「ズッコケ三人組」シリーズなど、たくさんのご本をお書きになった、那須正幹さんが肺炎でお亡くなりになりました。6月に79歳になったばかり。早すぎます。
那須さんとは、本当に長いお付き合いです。
ポプラ社つながりでの、「ズッコケ三人組」シリーズ、一千万部突破記念パーティや、二千万部突破記念パーティのお祝いに、ホテルに駆けつけたり、私のデビュー当時から、那須さんには親しくしていただいておりました。
山口県の防府にお住まいの、那須さんが、日本児童文学者協会の会長(のちに定款が変わり、理事長)をおやりくださった時も、ご一緒でした。
最後に、お会いしたのは、コロナ前(2年ほど前)に、神楽坂の鰻屋さんのお座敷で、那須さんの喜寿のお祝い会をした時です。
那須さんに「私、骨折したばかりで、お座敷にペタンと座るのダメなんです」といったら「わしの女房も一緒じゃ。じゃあ、二人はお座敷用の椅子にしてもらうよう、お店に交渉する」と。
主役にお願いしてしまいました。
結局、事務局が配慮してくださり、お座敷に、全員椅子席を設えてくださいました。
那須さんが「よかったね」と、私に。
奥様もそばで、ニコニコ。
あれがリアルにお目にかかった最後でした。
ポプラ社の以前の社長が亡くなられた時、いろいろ事情があって、長いお付き合いの作家や画家たちで、お見送りをできなかったことを、那須さんはすごく気にしていらっしゃり、あるとき
「カトージュンコ、頼みがあるんじゃ」と。
「坂井さんを忍ぶ会を、やりたいと思うとる。じゃが、わしは遠いし、準備ができない。だから、やってくれないか」
事務能力のない私が、会場決めから、作家・画家の皆さんにご案内状をお送りする・・。
さて、困った。でも那須さんの思いは、とてもよくわかるし、私も全く同じ思いです。
まずは発起人をどうするか。そのご相談を、那須さん、西本さんと電話で行いました。
発起人と言っても、あくまでもお名前だけです。実動は、那須さん、西本さん、私で行うわけですから。
まずは西本鶏介さん、那須さん、角野栄子さん。ここまではすんなり決まりました。「画家も一人、入れんといけんじゃろな。ポプラとは長い付き合いじゃから、長谷川知子さんに頼むか」ということで、その4名になりました。
会場に決めた会館の事務局長をしていらした方は、大手出版社の児童局の元編集長。
彼のことが、真っ先に頭に浮び、会場は、ご相談方々、その出版社の系列の会館に決めました。
彼なら、児童文学業界のことをいろいろご存知ですから。
そしてご相談に乗っていただき、「全員着席での会にしたい」などいろいろお話ししました。彼からは、
「ご遺族には、お世話になった作家と画家たちだけの忍ぶ会なので、お声がけはしませんと。また出版社にもその旨、お伝えしておいた方がいいですよ」と、アドバイスしていただきました。
それで、どちらへも気兼ねなく、忍ぶ会ができたのです。
お招きする方々の名簿や、テーブルごとの席分け。それらは、ポプラ社の応接室をお借りし、那須さん、西本鶏介さんとご相談しました。
思い出話は、全員が、一人一人、マイクに向かって、共有しあおうということに決まりました。そんなわけで、参加者全員が、ポプラ社のパーティなどで、お互い顔見知りで、元社長と深いお付き合いのある方だけの会にしようということになりました。人数も四十数名でした。
何しろ、ご遺族も、編集者もお招きしない、ある意味、内輪の会です。
当日の受付には、薫くみこさん、藤真知子さんに手伝っていただきました。
「司会は、那須さん、やってね。でも、あまり硬い司会じゃなくて、柔らかく」とお話ししたら、本当にすごい会になりました。
那須さんと坂井さんとのやりとりの裏側も、那須さん、坂井さん、それぞれから伺っていて、やはりお二人は強い絆で結ばれていて、そこからこんな二千万部以上も売れたシリーズ本をご出版されたんだなと思ったものです。
その時の坂井さんの遺影。とってもいいお顔をした写真を拡大し、額に入れて、那須さんが持参してくださいました。
「これからずっと、この写真を、わしの書斎に飾っておこうと思う」と。
「ズッコケ三人組」シリーズで、お世話になった、坂井さんの忍ぶ会ができたことにほっとされた、あの夜の、那須さんの笑顔が忘れられません。
二次会も行い、皆さんと、夜がふけるまでおしゃべりに花が咲き・・・。
折々に、那須さんの律儀さ、お人柄を感じられるお話も、いろいろお聞きしました。
那須さん、
思い出は、たくさんあります。
今は、ただただ悲しいばかりです。
長い年月、本当にありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお休みください。
那須さんの児童文学界での偉大な業績を忍びつつ、たくさんの感謝を胸に・・・。