雑誌「日本児童文学」9・10月号が届きました。
今回のテーマは「伝える」を問い直す。
編集委員の指田和さんが、あちこち取材して、いろいろな施設を紹介し、問題提起してくださっています。
また評論も、いずれも切り口が個性的で、面白かったです。
中でも、丸木位里、俊夫妻の描かれた、「原爆の図」についての評論。
なるほどと、興味深い視点からの分析でした。
1950年代に生まれた「原爆の図」は、リアルに被曝を目にした人たちが描いたものとは、違うらしいですが、私は、当時、小学2年生の時に、これを見ました。
今のように新幹線で、簡単に広島に行ける時代ではありませんでした。
まだ小さい子どもだった私には、詳細はわかりませんが、父が長いことPTAの会長をしていて、原爆についても、秩父の子どもたちに、この「原爆の図」を見て、知ってもらいたい。
そうした思いから、たくさんの賛同者たちを集め、秩父の大きな産業会館というところで、「原爆の図展」を開催してくれたのです。会場には、たくさんの家族連れがぞろぞろ、何か呟きながら見て歩いています。
丸木ご夫妻も秩父にご招待し、父たちはお話したらしいです。それは私の知らないところですが・・。
父に手をひかれ、産業会館に足を一歩踏み入れた途端。前へ進めなくなりました。
そこには悲惨な状況で死にゆく、あるいは死んでいる人たちが、火の海の中で苦しんでいました。
「見られない」私は、父の手を離し、絵に背を向けました。
「真実なんだよ。本当にあったことなんだ。たった一発の原子爆弾を、アメリカが広島におとし、人々はこうして苦しみながら、死んでいった。だから、それを知る必要があるんだ。同じ人として、しっかりと見ることが大事なんだ。2度とこんなことをしないようにって、気持ちで」
父はそう言いました。
私は半分目を瞑り、父の手をぎゅっと捕まえながら、広い産業会館を見て歩きました。
あの日の光景が、この本を読んでいて蘇りました。
私が、こんな怖いものを、人間は作ったり、使ったりしちゃいけない(核兵器反対)と胸に抱いたのは、小学校2年生だった確かにあの日でした。
と、そんなことを思い出しながら読んでいました。
弟も、従兄弟のKちゃんも、ここを読んで思い出してくれると思います。弟はまだ小さかったし、Kちゃんも小一。覚えてないかな?姉のH子さんは、覚えているよね?あのとき、父と姉と私と三人で、父が案内してくれたんだっけ?
(見てくれているかな?、ここ。近頃、全然メールもくれないし。
弟と、Kちゃんとはblogを巡っては、メールでやりとりしているけどね。なんだか、ここが親戚の通信の場所になっているみたいで、うれしいけど。だからつい秩父ネタ。弟が時々、秩父ネタを書いてって、言ってくれるので・笑)
と、関係ない話は、これでおしまい。
この雑誌の編集長の奥山さんの評論も、以前読んでいますが、その一つ一つの文章から、思索を深めた、文学性が伝わってきます。
彼女は、「窓辺のふくろう」という、すばらしい感性で作られた短歌集を出されています。
その言葉の選び方、感性に、本当に驚きました。
そうした短歌を作るときの、言葉選びから、評論も、ああした文章作りになっているのだなと、いつも感心して拝読しています。
雑誌には、俵万智の短歌も収録されていました。
さて今夜は、その雑誌の9.10月号を読む会です。
いぜん、きどのりこさんが、編集長をしていらしたとき、こうした読む会を、行っていました。
雑誌も出しっぱなしではなく、それをどう読んだか。そして問題点はなかったか。
次へつながる建設的な視点を、皆さんと話し合うのは、とても有意義です。
今夜もリモートで行います。
奥山さんにご招待されました。