京のおさんぽ

京の宿、石長松菊園・お宿いしちょうに働く個性豊かなスタッフが、四季おりおりに京の街を歩いて綴る徒然草。

9月は迸る如く

2014-09-28 | インポート

 

 もしもあなたの隣人が、金色の家を建てたとしたら、どう思うだろうか。

 素敵!って思うだろうか?

 もしも時の為政者、つまり今の世でいえば総理大臣が、金箔張りの家を建てたというニュースを聞いたら、どう思うだろうか。

 さすが!って思うだろうか?

 

 多分、思わないに違いない。

 悪趣味、だとか、贅沢過ぎる、だとか、批判的なことを思うだろう。

 心のどこかで、それをしたい、とか、憧れがあったとしても、いいや、あるからこそ、それを憎悪する。

 それを実際やったのが、金閣寺だ。

 そう考えると、それを建てた足利義満の、その権力と自尊心の大きさも推し量れるというものだ。

 

 しかし、それも時という濾過装置が、嫉妬や羨望というものを取り除き、今は見る人を感動させている。

 舞妓さんは、京都の雅の象徴だ。

 そう言ったとき、それに強く反論する人は少ないだろう。

 しかし、舞妓さんは昔から雅だったのだろうか。

 市井の人々が、そんな思いで舞妓さんを見ていたとは思えない。

 蔑みや妬みと言った感情をぶつけられてはいなかっただろうか。

 

 戦後の高度経済成長期、飲み屋街のネオンは、働く人々の活力になりはしなかっただろうか。

 それが今や、けばけばしい看板といわれてしまう。

 時間がたてば、価値観は変わる。

 同時代では評価できないものが、いくらもある。

 

 京都という都市は、千二百年以上、物事の栄枯盛衰の様を見届けてきている。

 今残っているものは、その風雪に耐えてきたものでもある。

 しかし、これから先、何が残っていくのか、誰にもわからない。

 放火で失われたものの再建された金閣寺は、幸せ者である。

 残っているものは、良いものばかりとはいえない。

 ただ、残された意味はあると思って良いだろう。

 京都観光する時、頭の片隅に、そんなことを置いておくと、さらに味わい深く感じられるかもしれない。

 ”あいらんど”