台風も去り、また仕事部屋からは夏の雲が見えます。
日曜日に、公園を歩いて、そこからみた夏の雲。
下から見た方が、夏の雲の、もくもくした感じがよくわかります。
こういう風景を見ると思い出す絵本があります。
「なつのあさ」(谷内こうた・至光社)
ネットを見ていたら、隈研吾さんと息子が、リモートで対談をしたようです。
よく見たら、7月5日。
もう終わっています。残念。
チャットでおしゃべりしていても、息子は父親似なのか、そうした仕事の話など何もしないので。
「那須さん、亡くなったんだね」なんて、そんな話はしていました。
ポプラ社のいろいろなパーティに、息子も娘も結婚するまでは、坂井さんからお誘いいただき、伺っておりました。
息子が結果として、ベストセラーになった『エイズと闘った少年の記録』の翻訳を、大学生の時にしたのも、坂井さんの提案です。息子はそれから大学生、院生の時に、ポプラ社から数冊の本を出版させていただいております。
ドクターを出て結婚し、パリのソルボンヌ大学の客員研究員をしていた頃からは、専門に没頭していきましたが。
研究者になってから「君の文章はすばらしい。とてもうまい」と、あるパーティで、息子にそうお声をかけてくださった、ある著名な大人の文芸評論家の方がいらしたそうです。自分自慢など滅多にしない彼が、興奮した面持ちで私に話していました。
でもそれも、坂井さんに大学生の頃、背中を押していただき、何冊も出版させていただいた経験が、息子の書く力になっていったのだと思います。
共著で書いた『母と娘が親友になれた日』も、娘が大学生の頃に、坂井さんからの提案で書きました。
親としては、坂井さんって、いろいろ無謀! と思ったりしましたが、子どもたちの才能をみつけだしていただいた瞬間でもありました。
那須さんからは娘に、作品に対する感想が・・・。
「お母さんより、才能がある」と。私はムッとしましたが(笑)。
そんなつながりから、いろんなパーティに親子3人で(夫はお留守番)息子は大学院のドクター、娘は大学院のマスター、それぞれ卒業し、二人続いて結婚するまでの数年間、参加させていただいておりました。
そんなわけで、坂井さんが亡くなった時も驚いていたし、那須さんも・・・。
親戚のおじさま方が亡くなったという感じだったのだと思います。
もちろん、那須さんのご本も読んでいますし。
「blogに書いてあった、坂井さんの忍ぶ会の話って、いつごろのこと? 時系列がよくわからなかったよ」と。
「だって、朝10分の日記だもん。パッパッパと書いてるから」
「そうだね。毎日、書いてるんだものね。今頃、坂井さんと那須さん、空の上で会ってるね」
と、そんなわけで、息子からは、隈研吾との対談の話はありませんでした。
夫とは「オンラインだから聞きたかったわね」と話していました。
また、 HPも、しばらく見ない間に、リニューアルされていました。