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1741年大津波、記録に疑問符 登別市郷土史に記載「誤認の可能性」 噴火要因も堆積物確認できず

2023-03-11 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年3月10日 21:45(3月10日 23:29更新)

津波によって村が全滅したという幌別村勢一覧の記述。その信ぴょう性について疑問符が付いている
 【登別】市が保有する複数の郷土史料に記載されている1741年(寛保元年)に市内を襲った大津波について、信ぴょう性に疑問符が付いている。渡島大島(渡島管内松前町)の噴火が要因と考えられていたが、津波の堆積物などが見つかっておらず、専門家は「別の津波と誤認している可能性がある」という。
 旧幌別村(現在の幌別町)が1936年(昭和11年)に発行した「幌別村勢一覧」には、1741年7月の大津波で幌別や鷲別の人家は全滅し、1930年に日高地方からアイヌ民族が移り住むまで誰も住んでいなかった、との記述がある。また、67年発行の「登別町史」にも、海辺の家屋は波にのまれ、集落は全滅し、以降の20年余りにわたって定住はなかったらしい―と記されている。
 気象庁などによると、渡島大島は渡島半島の西方約50キロに位置する無人島で、1741年に噴火した際、山体崩壊で大量の土砂が海に流れ込み、大津波を引き起こして日本海沿岸で約1500人が死亡するなど大きな被害が出たという。
・・・・
(高木乃梨子)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/814496

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ロシア語翻訳版のアイヌ神謡集 銀のしずく記念館で展示

2023-03-11 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年3月10日 19:18

ロシア語で翻訳されたアイヌ神謡集
 【登別】「知里幸恵 銀のしずく記念館」(登別本町)は冬季休館を経て3月から、今シーズンの公開を始めた。幸恵の著書「アイヌ神謡集」のロシア語全訳本が展示に加わった。
 本は新書判を一回り大きくしたサイズで205ページ。表紙にはアイヌ民族の首長が描かれている。全訳本は、ロシア国内で販売されているという。同館を運営するNPO法人知里森舎の松本徹理事長が、知人から寄贈を受けた。
 訳者はモスクワ人文大学大学院出身でロシア在住の会社員エカテリーナ・テュルレーニェヴァさん。研究者ではないが、神謡集に興味を持ち、原文からロシア語に翻訳したという。
 今回のロシア語を含め、神謡集はエスペラント語やフランス語など七つの言葉で全訳された。松本徹理事長は「ロシアにも少数民族がいる。幸恵の考えが世界に広がっていくことがうれしい」と話す。
・・・・
(高木乃梨子)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/814356

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アイヌ民族遺骨返還方針案 根室市教委、市内外から意見を公募

2023-03-11 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年3月10日 19:12
 【根室】市教委は、市歴史と自然の資料館が保管するアイヌ民族の遺骨について返還と慰霊に関する取り扱い方針案をまとめ市内外からの意見公募を始めた。アイヌ民族関係の地域団体への返還を進める一方、返還できない場合は胆振管内白老町の民族共生象徴空間(ウポポイ)で慰霊・保管するなどの内容。
 方針案によると、返還を求める団体が複数あった場合は当事者間の協議を原則とし、公表後2カ月たっても返還申請が無かった場合はウポポイで保管する。
 遺骨は根室市内や千島列島などで発見された。2017年に寄贈を受けた考古資料に含まれていた。文化庁は20年、同資料館がアイヌ民族の遺骨14体と未特定遺骨5箱分を保管していると報告。資料館が精査を進めていた。
 意見提出は郵送やファクス、電子メール、持参で市歴史と自然の資料館へ。問い合わせは同館、電話0153・25・3661。
(松本創一)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/814348

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あすから企画展 仙台藩白老元陣屋資料館 アイヌ伝統手工芸紹介

2023-03-11 | アイヌ民族関連
苫小牧民報2023/3/10配信
白老町の仙台藩白老元陣屋資料館は11日、町指定無形民俗文化財「町伝統文化継承者」と作品を紹介する企画展「山崎シマ子・菅野節子2人展~紡がれた技、アイヌの伝統的手工芸」を開幕する。初日午前10時からは、両者が作品への思いや制作での労苦を語る展示解説会を開く。

町伝統文化継承者の企画展に向けて準備が進む会場
 町教育委員会は長年にわたり町内の伝統文化を継承し、後継者育成に貢献してきた町民を町伝統文化継承者に指定しており、今年2月に「工芸」「芸能」両分野から町高砂町の山崎さん、町萩野の菅野さんを選んだ。
 企画展はこれを記念したもので、山崎さんのアットゥシ織りやゴザ編み、菅野さんの縫製や文様刺しゅうなど、アイヌの伝統的手工芸品計約50点を並べ、現代に受け継がれた技と精神を紹介する。
 山崎さんは企画展に寄せて「伝承活動が続けられるのは先祖が素晴らしい作品を残してくれたおかげ」と語り、菅野さんは「先祖が残した技法に沿ってアイヌ文化の振興に助力したい」と話している。
 開幕準備は9日に開始。苫小牧市の会社員で山崎さんの孫に当たる山崎快人さん(23)も駆け付け、職員と一緒に飾り付け作業に汗を流した。快人さんは「自分の親族から伝統文化継承者が誕生したのは誇らしい。手伝いができてうれしく思う」と話していた。
 31日まで。入館料は一般300円、小中学生150円。町民は無料。問い合わせは同館 電話0144(85)2666。
https://hokkaido-nl.jp/article/28581

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「背負うのではなく、強みとして、憧れる」若き“伝え手”が語る「アイヌはかっこいい」とは(上)

2023-03-11 | アイヌ民族関連
静岡放送2023年3月11日(土) 07:02

新千歳空港から車でおよそ1時間―。日本海方面へ北西に行けば、大都会・札幌に着く。反対の太平洋側に進路をとれば、同じくらいの時間で、人口の8割がアイヌにルーツを持つとされる集落、平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)に到着する。隔絶された山村ではない。
「雪深くはなく、暮らしやすい。食料を冷凍・乾燥させるのに適した気候で、その昔、アイヌは、2年分もの食べ物の貯蔵をしていた」と、関根摩耶さん(23)は話し始めた。アイヌにほとんどなじみのない静岡県人の「伝統的なアイヌの暮らしは、常に寒さや飢えとの戦いだったろう」という、勝手な想像をぬぐうように。
母方の祖父がアイヌで、二風谷で生まれ育った関根さんは、子供の頃、川で遊ぶ時に「魚捕りにはナイフを持って行きなさい。人が食べない内臓を出して河原に置いてくれば、キツネが食べる。家に持ち帰れば、はらわたは生ゴミになるだけ」と教わった。
「アイヌ語に、ホコリという言葉はあるけれど、“ゴミ”にピタッと当てはまる言い方はありませんね」
“捨てない”生活が当たり前だったからだろう。アイヌの世界観では、役割を持つとされたすべてのものに魂が宿る。肉は、食べやすいように切り分けられたら、そのひと切れずつが魂を持つ。
「だから、もし、ひと切れの肉が食べ残されたら、もったいないというより、“かわいそう”って思います。魂があるのに、誰にも感謝されず、取り残されてかわいそうと」
山に出かける時、関根さんは家族にこう言われた。「きのこ採りには、網を持って行きなさい」と。袋に入れたら、胞子が森にこぼれず、次のきのこが育たないから。ある種類の山菜を摘んだら、その場所からは6年間採集しない。再生を待ち、恵みを絶やさないためのアイヌの掟だ。
山菜のありかを日本人に教えたら、そのルールは破られてしまったが、「生態系を守ろう」と叫ばれる、はるか前から、アイヌは、その土地で持続的に生きる方法を考え、伝えてきたのだろう。「アイヌはカッコいい」。関根さんがよく使うキーワードだ。
講演の初めに話した「2年分もの食べ物の貯蔵」があったアイヌの豊かな暮らしは、明治時代に終わる。開拓で日本人が本格的に北海道に住み着いて、アイヌ民族にも、日本語と未経験の農業が押し付けられた。
「狩りに使う毒矢も禁止された。その土地に合った暮らし方ができなくなり」、アイヌは困窮する。そうした祖先の辛苦や、差別を受けてきた歴史が、アイヌがアイヌを語る時の原点だった。
でも、関根さんの立つ位置は、そこではない。「アイヌを背負うのではなく、アイヌであることを強みとして、アイヌに憧れる」ような発信をしたいと関根は言った。これまでなかった新しい角度からの呼びかけは、新しい受け止め方も生み出すに違いない。
(SBSアナウンサー 野路毅彦)
関根摩耶(せきね・まや)1999年生まれ。学生時代からアイヌ語講座を動画で配信。慶応義塾大を2022年卒業した。組織には就職せず、大学の講師や、アイヌと企業とをつなぐ橋渡し役、アイヌ文様を入れた小物作りなどを仕事としている。神奈川県在住
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/372871?display=1

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株式会社レッドクリフ、ドローンショーで冬季のウポポイに賑わいと活気を

2023-03-11 | アイヌ民族関連
株式会社レッドクリフ2023年3月10日 10時00分
厳しい条件の中、日本初※1となる氷結湖上ドローンショーを9日間無事に実施
国内最大数のドローンを保有・運営する株式会社レッドクリフ(https://redcliff-inc.co.jp/ 本社:東京都新宿区、代表取締役社長:佐々木孔明、以下レッドクリフ)はこのたび、2023年1月下旬から2月中旬のうち合計9日間、北海道白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)に隣接する氷結したポロト湖上でドローンショーを無事に3週間連続開催しました。

北海道白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)にて ドローンショーは初めての開催です。連日「アイヌ語のあいさつ」や「ウポポイPRキャラクター トゥレッポん」「シマフクロウ」などのウポポイやアイヌ文化に因んだオリジナルアニメーションがウポポイの夜空を暖かく彩りました。
ショーが始まると会場にいた多くの観客はスマートフォンやカメラを夜空に向け、そしてドローンの着陸と共に会場では大きな拍手と歓声に包まれて、寒い中でも賑わいを見せました。
開催後は現場やSNSでも、
「動画で見るよりもすごく綺麗だった」
「初めて観たけどとても感動した!」
「素敵なおもてなしを感じた」
などの感想と一緒にドローンショーの動画や写真がたくさん投稿され、多くの反響を呼びました。
TV局や現地メディアからの取材もあり、これをきっかけにウポポイやアイヌ文化の振興についてより知ってもらうための良い機会となりました。
過酷な環境でのドローンショー合計9日間実施成功
2023年1月の下旬から本ドローンショーは開始しましたが、準備段階で寒波に見舞われるなど、多くのハードルがありました。また、凍結湖上でドローンショーという難しい条件下でも合計9日間、全て無事にショーを実施しました。
凍結湖上は周囲に遮蔽物が少なく、強風や最低気温が-15℃近くにもなるドローンや電子機器にとっては悪い条件です。その環境下でも安全に飛行させられる技術力とチームワークが功を奏し、予定通りに無事に3週間連続でドローンショーを完遂させることができました。
レッドクリフはこの技術力とノウハウを生かし、今後も様々な環境下におけるドローンショーの実施や全国での定期開催を目標に日本から世界へ躍進してまいります。 
ドローンショー当日の様子
ドローンショーの様子は下記からご覧になれます。 
【レッドクリフ公式】ウポポイドローンショー 300機 ダイジェスト
https://www.youtube.com/watch?v=n58GJr-wwso&t=2s
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000022.000087924.html

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俳優・宇梶剛士さん、青梅の映画館でトークショー 自身の舞台を映像化

2023-03-11 | アイヌ民族関連
みんなの経済新聞3/10(金) 7:23配信

舞台の1シーン
 青梅の映画館「CINEMA NEKO(シネマネコ)」(青梅市西分町、TEL 0428-84-2636)で3月31日から、映画「永遠ノ矢トワノアイ」が上映される。4月1日には俳優・宇梶剛士さんを招いたトークショーも開かれる。(西多摩経済新聞)
 同作品は宇梶さん主宰の劇団「PATHOS PACK(パトスパック)」が2019年に東京で初演し、2021年夏に北海道3カ所で上演した舞台「永遠ノ矢トワノアイ」を映画化したもの。舞台は宇梶さんが作・演出を手がけ、自身のルーツの一つである北海道、そしてアイヌをテーマに、遠い昔より北の大地で紡がれてきた先人たちの思いを受け、現代を生きる青年の成長を描いた。
 タイトルの「アイ」はアイヌ語で「矢」を意味する言葉。2019年、高円寺で初演され、1週間で2000人近い観客を動員。北海道7カ所から上演希望も受けたが、コロナ禍で中断。より多くの北海道民に届けるため、映像化したのが同作品となる。今回は宇梶さんが縁のある青梅での上映と舞台挨拶が決まった。
 上映は毎日1回上映。3月31日~4月6日が11時35分~14時、4月7日~13日が13時50分~16時5分(4月9日は完売)。チケットは、一般=1,800円、シニア=1,200円、大学・専門学生=1,500円、高校~幼児(3歳以上)=1,000円。火曜休館。4月1日のトークショーは各回定員60席。第1回14時~16時15分上映、16時30分~舞台挨拶。第2回17時~舞台挨拶、17時20分~19時35分上映の2回を予定する。前売りチケットの販売は同館で上映日の3日前から。トークショーの前売りチケットの販売は同館で3月26日から。上映は4月13日まで。
みんなの経済新聞ネットワーク
https://news.yahoo.co.jp/articles/70c057cb92febf480ccf283c8ba0c7cffdb99cc8

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ウニだけじゃない通信007 街歩き研究家と歴史探訪

2023-03-11 | アイヌ民族関連
NHK2023年3月10日(金)午後5時38分 更新
2022年夏。積丹町の歴史を調べていたとき、積丹町教育委員会の阿部剛さんから町に現存していた石蔵が札幌市内に移築された、という話を聞きました。西区発寒にある石蔵を訪れましたが、黄色みがかった石が特徴的、ということしかわかりませでした。この石は、いったいどこから来たのだろうか… 阿部さんが石蔵の持ち主に会うため札幌を訪れるという事で、石蔵の移築に関わった方にお話を伺うことにしました。 この歴史探訪編では、札幌の歴史に詳しい街歩き研究家・和田哲さんにご協力いただき、北海道の歴史に思いを馳せる研究家や専門家を巻き込みながら、石蔵の「石」を手がかりに積丹の歴史を紐解いていきます。 
時空を超えてよみがえった、積丹の石蔵
【取材・文/和田哲】
札幌市内には多くの石蔵があります。南区で採掘される札幌軟石が使われているものがほとんどで、現在はおよそ300棟が現存(平成27年札幌建築鑑賞会調べ)。しかし、老朽化や再開発などでその数は年々減り続けています。そんな中、新しく建てられた石蔵が西区発寒にあるという話を耳にしました。いったいどういう経緯なのか、さっそく調査に向かいました。

JR琴似駅南口を出て、桑園・発寒通を西へ15分ほど歩くと、右側にやや小ぶりな石蔵が見えてきます。間口は7mほどで、お寿司屋さんとして使われているようです。建てられたのは最近のようですが形状はレトロ。外壁の石はグレー系の札幌軟石とは違い、全体的にやや黄色みがかっているように見えます。
よく見ると建物の前に黒御影石の銘板があり、冒頭にこんな内容が記されています。
この石蔵は、北海道でニシン漁が盛んだったころ、積丹町の網元(屋号/山三)加藤家が漁具保管のために明治中期~大正初期に積丹町大字幌武意町字番屋の沢の地に建築したものです。
石蔵を譲り受けて移築したという小山秀昭さんを訪ねてみることにしました。小山さんは、LPガスやガス機器を取り扱う会社の取締役会長。令和2年(2020)の春に積丹町を訪れた時に、幌武意町の道道沿いで偶然この石蔵に出合い、そのたたずまいに一目惚れしてしまったと言います。
小山秀昭さん
近寄ってみると屋根には穴が開いていて、蔵の中には大量の漁網やガラス製の浮き球が残っているのが見えました。木が生えるなど荒廃が酷く、蔵が「助けてくれ」と言っているように感じたんです。
小山さんは「何とかしてこの石蔵をよみがえらせたい」と思い立ちます。どう使うかは当初全く考えておらず、とにかく札幌に移築しようと決意。さっそく積丹町教育委員会に、この石蔵の調査を依頼しました。
100年以上前のニシン漁の繁栄を今に伝える
積丹の漁場としての歴史は古く、アイヌの人々が豊かな海で魚を獲って暮らしていたことが、「トマリ(舟で立ち寄る場所)」の付く古いアイヌ語地名が多いことから想像することができます。江戸時代の宝永3年(1706)、松前藩はアイヌとの交易の場である積丹場所と美国場所を開設しました。
北海道庁編 二十万分の一北海道実測切図(明治後期~大正初期/筆者所蔵)
現代に生きる私たちは、どうしても都市を中心とした陸路で発想してしまうので、積丹半島北部の海岸は遠く、昔の人には到達が困難な場所だっただろうと考えてしまいがちです。しかし、当時の和人は道南などから船で移動していたため、積丹町は現在の小樽や札幌よりもむしろ「近い場所」。蝦夷地の開拓が本格化する前から、漁業資源を求めて多くの人々がやって来たのです。
明治時代になると、積丹は北海道有数のニシン漁場として繁栄。昭和初期まで続く最盛期には、美国の海はニシンの群来(早春に産卵のために沿岸に大群で押し寄せる現象)で乳白色に染まり、全国から毎年数千人もの人々が働きに来たそうです。
小山さんから相談を受けた積丹町教育委員会文化財保護主事の阿部剛さんは、売主への聞き取りや文献調査を開始。専門家にも意見を求めました。
阿部剛さん
売主の方は、その前の持ち主だった加藤家からおよそ70年前に購入し、当初は漁具などの置き場として使っていたようです。
最初の持ち主だった加藤家は山の下に三と書く屋号を持っており、その屋号は石蔵の入口のアーチ部分や錠前にも残されています。阿部さんによれば、「積丹町史」に掲載されている明治9年(1876)ごろの「幌武意見取図」の中に同じ屋号と加藤治兵工衛の名前が確認でき、また「広報しゃこたん」(昭和62年11・12月号)には明治2年(1869)の美国郡におけるニシン漁業定置網経営者として「一ヶ統 加藤治兵工衛」と書かれていました。また、その2~3代後の当主・加藤庄五郎(1884~1941)は幌武意小学校の初代PTA会長を務めた人物。加藤家はニシン漁で繁栄したこの地域のリーダー格だったとも言えます。
使われている石や屋根瓦のルーツを追って
特徴的な黄色みがかった軟石はどこで産出されたものなのか、北海道の軟石や軟石建築について研究している「軟石文化を語る会」の佐藤俊義さんに尋ねてみました。
佐藤俊義さん
小樽から積丹方面は、至るところで軟石が採石されていたようで、それらを総称して「小樽軟石」と呼んでいますが、具体的な産地がこことだとははっきり言えないのです。あの辺りは凝灰岩(軟石)が続く海岸。種類も多く、場所の特定は困難とされています。
積丹町を訪れてみると、今も軟石の建物がいくつも残っていることに気付かされます。ニシン漁全盛期の明治~大正にかけて建てられたものが多く、黄色みがかった石やグレー系、褐色系などさまざまな石が使われていました。これは札幌市内の軟石建物にはない特徴で、積丹付近ではさまざまな色の軟石が産出されたことを物語っています。
中でも美国町船澗(ふなま)にある「キイチ水口石蔵」は特徴的で、明るい黄色と褐色系の軟石をデザイン的に組み合わせています。遠くから見ると、まるで後から色を塗ったようにも見える鮮やかさなのですが、阿部さんによれば石本来の色を生かしているとのこと。かつてはニシンを干しておくための蔵だったようで、豊かだった時代ならではの施主の遊び心を感じます。
そこからほど近い場所で、現役の倉庫として今も使用されているのが水産倉庫美国。明るめのグレーと褐色の2種類の軟石をランダムに組み合わせており、アーチ型の入口や赤く塗られた鉄扉と相まって、独特の景観を演出していました。
美国の石蔵の多くは、今は使われていないか、使われていても内部を見学することはできません。そんな中、カフェを併設したニシン文化の伝習施設「鰊伝習館ヤマシメ番屋」の石蔵は、番屋の向かいにある石蔵をリノベーションしたもので、内部の構造を観察することができます。中に入ると、骨組みに木材を使用した「木骨石造」の構造がよく分かるようになっています。
続いて私たちは、石蔵がもともとあった場所を阿部さんと一緒に訪ねてみることに。美国市街から積丹岬方面に車で約20分、道道913号野塚婦美線(のづかふみ)線沿いにそれはありました。海岸に降りる道路が分岐する辺りに石蔵の土台部分がまだはっきりと残っていて、周囲には屋根瓦のような破片もあります。この屋根瓦が、石蔵の建てられた時期を推測する手がかりになったとのこと。阿部さんからの依頼で屋根瓦を検証した、一級建築士で北海道ヘリテージマネージャー(歴史的建造物の修復や活用の専門家)の渡辺一幸さんに聞きました。
渡辺一幸さん
余市から積丹にかけての屋根用の釉薬瓦(ゆうやくがわら)には、能登や越前、石州の他に明治26年(1893)に始まる寿都産瓦もあり、瓦表面の性状(釉薬色や焼成具合)、軒瓦に刻印されている文様や窯印などからある程度特定するしかありません。この石蔵の瓦は、大正12年(1923)に建てられた余別の白方商店の石蔵や、明治20年代に建てられた寿都町の旧橋本家の土蔵の保管瓦によく似ています。また、瓦の特徴は積丹地域でよく見かける能登系黒瓦に似ていますが、作り手や窯元を示す窯印がありません。これは、能登ではなく北海道で焼かれた瓦に共通する特徴を示しています。さらに、瓦の断面には白い斑点が見られます。これは人の力で粘土を練っていたためにできたムラで、おそらく明治20年代に焼かれた初期の北海道産瓦の可能性を備えています。このことから、この石蔵は明治中期~大正初期に建てられたのではないかと推測できるのです。
それにしても、石蔵があった場所は標高48mの高台の上。海岸はここから近いとは言え、曲がりくねった長い坂道を上り下りする必要があります。どのようにし暮らしていたのでしょうか。
阿部剛さん
加藤庄五郎のお孫さんにお話を伺いました。この石蔵には住宅が併設されていて、幼い頃、春は浜の住宅で、秋以降は高台の石蔵住宅で暮らしていたとのことでした。加藤家が石蔵を手放した当時は小学生だったので、ご記憶にあるそうです。
隆盛を極めた積丹のニシン漁でしたが、昭和5年(1930)以降は漁獲量が急速に減少。昭和29年(1954)を最後に、ニシンはついにこの辺りの浜から姿を消したのでした。加藤家が石蔵を手放した事情が垣間見えます。
札幌への移築大作戦
この石蔵に惚れ込み、譲り受けた小山さん。自宅の庭に建てることも検討しましたが、タイミング良く自分の会社の向かいの土地が使えることになり、そこに移築することを決定。工事中の様子を毎日眺めることができましたと楽しそうに振り返ります。建築の専門家である渡辺さんによれば、石蔵を移築する例は、実は珍しくないのだとか。
渡辺一幸さん
石を一つ一つ分解できるので、技術的には木造の建物よりもむしろやりやすいんです。大変なのは運搬時の重量くらい。耐震性を確保して建築基準法に合致させるにはどうするかという問題がありますが、内部に鉄骨を組むことで解決する方法があります。
移築を請け負った建設会社は、1週間ほど積丹町の現地に通って一つ一つの石に番号を振りました。小山さんも可能な限り現地入りし、作業に立ち会ったそうです。こうして、令和2年(2020)夏に移築が完了。それに伴い、それまでなかった窓を設け、やや左に寄っていた入口を中央に移しました。
渡辺一幸さん
この石蔵の建築的な特徴は、何と言っても数少ない入口のアーチ構造。建てられた当時としては贅を尽くした造りだと言えます。
夕暮れ時、石蔵に灯りが灯ります。石の表面の凹凸と優雅なアーチが、オレンジ色の光に深い陰影を浮かび上がらせ、暖かな雰囲気を醸し出すのです。
使われている軟石の具体的な産地については筆者も時間をかけて追跡調査したものの、やはり特定することはできませんでした。さまざまな想像をめぐらせる余地を残してくれていることにもまた、歴史のロマンを感じます。
「いろいろな人の縁のおかげで、石蔵を再生することができたと感謝しています」と小山さん。大人たちの談義はいつまでも尽きず、どこかで石を切り出し、屋根瓦を作り、蔵の意匠にこだわった往時の職人たちの思いや、その石蔵が見守ってきた積丹の歴史に、それぞれが思いを馳せました。
【プロフィール】
和田 哲 / 街歩き研究家
1972年札幌市生まれ。市電沿線で電車を毎日見ながら育つ。古地図や古写真、道路のずれから札幌の歴史をひもとき、雑誌連載やYouTube、講演活動などで発信している。2015年にNHK「ブラタモリ」札幌編で2人目の案内人を務めた。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n17a3d77f1e08

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台湾先住民族のドキュメンタリー映画祭、米アンソロジー・フィルム・アーカイヴズで

2023-03-11 | 先住民族関連
TAIWANTODAY2023/03/10 |

米アンソロジー・フィルム・アーカイヴズは10日から13日まで、台湾先住民族に関するドキュメンタリーフィルムを上映する映画祭「Indigenous with a Capital“I”:Taiwan Indigenous Documentaries from 1994 to 2000」を開催する。写真は馬躍・比吼(Mayaw Biho)監督の『天堂小孩』(1997年、13分)。(国家電影及視聴文化中心)
中華民国(台湾)文化部(日本の文科省に類似)の出先機関の一つ、駐ニューヨーク台北文化センターとニューヨークのマンハッタンに位置するアンソロジー・フィルム・アーカイヴズ(Anthology Film Archive)はきょう(10日)から13日まで、1994年から2000年までに撮影された台湾先住民族に関するドキュメンタリーフィルムを上映する映画祭「Indigenous with a Capital“I”:Taiwan Indigenous Documentaries from 1994 to 2000」を開催する。上映するのはいずれも、台湾初となる台湾先住民族出身の監督による台湾先住民の記録映像だ。監督の一人である馬躍・比吼(Mayaw Biho)さんと、台湾国際ドキュメンタリー映画祭の映像キュレーターを務める鍾佩樺さんが訪米し、このイベントに参加する。
この映画祭は、駐ニューヨーク台北文化センターと、「台湾国際ドキュメンタリー映画祭」を主催する国家電影及視聴文化中心(TFAI)の協力を得て、馬躍・比吼(Mayaw Biho)さんのほか、楊明輝(Umin Howa)さん、比令・亜布さん、龍男・以撒克・凡亜思さんなど台湾先住民族出身の映画監督10人が手がけた計16作品を、世界の実験映画を保存し、上映するアンソロジー・フィルム・アーカイヴズで上映するというもの。フィルム原版の多くは監督自身も保存しておらず、台湾の映画史上において貴重な史料であると言える。
馬躍・比吼(Mayaw Biho)さんと映像キュレーターの鍾佩樺さんは、上映後の座談会に3回参加し、地元の観客に対して台湾先住民族の文化やこの映画祭を企画した背景などを語る。
馬躍・比吼(Mayaw Biho)さんはアミ族の出身。大学時代に、アミ族をテーマにしたドキュメンタリー映像の撮影を始めた。その後は、その他の先住民族や外省人の歴史にもテーマを広げている。映像キュレーターの鍾佩樺さんは「台湾国際ドキュメンタリー映画祭」のキュレーターチームの一員として、1年かけてフィールドワークを行い、あちこちに点在していたDV規格などのビデオフィルムをかき集め、さらに先住民族出身の監督へのインタビューを行い、作品を研究するなどしてきた。今回の映画祭は、単に作品を上映するだけでなく、チーム全体の研究の成果を展示するものである。
アンソロジー・フィルム・アーカイヴズ(Anthology Film Archive)のこの映画祭に関する特設サイトは下記のとおり。
http://anthologyfilmarchives.org/film_screenings/series/55776

https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=148,149,150,151,152&post=233851

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あのオスマン・サンコン「30代で6.0」なんてヌルすぎる!アフリカ原住民「驚愕の視力」最高値

2023-03-11 | アイヌ民族関連
Asagei2023年3月10日 17:59

ギニア出身のタレント、オスマン・サンコンが3月8日、都内で行われた「来日50周年記念 日本ギニア友好チャリティーパーティー」に参加。囲み取材に応じると、過去のテレビ出演を振り返った。
 ギニア日本交流会の顧問を務めるサンコンは現在、73歳。来日当時はギニアの存在を広める目的で出演した「笑っていいとも!」(フジテレビ系)で天然キャラが大ウケし、「1コン2コン、サンコン!」のフレーズで大人気となった。
 今回は記者を前に、思い出のテレビ企画を回顧したのだが、話題は「視力」へと移る。来日した30代の時は「6.0」だったのが、現在は「1.2」まで落ちていることを明かしたのだ。1.2でも十分だが、6.0とは日本人では考えられない数値である。医療ライターが語る。
健常な日本人の視力は1.2程度と言われていますが、生活環境の変化により、次第に低下傾向にあるとされます。対してアフリカ人の場合、広大に広がる草原の中で育つことで、視力が抜群に良いというイメージがありますが、最近ではこれが幼少期のみという調査結果もある。これには強い紫外線の影響があるとも言われます」
 それでも、ケニア南部からタンザニアの北部一帯のサバンナで暮らす先住民のマサイ族などは、驚異的な視力で知られる。放送担当記者が振り返る。
「以前に日本のテレビ番組の企画で、そのマサイ族とタンザニア先住民族のハッザ族、ケニア北西部のトゥルカナ族で『視力世界一』を競ったところ、マサイ族が11.0で優勝しています。そのマサイ族はなんと、1834メートル先にある直径25センチのランドルト環(視力検査記号)が見えていたんです」
 同じアフリカ人でも、上には上がいるものだ。
https://www.asagei.com/excerpt/250168

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絶滅危惧種を扱うワシントン条約、COP19での決議が発効

2023-03-11 | 先住民族関連
ESGJournal2023/3/10
2月23日、絶滅危惧種を扱うワシントン条約(CITES)の第19回締約国会議(COP19)での決議が発効した。野生生物の取引を調査・モニターするNGOであるTRAFFICは、条約の実施に関わるすべての関係者が、これらのコミットメントを現場で意味のある行動に移すよう要求している。また、TRAFFICは附属書のいくつかの種リストの実施が遅れていることについても懸念を表明した。
TRAFFICは、野生種の取引を規制するために必要なツール、特にNon-Detriment Findings(NDF)の開発を通じて、締約国を引き続き支援する。また、需要削減戦略に関する新たに採択されたガイダンスの実施や、将来の人獣共通感染症出現のリスク低減における条約の役割強化など、ワシントン条約が直面する多様な戦略的包括的課題に取り組む各国政府を支援する。
加えて、象牙の違法取引などの種固有の問題を支援するため、TRAFFICはワシントン条約事務局、MIKE-ETIS技術諮問グループ、締約国との連携を強化し、象取引情報システム(ETIS)がワシントン条約の意思決定を引き続き効果的に支援できるようにする。
TRAFFICは、違法または持続不可能な野生種の取引活動の傾向を引き続き警戒し、インターネットに関連した野生生物犯罪や金融犯罪といった新たな脅威に対抗するためにパートナーとともに活動する。
今回発効したこれらの決定は、COP20までの今後3年間の継続的な作業と、CITESの作業部会および会期中会合の作業開始の情勢を示すものである。注目すべきは、先住民や地域社会(IPLCs)との重要な関わりや、合法的かつ持続可能な野生種取引の利益を生計のために最大化する方法について、これまで見られた限られた進展をさらに進めるためのワシントン条約作業部会が含まれていることである。ワシントン条約動物・植物委員会は今年6月に、常設委員会は11月に開催されることがすでに決まっている。
TRAFFICのCOP19サマリーに概説されているように、新たな決定により、各国は野生種の取引規制を着実に進め、世界的な生物多様性の課題への取り組みに貢献することになるが、一部の種については、それが十分に速いとは言えない。
ワシントン条約COP19において、TRAFFICは、締約国がワシントン条約の附属書へのいくつかの種の登録の実施を遅らせることに合意したことを懸念して指摘した。
リストアップ実施の遅れは、関係国にとって保全上の課題となる。例えば、一部の木材の発効が長く遅れることで、規制の対象となるまでの猶予期間中に、悪徳業者がこれらの木材種を過剰に伐採し、備蓄することを助長する恐れがある。
【参照ページ】
(原文)CITES COP19 Decisions and listings come into force
(日本語参考訳)絶滅危惧を扱うワシントン条約、COP19での決議が発効
https://esgjournaljapan.com/world-news/26371

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おそらく史上最高額の強奪、知られざるインド洋の海賊たち

2023-03-11 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック2023.03.11
奪われたムガル皇帝の財宝は現在の価値で数十億円相当か

「ムガル帝国皇帝の船を追うエイブリー」。1890年ごろの多色版画。(ILLUSTRATION VIA PETER NEWARK HISTORICAL PICTURES, BRIDGEMAN IMAGES)
1650〜1730年は「海賊の黄金時代」と呼ばれる。ヨーロッパの海賊たちが、カリブ海をはじめ大西洋で略奪の限りを尽くした時代だ。黒ひげやキャプテン・キッドのように有名になった海賊もいた。
 同じ時期、一部の海賊は金、銀、宝石を積んだ船に引き寄せられ、インド洋に活動拠点を移した。ここでの悪行はあまり有名ではないものの、インド洋は海賊たちの一大拠点となり、現在も海賊行為が続いている。この海へやってきた海賊たちは何者で、どのように海賊行為を始めたのだろうか?(参考記事:「海賊「黒ひげ」が読んだ探検本?沈没船から発見」)
インド洋を行き交った財宝
 1690年代までに、インド洋では、貴重な貨物を運ぶ商船が日常的に行き交うようになった。船団は、現在のインドに当たるムガル帝国とアラビア半島のメッカの間で、裕福なイスラム教の巡礼者や絹、香辛料などのぜいたく品を頻繁に運んでいた。また、英国の東インド会社やフランス、オランダの船も財宝を運んだ。
 東のインド方面に向かう船は現地での活動資金を運び、西に戻る船は絹や宝石、香辛料を積んでいた。しかし、海賊たちにとって最も魅力的だったのは、ムガル帝国を支配した皇帝アウラングゼーブ(在位:1658年~1707年)の財宝を運ぶ船だ。(参考記事:「私たちが思い描く「海賊」像の多くは誤解、本当にあったのは?」)
 カリブ海の木材やラム酒、布地よりも、金、銀、宝石の方がはるかに高く売れるため、海賊たちは巨万の富を期待し、大挙してインド洋へ向かった。
「海賊の天国」
 インド洋へやって来た海賊たちには、船を修理したり、嵐から逃れたりするための安全な港と、戦利品を謳歌するための場所が必要だった。アフリカの海岸から沖へ約400キロ離れたマダガスカルがその場所に選ばれ、その北東部に浮かぶサント・マリー島が最も有名な拠点となった。この島はヨーロッパとアジアを結ぶ航路の要衝であるため、マダガスカルの先住民はそれまでヨーロッパ人を寄せ付けないようにしてきた。
 そこに現れたのが、英国の「貿易業者」であるアダム・ボールドリッジだ。英国領ジャマイカで殺人を犯して指名手配されたためにサント・マリー島へ逃げ込み、(間違いなく卑劣な手段で)地元住民を支配下に置き、1691年、海賊の天国を築き上げた。
 ボールドリッジはニューヨークの商人とともに、海賊の戦利品をたばこや食料などのヨーロッパの商品と交換する違法なビジネスを立ち上げ、海賊の生活を支える経済ネットワークを繁栄させた。(参考記事:「330年前の地震で海に沈んだカリブの「海賊の都」ポートロイヤル」)
 ボールドリッジはサント・マリー島に驚くほど強固なとりでを築いた。1690年代には1000人以上の海賊がそこに潜伏し、略奪の合間に、ラム酒や女性、そして安全まで手に入る生活を楽しんでいた。(参考記事:「カリブの海賊に欠かせなかった「タバーン」、その多様な役割とは?」)
海賊のサクセスストーリー
 インド洋で最も成功したヨーロッパの海賊は、英国のジョン・テイラーと、ラ・ブーシュの名で知られるフランスのオリビエ・ルバスールで、2人は1721年に協力してノッサ・セニョラ・ド・カボ号を襲撃した。この船はゴア大司教、ポルトガル領インド副王エリセイラ伯爵などの要人とともに、50万英ポンド相当のダイヤモンド、37万5000ポンド相当のアジアの絹や磁器を運んでいたが、海上で損傷し、修理のため東アフリカのレユニオン島に停泊した。
 テイラーとラ・ブーシュはこの船を難なく奪取し、90万ポンド以上の価値を持つ戦利品を持ち去った。こうした成功談をきっかけに、インド洋に海賊たちが押し寄せ、略奪する船を探し回るようになった。(参考記事:「映画とは違う? 最後の海賊ブラック・バートの実像」)
 もう一人の大成功した海賊が、英国のヘンリー・エイブリーだ。商船の一員として働いた後、スペイン国王の私掠船チャールズ2世号の一等航海士になった。チャールズ2世号の船上で、エイブリーはほかの乗組員を説得して反乱を起こし、船を奪い去った。この反乱は大成功を収めた。
 その後、エイブリーは海賊行為に手を染めることを告げた。「私はマダガスカルに行き、自分の力で富を築こうと思っている」。エイブリーは船名をファンシー号に変え、帆を張ったときのスピードが速くなるよう改造し、東を目指した。海賊王として知られるエイブリーは、海賊史に残る襲撃の先頭に立ちながら、わずか2年ほどしか活動しなかった。
史上最大の強奪
 1695年7月、インドのムガル帝国皇帝の財宝を積んだ船団が、毎年恒例のメッカ巡礼から帰ってくるといううわさが流れた。エイブリーは、私掠船の乗組員から海賊に転身したロードアイランドのトマス・テューなど、ほかの海賊たちと手を組むことにした。そして、数週間後、2つの大きな獲物が近づいてきた。ファテー・ムハンマド号とガンジ・イ・サワイ号だ。
 海賊たちはまず、護衛船のファテー・ムハンマド号を攻撃した。5万〜6万ポンド相当の財宝が難なく手に入ったが、海賊たちは満足しなかった。エイブリーはその後、62門の大砲を備えたうえに数百人がマスケット銃で武装している強力なガンジ・イ・サワイ号をねらった。
 血みどろの戦いになったが、最終的には、おびえた船長が甲板の下に身を隠し、残された乗組員も降伏した。戦利品は数十万ポンド相当の金、銀、宝石で、現在の金額に換算すると、数十億円の価値があった。これはおそらく、一回の海賊行為の稼ぎとしては史上最高の金額だ。
 しかし、テューとその乗組員にとっては、あまり良い結果ではなかった。テューは戦いの最中に命を落とし、エイブリーは戦利品をほかの海賊たちに少ししか分配しなかった。そして、エイブリーの海賊生活は終わった。
黄金時代の終わり
 18世紀末までに、ヨーロッパ人がインド洋全域を植民地化し始め、海賊の活動は難しくなったが、海賊が消え去ることはなかった。インド洋における海賊行為は21世紀に入っても、ソマリア沖を中心に存在し続けている。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/030900122/

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(Views) ブラジルで先住民が危機 前政権が放置した金の不法採掘

2023-03-11 | 先住民族関連
日本経済新聞2023年3月10日 0:00 [有料会員限定]

昔ながらの生活を維持しているブラジルのアマゾンの先住民が、過去4年の間に恐ろしい悲劇に見舞われていた――。そんなニュースがにわかに世界を駆け巡ったのは、1月のことである。金の不法採掘が横行して水銀中毒などがまん延し、多くの子供たちが亡くなったり病気になったりしてきたという。背景には、2019~22年に政権を握った同国のボルソナロ前大統領が開発を優先し、先住民の保護や環境保全をないがしろにしたこと...
この記事は産業新聞ビューアーご購読者限定です。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69119570Z00C23A3X12000/

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