ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.10.29 瞑想ヨーガ指導者養成コース後期5日目、幸せな土曜日を過ごして

2016-10-29 21:41:16 | ヨガ
 いつもより早く起床し、洗濯物を干し終えてから、夫を起こす。折角の土曜日、本当ならもっと寝坊をしててもいい筈の夫も、私が出かけるおかげで早起きと早い朝食を付き合わされている。気の毒かなとは思うけれど、まあ早起きは三文の得ということで。

 瞑想ヨーガ指導者養成コースの後期5日目。
 思ったよりお天気はぱっとしない曇天。20分ほど前にスタジオに到着し、すっかり習慣になったガネーシャ像へのお祈りを済ませてから定位置に陣取る。スタジオのあちこちで楽しいお喋りに花が咲いている。

 定刻どおりにSさんが出席をとり、呼吸と瞑想で心を穏やかに整えてからスタート。毎回新しい気分で、昨日まで出来なかったことも今日は気楽にやってみる、自分の心を縛るのは自分だけ、自分の心から解放されていくことの大切さを改めてお話される。

 10日ほど前に瞑想の大きなイベントを終了したSさんが、当日参加された方たちに感想をシェアしてほしいと仰る。私は残念ながら仕事を終えた後、開始時間までにはとても伺えそうになかったのでイベント参加は断念していた。Sさんのブログ等で、素晴らしかったということは分かったのだけれど、過半数のメンバーが参加していたようで、楽しく興味深いエピソードが続く。

 3人のチームになって、この2週間の様子をシェアする。今日もAさん、Nさんとご一緒だ。私以外のお二人は参加されたイベントの話で盛り上がり、次回は是非!と心に決める。

 続いて自分の身体を細かくコントロールしていく練習。7つある頸椎、12ある胸椎を分解して、一つずつ動かすイメージをしながら前後左右に回したり、動かしたり。普段いかに無造作に身体を動かしているのかを実感させられる。鏡がないと自分がどんな動きをしているかもピンとこないのが情けない。

 小休憩の後は股関節。片足を上げて足の付け根で八の字回ししたり、手の指一本一本を独立して動かしたり。大雑把な感覚を繊細にしていく訓練だ。“身体を動かす仕事についている人は、例えば「胸椎3番を動かして」と言われたら、その部分がきちんと動かせるような知識と感覚を兼ね備えていると良い。それによってアーサナをする時も変わっていく。”とのこと。いやはや、これまで半世紀以上そんなこととは無縁に生きてきたわけだから、道は果てしなく遠い。

 続いてウォーリアⅠからⅡ、Ⅲとそれぞれのアーサナをガイドする練習。3人チームで順番にやっていく方法はいつもと同じだ。この英雄のポーズは“負けない自分を呼び起こす”という格好いいポーズである。シヴァ神の悲しい物語がその背景にあるというが、普段なんとなく取っているポーズも分解してガイドするのは難しい。

 そうこうしているうちにランチタイム。2週間前に入れなかったタイ料理レストランへ、リベンジでNさんと向かう。ラッキーにもすぐに入れて、後からいらしたKさんたちと合流して4人で舌鼓。待ち時間もなくゆっくりたっぷり頂けて大満足だった。

 午後のカリキュラムは「感情と対応する肉体」から。感情が肉体に及ぼす影響や細胞に残る記憶、細胞が持つ意識と感情等について学ぶ。お腹は一杯だし、お話も心地よくなんとなく瞼が下がってくる。ある特定のポーズをとったり、マントラやキールタンを歌ったりした時に、忘れていた記憶や感情が呼び起こされる経験をしたことのあるメンバーからの話をシェアする。

 大病や大怪我をした人が翌年の同じ日に同じ症状を追体験することがあるという不思議な話も聞いた。これは身体が何年もかけて記憶として思い出しているそうな。感情と対応する身体の不調についてもなるほどな、と思う情報が沢山あった。

 肝臓の不調は怒りに起因することが多く、肝臓に刺激を与えるアーサナを取るとよいとのこと。実際に寝転がって言われた通りのポーズで自分の手で温めたり、ペアになってお互いに手当をすると、とても暖かく気持ちよく、終わった後にはすっきり。今日は均整術師のK先生とペアを組ませて頂いた。ゴッドハンドのおかげで余計効果を感じられたのかもしれない。怒りの感情を輩出する方法なども各種教えて頂いた。

 続いて、悲しみを溜めると不調が出てくるという肺。簡単な刺激の方法を知り、これは使えると思った。全ての感情のリセットに効果的なポーズであるシンハーアーサナ、ストレスや繊細さから不調が出る胃に効くポーズもとても心地よかった。

 休憩後は恐れ、不安等による不調を起こす腎臓に効くポーズを実践し、嫌なことの記憶がたまりやすいという腸を刺激するガス抜きのポーズ。こうしてゆっくりと身体に良いポーズを丁寧にとった後は少し長めのシャヴァアーサナ。その気持ち良かったことと言ったら。隣からは寝息が聞こえてきて、こちらもちょっと幸せな感じになってしまった。

 また、上手く使えば呼吸法は痛みを取り除きたい時にも使えるというお話があったが、これは既に実感している。胸痛が出た時には深呼吸をして呼吸を整えることで間違いなく痛みが軽減するのだ。残念ながら取り除くところまではまだ達していないのだけれど。うまく自分で調整が出来るようになりたいと思う。

 最後はキールタンを2つ覚えようということで、再び3人チームに戻ってガネーシャとシヴァのキールタンをそれぞれ順番にガイドした。歌いながらガネーシャやシヴァ神に守られ包まれているような温かい気持ちになる。知らず知らずのうちに身体が揺れて本当にいい気分。自分でも不思議なくらい素直にああ、なんて幸せなんだろうと思う。

 ということで、あっという間に今日も1日の学びが終わった。幸せな土曜日だ。「本当にとても楽しかったです。ありがとうございました。」とお礼を言ってスタジオを後に。Sさんからも「見ていましたよ。本当に楽しそうで何よりでした。」と言ってくださった。有難いことだ。正しく使った身体が心地よく疲れ、あちこちの筋が痛気持ちいい感じだ。

 買い物を済ませ帰宅すると、夫が夕食を整えてくれていた。感謝しつつ美味しく頂き、満ち足りた土曜日が終わろうとしている。
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2016.10.28 職場婦人科検診と一日遅れの祝!ブログ開設7周年

2016-10-28 21:06:57 | 日記
 今日は午後、都心まで婦人科検診のため出張。午後から雨、の予報だったがそれより早く、午前中から雨が降り出した。昨日に比べて8度も気温が低いということで、今年も11月を待たずしてタイツデビューしてしまった。

 足元を暖かくしておかないと、足の痺れが悪化するのは経験済みだ。本当は毎朝でも浴槽足湯をしたいのだけれど、なかなかその余裕もない。
 昨夜、注文していたボアタイプのルームシューズが届いたので、早速履いた。スリッパより脱ぎ履きが面倒だけれど、暖かいのでなかなか良い。
 
 午前中に仕事を片づけ、お昼過ぎに検診機関に向かった。今年も昨年と同じ検診機関だ。5年前に初めて診て頂いた時はドクターから「貴女のような(再発治療中の)方は何も検診などしなくてもよいのでは」というコメントがあり、そういうものかなあ、と正直あまり印象が良くなかったのだが、4年ぶりの去年はそんな発言もなく無事終了。そのため、今年も乳がん検診もあわせて申し込みを行った。

 遅い昼食を会場近くで済ませ、最寄駅から徒歩15分以上かかる検診機関を目指した。指定時間の5分前に到着。受付を済ませ、着替えてからロッカーに荷物を預けて問診に呼ばれるのを待つ。

 20分ほど待って問診からスタート。現在の治療状況を報告し、左の傷口付近には押されると痛みがあり、右にはポートも入っているので、とマンモグラフィのキャンセルをお願いする。

 再び15分ほど待って、婦人科検診。何度受けても幾つになっても、なかなかリラックスが出来ない。女性ドクターによる子宮頸がんの細胞診、内診、超音波と続いた。ホルモン治療のことについて若干聞かれたが、それ以外は何らコメントもなかったので問題なさそうと思うことにした。

 さらに15分ほど待ち、今度は乳腺の超音波。万歳の姿勢になってまずは健側の右から。術側の局所再発の部分のしこりが気になることを言うと、しこりが独立していないので骨だと思うが、一応ドクターに申し送りをしておくとのこと。技師さんから「もう12年も経つのですね」としみじみ言われてしまった。確かに初発の頃しこりに気づいたのはちょうど12年前の晩秋の頃だった。

 「ドクターに画像を送りますので、呼ばれるまでまた外でお待ちください。」と言われ、再び待合廊下に出た。15分ほどして今度は女性ドクターによる視・触診は健側から。「治療が一段落しているわけでもないし、何かあってもこちらからいつも通っている病院に画像を送れるわけでもないので、そちらでフォローして頂いたほうがいいと思います。」とぴしゃりとしたコメント。

 まあ確かにおっしゃるとおりなのだけれど、「通っている病院が腫瘍内科で、乳腺の検査はリクエストしない限りして頂けないので・・・」と言ったけれど、取り付く島がない感じ。来年もこの検診機関だったら申し込まないほうがいいかしら、と思いつつ御礼を言って診察室を後にした。

 正式な結果の通知が届くのは後日。そこそこ混んでいたが、思ったより早く終わって滞在時間は1時間半ほど。
 外は冷たい雨。傘をさしていてもレインコートも足元もびしょ濡れだった。いつもより少し早く帰宅することが出来たが、やはり都心往復の検診は精神的にも結構疲れるイベントである。

 そして、表題の後半部分のこと。
 昨日でブログ開設からちょうど7周年になった。昨年までは独立して記事を書いていたけれど、自分で毎年「祝!〇周年」と題して記事を書き続けるのもなんだかなあ、と思い、今日の記事のおまけとして記録として残しておくことにした。

 7年間で2,049、今日の記事で2,050を数える。昨年の記事によると6年間で1,809だったので、この1年で240だ。ほぼ毎日書いていたかつてに比べペースは落ちているけれど、3日に2つ書いている計算だから、今の私にとっては十分だろう。

 振り返れば、この7年の間には言葉に尽くせないことが色々あった。このブログのおかげで有難い出会いもあったし、思いもよらず傷つけられるようなこともなかったわけではない。けれど、それでもこうしてごく普通の生活を続けることが出来、その様子を細く長く続けて綴ることが出来ていることに感謝だ。

 来年もまた、あまりナーバスになることなく、ふと気づけば、あれ、開設から8周年過ぎていたな、と思うような感じでゆる~く過ごしていければと思う。
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2016.10.26 100日ぶり造影CT撮影~頚部から骨盤

2016-10-26 21:45:30 | 治療日記
 昨夜の冷たい小雨があがって、今日は快晴だ。夏日になるほど気温が上昇するという天気予報。暖かく雲ひとつない気持ちのよいお天気だ。見れば木々の葉も随分色づいてきた。季節は確実に進んでいるのを実感する。

 午前中に仕事を片づけ、昼食抜きで病院に向かった。
 今日は、7月以来、100日ぶり4回目のカドサイラ(T-DM1)効果測定になる。前回の撮影は、翌日・翌々日に父の通夜・葬儀を控えてドタバタかつヨレヨレの状態で受けたのだった。記事をアップする余裕すらなかったと見えて、記録がない。

 翌週の診察記事によると、やはり肺の腫瘍はどれも大きくなる傾向にあり、各所少しずつの増大。その1年ほど前の去年6月末(カドサイラ(T-DM1)の最初の効果測定時)のCT画像と比べると、どれも明らかに大きく濃くなっていた。ただし、タイケルブからカドサイラに変えた時点(2015年2月)のように、腫瘍の位置が心臓に接近しているというわけではなかった。

 右肺の中ほどの腫瘍がだいぶ大きくなっており、胸膜を押しているように見えるので、これが更に大きくなって胸膜を破って外に出てがん細胞がばらまかれると、胸水が溜まって辛くなるとのことだった。とはいえこの段階ではまだ胸水はないし、新しい病変もない。骨の病変は安定しており、肺の腫瘍の増大がこのスピードでいられるのもカドサイラ(T-DM1)のおかげでしょう、とのことだった。

 結局その後、なんとか暑い夏を乗り切り、夢だったインドへの旅も実現させ、実家の後始末に加え、瞑想ヨーガの指導者養成コースを受講しながら今までやり過ごしてきている。

 最寄駅でも乗換駅でも電車は順調。病院前の桜の葉も赤く色づき始めている。予約時間の30分前に到着。自動再来受付機にIDカードを通し、受付番号票を受け取り、エスカレーターで2階の放射線受付へ向かう。数人が待合椅子に座っている。受付後はいつものようにCT準備室の前廊下へ移動する。

 こちらには待ち人がいない。ほどなくして名前を呼ばれ、着替えを済ませ造影剤注入のためルート確保の針刺し。今日も右腕の一番太い真ん中の血管から。看護師Mさんは初めての方だったが、針が太いのでやはり痛む。生理食塩水のパックが下がった点滴棒に繋がれながら、CT撮影室前で待つこと15分。予約時間ちょうどにスタートした。

 造影CT撮影は、何もなければ概ね半年に1度のペースだが、薬のチェンジを先延ばしにしていることで、3ヶ月に一度と頻繁な経過観察になっている。今回も上手くかわし切ることが出来れば、次回3か月後は年明けになる。このままなんとか2年間、カドサイラ(T-DM1)にお世話になることは出来ないかと望んでいる。いずれにせよ、まだ残されたカードは複数あるのだから、心も身体もうまく折り合いをつけながら機を逸さずに決断していきたいと思う。

 ベッドに寝て万歳の姿勢をとり、顎を上げる。最初は造影剤なしで、次に造影剤を入れて計2回の撮影。所要時間は僅か10分ほど。
 造影剤が注入されるや否や、薬液のツーンとする匂いが鼻を突き、瞬く間に血液とともに体中を駆け巡る。体の中心部がカーッと熱くなるえも言われぬ感じにも随分慣れっこになった。とはいえあまり気分のいいものではない。

 「息を吸って。止めて下さい・・・。」を繰り返して無事終了。息を止めているのはゆっくり数えて15秒ほど。ヨガの完全呼吸法が自然にできるので余裕である。看護師さんに針を抜いてもらうと、「あ、お久しぶりです。〇〇です。」と声をかけられてびっくり。以前化学療法室にいらしたOkさんだった。4月からこちらに異動されたのだという。「調子はいかがですか。」と問われ、近況報告。布テープできつく止血をしてもらい、ご挨拶をして部屋を出た。

 1階に降りて、会計を待つ。待合椅子には沢山の人が溢れていた。30分ほど待って自動支払機で1万円弱をお支払。本日の病院滞在時間は1時間半弱。

 いつものことだが、来週の診察時までは普段どおりに過ごし「結果を聞くまで、余計なことは考えない」。今の治療(+αでヨガや瞑想など適度な運動、食欲の秋を楽しみつつ食事を三度三度きちんと摂り、睡眠もしっかり確保するなど、生活全般)が“奏功している”ことを信じ、心穏やかに過ごすに限る。どんな結果になるのか気に病んでみたところで結果が変わることはないし、良いことは何一つない。

 お腹がペコペコ、喉もカラカラで駅へ向かう。日傘をさしていても、歩くと汗ばむほど。3時のおやつの時間にようやく遅いランチにありつけた。造影剤を排出するために意識的に水分をたっぷり摂って帰途についた。

 半日とはいえ病院を往復するとやはり疲れる。結局今日も夕食は帰宅途中にスーパーでお弁当を調達してしまった。作れれば作れた方がいいし、言い訳じみているのだけれど、体を労わるためには仕方がない、ということで。

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2016.10.23 あけぼの会秋の大会 患者と医師の対話集会~乳がんを賢く治すために~参加

2016-10-23 21:39:36 | あけぼの会
 今日は、患者会の秋の全国大会に、2年ぶり5回目の参加をした。昨年は実家のもろもろで参加を見送ったのだった。穏やかな良いお天気で、遠方から参加する会員の皆さんにとっても優しい日和となった。

 途中のカフェで軽食を摂っていると、プチ虹のサロンのSaさんから、私の分まで席を取ってくださったというLINEの連絡が入る。有難くも恐縮して会場に向かった。
 去年は大きなホールでの実施だったが、今回は、一昨年シンポジウムに登壇させて頂いた時と同じ、定員250名ほどのこじんまりとしたフロア一体型の会場。満員御礼、熱気でムンムンの開催となった。

 13時から16時半までの長丁場、その後は場所を移してパーティ。例年のことながら企画・準備から後片づけまで、会長さんはじめ事務局スタッフの方々のご尽力には本当に頭が下がる。

 さて、今回は表題のとおり、患者と医師の対話集会~乳がんを賢く治すために~というテーマだ。
 Part1とPart2の2部構成で、いつものように事務局のSさんがショッキングピンクのTシャツに身を包み、元気に司会を務められる。まずは会長さんのご挨拶。お風邪を召しておられて殆ど声が出ない中、著書である「がん患者に送る愛と勇気の玉手箱」の中から“がんのあと潔く生きる10か条”をお披露目される。
 例年冒頭にサプライズゲストとして永六輔さんが登場されてきたのだが、7月に旅立たれたのは周知のとおり。その追悼のお言葉もあった。

 来賓挨拶もなく、すぐに3名の先生方の講演に移る。
 お一人目の演者は「乳がん医療の未来~夢と希望を叶えるために」と題して、がん研有明病院・乳腺センター長の大野真司先生。アメリカはオバマ大統領の“がんムーンショット計画”のお話から始められ、新薬の開発状況、人工知能AIの話題まで、長く再発治療を続けていてもまだまだ希望を捨ててはいけない、ということを改めて思わせて頂ける嬉しいお話だった。

 お二人目は「ブレストケア科の目指すもの」と題して、埼玉医科大学総合医療センタ―・ブレストケア科教授の矢形寛先生。沢山の笑いを取りながらテンポ良い口調でブレストケア科のPRに加え、小江戸という地域を巻き込んだ様々な活動を明るく紹介された。

 三人目は「治療に従事してきて今、強く思うこと 治療方針の決定 Decision Makingは誰がする?」と題して、一昨年Doctor of the Year2014に受賞された国立がん研究センター中央病院・乳腺腫瘍内科外来医長である清水千佳子先生。再発転移がんの治療原則から始まって、日々命と向き合い、ともすれば終末期等重い話題が多くなる腫瘍内科ならではのお話。真面目な先生らしく淡々と進んだ。

 そして休憩。あまりの熱気で酸欠状態になってしまい、ホール外に出て、気分転換を図る。ロビーではかつて東京支部でご一緒したEさんやMさんたちのお顔も拝見出来て、懐かしかった。もう一人のMさんやOさんの姿は、残念ながらもう拝見することは叶わない。定期的に開催してきたプチ虹のサロンも、昨年末SaさんとSiさんにお目にかかって以来、なかなか集まることが出来ずに今日まできてしまっていた。メンバー各々の家族、自分自身の状況がなかなか厳しく時間を取ることが難しいのだ。退院されてまだそれほど時間が経っていないSiさんのお顔も見られて、本当にほっとした。

 後半は「患者はなぜ有名病院へ行きたいのか」というパネルティスカッションがたっぷり1時間以上。実際に有名病院の3人の先生方を前にして、フロアからは自分の体験や、支部として相談を受けた内容などの発言が続く。文字通り参加型のパネルディスカッションだ。

 私自身は、初発ではクリニックから紹介された地域の総合病院にかかり、再発転移した段階で、長い治療を続けるにあたり避けて通れない化学療法の専門家である腫瘍内科医に診て頂けるものなら、とセカンドオピニオンを得たのち、転院した。
 とはいえ、特に有名病院志向であったわけではなく、出来れば通うのに近い病院という条件で、今の病院を選んだ。

 幸いなことに、これまで8年半の治療のおかげでこうして延命して頂きながら、主治医との信頼関係も築けており、節目節目で納得した治療が受けてこられている。そのため、正直なところ、今回のテーマは特に身を乗り出して聴きたいというものではなかった。

 けれど、最後のまとめで会長さんが「このテーマを選んだのは、患者にとって有名病院、名医にかかることよりも、主治医を信頼して良い関係を築けることがベストである。有名病院は治療の節目、セカンドオピニオン等のタイミングで上手く使うことが大切、ということが言いたかった」とおっしゃった時に、我が意を強くした。ああ、間違っていない、私はこれからも今のまま治療と向き合っていけばよいのだ、と力を頂いた。

 お馴染みの「ようこそコーナー」では全国から出席している会員紹介。北は北海道、南は九州の方たちまで、今年も沢山の会員さんたちが出席されている。お揃いの衣装を着て、元気に手を挙げたり、アピールしたり。実にパワフルである。最後は会場前方に支部長さんたちがずらりと勢揃いして、永さんを偲び「見上げてごらん夜の星を」を全員合唱してフィナーレ。歌い終えたところで終了時間となった。

 お開きの後、Saさんと久しぶりに最寄り駅までご一緒し、カフェでお茶をしながらお喋りをして帰途に就いた。そう、2年前の大会でも出席できたのはSaさんと私だけだった。その前の会では5人揃ってお茶をしていたのにね、と昨年のお正月、10月に相次いで亡くなったメンバー2人のことをしみじみと思い出す。

 想えばこの1年、本当に色々なことがあった。これからもきっと山あり谷ありの毎日が続いていくのだろう。けれど、こうして日々を精一杯、そして愛おしく過ごせることに改めて感謝しながら、明日からまた新しい1週間を過ごしていこうと思う10月の夜である。
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2016.10.22 没後100年 文豪の奥様に想う

2016-10-22 22:39:24 | 日記
 今年、没後100年という節目の年であるせいか、夏目漱石の名前をあちこちで眼にする。そういえば夏の初め、松山を訪れた時にも大きな垂れ幕がかかっていた。
 だからというわけではないが、NHKの土曜ドラマ「夏目漱石の妻」は全4回とも予約録画してしっかり視聴した。堪能した。
 役者陣は漱石夫妻を初め、脇を固める俳優さんたちも皆実に芸達者で、大したものだった。

 漱石の小説を何篇か読んだことはあったが、その生い立ちについて殆ど何も知らなかった私。奥様である鏡子さんが悪妻であったという、半ば中傷とも思える話についても全く知らなかったので、とてもフラットな気持ちで見入ることが出来た。
 
 お嬢様育ちだった鏡子さんは、早起きが大の苦手で、出勤する夫の朝食の支度が出来ないどころか、夫が出かけてしまってから起き出すといった、ちょっと笑えないエピソードもあった。慣れない地方での生活、最初の子を流産で亡くし、川に身を投げて自殺を図った後、心配した漱石が手に糸を結んで就寝したというシーンを経て、その後、たくましくも2男5女を生み育てた。

 挙句の果ては10歳年上の偏屈な夫から「ポンポンポンポン、子どもばかり生みやがって」とまで言われる。いかに天真爛漫な奥様といえども「そりゃーないでしょう」と言ったところか。一人じゃ子どもは授かりませんからね。

 貴族院の書記官長等要職を歴任した父に、蝶よ花よと、それは大切にされ、笑顔が絶えない環境で育てられたお嬢様鏡子さんと、幼くして里子や養子に出され、その後実家に戻されてからも実父にあまり尊ばれずに寂しい子ども時代を送った漱石と、“家族”というものに対する思いは全く違ったものだったろう。

 そんな二人があの“修善寺の大患”を乗り超え(それにしてももの凄い吐血シーンだった。もはやこれまでと思ったけれど「大丈夫だから、家に帰る」と妻の手を握って奇跡の復活を果たし、その後、数々の名作を書き残したのだから本当に凄い。)10数年という歳月を経て、いい夫婦になった穏やかなラストシーンにじ~んとした。(そもそも漱石は49歳で亡くなっているから、2人が夫婦であった時間は20年に過ぎない。)

 鏡子さんは悪妻どころか、気難しく小説のことしか頭にない夫を御しつつ、沢山の子どもたちを抱え、家計を切り盛りし、実に肝が据わった大した良妻賢母だと思う。失脚した実父から、漱石に借金の連帯保証人になるように頼んでほしい、と懇願されても、それはさせられないと自分から縁を切る。お金の無心に来た漱石の養父から、夫に不利な念書を取り返すために、質札を沢山手にする生活を続けながらもようやく貯めた10円をポンと渡し、お引き取り願う。漱石の「また一人、身内が減った。身内とは厄介なものだが、自分が生まれてきた証拠のようなものだからね」と呟く。この孤独感に苛まれた台詞には胸が詰まった。

 最終回で「“坊ちゃん”に登場する(主人公を案じる)ばあやの清(きよ)は私のことでしょう?」という鏡子さんからの問いかけに対する「そういうことにしておこう」という台詞に、漱石が妻・鏡子さんを深く愛し、甘えていたのだと感じたのは私だけだろうか。
 齢の離れた夫婦はどこかこんなところがあるものなのだろうな、とやはり齢の離れた夫を持つ妻である私は、ちょっぴりニヤニヤしながら思う。

 その後、鏡子さんは子どもたちや孫たちに囲まれ、夫の死後半世紀近くを生き抜いて、昭和38年に85歳で生涯を閉じたという。そして、何かあれば「私にはお父さん(漱石)が一番」と言っておられたとか。嗚呼、なんとも素敵なご夫妻である。


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