酒井順子さんの「おばさん未満」(集英社文庫)を読んだ。
5歳年下の酒井さんも既に40代の折り返し点を過ぎている。このエッセイの単行本が出たのは2008年なので、40代に入ってまもなくの頃。そして文庫化されたのは2011年夏ということで、ちょうど40代ど真ん中、である。
裏表紙には「若いのか、若くないのか。シミなのか、クスミなのか。あちらとこちらの間で揺れる、微妙なお年頃が40代。・・・まだおばさんではないけれど、もう若者ともいえない・・・と悶々とする女性たちに『痛くない』歳の取り方を明るく提案。」とある。
「髪」、「声」から「旅」、「言葉」、「冠婚葬祭」、「親」、「友達」まで全20編。
どれもこれも、いつもながらの冷静な視点と鋭く容赦ない観察力による分析の酒井節全開。何度も唸りつつ頷きつつ、笑いながら、はたまたちょっと身につまされながら、あっという間に一気読みした。
あとがきでは、ちょうど先日、高校のクラス会に出た私が友人たちと言い合った「全然変わってないわね~」が、久しぶりに同級生等と会うときにまず言い合うべきマナーになってきた、とある。
「おばさん」と自称しながらも実はおばさんだなどとは自覚していない人の多くが、「ぜんぜんおばさんじゃありませんよ」と相手が否定してくれることを密かに期待している・・・など鋭い指摘。
おばさんに順調に移行することが出来た人々はなんだか楽しそう、とも。それは彼女たちが充足しているからこそ、愛情や面倒を他者に与え、幸福であるからこそ、若さや美にしがみつくことなく、普通におばさんになることが出来たのではないか。おばさんになることを拒否したり忘れたりする人が増えることは、社会にとっては損失で、自分のことを「おばさんでない何か」だと思っている女性たちは、年齢的にはおばさんだというのに「優しくされたい」「面倒を見てもらいたい」「他者から愛されたたい」と思い、結果、愛情や面倒の需給バランスが崩れつつあり、誰もが「私のことをチヤホヤしてほしい」とゼイゼイしている、と。これには実に納得した。
アンチエイジングが叫ばれる中、何やら40代になっても50代になっても、ずっと綺麗で居続けなければならないと思わせられるような厳しい世の中になっていると感じる。そうした中、かつての中高年の女性たちより、自分にお金も時間もかけている人が増えているから、綺麗な40代以上が増えているとも思う。
まあ、そもそも50代のくせに40代の本を読むとはずうずうしい!とお叱りを受けそうであるが。女性の平均寿命が90歳近くまで延びた今、人生50年時代の7がけの年齢が実年齢、とかかなり都合のよい話がまかり通っている。それが本当なら、私だってまだ30代後半ではないか(これまたずうずうしい!)。
2年近く前に、このブログで田中ひかるさんが書かれた新書「オバサンはなぜ嫌われるか」の読後感を書いたことがあるが、「オバサン(おばさん)」というと、かつて流行した漫画「オバタリアン」の主人公-パンチパーマで小太りのオニババの如く怖いものなし-の印象が強く、たじろいでしまう。そう言いつつも、ついつい手に取ってしまうのは、怖いもの見たさというかなんというか、複雑な女ごころである。
かく言う私も、何かの拍子に息子に「お母さん、それじゃあもうすっかりオバチャンだよ」と言われてちょっぴり複雑な気持ちになるから、今もなおずうずうしくもお嬢でいたい50代、なのかもしれない。まあ、そんなこと、許されるわけがないのだけれど。
だからこそ、胸を張って幸福な「おばちゃん」になりたいと思う。
今日も1日寒かったが、目覚ましをかけずに自然に目覚められる有難い日曜日。午前中から夕食の仕込みをして、昼前には夫とクリーニング店に出かけ、向いのカフェでのんびりお茶。帰り道はちょっと遠回りをして、我が家の近くにある公園経由でお花見をしてきた。
昼食後、掃除をしてからベーシックヨガのクラスに参加。終了後は夫と待ち合わせをし、買い物をして帰宅した。 息子は一人でスポーツクラブに出かけた後、塾へ行ったが、鍵を持たずに出てしまい、思いのほか早い帰宅だったため、ちょっとの間締め出されてしまうことになった。
かくして今年度も終了。明日から4月、今年もあっという間に4分の1が過ぎた。新しい年度が始まる。
5歳年下の酒井さんも既に40代の折り返し点を過ぎている。このエッセイの単行本が出たのは2008年なので、40代に入ってまもなくの頃。そして文庫化されたのは2011年夏ということで、ちょうど40代ど真ん中、である。
裏表紙には「若いのか、若くないのか。シミなのか、クスミなのか。あちらとこちらの間で揺れる、微妙なお年頃が40代。・・・まだおばさんではないけれど、もう若者ともいえない・・・と悶々とする女性たちに『痛くない』歳の取り方を明るく提案。」とある。
「髪」、「声」から「旅」、「言葉」、「冠婚葬祭」、「親」、「友達」まで全20編。
どれもこれも、いつもながらの冷静な視点と鋭く容赦ない観察力による分析の酒井節全開。何度も唸りつつ頷きつつ、笑いながら、はたまたちょっと身につまされながら、あっという間に一気読みした。
あとがきでは、ちょうど先日、高校のクラス会に出た私が友人たちと言い合った「全然変わってないわね~」が、久しぶりに同級生等と会うときにまず言い合うべきマナーになってきた、とある。
「おばさん」と自称しながらも実はおばさんだなどとは自覚していない人の多くが、「ぜんぜんおばさんじゃありませんよ」と相手が否定してくれることを密かに期待している・・・など鋭い指摘。
おばさんに順調に移行することが出来た人々はなんだか楽しそう、とも。それは彼女たちが充足しているからこそ、愛情や面倒を他者に与え、幸福であるからこそ、若さや美にしがみつくことなく、普通におばさんになることが出来たのではないか。おばさんになることを拒否したり忘れたりする人が増えることは、社会にとっては損失で、自分のことを「おばさんでない何か」だと思っている女性たちは、年齢的にはおばさんだというのに「優しくされたい」「面倒を見てもらいたい」「他者から愛されたたい」と思い、結果、愛情や面倒の需給バランスが崩れつつあり、誰もが「私のことをチヤホヤしてほしい」とゼイゼイしている、と。これには実に納得した。
アンチエイジングが叫ばれる中、何やら40代になっても50代になっても、ずっと綺麗で居続けなければならないと思わせられるような厳しい世の中になっていると感じる。そうした中、かつての中高年の女性たちより、自分にお金も時間もかけている人が増えているから、綺麗な40代以上が増えているとも思う。
まあ、そもそも50代のくせに40代の本を読むとはずうずうしい!とお叱りを受けそうであるが。女性の平均寿命が90歳近くまで延びた今、人生50年時代の7がけの年齢が実年齢、とかかなり都合のよい話がまかり通っている。それが本当なら、私だってまだ30代後半ではないか(これまたずうずうしい!)。
2年近く前に、このブログで田中ひかるさんが書かれた新書「オバサンはなぜ嫌われるか」の読後感を書いたことがあるが、「オバサン(おばさん)」というと、かつて流行した漫画「オバタリアン」の主人公-パンチパーマで小太りのオニババの如く怖いものなし-の印象が強く、たじろいでしまう。そう言いつつも、ついつい手に取ってしまうのは、怖いもの見たさというかなんというか、複雑な女ごころである。
かく言う私も、何かの拍子に息子に「お母さん、それじゃあもうすっかりオバチャンだよ」と言われてちょっぴり複雑な気持ちになるから、今もなおずうずうしくもお嬢でいたい50代、なのかもしれない。まあ、そんなこと、許されるわけがないのだけれど。
だからこそ、胸を張って幸福な「おばちゃん」になりたいと思う。
今日も1日寒かったが、目覚ましをかけずに自然に目覚められる有難い日曜日。午前中から夕食の仕込みをして、昼前には夫とクリーニング店に出かけ、向いのカフェでのんびりお茶。帰り道はちょっと遠回りをして、我が家の近くにある公園経由でお花見をしてきた。
昼食後、掃除をしてからベーシックヨガのクラスに参加。終了後は夫と待ち合わせをし、買い物をして帰宅した。 息子は一人でスポーツクラブに出かけた後、塾へ行ったが、鍵を持たずに出てしまい、思いのほか早い帰宅だったため、ちょっとの間締め出されてしまうことになった。
かくして今年度も終了。明日から4月、今年もあっという間に4分の1が過ぎた。新しい年度が始まる。