ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2017.2.4 立春・・・12年生存率100%!

2017-02-04 21:02:50 | 日記
 ここ数年、立春の日はこの題名で書き続けている。昨年は11年生存率100%、一昨年は10年生存率100%・・・と。
 初発手術から数えて今日で12年が経過。他の部位のがんは5年間無事に過ごすことが出来ればひとまず卒業だが、乳がんという病はその期間が倍の10年間。一昨年まで何もなく過ごすことが出来れば、目出度く“乳がん体験者、サバイバー”となれたわけだ。

 けれど、何度も書いていることだが、現実は3年経たずに両肺、鎖骨・胸骨、縦隔リンパ節等に多発転移判明。卒業どころか、化学療法主体の本格的かつエンドレスな治療が始まり、卒業は望むべくもない生涯患者となってしまった。一口に9年と言っても、言葉に尽くせないほど色々なことがあった。それでもこうして生きている。あれこれ悩んで立ち止まっては落ち込んで、そうした生活もおかげさまで早9年を超えたことになる。

 これまた何度も書いているけれど、再発治療が始まってすぐの頃には、9年後に生きている自分、などとても想像することが出来なかった。当時10年生存率は5%だった。その半分のせめて5年は生きられるだろうか・・・、とすれば息子の成人式はおろか、高校の卒業式に出席することも叶うまい、と覚悟した。

 ところが、その息子、先日無事21歳の誕生日を迎え、4月からは大学4回生になる(筈)。無事卒業して就職、と曲がりなりにも一人で歩き出してくれるまでは親業卒業というわけにはいかないけれど、とにかくかつてのように、子どもが何歳になるまでは、いついつまでは、という切迫感が大分薄らいできている。まあ、20歳を超えた男の人生、もう親がかりではなく自分で切り開いていかねばなるまい、と思うからだ。

 こうして今日まで命を繋げたこと、それを暖かく寄り添いながら支えてくれた方たち、さらには今まで通り働き続けたいという私の贅沢な希望を受け容れ、叶えてくださった職場の方たち、全ての方たちと環境に感謝してもしすぎることはない。素直にそう思っている。

 一昨年は、3年前の初めに開始した内服分子標的薬・タイケルブの効きが悪くなり、薬のチェンジも時間の問題という状況で、その後10年ぶりにインフルエンザに罹ったり、視野欠損等から脳転移を疑う検査もした。

 昨年の今頃は、一昨年2月末から始めたカドサイラ(T-DM1)=数多くの患者仲間たちがこの薬を使わずして死ねないと言っていた薬だ=を減量して、副作用となんとか折り合いをつけることが出来ていたが、それもそろそろチェンジをと言われていた。

 そして、今年。結局、去年1年のらりくらりと薬剤変更を先延ばしにして、先月末からジェムザールにチェンジした途端、初回で早くも好中球ダウン。いきなり休薬という想定外の事態に陥っている。とはいえ、2年半を超えるランマーク注射で、増悪するかと思われた顎骨壊死も、今のところ目だった悪化はないようである。
  
 そんな中、年末年始は親子3世代で温泉旅行に出かけたり、治療薬変更前に滑り込みでヨガリトリートに参加したり、と相変わらず往生際悪くあれこれトライしている。好きなことをしている間は再発患者であることを忘れる。齢50を超え、還暦がそう遠い未来でもなくなってきた今も挑戦してみようと思うことがある-こうした気持ちになれることが本当に有難く、愛おしいことだと思う。

 明日から乳がん13年生。干支を一回りしたことになる。その新しい節目を経過したところで、また新しい1年を歩き始めることにした。これからも頑張りすぎずに頑張って引き続き前を向いて歩いていこう。

 昨年も、また今年になって早々にも患者仲間を見送った。決して他人事ではない。いつもそういう思いとともにある。だからこそ、限られた日々を自分なりに精一杯大切に送りたい、と改めて思う立春である。

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2017.2.3 現場の声をどう掬い上げるか

2017-02-03 21:54:08 | 日記
 通っているヨガスタジオのこと。
 創業以来全国展開してかなりの大所帯になり、なんというかかつての居心地の良さがなくなってきているのを最近とみに痛感している。

 まあ、もろもろお世話になっているし、運動嫌いの私に汗をかく気持ち良さを教えてくれたのに加えて、Sさんとのヨガとの出会いに一役買ってくれた恩人であるから、あまり悪く言いたくはないし、余程のこと(たとえばホスピス行き決定とか)がなければ、休会はしても退会まではしたくないと考えている。

 けれど最近、どうもお客様に対する目線よりも企業目線が重視されているようだ。
 もちろんボランティア事業ではなくあくまでも経営だから、それはある意味当然なのだけれど、それを感じさせずに行うのが経営手腕の見せどころ、といったら望み過ぎだろうか。
 とにかく物販のサジェストがひっきりなし。セールだから、今買わないと、と会員証にチラシをはさんで寄越したり、シールを貼ったり、煽ること煽ること。正直鬱陶しい。

 必要なもので欲しければ買うし、要らなければノーサンキュー。それでいいと思うのだけれど。まあ、社員やアルバイトの方たちにはノルマがあるのだろう。働くということはなかなか大変である。

 そして、突然の色々な変更に現場が毎度毎度右往左往している。いきなりの方針変更(大抵はサービス低下)とかクラス中止とか。それに加えて、若い女性の職場だから突然の妊娠、出産による玉突き異動が激しい。もちろん授かりもの、未来を担う子ども達だから慶ぶべきことなのだけれど、ようやく慣れたのに、という人がどんどんいなくなる。

 今回なんだかなあと思ったのは、マット預かりのロッカーを設置したことによる、待合椅子の全面撤去である。
 壁一面が全てヨガマット預かりの有料ロッカーに変わってしまった。スタジオ前だけでなくロッカールームまでも、である。スタジオ前の待合廊下では出っ張ったマットの壁に寄りかかって休むわけにも出来ず、タオルやお水、マットなどの持ち物も立ちん坊で持つか床に置くかして立ったまま、前のクラスのレッスンが終わるまで待たなければならない。

 レッスン開始30分前からロッカールームには入れることになっているけれど、入って着替えてもスタジオが開放(前のクラスと20分しか間がなく、その間に掃除が入るためせいぜい10分前)されるまで待つ場所がない。
 かといってギリギリに列に並べば、自分がスタジオ内で好みの位置を確保することもままならない。仕方なく延々と順番とりのため、立ったまま待つわけだ。
 リラックスしに出かけているのに、こうしてなんだかなあと思うのは何よりストレスだ。

 そもそも何ゆえマイヨガマットを預かるためのロッカーが要るようになったのか。かつてはマット不要、身体一つでお越しくださいというのがコンセプトで、畳敷きのスタジオにバスタオルを敷いて行っていた。ところが汗で滑るので危ないから、と昨年秋からマット必携、入会時に必ずヨガマットセットを購入して、レッスンで必ず持ってきてくださいと方針に変わったからだ。

 私は徒歩通勤だから、マット持参で仕事帰りに寄ることも電車通勤等の方たちに比べればそれほど大変ではないが(それでも仕事に行くのに大きなマットを担いでいくのは心理的に厳しいので、仕事帰りにスタジオに寄ることは原則なくなった。)、満員電車にヨガマットを担いで乗らなければならない人は大変だ。その時には当分の間、枚数制限はあれどマットを無料で貸し出します、ということになった。けれど、月極めの有料ヨガマットロッカーを作ったことで早晩無料貸し出しも止める方針なのだろう。

 これまでは競合相手がいない一人勝ちのホットヨガスタジオだったけれど、最近他社の追随が喧しい。トップが替わって方針が変わったのかどうか。こういう時こそ、老舗の強みを生かし、新規参入社が持っていない色々なノウハウを生かしてお客様目線の経営が出来ると思うが、そうでもないのだろうか。

 通っているスタジオは昨年秋で10周年を迎えたが、良く顔を合わせていた古参の会員たちは既にごっそりと他スタジオに移っている。だから当然駅でチラシを配ったり、無料キャンペーンを張ったりして新規会員の獲得に勤しんでいるけれど、何だか出入りが激しく落ち着かない。

 うーん、体調もこんなだし、これからどうしたものだろう、と思うのである。
 フロント担当に「座る場所がなくなったのは辛いですね」とお話をしたところ、「私たちもそう思います。でも事前には何も知らされず、いきなりなのです。お客様から色々ご意見も頂いており、申し訳ないのですが、いかんともしがたく・・・」とのこと。「でも本部ってそういうものですよね」と半ば諦めムード。

 そうなのだろう。かつて私もいわゆる本部で働いていたときには、現場の声が大事、迷ったら現場に確認といいつつも、全ての要望を聞いていたら何も出来ないということで、本部としての方針を出さなければいけないことが多々あった。
 だが、こうして現場で働いてみると、当然のことながら本部は現場の大変さを身に染みてわかっていないのだな、と改めて思うのである。

 結局、第一線でお客様対応してくれるのは他でもない現場で、そこが抑えてくれるからこそ本部は拠って立てるもの。
 現場の声に敬意を払わずして発展する会社というのはなかなか少ないのではないかと思うが、どうだろう。

 今日は節分。
 いまだ好中球が底値なのだろう、昨日も今日もかなり体調不良。マスクをすれば息苦しいし、目も涙目で痛くてブルーライトカットのめがねをかけて、もう不審者のごとく、である。
 とりあえず昨日は出張前に必死で業務をこなし、出張後は直帰に出来てよかった。

 今の時期、年度替わりの締め切り仕事が次々とやってくる。今日も朝出勤後は絶不調だったけれど、午前中も半ばくらいからようやく体調が少し上向きになってくる。なんとかこなして、こなして、午後はまた大事をとってお休みを頂いた。気づけばリビングでうたた寝すること2時間以上。

 とにかく今の好中球の状況では感染症が一番怖い。職場は風邪引きさんの咳やくしゃみで溢れている。空気が悪い。乾燥も酷い。けれど、手洗いうがいをしっかりして、家で安静にしていれば特に問題はない。食欲もあるし、ただだるくて横になりたいだけだ。
 夜は夫がいつものように鬼役をして、節分豆まき行事。もはや老境の夫婦2人、つつしまやかな春を呼ぶ行事である。



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2017.2.2 昨日の通院日に読んだ2冊

2017-02-02 21:41:11 | 読書
 昨日は2冊読んだ。
 1冊目は香山リカさんの「さよなら、母娘ストレス」(新潮文庫)。
 帯には「育ててくれたのはあなた。でも、これは私の人生! 母娘問題を乗り越えた精神科医が贈る、6つの処方箋」とある。そして「こんなあなたは必読 ◇もしかして母親に支配され続けて来たのかも・・・?と思い始めている。◇母親は嫌いじゃない、でも好きにもなれない。◇「あなたを育てたのはこのわたしよ」の一言に押し切られたことがある。」とも。

 私は母とは全くタイプが違うし、ある意味反面教師だと思っているので、特に母娘ストレスが大きいクチではないと感じている。が、それでも独身で実家にいた頃、専業主婦だった母から「(あれもこれも)あなたのためを思ってやっている」とか「あなたは(家事は)何も出来ないのだから」と言われる度に、それなりに重たさというかストレスは抱えていた。

 良い子でいるのが当たり前、両親の自慢の娘を演じているのもしんどかった。一人娘だったから旧姓を継ぐために息子を実家の養子にして、もう一人産んだら、と言われた時には思いっきりのけ反った記憶もある(これは母だけの見解ではなかったようだが・・・)。
 私自身は息子一人しか育てていないので、娘を授かっていたらどんな子育てになったのか想像するしかないわけだが、やはり同性同士というのはお互いにその眼が厳しいし、関係は難しいのだろうと思う。逆に男の子だったからある意味割り切れて良かったのかもしれない。

 義理の母と娘なら遠慮があっても、実の母娘には容赦がない。色々なケースを知ると、我が母はごくごく普通の部類だし、世の中には本当に大変な目に遭っている(母という呪縛から離れ切れない、しかもそれに罪悪感を感じている)中年の娘が多いのだと改めて思う。皆、幸せになりたいし、なってよいのに・・・。

 2冊目は酒井邦嘉さんの「脳を創る読書」(じっぴコンパクト文書)。
 帯には「できる人はなぜ『紙の本』を読むのか?言語脳科学の第一人者が説く『考える』ために必要なツールとは!?」とある。裏表紙には「人工物に振り回される現代人へ-なんでも機械化し電子化できるという表面的な見方に対して、人間が大切で譲れないものは何かと考え、未来にどのように向かうべきか決断することが、あらゆる方面で問われている。そういう過渡期を我々が賢く乗り切るためには、人間とはどういう生き物であって、どこが愚かでどこがすばらしいのかということに我々自身が気づかなくてはならない。そうすれば、人間は人工物に振り回されることなく、古き良きものを大切にしながら新しいものを作り続けることができるに違いない。(本書第5章より)とある。

 もはや、紙の本とは古き良きもの・・・なのか、と思う。私はアナログ人間なので電子書籍はどうも苦手だ。かつて、辞書も紙でないと、と書いた記憶がある(これは三浦しをんさんの「舟を編む」だったか。)。

 脳の不思議と「読書」の関係をひもとく、という内容で、第1章「読書は脳の想像力を高める」では●文の構造を見抜く脳のすごい能力、第2章は「脳の特性と不思議を知る」として●脳はなぜ行間を読むことができるのか、第3章「書く力・読む力はどうすれば鍛えられるのか」では●読書量が多ければ多いほど、言語能力は鍛えられる、第4章の「紙の本と電子書籍は何がどう違うか」では●なぜ画面上で見音としていた誤字が紙の上では見つかるのか、最終章「紙の本と電子書籍の使い分けが大切」では●2つの読み方を使い分ければ、「読む力」は鍛えられる・・・などなど、やはりそうだよね、と思う情報が満載。

 当分、というかこのまま私は一生紙の本を読み続けるのだろうな、と改めて実感した次第である。
コメント (2)
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2017.2.1 採血後診察、ランマーク23回目、ジェムザール1クール2回目中止

2017-02-01 21:46:28 | 治療日記
 ここ数年来、涙目が続いている。何の治療薬の副作用か定かではない。それが昨朝はやけに酷く、職場で席に着くと両目が痛くてPCを前に目を開けられない。
 目薬を差してみたり、眉間やこめかみを圧迫したりとあれこれ試したけれど全然改善する気配がない。どうしたものかと案じたが、1時間ほどでなんとか落ち着き、胸をなでおろした。

 何やらフラフラフワフワして怠さもある。そんな調子でだましだまし仕事を片付けながら、夕方までなんとか持ち堪えた。冷や冷やの1日だった。
 帰宅後、夫と夕食を摂り、洗濯物やら何やらもろもろ片づけた後、病院近くのホテルに前泊した。

 今日はジェムザール1クール2回目である。夫にモーニングコールをしてから、熱めの浴槽足湯を済ませる。先週の治療後の食欲不振からようやく脱し、2キロ減った体重を戻すべくビュッフェの朝食をしっかり頂く。美味しく食べられるということがどれほど有難いことか。チェックアウト前にマインドフルネスの鐘の音の瞑想をしてから病院へ向かった。

 今日から如月2月。月初めはいつも混雑しており、今朝も自動再来受付機では数人が列を作っている。採血受付でも若干並び、電光掲示板を見ると、20人ほど待っている。15分待ち。荷物を整理しながら態勢を整えて待つ。番号が出て採血室へ入る。自分が採血台に腰掛けるまでに15分。なるほどと思わせるお見事な見込みである。今日は予定通り治療が出来るかどうかの最低限のチェックだから1本のみ採取。初めての女性看護師さんだったが、1本だけだったから一番小さい容器を使い、あっという間だった。

 止血しながら腫瘍内科受付に移動。月初めの保険証チェックの後、定位置の待合椅子が空いていたので、読書を開始。
 今日は文庫本を2冊読めた。読書記事は明日以降に回したい。

 30分もしないで、“中待合へどうぞ”の番号が電子掲示板に出た。診察中の方が終われば、すぐに私が診察の順番だ。びっくり。こんなに早いのは初めてだ。本に夢中だったので血圧測定もせずに中待合へ入った。

 中待合に入って、5分ほどで先生がお顔を出された。
 「さて、どうでしたか?」と問われ、「思いのほかきつかったです。気持ち悪さが続き、毎食前にドンペリドンを飲んでも日曜日の朝までろくに食べられませんでした。ただ水分は摂れ、便秘も下痢もなく熱も出ませんでしたが2キロ体重が減り、フラフラして怠いです。制吐剤ステロイドの副作用で、不眠はそれほど出なかったのですが、顔がほてって熱っぽく、ムーンフェイスが気になりました。」とお答えする。

 「いや~、採血の結果に出ていますよ。」と仰る。白血球がうんと下がっていますとのこと。PCの画面を見ればなるほど2,700とある。確かに低めではあるが、前回1,500あった好中球が1割弱の260しかないのだ。
 「これで抗がん剤治療は出来ませんから今日は中止ですね」とのこと。トホホ、初回からこれである。なんと薬に反応しやすい単純な身体だろう。先生には「素直ですね、効いているといいですが」と言われる。確かに副作用だけ出て、効いていないのでは哀しすぎる。

 好中球は細菌等の異物が体内に侵入したときに第一線の防御機構として働き、1,000を切ると発熱する頻度が増し、500以下では更に増加、100以下では発熱・感染症は必発であるとされる。
 一番最初に使った抗がん剤タキソテールの初回投与で白血球1,100、好中球が5.5まで下がり、好中球減少症による高熱で緊急入院。ECでも初回に白血球1,300、好中球65に下がり、悪夢再び緊急入院をしたという苦い思い出がある。化学療法に伴う有害事象の重症度をグレード1から4に分類した時、1,500が正常下限のグレード1、1,000以上あればグレード2で化学療法を実施して概ね問題なしとされているが、1,000以下はグレード3で実施不可。さらに500以下はグレード4であり、当然最も危ない状態である。

 「うーん、これは怠かったでしょう?」と言われる。食事が摂れなかったからフラフラすると思っていたのだが、好中球がここまで下がっていたとは。それでも3週間に1度ドンと入れる薬でなくてよかった、と思う。こうして翌週に状況を把握して休薬したり、減量したりと調整が出来るからだ。
 今週はお休み、来週も予定通り休んで、再来週からの2クール1回目は8割に減量して様子を見ましょう、ということになった。

 吐き気も当日直ぐではなく夜から出て数日間続いたので、ステロイドはやめて持続性のアロキシ等に変更してくださるとのこと。今回治療を休むので、これ以上数値が悪化することはないと思うが、お守りのために、と抗生剤クラビットを出してくださった。毎朝ロキソニンを飲んでいるし、熱っぽい時には頓服しているので、その状況で発熱したとするなら7度5分を超えたら飲んでよいそうだ(一般には8度以上で内服)。

 心配だった血小板も16万あるので問題なし、赤血球も大丈夫だそうだ。次回は久しぶりに心エコーの予約が入った。心毒性のハーセプチンをこれからまた延々と使うことになるためだ。
 診察室での検温は6度8分。予想より大分早く呼ばれたので血圧は測る時間がありませんでした、と正直に言うと、いつも問題ないので特に良いでしょうとのこと。「とにかく体重を戻して元気になってまた参ります。」とお礼を言って診察室を出た。
 
 化学療法室へ移動せずに、中待合でランマークが届くのを待つ。待ち時間はいつものように夫やお友達に報告LINEやメールを打つ。入院中のお友達は術後1週間、どうしているだろうと心配である。
 なかなか声がかからない。小一時間ほど待って、ようやく名前を呼ばれる。遊軍の看護師さんが来てくださったが、「ゆっくりお願いします」と言ったら手でよく温めて話し相手になりつつ刺してくださったので、殆ど痛まずラッキーだった。次回の心エコーの予約表を頂き、会計へ向かう。

 計算時間を見計らって自動支払機へ移動。採血とランマーク注射の筈が、なんと1,000円と出る。ランマークが加算されていない。ひとまず支払を終えて、窓口に申し出て確認して頂く。化学療法中止にチェックが入っていたので、全てキャンセルで計算したとのこと。次回は2週間後に来ますというと、その時にまとめてお支払いをお願いします、ということになった。

 外に出ると、風はないし日差しはたっぷりで暖かい。快晴だ。まさか1クール2回目で治療が出来なくなるとは思わず、午前中に病院を後にするなんて想定外。
 また、前回3週間分の薬を頂いているので、何もなければ今日は薬局には行かない筈だったが、急きょ3日分の抗生剤が処方されたので、予定変更。薬局に入ると、相変わらずの混雑。やはり順番を抜かされて30分ほど待った。
 「お熱があるのですか」と訊かれ、「いえ、熱はないのですが、好中球が低すぎて治療中止になりました。水分は摂れていますし、食事も摂れるようになっています。」とお答えする。こちらでは700円ほどの支払い。

 病院と薬局の滞在時間は合わせて3時間ちょっと。夫にLINEで「牛肉も鰻も食べて精をつけなければだめだ」と言われたので、途中駅のレストランで普段は頂かないことにしている牛肉が入ったランチをゆっくり頂き、夕飯には奮発して鰻を買って帰宅した。

 帰宅後は最低限の片づけや実家の母にもろもろの事務連絡。今日はおそらく食欲がなく草臥れているだろうから、夫の分だけお弁当を買って帰る予定だった。ところが、予定変更で休薬になったので、一緒にモリモリと頂く。
 明日は午後から臨時の都心会議。フラフラヨレヨレの状態で出かけることにならなくて本当にほっとした。あと2日、しっかり食べてぐっすり寝て、体力回復に努めれば、きっと元気になる筈である。
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