朝日新聞2018年7月5日中島 克幸
(7月4日付朝刊に掲載した「ことばの広場」を再録しました)
かつて蝦夷(えぞ)と呼ばれた地が、北海道と命名されて今年で150年目。名付け親は、幕末の探検家、松浦武四郎です。松浦は伊勢(三重県)出身で、ロシアの脅威が迫る北方の実情を調査しようと自ら蝦夷や千島、樺太を探検しました。
維新後、蝦夷の事情に詳しいことから、明治政府の一員になります。北海道庁などによると、蝦夷は異民族を意味するため、明治政府は新名称を審議。その際、松浦は古典やアイヌ語などから幾つか考案し、最も推したのが「北加伊道(ほっかいどう)」でした。
先住民のアイヌの人々はお互いを「カイノー」と呼んでいました。松浦はアイヌの長老から、「カイ」はこの土地に生まれた者、「ノー」は尊称であると聞きました。また、熱田神宮の歴史を記した「参考熱田大神縁起」には「東国で暮らす人々は自らの国を加伊と呼ぶ」とあり、北加伊道こそ、この大地にふさわしいと考えたのです。
結局、王政復古を掲げた明治政府によって、律令時代の七道にならい、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)らが唱えていた「北海道」と定められました。1869年8月のことです。松浦は国名(振興局、総合振興局の原形)や郡名の選定にも関わっており、それまでの貢献によって命名者として名を残しました。
高瀬英雄・松浦武四郎記念館元館長は「北加伊道という名称には、アイヌへの敬意と配慮が込められていたと思います」と言います。「北海道は彼の本意をくみとったものではありませんでした」
高瀬さんによると、松浦は当時の日本人のアイヌ民族への差別、横暴といった非道さを告発しました。しかし、明治政府は無視し、「差別政策は残したままで、アイヌと協力しようとしませんでした」と言います。
松浦は政府の役人をわずか半年余りで辞しました。その後、著書などでは皮肉をこめ、「馬角斎(ばかくさい)」と名乗ったそうです。
http://digital.asahi.com/special/kotoba/danwa/SDI201807053248.html?_requesturl=special%2Fkotoba%2Fdanwa%2FSDI201807053248.html
(7月4日付朝刊に掲載した「ことばの広場」を再録しました)
かつて蝦夷(えぞ)と呼ばれた地が、北海道と命名されて今年で150年目。名付け親は、幕末の探検家、松浦武四郎です。松浦は伊勢(三重県)出身で、ロシアの脅威が迫る北方の実情を調査しようと自ら蝦夷や千島、樺太を探検しました。
維新後、蝦夷の事情に詳しいことから、明治政府の一員になります。北海道庁などによると、蝦夷は異民族を意味するため、明治政府は新名称を審議。その際、松浦は古典やアイヌ語などから幾つか考案し、最も推したのが「北加伊道(ほっかいどう)」でした。
先住民のアイヌの人々はお互いを「カイノー」と呼んでいました。松浦はアイヌの長老から、「カイ」はこの土地に生まれた者、「ノー」は尊称であると聞きました。また、熱田神宮の歴史を記した「参考熱田大神縁起」には「東国で暮らす人々は自らの国を加伊と呼ぶ」とあり、北加伊道こそ、この大地にふさわしいと考えたのです。
結局、王政復古を掲げた明治政府によって、律令時代の七道にならい、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)らが唱えていた「北海道」と定められました。1869年8月のことです。松浦は国名(振興局、総合振興局の原形)や郡名の選定にも関わっており、それまでの貢献によって命名者として名を残しました。
高瀬英雄・松浦武四郎記念館元館長は「北加伊道という名称には、アイヌへの敬意と配慮が込められていたと思います」と言います。「北海道は彼の本意をくみとったものではありませんでした」
高瀬さんによると、松浦は当時の日本人のアイヌ民族への差別、横暴といった非道さを告発しました。しかし、明治政府は無視し、「差別政策は残したままで、アイヌと協力しようとしませんでした」と言います。
松浦は政府の役人をわずか半年余りで辞しました。その後、著書などでは皮肉をこめ、「馬角斎(ばかくさい)」と名乗ったそうです。
http://digital.asahi.com/special/kotoba/danwa/SDI201807053248.html?_requesturl=special%2Fkotoba%2Fdanwa%2FSDI201807053248.html