恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

贔屓という言葉に

2007年06月11日 | 所感とか
クラスでは毎日日直が日誌を書くことになっており、その日の授業だとか、
色々な連絡事項を書き留めることになっております。
皆さんも一度は学校でやられたことがあるはずです。
で、その最後の欄は一日の感想やらを書くところになってるんですが、
今日の日直が私に当てたメッセージはどう見ても私に対する罵詈雑言で、
それを読んだ私はイラッと来るとともに悲しい思いになりました。
最初は冗談半分でこういうことをしているのかとも思いましたが、
あまりにも腑に落ちないところがあったので、ちょいと呼び出して話を聞くことに。

折りしも人に対して思いやりを持とうということをテーマに、
今までクラス運営をしてきた中で、今日の朝もそのような話をしたばかりでした。
なぜこのようなことを書くのか。私信であればかまわないが、
学級日誌のようなものを使ってなぜ私をそのように口汚く罵るのか。
最初は一方的にこちらからの説教モードで進んでいったのですが、
あるときに生徒が「でも」と口にしたのを皮切りに空気が変わっていきました。

「先生は贔屓をしています。」

この言葉に私は軽く頭を殴られたような衝撃を受けました。

「贔屓」

いい言葉じゃないのはよくわかる。
そして今まで自分が使う側の言葉であって、使われる側にはなかった言葉。

「先生が贔屓するから」
「そう思っている生徒が他にもたくさんいます」
「みんなそういうことに不満を抱えているはずです」

不満がこれでもかというぐらい堰を切って出てくるんです。
だからといって日誌という公的なものに私への悪口を書いていいわけじゃない。
何かされたら何でも仕返していいわけじゃない。
その理論は生徒もよくわかっている様子ながらも、
何かしらこういう手段でもって私に不満を伝えなければならなかった、
その背景はなんだったんだろうと思考をとめて考え込んでしまったわけです。

教師として生徒と接する以上、建前としては全員と平等に接するべきなのは当然。
しかし、その反面でそれが実現しうるにはとてつもない労力を要することを、
多くの教師はまた知っているはずなんです。
だからといってそのための努力を怠っていいというわけではないものの、
現実として、自分の感知し得ないところで「贔屓」と受け止められてしまうことは、
往々にしてあることなんじゃないかと思うんです。
ましてや私のような若造にしてみればわからないことや経験値が不足しすぎているので。

じゃあそれに対して自分がどう答えていけばいいのか。
ありきたりな答えしか見つからない自分にも悲しさを覚えます。

そんなつもりはなかった。
それが出来なかったことに申し訳なく思っている。

たぶん自分が言われる側なら言い訳としてしか聞き取れない、
なんとも釈然としない答えなのもわかっています。
でも、だからといってそこに開き直って説教を続けることも出来ない。
自分の至らないところは素直に反省し、強がることなく生徒にはしっかりと伝えたい。
自分にも譲れない部分ってのはある。でも今のやり方が完璧だなんて到底思わないし、
もっと改善の余地があるのは他の誰よりも自分が一番わかっているはず。
私はこのやり方が正しいとは思わない。でも、今できることを最大限力を尽くす。
その意図さえ少しでも伝わってくれればいいなぁと思い、
後半からは私のトーンは序盤とは正反対で、教え諭し、
そして請願するようなものになっていたように思えます。

もちろんこれだけ話したって納得なんてられようはずがないので、
生徒を帰した後で罵詈雑言が並べられた日誌に私はスペースを余すところなく、
ページ全体を使って私の考えを綴らせていただきました。
明日の日直を経由してあの文章を少しでも読んで意に介してくれれば幸いなのですが。
私には文才らしいものはこれっぽっちもありませんが、私自身のけじめとして。
自己満足でも別にかまわないので。
思いは思っているだけじゃ伝わらないのは私もよく知っています。
でも、時に変に祈るに似た行為をしてしまうのもなんとも言えません。
壁ってこういうものなのかなぁ、と。長文失礼しました。

恐懼謹言。
コメント
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