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白虎隊。
若き19名の墓所がここにあります。
戊辰戦争で朝敵とされた会津藩。
その悲劇の場所がここにあります。
16・17歳の少年で構成された、白虎隊。
4つの方位の名で構成された、会津藩。
その一番若い隊員で構成されたのが、白虎隊です。
隊長とはぐれた故に起きた、悲劇です。
徳川慶喜と行動を共にしたことから、朝敵とされた会津藩。
京都守護職になったときに、
この悲劇が始まていたのかもしれません。
断り続けていた松平容保。
将軍家への忠義が、
会津藩の未来を決めてしまった感じです。
こんな碑もありました。
イタリアから送られています。
ローマ市寄贈の碑です。
1928年に、ムッソリーニから送られています。
他にも、ドイツから送られた碑もあります。
朝敵として会津藩と行動を共にした、郡上藩。
将軍家に忠義を示したが故の悲劇です。
凌霜隊は戊辰戦争で、会津藩と共に行動しています。
その碑が、ここにありました。
同じようなものが、郡上八幡にもあるそうです。
さらに奥へと、進んで行きます。
雨のせいで、あまり暑くない感じです。
石畳の道が、雨の加減できれいに見えています。
葬ることを禁じられた、反政府勢力。
1890年になって、やっとこの場所に供養されています。
こんな、景色がありました。
ここから燃えるように見えた、鶴ヶ城。
それを見て、自決した白虎隊。
時代が変わる前の、悲劇の場所です。
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