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先住民族関連ニュース

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アイヌ差別の現状――民族への差別と民族の内なる差別

2018-07-12 | アイヌ民族関連
S Y N O D O S –シノドス 2018.07.11 Wed 佐々木千夏 / 教育学
“アイヌ差別”とは何か
2016年2月、内閣府によってアイヌ民族に関する初の全国調査結果が公表された。それは驚きの結果であった。アイヌへの現在の差別や偏見について、回答者がアイヌの人々の場合には72.1%が「あると思う」と答えたのに対して、国民全体を対象とした同様の質問では、「あると思う」が17.9%と低く、両者の間にかなり大きな意識の差が見られたのである。
さらに見過ごせないのは、差別や偏見があると思うと回答するアイヌの人々のうち、実際に差別を受けたという割合は36.6%であった点である。差別が「あると思う」という割合からは低下するものの、今現在も、決して少なくはないアイヌへの差別が実際に「ある」様子がうかがえる。
しかし現状では、その具体的な不利益や不平等の内実について十分に明らかにされていない。アイヌの人々をめぐる差別の問題は、和人(アイヌ以外の日本人)からアイヌ民族への差別というかたちで語り継がれ、認知されてきた。ところが、アイヌの人々が語る「差別」を細かく調べていくと、たとえばアイヌ民族のほうが多数派となる場所では、和人が差別される対象になる事例も確認でき、多面的・重層的な構造のなかで差別が“受け継がれてきた”ことがわかる。
また、そもそも現代では、純粋にアイヌのみの血筋という人は稀であるため、アイヌとしての血の濃さや別の要素も含めて、アイヌ民族内部にも多様性が生まれている。こうして考えると、アイヌ民族をめぐる差別の問題は、和人とアイヌとの間に起こる民族差別と、アイヌ民族内部に生じる民族同士の内なる差別という構造で全体をとらえ、実態を知る必要があるだろう。
以下では、北海道内の5つの地域調査(2009~2014年)にもとづくアイヌ差別の現状を、結婚や恋愛の場面も含め、彼ら・彼女らのリアルな語りから明らかにしていきたい。その際の表現は、リアルさゆえのものとご理解いただきたい。なお前半では、和人との関係性のなかで生じるアイヌに対する差別の具体的な内容を、ジェンダー差・世代差を視点に紹介していく。そして後半では、「アイヌ民族」という括りのなかに見られる多様性に注目し、アイヌ社会内部で生じている差別の実態を報告する。
薄れつつある民族差別
では、どれほどのアイヌの人々が、いかなるかたちで和人から差別を受けてきたのか。北海道内の5つの地域を調査したところ(対象者計264名)、差別を受けたというアイヌの人々の割合は年齢が上がるほど増え、アイヌ男性よりもアイヌ女性に多いことがわかった(図1、図2)。

図1 地域別世代別被差別経験率

図2 地域別男女別被差別経験率
たとえば老年層(60~70代)、壮年層(40~50代)では、下校途中に“アイヌ、アイヌ”とからかわれ石をぶつけられた、運動会では和人しかリレーの選手になれなかったといった、あからさまなエピソードが多い。現在では和人との混血が進み、外見ではアイヌであることがわからなくなっていることや、差別を受けたくないがゆえにアイヌの血筋であることを公言しないで生活する人も存在することもあり(これはすべて壮年層以下のアイヌ女性である)、青年層(20~30代)では被差別経験は低くなりつつある。
人生の節目につきまとう差別
そうはいっても、冒頭の調査結果からも明らかなように、差別は歴然と存在しており、それは人生の節目に表面化しやすい。人生の大きな節目の一つであろう結婚(恋愛に始まり、ときに離婚にいたるケースを含む)の際の、被差別エピソードはまさにリアルである。
あるアイヌ男性は、交際していた和人女性から「あなたともうつき合えません。○○○人だから」という手紙をもらい、しばらく考えて〇〇〇は「アイヌ」だということがわかった。その後交際していた相手にも、結婚前に身辺調査をされ、結局破談になったという経験をもつ。アイヌ女性では、配偶者から何度も「メノコ」(アイヌ語でアイヌの女の人という意味)と罵られ、離婚にいたったという事例も珍しくない。
そればかりか、アイヌの血筋をもって生まれてきたわが子を、姑から「うちの孫ではない」と否定され、和人の夫にさえ「俺の子ではない」、「子は産むな」といわれ離婚したという事例も確認できた。壮絶ともいえる離婚に関するエピソードは少なくない。
アイヌ男性よりアイヌ女性のほうが差別の風当たりが強いとの調査結果は、こうした恋愛・結婚の場面に加えて、就職の際や職場でのエピソードの多さとも関係している。あるアイヌ女性は、転職の際に友人と面接を受けにいっても、“顔を見て私が落とされる”という差別を受けてきたという。
別のアイヌ女性は、中学校時代、教員に就職の相談したところ、一言「あなたアイヌ民族だから」といわれ、就職を支援してもらえなかった過去を話してくれた。この女性は学校でいじめられることも、恋愛・結婚時に差別を受けることもなかったけれども、唯一、中学校の教員から差別を受けたと語る。
このように、和人からアイヌへの差別は、学校で起きる差別、恋愛や結婚の際の差別、就職時や職場での差別として顕在化しやすく、それぞれが重要な課題をふまえているといえる(図3)。

図3 男女別被差別経験の場・きっかけ(複数回答)
学校での差別は、上述の通り、子どもたちばかりでなく教員からの差別を含み、重大で深刻な結果をもたらす。教員からの差別が原因となって進学意欲を削がれた結果、アイヌの人々のライフ・チャンスが狭められる事例が散見されている。実際に、アイヌの人々は相対的に学歴が低く、中退率も高いことが統計上で明らかになっているのである(表1、図4)。

表1 最終学歴

図4 中退率
恋愛や結婚については、前節で紹介した通り、アイヌ男性よりアイヌ女性の方が不利益を被りがちであった。実際に和人へのインタビュー調査からも、「見た目でアイヌという感じの人と結婚しようとは、間違っても一緒になろうとは思わなかった」、「死んだ親父にメノコでもいいから再婚するようにといわれた。心の中で冗談じゃないよといっていた」(ともに和人男性)という意識が語られており、アイヌの女性が和人との恋愛や結婚を成就させるために、並大抵ではない苦労を経験していることが感じ取れる。
就職における差別は数としては多くないものの、その理由として“アイヌ労働市場”の存在が指摘できる。というのは、アイヌ集住地域にはアイヌの人が多く働いている職場―スナック等の酒場、民芸品店、漁業・水産関係のほか、アイヌの人がオーナーを務める会社など―が存在しており、そうした場所に就職を“水路づけられた”結果、アイヌへの差別が抑えられている実態がある。すなわち、職場で差別が起きていないのではなく、たんに和人とアイヌの棲み分けがなされていることの結果なのである
民族内差別の多様性
以上からは、これまでの人生に和人からの差別の経験が拭いがたく刻まれているアイヌの人々がたしかに存在していることがわかる。しかしながら現在、アイヌ差別は和人とアイヌの関係性だけで完結するような状況ではない。
誰がアイヌ民族かということは和人よりもアイヌの人々の間で認知されやすい。なによりアイヌというエスニック・アイデンティティを抱え続けるのはアイヌ自身である。そのため、アイヌ社会の内側で互いに偏見をもったり、差別が起きるという事態が徐々に確認されつつある。さらに和人養子や和人配偶者の場合など、アイヌ社会のなかでは少数派として存在する和人たちの存在も見過ごすことはできない問題を生む。
次は、こうしたアイヌ社会内部の多様性とはどのようなもので、いかなる差別を生み出しうるのかをみていきたい。
アイヌ社会における和人差別
和人よりもアイヌの人々のほうが多数派となる場面として、アイヌ協会などの民族活動の場がある。アイヌの配偶者をもつ和人妻・和人夫がこうした活動に参加した際、アイヌの血筋にある者から、アイヌ語で和人を意味する「“シャモ”のくせに」と差別的な言い方をされることは、それほど珍しいことではない現実がある。
また、「夫が亡くなったら、自分はただのシャモだから、アイヌ文化関係の団体から抜けるべきではないかと後から入ってきた若い人たちにいわれた」というように、アイヌとの婚姻によって家族を築く和人配偶者の立場は、本人だけがアイヌの血を引いていないという点でも、アイデンティティのゆらぎを経験しやすい状況にある。この点については、和人配偶者がアイヌ社会においては和人として退けられ、和人社会においてはアイヌ側の人間として退けられることから“ダブル・アウトサイダー”としての側面を持つことが指摘されている。
結婚相手にはアイヌを避ける
結婚の際にアイヌ民族内部からその相手を選びたがらないという傾向は、男女どちらの側からも把握できる。アイヌ男性側からは、「もし妻がアイヌだったら結婚しなかったかもしれない。相手の女性がアイヌだったら恋愛の対象にならないというのでは失礼だし、差別のようになってしまうが、子どものことを考えると普通の人がいい」という証言がある。
この“子どものこと”という部分には、子どもにアイヌの身体的特徴である「体毛の濃さ」や「彫りの深さ」が遺伝してほしくないという意味が込められている。アイヌ社会には、自らの民族の血を薄める戦略として和人との結婚を望み、アイヌ同士での結婚を避けたがる人々がいることを確認できる。
この傾向はアイヌ女性の側でより顕著で、「アイヌのおばあちゃんたちに“シャモと結婚するだよ”とよくいわれた」という話が多いように、年長世代から和人と結婚するように教え込まれ、「物心ついたときには毛深い人とは結婚しないと思っていた。見た目でアイヌとわかる人は嫌だと思った」といった意識を形成しているパターンが目立つ。
否定的な感情からアイヌ性の隠蔽へ
アイヌとしての自分自身に対して、否定的な感情を抱くケースも当然存在する。両親ともアイヌという家庭に生まれた女性が、「母さんと父さんの子に生まれたから、私こんなにみっともなくて、毛深く生まれた」といってしまったことを後悔していると打ち明けてくれたことがあった。
彼女は同時に、「肌(外見)から差別されたり、軽蔑されたりするのは嫌だから、絶対アイヌの人としか結婚しない」という気持ちや、和人とは結婚しないのではなく「できない」というふうにも話しており、アイヌであることに否定的なエスニック・アイデンティティがうかがえる。
他方、アイヌに対する否定的な感情を、客観的に「アイヌ民族」そのものに対して抱いている人も一定数存在する。たとえば、「当時のアイヌの方のイメージとしては、着るもの、家のなかがだらしないと思っていた。飲み会の時のだらしない姿もすごく嫌だった」、「小さい頃に、アイヌ民族は汚いというイメージがあった。お祭りで酔っ払ってふらふらしている人がいて、だらしないイメージが残っている」といったものがある。
こうした人々のなかには、外見でアイヌと判断されやすい人々が差別されているのを見かけることで、自分自身がアイヌであることを隠蔽するケースがある。民族差別も民族内差別も経験したくないためにアイヌであることを公表しないのである。
加えて、アイヌ性の隠蔽は、親から子どもにおこなわれることもある。わが子への血筋の告知は「避けている」、「自分の方から子どもに伝えるというのは今でも難しい」と語る壮年層の男性には、父親として苦悩する親心がうかがえる。告知によって子どもがアイヌというエスニック・アイデンティティを否定的にとらえないかどうかという配慮と、差別を被らないかどうかといった懸念が入り混じっている。
エスニック・アイデンティティの弱まりと差別
以上のように、アイヌであることを否定的に捉え、差別が起きないように影を潜めて生活する人々がいる一方で、混血が進んでいる現在では、アイヌというエスニック・アイデンティティをそこまで意識せずに生活するアイヌの人々も多い。とりわけ若い世代からは、「自らアイヌだと主張する人は、ずるい人が多い」、「アイヌであることをなぜそこまで気にするのか」、「アイヌという言葉を自ら差別的だと思っている方がおかしい」というように、アイヌであることには立脚しない意見が集まる。
しかしこうしたなかで、次のような考え方は問題になってくる。あるアイヌの青年男性の語りである。
「やっぱりその血が濃いとか薄いとかって、顔を見るとわかるんですけど、ちょっとひどいというか、ちょっと濃いめの人はそういうふうに。いじめというか。結果的に、アイヌというそのものに対していじめられてたわけではないんですね。やっぱり外見だったり、ちょっと性格が少し変わってたりして、アイヌだからというのではないと思うんですよ」。
かかる考え方には、アイヌとしての血が濃い人に差別が起きた場合、「アイヌそのもの」に対してではなく、「外見」が「性格」と同等のものとして、あたかも自己責任であるかのように位置づける意識が伏在している。アイヌの人々の間でエスニック・アイデンティティが相対的に弱くなってくると、“アイヌ民族の個人化”が進行し、結果として民族内外における差別が助長されることにもなりかねない。
“アイヌ差別”は終わらないのか
私たちは、民族差別と民族内差別が入り混じる現代のアイヌ差別をどう解釈したらよいだろうか。一つには、今後、ますますアイヌと和人との混血が進み、世代交代によって民族差別は徐々に影を潜め、その代わりにお互いにアイヌであることを認知しやすい民族内差別が強まっていくのではないかという考え方がありうる。
しかし、アイヌとしての若い世代では、たしかに和人からの被差別経験は減っているけれども、アイヌであるのにその伝統や文化を知らなかったり、披露できなかったりすることが、新たなかたちで批判の種となり、「ばかにされた」、「あの屈辱は忘れない」という経験を語ってくれた若者もいる。今後、アイヌ差別が単純に民族差別から民族内差別へとスライドしていくとはいいがたいだろう。
もう一つの考え方として、民族内差別は民族差別と表裏一体の関係にあり、和人からの差別がいまだに根強いからこそ、その影響がアイヌ同士の間に波及し、互いに差異化しあうという状況を生み出し、民族内差別として湧き起ってきているという見方が成り立つ。そうだとすれば、民族内差別は、いまもなお和人からの差別や偏見がアイヌの人々を苦しめていることの証左である。民族内外を含むアイヌ差別をなくすためには、何よりもまず、現存する和人とアイヌの間に生じている民族差別の解消に努めなければならない。
ヨーロッパで移民に対する迫害が深刻化したり、トランプ政権の誕生によって人種間の対立がクローズアップされるようになっている今日、アイヌ民族に向けられる差別についても、その動向に十分に注意を払っていかなければいけない。しかし、冒頭の内閣府による全国調査でも明らかなように、アイヌ民族に対する国民の理解は建設的な議論ができるほど進んでいないし、成熟もしていない。
今後は、大きなズレとして生じていたアイヌと和人それぞれの意識の差―現在でも、アイヌの人々のほうが圧倒的に多くアイヌへの差別や偏見があると回答している―という状況に一人ひとりの国民が改めて向き合い、理解を深めていくことが求められているのではないだろうか。
※この論考は、小内透編『先住民族の社会学 第2巻 現代アイヌの生活と地域住民―札幌市・むかわ町・新ひだか町・伊達町・白糠町を対象にして』(東信堂、2018年)に書いた第7章を改編したものである。また、図4に関しては、野崎剛毅「教育不平等の実態と教育意識」小内透編『現代アイヌの生活と意識―2008年北海道アイヌ民族生活実態調査報告書―』(北海道大学アイヌ・先住民研究センター、2010年)より引用した。

現代アイヌの生活と地域住民―札幌市・むかわ町・新ひだか町・伊達市・白糠町を対象にして (先住民族の社会学)書籍
価格¥ 4,212
作者小内 透
発行東信堂
発売日2018年4月1日
カテゴリー単行本
ページ数322
ISBN4798914576
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佐々木千夏(ささき・ちなつ)
教育社会学
1980年生まれ。北海道大学教育学部卒業、同大学院教育学院博士課程修了、博士(教育学)。現在、旭川大学短期大学部幼児教育学科助教。研究キーワードは、不登校、エスニシティ。主要著作に「構成員からみる不登校の親の会の変化と現在」『現代社会学研究』(24巻、2011年)、「博物館・劇場を通したサーミ文化の再生と復興」『北欧サーミの復権と現状』(東信堂、2018年)、「現代におけるアイヌ差別」『現代アイヌの生活と地域住民』(東信堂、2018年)等がある。
https://synodos.jp/society/21668

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松浦武四郎とアイヌ民族の絆、音楽劇に 13日から札幌公演 アップダウン2人芝居

2018-07-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/12 05:00
 北海道の名付け親とされる幕末の探検家、松浦武四郎とアイヌ民族の長老の友情を描いた音楽劇「カイ」が13、14の両日、札幌市内で上演される。吉本興業所属の道内出身のお笑いコンビ「アップダウン」による2人芝居で、脚本と音楽は札幌出身のミュージカル作家まきりかさん(49)=横浜市=が担当。3人は「ふるさと北海道の開拓の歴史を知る機会になれば」と話している。
 北海道命名150年を記念した道の「北海道みらい事業」の一つ。武四郎は、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた北海道を6回にわたって訪れ、詳細な記録をまとめた。その際、アイヌ民族の長老から教わった「この地に生まれた者」を意味するアイヌ語「カイ」が北海道命名につながったという説もある。
 劇はアップダウンの竹森巧さん(40)=渡島管内森町出身=、阿部浩貴さん(41)=札幌市出身=の2人が、武四郎や長老、幕府の役人ら計10人を演じる。絶妙な掛け合いが劇の随所にちりばめられ、2人は「中高生にも楽しく見てもらえる。見終わった後に北海道がもっと好きになるはず」。まきさんは友情を描いた脚本について「ミュージシャンや俳優など2人が持つ多彩な才能が生かせるものに仕上がった」と話す。
残り:255文字/全文:763文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/208034/

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幕末の道東舞台「オセロ」14日札幌公演 カムイノミ、踊りに磨き アイヌ民族の5人も出演

2018-07-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/12 05:00
 シェークスピアの四大悲劇の一つ「オセロ」を幕末の道東に舞台を移して翻案した演劇「アイヌ オセロ」の札幌公演に、アイヌ民族の踊り手5人が出演する。道内初上演で、刺しゅうの様子やアイヌ語のせりふが新たに加わった。出演者は「物語に込められたメッセージを北海道で伝えたい」と稽古に励む。
 仙台市の劇団「シェイクスピア・カンパニー」が上演し、釧路市阿寒町の演出家秋辺デボさん=本名・日出男=が共同演出で参加。原作では黒い肌の軍人である主人公オセロをアイヌ民族、白人の妻デズデモーナを仙台藩士の娘に置き換え、2人の恋を通して差別問題を問いかけた。
 1月に仙台、6月には東京で公演し、好評だった。踊り手たちは、結婚式の場面で神々に祈る儀式カムイノミや踊りを披露する。札幌公演では、オセロの戦功をうわさする場面が加わり、出演者たちは仕事の合間を縫って、アイヌ語の長せりふや動きを練習している。
 踊り手のうち、釧路市阿寒町の1人を除く4人は札幌在住者だ。新谷由美子さん(49)は「動作やせりふで観客に分かりやすく伝えるのが難しい」、早坂ユカさん(48)も「登場人物の繊細な心の動きを感じてもらえるよう、舞台をもり立てたい」と意気込む。
 公演は7月14日午後3時から札幌市中央区北2西7の「かでる2・7」で行われる。前売り3千円、学生2千円で、当日は各500円増し。
 問い合わせは劇団事務局(電)090・5840・1103へ。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/208057?rct=n_culture

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隈研吾氏の寒冷地住宅を客室に 大樹のメムアースホテル9月開業

2018-07-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/12 05:00
 【大樹】建築家の隈研吾氏が監修した寒冷地向けの実験住宅など、民間の研究施設を活用した宿泊施設「メムアースホテル」が9月中旬、十勝管内大樹町の牧場跡地にオープンする。実験住宅は、アイヌ民族の伝統的家屋チセをモチーフに、断熱性に優れる客室として開放。放送作家・脚本家の小山薫堂(くんどう)氏らが設立した運営会社が運営に当たる。
 研究施設は、一般財団法人LIXIL(リクシル)住生活財団(東京)が2011年、同町芽武(めむ)の18万5千平方メートルの牧場跡地に整備。小山氏が経営する東京の企画会社などは16年夏、施設を借りて試験的にホテルを開業後、新たな運営会社を設立し本格オープンを目指してきた。
 メインの客室は、隈氏が設計した実験住宅「メーム」。光を透過する2重の膜材で屋根、壁を造ることで、柔らかな外光が室内に入る。1階建て約80平方メートル。暖房には地熱を利用、暖気を膜の間に通すことで断熱性を高めた。ほかに牧場の厩舎(きゅうしゃ)を改装するなどし、複数の宿泊棟を設ける。旧倉庫を改築したレストランも設け、地元食材の料理を提供する。収容人数は全体で30人ほどの見込み。メームを使う高級プランから、宿泊棟に泊まる格安コースまで、多様な価格にする。当面は土日限定だが、今年中には年中無休の営業を目指す。体験型観光も行う考えで、ホテルの佐藤剛史支配人は「文化発信基地として、多様な体験を提供したい」と話す。予約は近くホテルのホームページ(http://memu.earthhotel.jp/)で受け付ける。(大能伸悟)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/208037

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<西郷隆盛と大久保利通>第12回~維新とは何だったのか(上)

2018-07-12 | アイヌ民族関連
読売新聞 2018年07月11日 05時20分
開国決断のとき
 明治維新というと、幕府が倒壊し新政府が成立した1868(明治元)年をイメージしますが、歴史家の間では、53年の黒船来航に始まり、幕末~明治20年代までの激動期をさすことが多いようです。
国書奉呈のため上陸し、久里浜応接館に向かうペリー提督(中央)=米国議会図書館蔵
 この<あたらしい「世界と日本」史>では、これまでペリー来航から77年の西南戦争に至る24年間を追いかけてきました。
 日本と米欧との交流史を振り返りますと、西洋人の本格的な来日は1549年、ポルトガル系のイエスズ会宣教師、フランシスコ・ザビエル一行の鹿児島上陸に始まります。15世紀後半から16世紀にかけ、ヨーロッパ諸国が海外に積極的に進出した「大航海だいこうかい時代」のことです。
 その後、日本は17世紀前半にキリシタン禁教令を出し、「鎖国」政策をとります。それでも、長崎(対オランダ・清国)、対馬(対朝鮮)、薩摩(対琉球)、松前(対アイヌ)と、対外的に四つの窓口が開かれていました。
 ところが、18世紀末になると、日本周辺に新たに外国船が出没し始めます。まず、ロシア船が根室と長崎にやって来て通商を求め、1808年にはイギリス軍艦が長崎に侵入する事件が起きました。このため、幕府は25年、異国船打払令いこくせんうちはらいれいを出しますが、37年、日本人漂流民を送り届けにきたアメリカ商船を撃退するという失態を演じます。
 46年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航して通商を求めます。幕府は拒絶しますが、アメリカは改めて、同艦隊司令長官ペリーを派遣して幕府との本格交渉に乗り出します。ペリーの最大の目的は、北太平洋横断航路の開設に向け、日本に燃料などの補給港を設けることでした。
阿部正弘(国立国会図書館ウェブサイトから)
 アヘン戦争(1840~42年)での清国敗北を知っていた幕府の老中首座・阿部正弘まさひろ(在職45~55年)は、アメリカの「砲艦外交」を前に54年、限定的な「開国」(日米和親条約)へとカジを切ります。
 アジアでは、イギリスが征服したインドで大反乱(1857~59年)が起き、英仏連合軍が清国を相手に第2次アヘン戦争(56~60年)を始めるなど、列強によるアジア支配の風波が高まります。
 後継老中で開明派の堀田正睦まさよしは、阿部の政策転換を引き継いで国交・通商開始の方針を固め、58年、大老の井伊いい直弼なおすけが勅許ちょっきょ(天皇の許可)を得ないまま、日米修好通商条約の締結(58年)を断行します。
 幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結びます。当時、欧米各国は日本を「半未開国」とみなして対等な扱いをせず、条約は不平等なものになりました。こうして条約改正が明治新政府の最重要課題として浮上し、とくに領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復が急務となるのです。
富国強兵の始まり
 阿部老中は、開国問題をめぐり諸大名や幕臣に意見を求めました。併せて、これまで実質的な政治決定の場から外してきた朝廷にも報告をあげます。
 この異例の措置は、徳川とくがわ斉昭なりあき(水戸)や松平まつだいら慶永よしなが(越前)、島津しまづ斉彬なりあきら(薩摩)らの幕政参加の道を開き、彼らは政治的発言力を強めます。
 その結果、幕府の政治的権威は損なわれ、逆に朝廷の立場が向上。幕末期、武士や豪農らの間に浸透していた国学の尊皇思想などが、この流れを後押ししました。
 他方、外国との通商によって富国強兵を図ろうとする論議が、幕府内部で始まるのもこの時期です。開国によって産業・交易を盛んにして「富国」をつくり、その利益で「強兵」を養おうという構想でした。
フランス皇帝から贈られた軍服姿の将軍・徳川慶喜(国立国会図書館ウェブサイトから)
 すでに薩摩藩で反射炉(金属精錬用の炉)や造船所、ガラス製造所が建設されるなど、多くの藩が洋式軍事工業を導入。兵器の製造や輸入にあたり、軍備を整えていました。
 幕府も66年、徳川慶喜よしのぶが「最後の将軍」の座に就くと、全面的な開国体制へ移行します。フランスから陸軍教官を招いて常備軍を創設し、フランスの資本・技術援助の下、横須賀製鉄所を開設。幕政改革も進めて幕府権力の強化をはかりました。
 日本政治外交史家の三谷太一郎氏の著書『日本の近代とは何であったか』によれば、日本の近代は「同時代のフランスのナポレオン三世をモデルとする徳川慶喜政権の近代化路線に発」しており、「文明開化」や「富国強兵」のスローガンは、「当時この路線を方向付けるものとして作られ、福沢諭吉らによって唱えられ」たものでした。
 慶喜は政争に敗れて政権交代するわけですが、結局、「幕末の近代化路線は、ほとんどそのまま明治政府によって継承」されたということです。
 日本は、このスローガンに基づいて、半世紀の間、政治的にも経済的にも軍事的にも近代化を遂げ、20世紀初めには「一等国」入りします。
 そして大正・昭和戦前期も、この路線は、近代日本を貫くひとつの棒のようなものとして在り続け、これが挫折するのは、1945年のアジア・太平洋を舞台とする「昭和戦争」の敗北によってでした。
尊皇攘夷の結末
 幕末期の日本では、さまざまなスローガンのもと、政治運動が展開されました。その一つが「尊皇攘夷そんのうじょうい」であり、もう一つが「公武こうぶ(公家と武家)合体」の運動でした。
 尊皇攘夷運動に火をつけたのは、井伊直弼による無勅許の条約調印でした。これは尊皇にもとる行為であり、不平等な条約は破棄されるべきだ、というのがその理由でした。
 井伊が暗殺されると、幕府と朝廷の融和を図って新しい政治の枠組みをつくろうとする公武合体の動きが出て、薩摩、長州両藩も朝廷との公武合体を試みます。
 薩摩の島津久光が勅使を伴い江戸で幕府の人事改革を実現すると、長州は、将軍に上洛じょうらく(京都行き)させて攘夷断行を迫り、63年には下関海峡を通過中のアメリカ、フランス、オランダ艦に砲撃を加えます。
 しかし、英仏米蘭4か国の連合艦隊との交戦で惨敗し、薩摩も、生麦事件(イギリス人殺傷事件)の報復に出たイギリス軍艦の砲火を浴びます。列強の軍事力に圧倒された両藩は、ともに「攘夷」を捨てます。
 薩摩藩と会津藩の公武合体派は63年、急進尊攘派の長州藩勢力と公家らを京都から追い出します。長州は逆襲に転じ京都に出兵しますが、会津、薩摩など諸藩兵にはねつけられました。しかし66年、幕府による第2次長州征討を前に、今度は薩摩と長州が同盟関係を結びます。「昨日の敵は今日の友」です。
 幕末政局が緊迫する中、慶喜は67年、大胆にも政権を朝廷に返上(大政奉還)し、武力倒幕めざす薩長が用意した「討幕の密勅」を無力化させます。
 慶喜も薩長も、「王政復古」と「公議政体」を実現する点では大きな違いはありませんでした。だが、これを誰の手でどのように実行するかで対立しました。
 68年、幕府、西南雄藩、朝廷による三つ巴どもえの権力闘争は、「慶喜排除」で決着し、260年以上にわたる江戸幕府は倒壊、雄藩と朝廷との公武合体的な新政権が生まれました。
 尊皇攘夷の「攘夷」は、開国後も明治初期まで気分として色濃く残ります。一方、「尊皇」の方は「王政復古」で実を結ぶことになりました。
 政治学者の北岡伸一氏は、著書『日本政治史』で、尊皇とは「統一政権」、攘夷とは「対外的独立」とそれぞれ読み替えるべきで、尊皇攘夷とはナショナリズムの二つの側面を言い表したスローガンだったと書いています。
 明治維新はどのような革命だったのかをめぐっては、かつてマルクス主義の歴史観にもとづく論争がありました。北岡氏は「ある人は絶対主義の確立であるといい、ある人はブルジョワ革命との親近性を指摘している。しかし尊皇攘夷の言葉が示すとおり、それはナショナリズムの革命であったのである」としています。
 1865年、日本の藩は283を数えていました。それが結果として統一政権として収束し、日本は主権独立国家体制を築き上げることになるのです。
テロとクーデターと内戦
 維新では、政治目的のために非合法に人を殺害するテロリズムや、内戦によって多くの人命が失われました。
 1860年、井伊直弼は水戸・薩摩の脱藩浪士に殺され、62年には公武合体政策をとった老中・安藤信正のぶまさが水戸脱藩浪士らに襲われ負傷します。
 67年には坂本龍馬りょうま、中岡慎太郎、明治に入って69年には政府参与の横井小楠しょうなん、兵部大輔たいふの大村益次郎、71年は参議の広沢真臣さねおみ、78年には内務卿・大久保利通が、それぞれ襲撃を受けて死亡しました。暗殺未遂では、イギリス公使のパークスや岩倉具視ともみの事件もありました。
 武力を背景とする奇襲で政権を奪うクーデターも起きています。長州藩を京都から追放した63(文久3)年の政変や、67(慶応3)年の王政復古の大号令のほか、明治新政府による71年の廃藩置県も、「御親兵ごしんぺい」の軍事力を背景としたクーデターでした。
 テロやクーデターは、明治、大正期のみならず、五・一五事件や二・二六事件など昭和時代まで連綿と繰り返されることになります。
 内戦も勃発しました。
 新政府発足後の68年、倒幕派は幕府側を挑発し、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰ぼしん戦争に突入します。この時の政敵「排除」の論理は、73(明治6)年の征韓論をめぐる大政変でも貫徹されました。
 明治六年政変のあと、西郷隆盛らは一斉に下野し、その後の江藤新平による佐賀の乱、前原まえばら一誠いっせいの萩の乱、そして日本最大で最後の内戦である西南戦争につながります。
 ただ、この革命の犠牲者を他国と比べると、その数は少なく、暴力は比較的抑制されていたとの評価もあります。例えば、「維新時の日本人口は、大革命時のフランス人口の約1.2倍であったが、犠牲者は約3万人、フランスの少なくとも60万人以上という数字と比べて、桁違いの低レベルであった」(三谷博『明治維新を考える』)というものです。
「乱世的革命」の底流
 もちろん、幕府の瓦解は、政治スローガンや権力闘争、テロ・クーデターだけでは説明できません。とくに人口約3100万人といわれている当時の、日本経済・社会の変動を見ておかなければなりません。
 明治中期の著名な歴史家に竹越たけごし与三郎よさぶろう(三叉さんさ)(1865~1950年)がいます。彼は著書『新日本史』で、維新について、イギリスに勃発した「復古的の革命」とも、フランスやアメリカのような「理想的の革命」とも違う、「現在の社会の不満や痛苦に堪たえずして発した、漠々茫々ばくばくぼうぼうの(誰もが先のよく見えない)乱世的の革命」と性格づけていました。
 竹越によれば、8代将軍・吉宗の享保年間(1716年~)以降、士民の奢侈しゃし(ぜいたく)を禁ずる倹約令が守られなくなって「幕朝衰亡の機微」が見えます。
 特に革命の契機になった「社会的結合力の弛緩しかん」は、一藩の領主が江戸、大坂の商人から借金するなど、支配層の武士と被治者の町人・百姓との「優劣」関係の逆転現象に表れたといいます。
 経済面では、1859年の横浜・函館・長崎の開港以降、日本国内は猛烈な物価高に襲われます。幕府や各藩は、砲台の建設や軍艦・商船の購入など、海防の負担増もあって一層の財政難に陥っていました。
 このため、諸藩は藩札を乱発し、幕府は金貨を改鋳かいちゅう(改悪)します。さらに外国と日本の金銀交換比率の違いにつけこまれ、大量の金貨を海外に流出させてしまいました。これらがインフレーションの引き金になります。
 インフレによる実質賃金の低下は職人たちの生活を苦しめ、貿易の進展は農村で発達していた綿織物業などに打撃を与え、コメの不作は百姓の暮らしを圧迫しました。このため、農民一揆や打ち壊しなどが各地で発生し、治安が悪化します。 
 こうして生じた江戸時代の社会、経済情勢の流動化・不安定化、幕府の失政による人心の離反、庄屋・名主層の反権力姿勢などが、封建制度を動揺させ、竹越のいう「乱世的革命」につながったとみられます。
【主な参考・引用文献】
▽三谷博『維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ』(NHK出版)▽同『明治維新を考える』(岩波現代文庫)▽三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽北岡伸一『日本政治史-外交と権力』(有斐閣)▽中村隆英『明治大正史(上)』(東京大学出版会)▽田中彰『明治維新 日本の歴史7』(岩波ジュニア新書)▽同『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽竹越与三郎『新日本史(上)(下)』(西田毅校注、岩波文庫)▽家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(同)▽室伏哲郎『日本のテロリスト』(弘文堂)▽坂野潤治・大野健一『明治維新1858―1881』(講談社現代新書)▽半藤一利・出口治明『明治維新とは何だったのか』(祥伝社)▽高校教科書『詳説日本史B』『詳説世界史B』(山川出版社)▽『月刊中央公論 特集―誤解だらけの明治維新』(2018年4月号)▽『週刊東洋経済 特集―日本史再入門』(2018年4月28日・5月5日合併号)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180705-OYT8T50004.html

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コンブの魅力見て学んで 博物館で企画展始まる【函館】

2018-07-12 | アイヌ民族関連
函館新聞2018.07.11

道内各地のコンブ標本がずらりと並ぶ会場
 市立函館博物館(斉藤総一館長)で10日、今年度の企画展「北の昆布展―昆布が支える日本の文化」が始まった。展示は3章に分け、函館や北海道における主要な水産物のコンブについて紹介している。9月9日まで。
 博物館と実行委が主催。2015年10月1日~今年9月30日に行っているコンブに関する調査研究の成果の一つで、今回は約150点を展示している。
 第1章「昆布とは何か」では、マコンブやガゴメコンブなどの標本を展示。利尻コンブ、日高コンブ、長コンブ、羅臼コンブ、マコンブのそれぞれの生産方法と加工品も紹介している。
 「昆布はどのようにして広まったのか」と題した第2章は、北前船で北海道の昆布が運ばれていた史実を伝え、アイヌ民族がコンブ漁をしているびょうぶなども並ぶ。第3章の「昆布はどのように利用されているのか」は、食文化だけでなく、神事や行事に広く使われている実例としてしめ縄、鏡餅、玄関飾りを飾っている。
 また、北大が開発したガゴメを使った商品や、函館短大が考案したコンブ料理のレシピ、函館で使われていた磯舟と漁具「マッカ」の展示も。保科智治学芸員は「コンブは食べるだけでなく、おめでたいものの象徴として飾られる文化が日本各地にあり、ぜひ見てほしい」と話している。
 関連事業として展示解説セミナー(28日、8月11日)、料理教室(8月11、18、25日、9月1日)、バスツアー(8月9日)、夏休み自由研究「チャレンジ!昆布細工」(28日、8月11日)がある。
 16日を除く毎週月曜、17日が休館。午前9時~午後5時(入館は同4時半)。入館料は一般200円、大学・高校生100円、小・中学生50円。問い合わせは同博物館(0138・23・5480)へ。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/6822

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《ブラジル》「教育は最良の投資」と強調=ノーベル平和賞のマララさん=非就学の少女統合の道探る

2018-07-12 | 先住民族関連
ニッケイ新聞2018年7月11日

イビラプエラでの討論会でのマララさん(Rovena Rosa/Ag. Brasil)
 2014年に17歳でノーベル平和賞を受賞した人権運動家、マララ・ユスフザイさん(12日で21歳に)が9日、サンパウロ市イビラプエラ公園講堂での講演と討論会に参加したと9、10日付ブラジル国内紙やサイトが報じた。
 マララさんは1997年にパキスタン北部のカイバル・パクトゥンクワ州スワート県で誕生、女子学校経営者の父親の影響で学校に通っていた。
 しかし、2007年に武装勢力のパキスタン・タリバン運動がスワート県の行政を掌握し、恐怖政治を開始。特に、女性が教育を受ける権利を奪い、教育を受けようとする人や推進しようとする人の命を優先的に狙い始めた。彼女は2009年にペンネームでBBC放送に投稿し、タリバンによる女子校破壊活動を批判し、女性への教育の必要性や平和を訴えた。
 だが、パキスタン軍がタリバンを同県から追放後、同国政府が本名を公表。政府主催の講演会でも女性の権利などについて語ったため、激怒したタリバンが2012年10月9日に、学校帰りのスクールバスを襲い、頭と首に銃弾2発を浴びせた。マララさんは同月15日に英国の病院に移され、手術も受けた。退院は13年1月で、2月には再手術も受けた。
 だが、13年7月に国連本部で、銃弾では自分の行動は止められないとして教育の重要性を再度訴えた。また、14年に史上最年少でノーベル平和賞を受賞した際は「この賞は終わりではなく、始まり」と表明。2017年4月には国連平和大使にも任命された。
 今回のブラジル訪問は、2013年12月にユネスコとパキスタンが設立したマララ基金の働きをラテンアメリカにも広げるためで、ブラジル各地から選んだ、学童期の少女を中心とした女性教育に取り組んでいる活動家3人に70万ドル(270万レアル)を投資する。具体的には、黒人や先住民、貧困地域在住で幼少期から働かされるなどの理由で教育の機会を失っている少女ら150万人に教育の場を与え、働き、自立する事を促す方策を見つける事を望んでいるという。
 9日の討論会では、銃撃戦などで授業が受けられないファヴェーラ(スラム街)の子供の例を挙げ、「治安がない場所では教育も成り立たない」と強調、「政府や当局は恐怖心や危機感を持たずに教育を受けられるような状態を生み出すための姿勢を明示すべき」とした。また、「女性が教育を受ける事は経済や民主主義の発展にも繋がる最良の投資」で、選挙戦で論じるべきと訴え、「国民の声が政治を動かす」と会衆を鼓舞した。
 10日は、支援予定者の1人が住むバイア州サルバドール市を訪問し、現地の人と交わった。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2018/180711-22brasil.html

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