論座 2021年03月23日
日本テレビ系の情報番組「スッキリ」で、「あ、犬」などという、アイヌ(*)を絶望におとしいれる言葉が公然と語られた。これが公共の電波にのって日本中に流された事実に、私は跳ね上がるほど驚いている。
(*) 本稿では、「人」、しかも「誇りある人」という、「アイヌ」がもつ語義をふまえ、単に「アイヌ」と記す。
無関心・差別意識
「アイヌ」は、アイヌが自己確認のために用いる言葉である。だがそれは、「明治」以降ずっと、あまりに強い負の意味を背負わされてきた。おまけにそれを「犬」と結びつける悪意は、ヘイトスピーチとしてどれだけアイヌを苦しめたかしれない(貝澤正『アイヌ わが人生』岩波書店、93頁;北海道新聞社編『こころ揺らす――自らのアイヌと出会い、生きていく』同社刊、116頁)。
拡大アイヌの歴史や差別問題を学校教育でどう伝えるかについては、かねて議論されてきた=1993年、関東ウタリ会が開いたシンポジウム
言うまでもなく、日本語では(も)、「犬」はさげすみの言葉として使われている。「犬死に」はその典型だが、「犬の遠吠え」、「犬も食わぬ」などもそうだし、犬を意味する「狗」(く)を含む「走狗」、「羊頭狗肉」も、さげすみの含みをもつ。また俗に警察官を「権力のイヌ」と言う場合もそうである。
ふつうに日本語を母語とする話者ならその程度の意味は直ちに感じとるはずだが、今回の当事者や放送スタッフがそれを感じなかったのだとすれば、それはアイヌに対する無関心の帰結であろう。
無関心はふつう心理的・物理的な距離から生まれる。かつて在日トルコ人が、「トルコ風呂」という名前を変えてと訴えたことがあるが、心理的・物理的な距離に甘んじた不明を、私たちは一度かえりみる必要がある。近年では「スペイン風邪」、「中東呼吸器症候群」(=MERS)、「中国ウイルス」(トランプ前米大統領)などという言葉も、同じ問題をひきおこしている。
差別語としても機能するこれらの背景には、他民族に対する差別意識もおそらく伏在する。「中国ウイルス」の場合は、伏在どころか顕在していた。
では、「あ、犬」はもちろん「アイヌ」にさえこめられた差別意識は、一体どこから来たのか。それは、語り手個人のアイヌについての無知に由来する部分もあろうが、それを誘発する何かが日本社会にはある。
“被告席”にすわるべき日本政府・北海道庁
今回、メディアおよび世論は機敏に反応し、日本テレビは直ちに謝罪した。ひとまずこの事実は、当然のこととはいえ良かったと思う。また例えば北海道アイヌ協会が、局としての認識、原因究明や再発防止を日テレに機敏に申し入れた事実も同様である。
ただ私は、“被告席”にすわるべき当事者が欠けていると思う。そこに、日本政府・北海道庁を座らせるべきである。ヘイトスピーチを行うのは個人だが、それを許す土壌は、政府・道庁によって歴史的に作られてきた。
元々、日本のアイヌ政策は、とうてい国際的な水準に沿うものではなかった。国連は2007年、「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択した。その際日本政府はこれに賛成したが、アイヌに対する先住権の保障を、いまだにかたくなに拒んでいる。
なるほど2019年に成立したアイヌ新法では、アイヌを「先住民族」と明記した。以前の「旧土人保護法」はもちろん、1997年に施行された「アイヌ文化振興法」を思えば、これは画期的だった。だがアイヌ新法は、先住権(生活様式等をみずから選ぶ自決権、同意なく没収された土地・資源の返還要求権・賠償請求権等)の保障とは無縁である。
これを保障するためには、アイヌに対して日本政府が行ってきた「同化政策」についての反省と謝罪がなければならないが、政府はそれに背を向ける(杉田「「アイヌ新法」はアイヌの先住権を葬る欠陥法」19年4月17日)。道庁もそうである。2018年、「北海道150年」を祝う大規模な式典・関連事業を行いながら、知事はついに同化政策について謝罪しなかった(杉田「むしろ「シャクシャイン独立戦争350年」事業を」18年8月20日)。
日本政府のジェノサイド
日本政府・道庁(当初は開拓使)はこの150年、アイヌに対して何を行ったのか。
アイヌモシリ(アイヌの静かな大地)を「開拓」するために、移民政策を大規模に推進し、アイヌの土地を奪った。アイヌの固有の生活様式(狩猟・漁労・採集)を捨てさせて農作業を強い(ただし「無償下付」されたのはしばしば農地として不適切な土地だった)、アイヌとしての社会・精神生活を破壊し、民族性を自覚できない状態へと追いこんだ。一方、日本語を強制してアイヌ語を消滅へと追いやり、またアイヌとしての固有名を捨てさせて「創始改名」を強いた。
これが、日本政府がアイヌに対して行った「同化政策」の骨格である。最近、中国政府によるウイグル政策は「ジェノサイド」(民族絶滅政策)だと欧米各国が非難しているが、アイヌに対する同化政策もまた典型的なジェノサイドだったのである。
そしてこの猛威に翻弄された少数者アイヌは、多数者=和人の社会にあって激しい差別にさらされてきた。多数者さえその多くは貧しい農民であり、厳しい「開拓」労働をよぎなくされ、少数者に対する実質的な加害者となる。くわえて加害を合理化するために、相手は劣った存在だという認知を強めようとする。北海道「開拓」の場合、その武器になったのは、「土人」もしくは「旧土人」という言葉であり、その含みが「アイヌ」という自称と分かちがたく結びつけられた。その時、誇りある「アイヌ」さえ、痛ましいことだが、アイヌ自身によって避けるべき禁忌の言葉となる。
今日、アイヌの権利擁護・福祉に関わる「北海道アイヌ協会」が、発足後15年目(1961年)に、「北海道ウタリ〔=同胞〕協会」と改称したことに、それは象徴的に現れる。その後およそ50年、「先住民の権利に関する国連宣言」が出た後に、同協会はようやく「アイヌ」を協会名に復活させることができたのである。
人を「殺す」差別語
総じて差別語は、人を比喩的な意味で「殺す」。「チャンコロ」=中国人はかつて文字通り殺してよい対象と見なされたが、在日コリアンに対する「チョン(コ)」、被差別民に対する「(ド)エッタ」といった差別語は今、ヘイトスピーチとなって当事者を不安・絶望に追いこんでいる。
かつて日本人は「ジャップ」と呼ばれたが、これは「ベトナム戦争」中に南ベトナム解放民族戦線について言われた「グーク」、「ベトコン」と同じように、相手の人格性を抹殺する言葉である。アフリカ系アメリカ人等に対して使われる「ブラック」等も、そうである(杉田「「ブラック企業」の修飾語「ブラック」の使用はやめるべきだ」20年6月22日)。
漢字文化圏では、文字においても同じ問題がおこる。「害」の字は使わないでほしいと、しょうがい者はしばしば訴えてきた(杉田「「障害者」ではなく「しょうがい者」と記そう」21年3月4日)。
「あ、犬」は、日本において絶対的な少数者であるアイヌにとって、自己確認をさえ困難にするという意味で最悪の差別語に属する。「ジプシー」も、そう呼ばれた民族にとって屈辱的な語だが、まだしも彼らは「ロマ」という自称をもち、今日ではこの語が一般に用いられる。だがアイヌの場合は、誇りある自称自体に、和人によって差別的な意味がこめられてしまっている。
そして社会的・経済的等の差別・被害を、今でもアイヌは受け続けている。
日本政府・道庁の立ち遅れ
カナダやニュージーランドでは(最近ではオーストラリアのヴィクトリア州でも)、入植者が先住民に加えた被害を検証する作業が進められている。だが日本では、そうした試みの端緒さえない。
なるほど去年(2020年)開設された「民族共生象徴空間(ウポポイ)」およびその一部をなす「国立アイヌ民族博物館」の展示を見ると、苛酷な同化政策の片りんをかいま見ることはできる(杉田「「民族共生象徴空間」(ウポポイ)になぜ慰霊施設があるのか」20年8月5日)。だがそれは、いかに国立とはいえあくまで博物館としての展示にすぎず、政府や道庁が正式に被害事実を究明し謝罪するのとは、まったく意味が異なる。究明・謝罪がなされるためには、それを明示した政策が不可欠だし、最終的にはそれは先住権を保障し差別を禁ずる立法に結びつかなければならない。
道庁の姿勢も変わらない。道庁は2月、次期アイヌ政策(2021~25年度)の基本となる「北海道アイヌ政策推進方策」の素案を公表した。ここに同化政策に関する記述はあるが(2-3頁)、おざなりなものである。
ここに見るように、アイヌ新法施行後も道庁は旧態依然とした姿勢を見せている。
2019年9月、紋別アイヌ協会の会長が、許可を申請せずにサケを捕獲した。だがそれは法律違反だと、道庁は紋別署に刑事告発した(朝日新聞北海道版19年9月6日付)。ちなみに2020年にサケ捕獲は行われなかったが、それは同会長が体調不良だったからである(同20年9月6日付)。もし許可申請なしに捕獲したなら、道庁は再び同氏を訴えたであろう。
また、「ラポロアイヌネイション」(旧浦幌アイヌ協会)は、サケ漁をアイヌ固有の先住権と認めさせようと政府・道庁を相手に提訴したが、道庁は政府とともにこれの棄却を求め、また無許可のサケ捕獲に漁業法上の根拠はないと、あえて主張している(同12月18日付)。
だがこうした姿勢こそ、改められなければならない。アイヌ政策の最前線の役所として、むしろ日本政府をけん引すべきではないのか。
重要なのは不正義の究明・謝罪と先住権の保障
さて、アイヌ新法にさえいまだにアイヌを観光資源として見る根強い傾向がある中で、アイヌに対してとってきた政府・道庁の不正義がまともに追及されず、謝罪されてもいないという現実を、私たちは重く見るべきである。
そうした政府・道庁の姿勢は、いやがおうでも日本社会ににじみ出る。私は「ウポポイ」は重要な施設だと思うが、アイヌ政策がこの水準に止まるかぎり、アイヌにとって自己確認の手立てとなる民族衣装・祭祀等さえ経済的・観光的な資源としてしか認められず、むしろアイヌに対する偏った民族観を強めかねないことを恐れる。
重要なのは、アイヌがその文化・価値を、固有の権利(先住権)として実現できるよう保障することである。そのためにも、政府・道庁はこれまでの同化政策(ジェノサイド)の不正義を究明・謝罪して、アイヌを「二級市民」におし止める力学を解体しなければならない。
そして政府や道庁が、究明・謝罪の過程と同時に、アイヌに保障されるのは特権なのではなく日本政府が剥奪してきた固有の権利なのだと、学校教育を含む多様な機会に、また多様なメディアを駆使して、国民にていねいに伝えるのでなければならない。
それらの努力なしには、アイヌに対する差別はなくならない。
杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2021032100004.html
日本テレビ系の情報番組「スッキリ」で、「あ、犬」などという、アイヌ(*)を絶望におとしいれる言葉が公然と語られた。これが公共の電波にのって日本中に流された事実に、私は跳ね上がるほど驚いている。
(*) 本稿では、「人」、しかも「誇りある人」という、「アイヌ」がもつ語義をふまえ、単に「アイヌ」と記す。
無関心・差別意識
「アイヌ」は、アイヌが自己確認のために用いる言葉である。だがそれは、「明治」以降ずっと、あまりに強い負の意味を背負わされてきた。おまけにそれを「犬」と結びつける悪意は、ヘイトスピーチとしてどれだけアイヌを苦しめたかしれない(貝澤正『アイヌ わが人生』岩波書店、93頁;北海道新聞社編『こころ揺らす――自らのアイヌと出会い、生きていく』同社刊、116頁)。
拡大アイヌの歴史や差別問題を学校教育でどう伝えるかについては、かねて議論されてきた=1993年、関東ウタリ会が開いたシンポジウム
言うまでもなく、日本語では(も)、「犬」はさげすみの言葉として使われている。「犬死に」はその典型だが、「犬の遠吠え」、「犬も食わぬ」などもそうだし、犬を意味する「狗」(く)を含む「走狗」、「羊頭狗肉」も、さげすみの含みをもつ。また俗に警察官を「権力のイヌ」と言う場合もそうである。
ふつうに日本語を母語とする話者ならその程度の意味は直ちに感じとるはずだが、今回の当事者や放送スタッフがそれを感じなかったのだとすれば、それはアイヌに対する無関心の帰結であろう。
無関心はふつう心理的・物理的な距離から生まれる。かつて在日トルコ人が、「トルコ風呂」という名前を変えてと訴えたことがあるが、心理的・物理的な距離に甘んじた不明を、私たちは一度かえりみる必要がある。近年では「スペイン風邪」、「中東呼吸器症候群」(=MERS)、「中国ウイルス」(トランプ前米大統領)などという言葉も、同じ問題をひきおこしている。
差別語としても機能するこれらの背景には、他民族に対する差別意識もおそらく伏在する。「中国ウイルス」の場合は、伏在どころか顕在していた。
では、「あ、犬」はもちろん「アイヌ」にさえこめられた差別意識は、一体どこから来たのか。それは、語り手個人のアイヌについての無知に由来する部分もあろうが、それを誘発する何かが日本社会にはある。
“被告席”にすわるべき日本政府・北海道庁
今回、メディアおよび世論は機敏に反応し、日本テレビは直ちに謝罪した。ひとまずこの事実は、当然のこととはいえ良かったと思う。また例えば北海道アイヌ協会が、局としての認識、原因究明や再発防止を日テレに機敏に申し入れた事実も同様である。
ただ私は、“被告席”にすわるべき当事者が欠けていると思う。そこに、日本政府・北海道庁を座らせるべきである。ヘイトスピーチを行うのは個人だが、それを許す土壌は、政府・道庁によって歴史的に作られてきた。
元々、日本のアイヌ政策は、とうてい国際的な水準に沿うものではなかった。国連は2007年、「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択した。その際日本政府はこれに賛成したが、アイヌに対する先住権の保障を、いまだにかたくなに拒んでいる。
なるほど2019年に成立したアイヌ新法では、アイヌを「先住民族」と明記した。以前の「旧土人保護法」はもちろん、1997年に施行された「アイヌ文化振興法」を思えば、これは画期的だった。だがアイヌ新法は、先住権(生活様式等をみずから選ぶ自決権、同意なく没収された土地・資源の返還要求権・賠償請求権等)の保障とは無縁である。
これを保障するためには、アイヌに対して日本政府が行ってきた「同化政策」についての反省と謝罪がなければならないが、政府はそれに背を向ける(杉田「「アイヌ新法」はアイヌの先住権を葬る欠陥法」19年4月17日)。道庁もそうである。2018年、「北海道150年」を祝う大規模な式典・関連事業を行いながら、知事はついに同化政策について謝罪しなかった(杉田「むしろ「シャクシャイン独立戦争350年」事業を」18年8月20日)。
日本政府のジェノサイド
日本政府・道庁(当初は開拓使)はこの150年、アイヌに対して何を行ったのか。
アイヌモシリ(アイヌの静かな大地)を「開拓」するために、移民政策を大規模に推進し、アイヌの土地を奪った。アイヌの固有の生活様式(狩猟・漁労・採集)を捨てさせて農作業を強い(ただし「無償下付」されたのはしばしば農地として不適切な土地だった)、アイヌとしての社会・精神生活を破壊し、民族性を自覚できない状態へと追いこんだ。一方、日本語を強制してアイヌ語を消滅へと追いやり、またアイヌとしての固有名を捨てさせて「創始改名」を強いた。
これが、日本政府がアイヌに対して行った「同化政策」の骨格である。最近、中国政府によるウイグル政策は「ジェノサイド」(民族絶滅政策)だと欧米各国が非難しているが、アイヌに対する同化政策もまた典型的なジェノサイドだったのである。
そしてこの猛威に翻弄された少数者アイヌは、多数者=和人の社会にあって激しい差別にさらされてきた。多数者さえその多くは貧しい農民であり、厳しい「開拓」労働をよぎなくされ、少数者に対する実質的な加害者となる。くわえて加害を合理化するために、相手は劣った存在だという認知を強めようとする。北海道「開拓」の場合、その武器になったのは、「土人」もしくは「旧土人」という言葉であり、その含みが「アイヌ」という自称と分かちがたく結びつけられた。その時、誇りある「アイヌ」さえ、痛ましいことだが、アイヌ自身によって避けるべき禁忌の言葉となる。
今日、アイヌの権利擁護・福祉に関わる「北海道アイヌ協会」が、発足後15年目(1961年)に、「北海道ウタリ〔=同胞〕協会」と改称したことに、それは象徴的に現れる。その後およそ50年、「先住民の権利に関する国連宣言」が出た後に、同協会はようやく「アイヌ」を協会名に復活させることができたのである。
人を「殺す」差別語
総じて差別語は、人を比喩的な意味で「殺す」。「チャンコロ」=中国人はかつて文字通り殺してよい対象と見なされたが、在日コリアンに対する「チョン(コ)」、被差別民に対する「(ド)エッタ」といった差別語は今、ヘイトスピーチとなって当事者を不安・絶望に追いこんでいる。
かつて日本人は「ジャップ」と呼ばれたが、これは「ベトナム戦争」中に南ベトナム解放民族戦線について言われた「グーク」、「ベトコン」と同じように、相手の人格性を抹殺する言葉である。アフリカ系アメリカ人等に対して使われる「ブラック」等も、そうである(杉田「「ブラック企業」の修飾語「ブラック」の使用はやめるべきだ」20年6月22日)。
漢字文化圏では、文字においても同じ問題がおこる。「害」の字は使わないでほしいと、しょうがい者はしばしば訴えてきた(杉田「「障害者」ではなく「しょうがい者」と記そう」21年3月4日)。
「あ、犬」は、日本において絶対的な少数者であるアイヌにとって、自己確認をさえ困難にするという意味で最悪の差別語に属する。「ジプシー」も、そう呼ばれた民族にとって屈辱的な語だが、まだしも彼らは「ロマ」という自称をもち、今日ではこの語が一般に用いられる。だがアイヌの場合は、誇りある自称自体に、和人によって差別的な意味がこめられてしまっている。
そして社会的・経済的等の差別・被害を、今でもアイヌは受け続けている。
日本政府・道庁の立ち遅れ
カナダやニュージーランドでは(最近ではオーストラリアのヴィクトリア州でも)、入植者が先住民に加えた被害を検証する作業が進められている。だが日本では、そうした試みの端緒さえない。
なるほど去年(2020年)開設された「民族共生象徴空間(ウポポイ)」およびその一部をなす「国立アイヌ民族博物館」の展示を見ると、苛酷な同化政策の片りんをかいま見ることはできる(杉田「「民族共生象徴空間」(ウポポイ)になぜ慰霊施設があるのか」20年8月5日)。だがそれは、いかに国立とはいえあくまで博物館としての展示にすぎず、政府や道庁が正式に被害事実を究明し謝罪するのとは、まったく意味が異なる。究明・謝罪がなされるためには、それを明示した政策が不可欠だし、最終的にはそれは先住権を保障し差別を禁ずる立法に結びつかなければならない。
道庁の姿勢も変わらない。道庁は2月、次期アイヌ政策(2021~25年度)の基本となる「北海道アイヌ政策推進方策」の素案を公表した。ここに同化政策に関する記述はあるが(2-3頁)、おざなりなものである。
ここに見るように、アイヌ新法施行後も道庁は旧態依然とした姿勢を見せている。
2019年9月、紋別アイヌ協会の会長が、許可を申請せずにサケを捕獲した。だがそれは法律違反だと、道庁は紋別署に刑事告発した(朝日新聞北海道版19年9月6日付)。ちなみに2020年にサケ捕獲は行われなかったが、それは同会長が体調不良だったからである(同20年9月6日付)。もし許可申請なしに捕獲したなら、道庁は再び同氏を訴えたであろう。
また、「ラポロアイヌネイション」(旧浦幌アイヌ協会)は、サケ漁をアイヌ固有の先住権と認めさせようと政府・道庁を相手に提訴したが、道庁は政府とともにこれの棄却を求め、また無許可のサケ捕獲に漁業法上の根拠はないと、あえて主張している(同12月18日付)。
だがこうした姿勢こそ、改められなければならない。アイヌ政策の最前線の役所として、むしろ日本政府をけん引すべきではないのか。
重要なのは不正義の究明・謝罪と先住権の保障
さて、アイヌ新法にさえいまだにアイヌを観光資源として見る根強い傾向がある中で、アイヌに対してとってきた政府・道庁の不正義がまともに追及されず、謝罪されてもいないという現実を、私たちは重く見るべきである。
そうした政府・道庁の姿勢は、いやがおうでも日本社会ににじみ出る。私は「ウポポイ」は重要な施設だと思うが、アイヌ政策がこの水準に止まるかぎり、アイヌにとって自己確認の手立てとなる民族衣装・祭祀等さえ経済的・観光的な資源としてしか認められず、むしろアイヌに対する偏った民族観を強めかねないことを恐れる。
重要なのは、アイヌがその文化・価値を、固有の権利(先住権)として実現できるよう保障することである。そのためにも、政府・道庁はこれまでの同化政策(ジェノサイド)の不正義を究明・謝罪して、アイヌを「二級市民」におし止める力学を解体しなければならない。
そして政府や道庁が、究明・謝罪の過程と同時に、アイヌに保障されるのは特権なのではなく日本政府が剥奪してきた固有の権利なのだと、学校教育を含む多様な機会に、また多様なメディアを駆使して、国民にていねいに伝えるのでなければならない。
それらの努力なしには、アイヌに対する差別はなくならない。
杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2021032100004.html