先住民族関連ニュース

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知事と札幌市長が行政懇談 JR財政負担議論せず

2018-07-22 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/21 05:00
 高橋はるみ知事と札幌市の秋元克広市長は20日、道庁で行政懇談会を開き、JR北海道の路線見直し問題を中心に協議した。最大の焦点は沿線自治体の財政負担に関し、地方路線の発着駅を抱える札幌市を加えるかどうかだが、知事が支援を求める場面はなかった。全体として突っ込んだ議論にはならず、年1回の懇談会の形骸化も指摘される。
 懇談会で、道は3月に策定した「北海道交通政策総合指針」について説明。2030年度に札幌延伸する北海道新幹線の早期開業、路線見直し問題などについて、沿線自治体で進む協議の状況を札幌市に情報提供することを約束した。地元負担問題を巡っては秋元市長に直接、財政支援を要請することはしなかった。
 道議会内には現在、「各地の道民がJRを使って札幌を訪れることで札幌市が潤っている面はある」と札幌市にも応分の負担を求める意見が出ている。道も「全道の自治体で支援すべきだ」(幹部)として、見直し対象の沿線以外の自治体にも負担を求める考えを示している。国は月内にもJR支援の大まかな方向性を示す方針で、「知事はいずれ札幌市にも財政負担を求めることになる」(幹部)方向という。
 懇談会ではこのほか、人口減少対策やアイヌ文化の発信、大規模災害の対応なども協議。札幌圏で直下型地震が発生した場合を想定し、道と市の関係機関が72時間以内に取り組むべき応急対策をまとめた要領を本年度中に共同で策定することを決めた。
/全文:846文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/210833

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両陛下に踊り披露 道150年式典で カムイトウウポポ保存会【帯広】

2018-07-22 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞2018.07.21

式典で披露する「エムシリムセ」を練習する酒井学さん(中央)ら保存会メンバー
 8月5日の「北海道150年記念式典」(会場・札幌市の道立総合体育センター)で行われる「アイヌ文化・地域の伝承芸能の紹介」で、帯広カムイトウウポポ保存会(酒井奈々子会長、会員41人)がアイヌ舞踊を披露する。天皇、皇后両陛下が出席する式典に向け、「両陛下の前でも練習の成果を出し、アイヌの伝統的舞踊を見ていただければ」(酒井会長)と踊りの最終調整に励んでいる。
 当日は「先人に学び、未来につなぐ」をテーマにアイヌ民族の伝統芸能、地域の伝承芸能を紹介するほか、青少年の誓いや北海道への応援メッセージなどを通して節目の年を祝う。
 帯広カムイトウウポポ保存会が披露するのは、長老が若者に勇気を与えるために踊ったとされる剣の舞「エムシリムセ」。保存会メンバーの酒井学さん(40)、荒田祐樹さん(32)の2人が舞、酒井会長(66)と安東春江さん(59)がMCと歌(ウポポ)を担当する。約3分半の演目で、歌に合わせて剣を交える迫力の舞が特徴だ。
 本番に向け、市生活館で行う月2回の練習では、歌のテンポに合わせながらの立ち回り方などを確認。舞の力強さが伝わるよう細かい所作まで気を配り、何度も練習を重ねている。酒井学さんは「舞の格好良いところを見てもらえれば」と力を込める。
 同保存会は全国でも精力的に活動し、昨年2月に三重県松阪市の「武四郎まつり」、今年1月には東京ドームでもアイヌ舞踊を披露している。
 酒井会長は「(自分たちは)アイヌ舞踊や歌を物心ついたときから聴いて育った。歌と踊りは体に染み付いている」と両陛下を前にしての演技を楽しみにし、「先祖やエカシ(祖父)たちが築いてくれた保存会で、若い人たちが自分たちの気持ちを受け継いでくれると信じている」と話している。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/6963

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142年ぶりご神像公開 平取・義経神社奉納220年記念

2018-07-22 | アイヌ民族関連
苫小牧民報2018/7/21配信

平取町の義経神社で142年ぶりに公開された源義経公のご神像=21日午前11時半ごろ
 源義経の渡来伝説を持つ平取町本町の義経神社(楡田美浩宮司)で21日、義経公の神像奉納220年記念の神事が執り行われ、142年ぶりにご神像が一般公開された。
 義経公のご神像は木製で高さ40センチほど。甲冑(かっちゅう)を身にまとう、りりしい姿の座像だ。1799(寛政11)年の江戸末期、幕府の調査隊だった近藤重蔵が、この地域のアイヌ民族が源義経を崇敬していることを知り、寄進。当初は屋外に置かれていたが、1876(明治9)年に神社に安置された。
 楡田宮司は「奉納から220年の節目を迎えたことを機に京都の職人に修理を依頼。その前に広く見ていただこうと公開を決めた」と話す。一般公開は9月2日までで、時間は午前10時~午後4時。拝観には1000円必要で、町民は無料。
 ご神像の修理完了は来年6月の予定で、同年7月後半から1カ月間、再び公開する考えという。
https://www.tomamin.co.jp/news/main/14280/

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北大 アイヌ首長遺骨を返還へ 写真残存者で初

2018-07-22 | アイヌ民族関連
毎日新聞2018年7月21日 15時00分(最終更新 7月21日 15時09分)

ピウスツキが撮影したバフンケとされる男性
 樺太(サハリン)のアイヌ墓地から持ち出された地元集落の首長、バフンケ(1855~1919年ごろ、日本名・木村愛吉)の遺骨が、北海道大から遺族へ返還されることが決まった。アイヌ民族の遺骨は全国の大学などに1600体以上保管されているが、身元が分かる遺骨は38体のみで、生前の写真や逸話の残る人の遺骨返還は初めて。【三股智子】
 バフンケは樺太の東海岸にあった集落「アイ」の首長を務めた。ロシア語や日本語に堪能で漁業で財を成し、樺太に滞在した言語学者の金田一京助(1882~1971年)の著書「北の人」にも触れられている。ポーランド貴族出身でロシアの政治犯として樺太に流刑されたブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918年)が寄宿し、バフンケのめいのチュフサンマと結婚した。
 バフンケの遺骨を持ち出したのは、北海道帝国大(現・北海道大)医学部の研究グループとみられる。同大の資料に1936年8月にバフンケの遺骨を発掘した記録が残っている。
 遺骨の返還は、ピウスツキとチュフサンマの孫で、横浜市に住む木村和保(かずやす)さん(63)の請求で決まった。木村さんは北海道で生まれ、三十数年前にピウスツキの研究者からルーツについて教えられ、昨年になって、この研究者から同大に遺骨が保存されていることも知らされた。
 大学側は、持ち去った経緯を明らかにしていない。木村さんは「なぜ遺骨を持ち去ったのか。説明と謝罪を求めたい」と話す。
 【ことば】アイヌの遺骨
 19世紀から人類学が盛んになるにつれアイヌ民族への関心が高まり、北海道や樺太、千島列島のアイヌ墓地などから大量に収集された。国内の12大学と博物館など12施設に1600体以上が保管され、国外にも流出している。昨年7月にはドイツから1体返還されたほか、オーストラリアの3体も返還に向けた交渉が進められている。遺骨は2020年までに北海道白老町に国が建設する慰霊施設に集約される予定で、遺族や地域への返還を求めるアイヌ団体が大学などを訴えている。
https://mainichi.jp/articles/20180721/k00/00e/040/318000c

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「入れ墨タブー」ニッポンは非常識?

2018-07-22 | 先住民族関連
読売新聞2018年07月21日 05時00分
都留文科大学 文学部比較文化学科教授 山本芳美
「イレズミの方はお断り」
 世界的なタトゥーの流行・復興と、日本社会の“入れ墨タブー”。2020年の東京五輪開催などが迫るにつれ、ホテルや旅館、入浴施設などでの外国人客とのトラブルや摩擦を心配する声が高まりつつある。だが、摩擦はすでに起きている。
 2013年、北海道のアイヌ民族の団体の招きで来日したニュージーランドの先住民族、マオリの女性が恵庭市にある民間の入浴施設を訪れた際、顔に施したタトゥーを理由に「イレズミの方の入場はお断りしている」として利用を拒否され、問題となった。この件は海外でも大々的に報道された。
 観光庁は、16年の段階で、タトゥーがある訪日外国人について、〈1〉シールなどで覆う〈2〉家族連れの入浴が少ない時間帯の入浴を促す〈3〉貸し切り風呂などを案内する――といった対応を施設側に呼びかけている。だが、今回のW杯で見られたように、体の広範囲にわたってタトゥーを施す人が増えているし、大浴場での入浴を楽しみに来た客に様々な制約を課すことが、果たして受け入れられるのかは疑問だ。
「入れ墨=犯罪、怖い」根強いイメージ
 この問題は、タトゥーだけに着目していては解決策を見いだせないと思う。まず、日本の“入れ墨タブー”の背景に、「入れ墨イコール反社会勢力、犯罪、怖い」といったイメージの浸透があることを認識する必要がある。
 関東弁護士会連合会は14年、20代から60代までの男女計1000人を対象に、入れ墨に関するアンケート調査を行った。「入れ墨を入れた人から実際に(暴行、脅迫、強要などの)被害を受けたことがあるか」との問いに対し、95.5%が「ない」と答えたが、一方で、「入れ墨を入れることを法律で規制すべきだと思うか」との質問には、33.9%が「強く規制すべき」「規制はあってよい」と回答した。「怖いから」「危なそうだから」といったイメージを基に、規制を肯定的にとらえていると言えよう。
「情報提供」と「工夫」…共存の努力を
 すでに紹介したように、海外では民族のアイデンティティーやファッションを理由にタトゥーを入れる人が多くいる。「郷に入れば郷に従え」的な主張も耳にするが、「観光立国」「インバウンド」などと外国人客を当てにしながら、こちらの事情を押し付けて理解されるのだろうか。もはや、日本人が、日本人だけで社会を営むのは難しい時代に入っていることも考えねばならない。
 私が提案したいのは、お客を迎える日本側が「情報提供の充実」と「工夫」に力を入れることだ。入浴施設等がタトゥーを理由に利用を制限するなら、外国人客が事前に把握できるように、インターネットサイトなどを通じて多言語で、細かく、丁寧に情報提供すべきだ。すでに、英語と日本語で、入浴施設やプールなどの受け入れ状況についての情報を提供する総合サイトもいくつか登場している。
 「工夫」については、例えば、湯浴み着での入浴を認めるなど、タトゥーを入れている人にも、それを見るのが嫌だという人にも受け入れやすい方法を真剣に考えるべきだと思う。全裸でこそリラックス、という日本の入浴スタイルだが、世界的にみれば、水着をつけて入るスパ方式が主流なことも頭に入れてほしい。
 「タトゥー=悪の象徴」といったイメージだけで、「入れ墨はお断りだから」などと一律的な対応をするのはよくない。考えることをやめてしまう姿勢こそが問題なのだ。
「タトゥー」は簡単には消せない
 低年齢の人の目にもふれやすいウェブ媒体なので、以下は特に若い人たちに伝えたい。
 「デジタルタトゥー」という言葉がある。ネット上に個人情報や発言、写真などをいったんアップすると、思わぬ形で拡散されてしまい、消すのがとても難しいことを意味している。そんな例えに使われるぐらい、本物のタトゥーも、決して簡単には消すことができない。
 先述したオーストラリアの青少年向けサイトでも、さまざまなリスクを紹介するとともに、「一度タトゥーを入れたらずっとつきあうことになる」と明確に述べている。
 日本では、青少年は各都道府県の条例で禁じられている場合があるし、成人であってもよく考え、慎重に判断する必要がある。海外で見方が変わりつつあると言っても、日本にはタトゥーや入れ墨をよく思わない人が多く、さまざまな場面で不利益を受ける可能性がある。
 「ワールドカップで興味を持った」とか「友達に誘われた」などの理由で、すぐに飛びついてはいけない。本当に必要なのか、例えば人目につきやすい手や足などに入れて後悔しないかなどを、よくよく考えてみるべきだ。
プロフィル
山本 芳美( やまもと・よしみ )
 学術博士(論文)、都留文科大学文学部比較文化学科教授。大学在学中に「身体をめぐる文化」への関心を高め、入れ墨などの研究を始める。沖縄、台湾が主なフィールド。著書に「イレズミと日本人」(平凡社新書)、「イレズミの世界」(河出書房新社)、「コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化」(成実弘至編、せりか書房)、稲川實氏との共著「靴づくりの文化史」(現代書館)などがある。
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180719-OYT8T50020.html?page_no=3

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台湾で根を下ろした日本人シリーズ:風景の一部となる——写真家・熊谷俊之

2018-07-22 | 先住民族関連
nippon.com [2018.07.21]
熊谷 俊之KUMAGAI Toshiyuki
1971年栃木県生まれ。台湾在住の日本人写真家として、内外から熊谷を推す声は多い。政治家から芸能人まで数多くの人物をカメラに収めてきた。また、自転車で「環島」と呼ばれる台湾一周の旅や、日月潭を泳いで横断、台湾の百名山に登り、伝統行事にも潜入する行動派、体験派の一面を持つ変幻自在の写真家だ。2017年2月には、これまでの業績が評価され、台湾交通部観光局から「台湾観光貢献奨」を受賞した。
先住民族の生活記録が写真家への転機に
熊谷が初めてカメラを手にしたのは中学3年の春。部活での所属は柔道部だったが、仲の良かった剣道部顧問の教師の勧めで買ったニコンのF301が、彼の最初の「相棒」だった。高校には進学せず、予備校に通いながら15歳で大学入学資格検定(大検)に合格。この話題は新聞やテレビ、雑誌でも多数取り上げられ、地元の群馬では一躍時の人となる。英語は苦手だったが、小さい頃から漢字には興味があった熊谷は、予備校時代の講師が「これからの時代は社会学か人類学」と述べた言葉が耳に残っていたことなどが伏線となって、1991年に台湾師範大学に語学留学。その翌年、台湾大学に進学すると人類学を専攻した。なぜ台湾だったのか。
実は熊谷の母や祖母は、第二次世界大戦前、台北市の六張犁に住んでいた。祖母は台北の建成小学校で教えていたが、のちに自宅と同じ建物の1階にあった育児院の子供たちと寝起きを共にするようになった。その中の一人に、今も中山北路に店を構える「林田桶(おけ)店」の店主、林相林がいた。店を継がせるために日本人の家庭を体験させておきたいという親の方針から、林はこの育児院に預けられていた。おのずと熊谷の母親とも幼なじみとなった。それから四十数年の時を経て、語学留学で台湾に渡った熊谷の身元保証人となってくれたのが、林だった。台湾師範大学での中国語習得は、日々の自分の進歩に手応えを感じ楽しかったと振り返るが、台湾大学での授業は苦痛だったと笑う。
「人類学科はテキストが英語ばかりで、まさか台湾に来てまで英語で四苦八苦するとは思ってもみませんでした。忙しくて趣味の写真までなかなか手が回りませんでしたが、それでも籍だけは写真サークルに置いていました」
大学3年の時にフィールドワークに入った花蓮の太魯閣で、台湾先住民族のタロコ族(当時はタイヤル族の支族に分類)の集落に2週間近く滞在し、彼らの生活を記録としてカメラに収めた。タロコ族の集落では、お年寄りがきれいな日本語を話すのを耳にして、熊谷は台湾の歴史に関心を持ち始める。
「おじいさん、おばあさんの話す日本語は『1945年』で止まっていたのです。こちらの背筋が思わずピンと伸びるような日本語でした。美空ひばりのカセットテープを擦り切れるまで聴き、日曜日の昼には、沖縄から傍受した電波でNHKラジオの『のど自慢』を心底楽しむ姿にも衝撃を受けました」
この頃、熊谷は写真家を職業にしようと決意する。96年に台湾大学を卒業すると、翌年から東京の赤坂スタジオでカメラマンとしての修行を2年間みっちりと積んだ。99年6月からはフリーのアシスタントとなり、その年の暮れには、ほぼ3年ぶりに台湾に舞い戻った。21世紀は台湾で迎えようと初めから心に決めていたのだ。
歴代の総統を撮り、知名度が急上昇
台湾に戻ると、広告代理店や出版社からの仕事で、雑誌の表紙やコラムを飾る台湾の著名芸能人や日系企業の社長の写真を担当した。ある時、日本の雑誌社の依頼で李登輝元総統を撮影するチャンスを得た。これをきっかけに熊谷の写真家としての知名度は一気に高まり、その後、陳水扁、馬英九、そして現職の蔡英文と歴代の総統を撮影する機会にも恵まれた。
しかし、熊谷の写真は人物だけにとどまらなかった。2007年に初めて台湾の最高峰である玉山(日本統治時代の呼称は「新高山」、3952メートル)に登頂したことをきっかけに、今度は台湾の自然にも引かれていく。緯度が低い台湾では、海抜3500メートルの地点でも樹林が広がり、それが新鮮だった。その後も玉山には15回、台湾第二の高峰、雪山(日本統治時代の呼称は「次高山」、3886メートル)にも3回、これまでに台湾百名山のうち21峰に登頂している。また、台湾の美しい風景を求めて、山奥の先住民族の集落や離島にも足を運んだ。熊谷は台湾の三大絶景として「南投水漾森林」「屏東好茶舊社」「馬祖大坵島」を挙げた。
「水漾森林は1999年の台湾中部大地震の際に、石鼓盤渓の水がせき止められてできた湖の中に杉林が残ってできた風景です。日月潭には1日の中に四季があると言われていますが、水漾森林は1時間の中に四季があります。それくらい表情が目まぐるしく変わるのが魅力です」
刻一刻と変化する景色を1秒たりとも逃さない。そんな気持ちがこの言葉にも表れている。しかし、水漾の杉林は大地震から20年近くがたち、水没した幹や根がいつまで持ちこたえられるのか分からない状態であるとも聞く。消えゆく景色だからこそ、写真家はなお、いとしく感じるのかもしれない。
また、屏東好茶舊社は、台湾百名山で一番南に位置する北大武山を聖なる山とあがめる先住民族のルカイ族が、「石板屋」と呼ばれる伝統的な石造りの家屋で昔ながらの生活を営んでいる秘境だ。そして、離島の馬祖からさらに離れた大坵島は、夏のごく限られた期間に藻や夜光虫が青く光る珍現象「藍眼涙(青い涙)」で知られる。熊谷が挙げた場所は、いずれも陸の孤島か真の孤島で簡単に行ける場所ではない。しかし、興味を持った場所には必ず自分の足で赴くのが熊谷流なのである(ただし、大坵島は対岸の馬祖島北竿の町や沖を航行する船舶の明かりによる光害で、藍眼涙の撮影には必ずしも最適な環境ではないと熊谷は言う)。
被写体の行事には自ら参加し、撮影するのがモットー
人物、風景の他に熊谷の写真にはもう一つの特徴がある。それは伝統行事や習俗を外からカメラに収めるのと同時に、自身がその撮影対象となる行事に飛び込んでしまうことだ。近年ブームの「環島」と呼ばれる自転車で台湾を1周するツアーや日月潭を泳いで横断するイベント「泳渡日月潭」、旧正月の15日前後に台東市で行われる奇祭「炸寒単爺」(爆竹をみこしの上の神様寒単爺に投げ込む祭り)の現場には、時に自転車にまたがり、また時に湖を泳ぎ、はたまたみこしの上で寒単爺の神様に扮(ふん)する熊谷の姿がある。
「世の中には文字だけでは分からないことがいっぱいあります。実体験で見えてくる世界があるのです。台湾をもっと知りたい、ただそれだけです。例えば、『炸寒単爺』では、みこしの上で体感する揺れや投げ入れられる爆竹で身体が灼(や)ける痛み、煙を吸い込んでの呼吸困難、これらによって意識が薄れて一種のトランス状態に陥り、本当に神様に近づけた気がしました」
撮影の対象にいったん内側まで入り込んで体感した上で、再びファインダー越しに対象を捉える熊谷のスタイルは、なかなかまねできるものではない。これは台湾という土地に対する止めどない好奇心と愛情があり、なおかつそれを支える体力と行動力があって初めて成り立つことなのだ。
台湾の「家族」が仕事の原動力に
熊谷には懇意にしてる台湾の家族がいる。大学3年の時にフィールドワークで太魯閣に入った際、お世話になったタロコ族の一家だ。30年近い歳月が流れ、最初に日本語で会話したおじいさん、おばあさんは既に亡くなり、小学生だった娘は母親になった。この一家の冠婚葬祭には必ず顔を出し、一家が台北に来ると熊谷の家で寝泊まりするという関係だ。2018年2月の花蓮地震では、この家族が住んでいた花蓮市内のマンションが半壊した。幸いけが人は無かったが、熊谷は取る物も取りあえず駆け付けた。喜怒哀楽を共にする家族がいるのも熊谷の強みだろう。
2012年頃から、日本の人々にも台湾の魅力を写真で伝えたいという気持ちが芽生え始める。この年、大阪を皮切りに、高松、東京、金沢で合計4回の個展を開催した。これらの取り組みが評価され、昨年交通部観光局から「台湾観光貢献奨」を受賞した。授賞式には日本から母親も「里帰り」を兼ねて駆け付けてくれた。写真家として一つの「勲章」を手に入れた熊谷は、これから何を撮り、伝えていきたいと考えているのだろうか。
「まだ登っていない百名山もありますが、普通の山や古道も歩いてみようと思います。また、大甲の媽祖巡礼のような生活文化に根差した行事に台湾の人たちがどう向き合っているのか、ありのままの姿を切り取っていけたらと考えています。そして、カメラを構える自分の存在感を無くしたいですね」
「自分の存在感を無くす」と語ったが、彼はとうにこの島に溶け込み、台湾の風景の一部となっている。尊敬する写真家を聞くと、グラビア写真家の渡辺達生の名を挙げた。直接の師ではないものの、彼のように「撮る人も、撮られる人も、また写真を見る人も楽しくなるような」写真を撮りたいと常に思っている。そして、もう一人尊敬する人物として、昨年ヘリコプターの墜落事故で亡くなった空撮の達人で『看見台湾(邦題:天空からの招待状)』の監督、齊柏林の名を挙げた。いかにもこの地を深く愛する熊谷らしい。
馬場 克樹 BABA Masaki
シンガーソングライター。1963年仙台市生まれ。国際交流基金日中交流センター事務局次長、財団法人交流協会台北事務所文化室長を歴任。退職後、2013年台湾で蒲公英音楽交流有限公司を設立。「八得力(Battery)」でボーカルとギターを担当。ソングライターや俳優としても活動する。代表曲には映画『光にふれる(原題:逆光飛翔)』の主題歌で、台湾金曲奨最優秀女性ボーカリストの蔡健雅(タニア・チュア)が歌った「很靠近海(海のそばで)」がある。プロフィール写真撮影=Jonny Wei
https://www.nippon.com/ja/column/g00555/?pnum=1

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高雄市、かつての台風被災地で「先住民温泉モデルエリア」起工式/台湾

2018-07-22 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾 2018/07/21 11:27

(高雄 21日 中央社)南部・高雄市茂林区に、同市初となる「先住民温泉モデルエリア」(原住民温泉産業示範区)が建設される。19日に起工式が行われた。同地の観光業は、2009年の台風8号被害(8・8水害)以来、大きく落ち込んでいた。同エリアは先住民文化を伝える温泉地として、建材に地元に住むルカイ族が伝統建築に使う板石を多用するなど、随所に工夫が凝らされる。オープン後には新たな観光名所として毎月5000人の観光客を呼び込み、地方経済をもり立てることが期待されている。
許立明代理市長は、同エリアがルカイ族文化やルリマダラなどの生態、壮観な景色など、地元が誇る観光資源を十二分に生かした造りになると強調。また、温泉が炭酸水素ナトリウムを多く含む「美人の湯」であると紹介し、今後人気の温泉地になるだろうと自信をのぞかせた。
竣工は2019年10月の予定。
(王淑芬/編集:塚越西穂)
http://japan.cna.com.tw/news/atra/201807210001.aspx

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