人生のさまざまな日々のなかで誕生日というのは、やはり特別の日です。自分が子供の頃親などから祝われたり、代わって自分が親として子供の誕生日を祝うなどしてきたのですから。そんなことで今日の86歳の誕生日に普通の日には考えない特別なことを考えてみます。
それは「生死の間隔」と言い表せるような感覚・間隔のことです。
数日前、誕生日が近づいていると思ったら、自分の周りにある種の間隔の存在が感じられたのです、空間的間隔と時間的間隔が一体になっている間隔・感覚なのです。その感覚は自分の周りの空間に枠組みがあってその先が無い、というような感じでした。「その先」というのが空間というより時間的な感覚で、「なるほどその先が死期という時間なのか」とも受けとめられたのです。ただ現時点で一切死に繋がるような病的な兆候はありません。ありがたいことに膀胱がんも心臓の方も安心安定の方に向かっているので、その面からの心理的影響とは違う感覚です。
その間隔はかなりの明るさを持ち輝きさえ感じるのでした、そんなことからこんなふうに喩えてみます。川はすべて海に流れ込み、川の流れに人が乗っていれば海に近くなった地点(時点)で「河口近し」を感じるでしょう。人生も川も色々ですから、流れが崖下の海へ滝となって落ちる様な人生もあります。娘の生涯はそれに近かったかとも思いますが、本流は海へ急落しましたが、分流は見事な流れとなって自分の流れをつくっています。
彼らも我が分流であると思えることは、爺婆として嬉しいことです。そして爺婆世代の流れが地を穿ち、地形をつくり流れを方向づけていることに気づくのです。先ほど沖縄の孫息子から祝いの電話をもらいつつ、今日は「沖縄慰霊の日」であること、昼間テレビが報じた沖縄の高校生の「平和の詩」が頭に浮かんできました。彼の祖母の姿は彼の本流であったでしょう。いま、先日の結婚式の孫からおめでとうの電話、嫁さん側の祖父は腰が悪く飛行機がダメで列席できなかったとの話、私と同年輩のようですが、やはりこの歳では動きにブレーキがかかるのも当然です。
動きの鈍さを補うものは年齢という水圧でしょう、経験とか見識とかを流れに乗せ地を穿つことも可能です。大河であればあるほど緩やかに海に向かいます、21世紀という世界史的大河は水面の激さ、逆流的流れも見せつつ、その深さと幅の大きさは揺るぎない大河の様相を擁しています。世界史的包摂の方向を模索し生みだす時代に入っている様に見えます。
そんな時代を流れる大河の一滴、水滴の大きさは真に小さいがその内部から見れる光景は真に巨大です。先ほどの「生死の間隔」とは、この水滴の内部間隔であり「その先」とは河口を経ての大海の光景であったのでしょう。身体を自分の意志にもとづき自ら動かすのは、水滴の動きには無い人間としての動きです。
86歳「河口近し」であればこそ、目指す方向が見えることは嬉しいことです。