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なぜ石高ゼロで運営できた?戦国期から幕末までの「松前藩」ドタバタな歴史

2025-01-27 | アイヌ民族関連

 

武将ジャパン 2025/01/26

幕末――とは日本各地が限界に達した時代です。

黒船が来航したから?

いいえ、それだけではありません。

相次ぐ飢饉。

自然災害。

様々な対応に迫られ、どの藩も借金まみれとなり、それに加えて外国からの脅威まで重なったのですから、もうどうにもなりません。

そんな激動の最中、全国屈指のベリーハードモードに突入した藩がありました。

松前藩です。

北海道のほぼ最南端に松前城を構えた同藩。

彼らは新政府軍についたものの幕府軍に大敗し、さらには城下町で大火災という悲惨な事態に陥ってしまいます。

慶長9年(1604年)1月27日は、そんな松前藩の統治を家康が認めた日。

本日は、その歴史を振り返ってみましょう。

コシャマインの乱で武田信広大活躍

蝦夷地――それは【中央政権に屈しない民族が暮らす土地】というのが、中世以来の和人による認識でした。

東北地方は、和人の大名によって支配されたとみなされ、津軽海峡の向こうにある蝦夷地は未知の地――その状況が変わったのは、実は室町時代です。

津軽海峡を含め、本州最北端を治めていた安東氏が、蝦夷地南部と交易をしていました。

現在の北海道南部は、アイヌ語由来と日本語由来の土地名が混在しています。両者が混在していた証拠でしょう。

しかし、こうした暮らしも安寧に続いたわけではありません。

あるとき交易をめぐるトラブルが勃発。

口論の末、刀鍛冶がアイヌ男性を殺害してしまったのです。

康正3年(1457年)、コシャマインを中心としたアイヌが蜂起し、和人たちに弓を引きました。

応仁の乱】が始まる10年前のことです。

このコシャマイン父子を討ち取ることに成功したのは、武田信広という武将です。

松前藩主・蠣崎氏の祖とされているのですが、その経歴はどうも誇張が多く、信ぴょう性はいまひとつハッキリしておりません。

松前藩祖であるため、話が盛られてしまったようです。

ありていに言ってしまえば「正体不明の武将」かなぁと。

信広はこのあと、蝦夷地の和人館・上国花沢館の蠣崎季繁の娘を娶り、蠣崎と名乗るようになります。

たった一度の戦いで、素性不明の武将・武田信広は立身出世――子孫も着実に力をつけ、蝦夷地南部を支配するようになったのでした。

蝦夷地の大名・松前氏誕生

信広の治世から、約百年、時代が降りまして、蠣崎慶広(1548-1616年)の時代。

あるチャンス当来の話が、津軽海峡を超えて伝わってきます。

関白・豊臣秀吉による天下統一です。

伊達政宗あたりにとっては残念無念、野望終了の合図となったこのとき。

「天下人に認められ、大名になるチャンスだ!」とみなす武将もいました。

蠣崎慶広もその一人です。

奥州検地に豊臣家の家臣が派遣された頃の天正18年(1590年)。

彼らが津軽まで来ると知った慶広は、従属していた安東実季(あんどうさねすえ) の許可を得て、上洛します。

聚楽第での秀吉は大喜びでした。

慶広を従五位下にして、蝦夷地を支配する大名として認めたのです。

安東実季からすれば勝手に独立されて、しかも秀吉に取り入られて、複雑な気分だったでしょう。

慶広は【九戸政実の乱】討伐に出陣した際、アイヌ風の衣装を身につけ、毒矢を装備した兵士を出陣させました。

豊臣政権のもと、こうして蝦夷地を治める大名が誕生したのです。

徳川政権においても関係良好

政権が滅び、徳川にその権力が移り変わってからも慶広は巧みに立ち回ります。

家康と面会した際は、唐衣(サンタンチミプ、蝦夷錦で作った衣服、清朝官服)を着ていたそうです。

「おっ、その服いいね」と、家康は興味津々。慶広は即座に脱いで献上したのだとか。

立ち回る慶広の巧みさがわかります。

こうして、蠣崎氏から松前氏となり、蝦夷地に藩が誕生します。

とはいえ松前氏によるアイヌの支配が認められたわけではありません。

アイヌと交易して、その利益で運営してゆく異例措置の藩はこうして生まれたのです。

広大な蝦夷地をこんな小さな藩で統治できるのだろうかと、ちょっとツッコミたくなりますが、藩成立時は、そもそも統治を任せ切ったわけではありません。

このことは更に時代が降るにつれ、大きな問題となってゆきます。

「無高」じゃない! 特異な大名

松前藩について調べだすと、まずぶちあたる疑問があります。

無高――すなわち収入ゼロ、石高ゼロ、ということです。

どういうこっちゃ?

実は当時、品種改良がされていない稲は蝦夷地では育ちませんでした。

稲作ができないならば、稲の収穫で計測する石高はゼロとしか言いようがないわけです。

異例ずくめの松前藩は、江戸時代初期は「賓客」待遇でした。

参勤交代も、毎年義務付けられた他の大名とは違い、3年に一度(のちに5年)で、在府期間も4ヶ月か5ヶ月程度。

このような扱いをされたのは、他に対馬藩しかありません。

日本として認識されていなかったと思われます。

松前藩主・松前公広は、江戸時代初期の元和4年(1618年)、パードレ(宣教師)に対してこうコメントしております。

「日本ではキリスト教は禁教になりましたが、松前は日本ではありませんから訪れてもよいのですよ」

江戸時代初期、砂金掘りを偽装した切支丹が、金山が発見されていた蝦夷地にやってくることがあったのも、実はこうした背景もあったわけです。

しかし、それも長続きはしません。

寛永16年(1639年)【島原の乱】で痛い目にあった江戸幕府は、松前藩に対して切支丹を厳しく処罰せよと命じてきたのです。

結果、潜んでいた切支丹が大量に処刑されたのでした。

日本ではない、そんな認識だった松前藩。

しかし幕府の統制が強まる中で、日本という枠組みに入ってゆくことになっていきます。

交易こそが命綱、しかし……

稲作ができない松前藩は、アイヌとの交易で収入を得るほかありません。

はじめは城下、のちに上級藩士に与えた知行で交易をすることになりました(商場知行制)。

交易品は、鮭、ニシン、数の子、アワビ、昆布といった海産物。

ほかに鷹の羽、アザラシ、熊の脂、ラッコ皮等があります。

取引相手はアイヌだけというのが、海禁政策江戸幕府支配下日本でのお約束です。

しかし、アイヌを介在して清やカムチャッカ半島とも貿易が行われていました。

独自の交易ルートが構築されたのです。

このように交易で儲けてゆく、そんな時代が続けばよいのですが、そうはいきません。

まず襲いかかってきたのが、災害ラッシュです。

寛永17年(1640年)に駒ヶ岳が大噴火。

ラハール(火山泥流)、そして大津波が起こり、700名が死亡するという被害が出ました。

このあと蝦夷地は、有珠山に続き樽前山も噴火し、天災ラッシュに巻き込まれます。

火山灰が降り注ぎ、河川氾濫が起こるような、酷い状況でした。

アイヌの人々も、苦しい生活に追い込まれたはずです。

しかし、和人からすればそんなことはどうでもよかったのか、

「よし、あいつらにはどうせわからないだろうし、貿易を値上げして、こちらが一方的に儲かるようにしよう」という最悪の選択をしてしまうのでした。

アイヌは文字を持ちません。

計算についても、和人のほうが強いという偏見があったようで、松前藩は、交易比率を大々的に変え、3倍もの値上げを実施したのです。

ただでさえ天災により生活が苦しいアイヌの人々にとって、あまりに惨い仕打ちでした。

『これでは生活ができない!』

ついにアイヌは、シャクシャインのもとで蜂起します。

祟りか、それとも運が悪いだけなのか?

シャクシャインの戦いの後、松前藩はアイヌに対して統制を強めました。

藩としてはこれで一安心……と言いたいところですが、そうはいきません。

藩主に幼君が続き、政治が混乱したのです。

「門昌庵(もんしょうあん)の祟りじゃないのか……」

当時、松前藩にはそんな噂がありました。

門昌庵という寺の柏厳峰樹(はくがんほうじゅ)という和尚が、無実の女犯罪で藩によって斬首されていたのです。

それは、和尚が祟り、藩内で噴火だの、藩主夭折だの、家老怪死だの、不気味な事件が相次いだというあらましです。

祟りというよりも、それだけいろいろと問題があったということでしょう。他藩なら改易も見えて来そうなところです。

しかし、松前藩はその特殊性もあってか、幕府からの厳重注意程度で切り抜けました。

こうした最中、藩主の松前邦広は藩政改革を行い、立て直しに着手します。

貿易だけに頼っていた体制を見直し、藩士ではなく「場所請負商人」により交易を行うようにしたのです。

元禄・享保期から、ニシンを潰した肥料が利用され始めます。

このことも、松前藩にとってはプラス要素となりました。

貿易だけの状態から脱出をはかる松前藩はなかなか順調にいきそうに思えました。しかし……。

迫るロシア、蝦夷地は幕領に

蝦夷地はじめとする、日本の北にある領地へ野望を燃やす国が出現します。

ロシアです。

不凍港に動物の毛皮、漁場……と、そこは魅力あふれる土地でした。

伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用

むろんロシア側も、突如攻撃をするほど無茶ではありません。

安永8年(1779年)には、松前藩とロシアで会談まで行われています。

「貿易しませんか?」

「いや、幕府で貿易は長崎だけと決められていますし……アイヌ経由ならありかもしれないんですけどねぇ」

なんともモヤモヤした回答。

ここで松前藩は問題を抱えてしまいました。

「幕府に相談すべきかな?」

そこで出た結論は、おいおい、そりゃ無責任でしょ、と突っ込まれかねないものでした。

「このタイミングで相談したら、今までロシア人が迫っていたのに黙っていたことを咎められるだろ。かといって警備しろと言われたって無理。こうなりゃ……黙っておこう!」

日本にとっては最悪の選択だったかもしれません。

実は、ペリー来航の75年も前に、ひっそりと、北ではこんな会談が行われていたのです。

しかし、こんな重大事、いつまでも隠し通せるワケがありません。

仙台では同藩医の工藤平助がロシアの脅威を著書で発表。

当時の老中である田沼意次は、ロシアと交易する可能性に気づきました。

最上徳内の蝦夷地探険といった動きは、こうした中で行われています。

しかし、将軍家治の死に伴い、田沼が失脚。蝦夷地への感心も低下してしまいました。

松前藩は、ロシアのみならず、商人ともトラブルを抱えておりました。

彼らの方針に激怒した飛騨屋が、幕府の勘定奉行にまで訴えたのです(飛騨屋公訴事件)。

貿易商人相手に借金が膨らみ、天明の大飢饉も起こり、松前藩はかつてない窮地に陥っていきます。

なお、飛騨屋は松前藩の請負商人でしたが、田沼意次が蝦夷地調査団を送り込んだため、貿易中止となることがありました。

松前藩にせよ、飛騨屋にせよ。

不慮の事態で利益が少なくなると、アイヌ相手にふっかけて儲けを補おうとするところがありました。

寛政元年(1789年)。

こうした態度に反発したアイヌが蜂起、「クナシリ・メナシの戦い」が起きます。

この危難を、アイヌの大量処刑という凄惨な結末でもってなんとか切り抜けた松前藩ですが、ことはそう単純ではありません。

蝦夷地探険をした幕府は、松前藩で本当によいものかと、疑いの面を向けて来たのです。

「そもそも松前藩が広大な蝦夷地を統治って、無理があるのでは?」

当時の幕府には、蝦夷地について二種類の意見がありました。

開発論:蝦夷地を幕府が支配する

非開発論:敢えて蝦夷地を放棄することで、外国の関心をそらすノーガード戦法

これはどう考えても開発論でしょ! と言いたくなりますが、どっこい松平定信は【非開発論】だったのです。

開発論が浮上してくるのは、定信の解任後でした。

寛政11年(1799年)。

蝦夷地は幕府領となり、松前藩は梁川へと移封されます。

蝦夷地の警備は、奥羽諸藩が当たることになりました。

ただ、松前藩にとっては幸運が訪れます。

19世紀初頭のロシアは、ナポレオン戦争に巻き込まれ、日本探険どころではなくなったのです。

文政4年(1821年)、松前藩は蝦夷地の大名として復帰することとなりました。

松前藩は海防に備えて松前城を築く等、対策を整えております。

しかし、時代の流れはあまりに早いものでした。

そして幕末動乱へ

ここまで辿り、何かを思いませんでしたか?

「なんだ、松前藩はペリーなんかより遙かに早くから、異国船の脅威にさらされていたのだな」

確かにその通りです。

ではペリーが来て落ち着き払っていたのか?というと、そうではありません。

黒船来港翌嘉永7年(1854年)。

幕府は蝦夷地を幕領(直轄地)にすることにしたのです。

異国船の脅威が迫る中での措置であり、松前藩は完全に消え去ったわけではなく、残されているだけ温情があったと言えます。

ちなみにペリーは、浦賀の帰り道に蝦夷地の松前藩にも立ち寄っています。

応対した松前勘解由は、のらりくらりとした「コンニャク問答」をしたそうです。

「どうなんですかねえ、まあなんとも言えないっすねえ」

要するに、結局どっちなんだよ、とイライラするタイプの受け答えですね。

失望したペリーは「コイツは駄目だ、無気力で話にならん」と失望したのだとか。

日本が攘夷で燃えたぎる中、松前藩はそんな問答をしていたのでした……。

といっても、松前藩が無気力だったわけでもありません。

松前崇広は、老中にまでなるほどの国際性に優れた人物でした。

官軍についたのに! 箱館戦争で大損害

幕末の混乱期。

各藩は新政府につくか、幕府につくかで別れました。

当然ながら、最終勝利者の新政府についた藩がよい――と言い切れないのが歴史のフシギです。

秋田藩の場合、強引な流れにより新政府側につくと決まり、【奥羽越列藩同盟】に加盟しない数少ない奥羽の藩となりました。

結果、東日本最強の庄内藩に攻められ、藩主が自刃を覚悟するほど厳しい目にあっております。

松前藩も、大変なことになりました。

正議隊という勤王派の一隊が藩政改革を断行し、藩政を掌握したのですが……これが最悪の結果に繋がります。

まず一点目。

正議派のやり方は強引でした。藩内のくすぶった不平不満が、あとあとまで尾を引くことになります。

そして二点目は……不運としか言いようがありません。

戊辰戦争の結果、敗北を重ねて奥羽にもいられなくなった幕臣たちがおりました。

彼らは蝦夷地を最後のより所とみなし、上陸してきたのです。

結果、榎本武揚、そして新選組鬼の副長こと土方歳三らが、松前藩を攻撃することになったのです。

その技能と才知を惜しんだ明治政府によって助命され、仕えている榎本。

それを考えれば、新政府が榎本ごと残してロシア警備に当ててもよさそうなものですが、そうはなりませんでした。

土方にしてみれば、死に場所を探していていたようなもので、立場はそれぞれです。

ただ、彼らに統一された意思があるとすれば、松前藩を追い払うことでしょう。

戦火が容赦なく松前藩に広がりました。

そして函館戦争が起き、松前藩は壊滅。

新政府軍は最終的に勝利しますが、松前藩の受けた打撃が回復できるはずもありません。館藩と名が変わってからも、復興費用すらひねり出せないほどの深刻な状況に陥いるのです。

官軍として戦ったことから若干の加増はありました。

と、これも焼け石に水。明治政府による開拓使の設置により、収入源であった請負制も奪われてしまいます。

更には不運なことに明治3年(1870年)、城下町で大火災が発生するのです。

莫大な借金と、焼け落ちた城下町を持つばかりの館藩。

廃藩置県で、安堵したかもしれません。

全国の藩でも屈指といえる、あまりに過酷な結末が待っていたのでした。

どうにも松前藩というのは、幕府時代からイメージが悪かったようです。

・アイヌ相手にあくどい取引をする

・商人とトラブルを起こす

・異国相手に真面目に対処しない

・幕府に対して隠し事がある

・やる気を感じない

そんなマイナスイメージがつきまといますが、そもそも広大な北海道を小規模の藩で統治せよという方が、無理なのです。

【試される大地】と称されるほどの北海道――かつての蝦夷地。

そこで悪戦苦闘を繰り返した松前藩。

その苦難は、もっと評価されてもよいのではないでしょうか。

https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2025/01/26/116456

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