京のおさんぽ

京の宿、石長松菊園・お宿いしちょうに働く個性豊かなスタッフが、四季おりおりに京の街を歩いて綴る徒然草。

8月は翻る如く

2014-08-30 | インポート

 

 NHK大河ドラマ、今年の主人公は、黒田官兵衛。

 再来年の主人公は真田信繁=幸村。

 どちらも戦国時代を生きた武将である。

 大河ドラマは、二年か三年に一度は、戦国時代が舞台になる。

 

 さて、現在放映中の「軍師官兵衛」は、信長が死に、今まさに秀吉が天下統一をなさんとしている時代に入っている。

 ここからは、関ヶ原の戦いまで、大きな戦というのは、それほど行われない。

 むしろ、権謀術数、政治力によって、世が動くようになってくる。

 そして、関ヶ原の戦いを経て、豊臣の威光は弱まり、家康の時代となる。

 

 1614年、というから、今からちょうど400年前のことだ。

 10年ほど前、征夷大将軍を拝命し、江戸幕府を立ち上げた家康は、家督を既に息子、秀忠に譲り、自らは駿府で隠居生活を送っていた。

 ただ、気がかりなのは、豊臣家が健在であること。

 関ヶ原は、表面上、あくまで石田三成と徳川家康の戦いにすぎなかったからだ。

 豊臣家ある限り、徳川の世も、安泰とは言い切れない。

 これをどうにかしたいと、常々思っていたが、なかなかそのきっかけがなかった。

 しかし、この1614年、とあることがきっかけで、徳川と豊臣との間で、戦が勃発する。

 そのきっかけというのが、方広寺鐘銘事件である。

 

 有名な事件だから、多くの人がご存じだろう。

 方広寺という京都の寺に納められた梵鐘に刻み込まれた文章の中に、「君臣豊楽」「国家安康」の二句があり、それに家康がいちゃもんをつけた、という事件だ。

 豊臣が君で楽であり、家康を切って――二つの字を分けて刻み――国は安らか。

 この二句が、そういう意味ではないのか、というのだ。

 いやいや、長い文章の中に、たまたまそれらしい二句を見つけて、そりゃいくらなんでも無茶苦茶な言い分だ。

 と、思いがちで、家康の底意地の悪さを表すエピソードとして紹介されたりもした。

 しかし、最近では、ちょっとだけニュアンスが変わった説明がされているようだ。

 

 問題の鐘銘の文案を考えたのは、南禅寺の僧で、その僧が後に、その句は、家康に対する言祝ぎの意味で入れた、と言ったのだそうだ。

 つまり、「国家安康」の句は、たまたま入っていたものではなく、家康を意識して入れられたものだ、ということだ。

 しかし、当時の常識として、そういう入れ方は、礼儀にかなっているとは言えないもので、つまり、家康のいちゃもんは、極めて妥当なものだった、らしい。

 考えてみれば、南禅寺の高僧が、そんな常識を知らなかったということもあるまい。

 となれば、家康の主張した通り、やはりそれは家康を呪詛したものだったのかもしれない。

 

 この事件をきっかけに、いわゆる大坂冬の陣が起こり、翌年の夏の陣を経て、豊臣家は滅亡することとなる。

 そんな歴史を転換させるきっかけとなった梵鐘は、今も方広寺にある。

 方広寺は、東山、七条の辺り、京都国立博物館の北側にある。

 当時は大仏もあって、広大な境内を誇った寺も、今はこじんまりとしている。

 その境内にそぐわぬほど立派な梵鐘が、鐘楼に吊られている。

 ご丁寧に、騒動の主役となった二句は、白い枠を書いて囲ってあり、見に来た人にわかりやすくしてある。

 これが時代を大きく動かしたのだと、それを見て覚える感慨は、何とも言えないものだ。

”あいらんど”