品。映画化されるということで、予告は映画館でも見て気になっていた。ようやく文庫になったので早速購入した。確かに一気読みしてしまった。面白い、というには重い内容で、読後かなり疲労した。中学生の息子を持つ母親の視線になってしまい、どうしても冷静になれない部分があった。どう映像化されるのか映画も観てこようと思う。

 先日、夫と『マイレージ、マイライフ(原題UP IN THE AIR)』という映画を観た。
 年間322日も出張し、ウイークリーマンションのような無機質な自宅には殆ど帰らずに、空港を我が家と言ってはばからない企業からのリストラ請負人の主人公。私生活にも一切の無駄はいらないと公言し、家族からも「あなたはいない者」と言われるほど関わりの薄い生活を送っている。彼の唯一の楽しみはマイレージ記録を達成すること。そこへ成績優秀な現代っ子ヒロインが登場し、出張の経費削減を高らかに謳い、ネット面接でリストラを強硬するうちに、2人とも本当に大切なものに気づいていく、というお話。
 最初は実にテンポ良く楽しんだが、後半主人公が今まで大切にしていなかったもの(人生の伴侶?)が、やはり必要・・・、と気づくあたりから展開はちょっともたもたした。夫は「やはり女が強い・・・」、とため息まじりに言っていたけれど。それでもヒロインの成長物語、とも観ることができ、なかなか考えさせられた。

 インタビューには実際にリストラされた人たちの実写が入っていたという。
 その人たちが結局自殺もせずに立ち直れたのは家族や恋人のおかげ、と口々に言うのを見るにつけ、本当にそうなんだろうな、としみじみ思った。
 順風満帆な時は飛ぶ鳥も落とす勢いで、自分一人でやっていけそうな感覚に陥りがちだけれど、本当にピンチに立たされた時、普通の精神力の持ち主だったらはやはり一人では辛いだろう。それでも家族をはじめ自分にとって大切な人がそばにいてくれれば、きっと心強く乗り切れる。仮に乗り切れなくても乗り切っていこうと、前向きになれるのだ、と思う。

 先日、鉄ちゃんの息子が大切にしているカメラを「ボクの5番目にランクする大切なもの」と言うので「じゃあ、一番大切なものは?」と聞いたら「家族」と答えてきた。
「へええ、そうなんだ・・・」と言ったら「ボクってかっこいいでしょ」とのこと。
 全くもって誰に似たのか実にお調子者である。

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