kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

1945年8月22日生まれ、 タモリのひと言

2022-12-31 23:51:38 | 時代の現場

「タモリ」で検索してみたら、

と出てきました。「来年は新しい戦前になるんじゃないですかね」の一言が……。

1945年8月15日、敗戦の日。その日を私は長野県上田で迎えたわけですが、どういう1日だったか記憶にありません。夏休み中だったので、多分大人と一緒に天皇の声をラジオの前で聞いていたかもしれません。戦争が負けて終わった、ということは教科書を黒塗りすることで実感したのかもしれません、先生の指示で墨で塗った覚えが微かにあります。

戦争中に使っていた教科書を2学期に学校に行ったら黒塗りにするという体験、小学校2年生でした。その頃、タモリ=森田一義さんは生まれて半月くらいだったでしょう。

その人が、黒柳徹子さんの「来年はどんな年になりますかね?」に「誰も予測できないですよね、これは」と少し考え「新しい戦前になるんじゃないでしょうかね」と答えたのです。

黒柳徹子さんも8月生まれ、敗戦の日を12歳で迎えています(1933年8月9日生まれ)、私からみると「四つ違いの姉さん」。その姉さんが「来年はどんな年にしますかね」と私に問いかければ「戦争中の一時期を生きた一人として、新しい戦前にはさせない」と答えるでしょう。

その思いを“ kaeruのつぶやき” を見てくださっている

皆さんと共に❗️

明日から新しい週、新しい月、新しい年です、

新しい歳月がやってくるでしょう。

日本の歴史のなかでも画期的な年にしましょう。


小坪と古壺(その4)

2022-12-28 22:54:09 | 逗子 鎌倉 それぞれ

慰霊碑から須賀神社へ移る前に、紹介させて頂いたブログの……

 

砲台に消えた子どもたち - かばぶ

●逗子の小坪と新宿の間の山、披露山は、鎌倉時代に将軍への献上品を披露する場所だっ...

かばぶ

 

……コメント、今日28日のやり取りです、

こうして「慰霊碑のこと」が静かに広がっていくことは、やはりネット時代だということでしょう、ジュワりという感じが心に滲みます。

「小坪 慰霊碑」で検索してみましたら、葉山町の役場前の慰霊塔も含まれていました…

…が「14少年」は入っていません。やはり「かばぶブログ」さんも触れていますように「案内板」とか「説明板」類が設置されて、地図上でも表示して欲しいところです。

 

今日は娘の誕生日に当たる日でした、朝ブログのコメントにこう書きました、

そしてやはり孫娘から、届きました。

改めて今朝の妻とのやり取りの時の「53歳」と答えた時、「生きていれば」という添え言葉が浮かんでこなかったこと、「53歳」が実感として言葉になったこと……。

慰霊碑の14人、あるいはもう一人二人、彼らと同年代の85歳の男性として私が思うのは、彼らも私も昭和20年8月15日までは戦地に兵隊として行くことが決められていたのでした。

敗戦ということによってそこから解放された少年期、これからの人生を目前に命が絶たれたのです。50歳の娘でさえ生きてる者のなかに生き、歳を共に重ねていくのです、少年もまたこの地で生き続けてそれを迎え入れる人と共に生きるのだと思います。

 


昨日の「つぶやき」に関連して……。

2022-12-27 09:52:31 | 「がん」を読む

今日の「しんぶん赤旗」の紙面から、

冒頭の『無人島のふたり 120日以上いきなくちゃ日記』に触れている部分を文字起こししておきます。

 この秋、非常に体調が悪く、年齢的にも一時はがんを疑った。それは杞憂に過ぎなかったが、昨年急逝した山本文緒の闘病記『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』がすごいという噂を聞いた時、これはぜひとも読まねばと急ぎ手に取った。 筆者と山本さんは一つ違いの同世代で、決して人ごとではないのだ。
 山本さんが軽い胃の不調を感じたのは一昨年の年末。 ところが昨年4月、精密検査の結果、担当医から申し渡されたのは「ステージ4の膵臓がん、余命4カ月」の宣告だった。もはや苦しい抗がん剤治療を行ってもかいがないと知った山本さんは、治療行為を断念するとともに、日一日と短くなっていく自らの余命の記録を、日記として書き残すことを決意する。
 この日記書くのもつらかったろうが読むのもつらい。例えば昨年6月6日の項にはこう書いてある。
 寝ても寝ても眠い。/お昼前に一度起きたが、倦怠感半端なく午後もまた寝る。夜になって少しマシになり、起き上がって夕食。/食後、夫と録画してあった『アメトーーク!』 を見る。/アッハッハと笑って全部見終わった
ら気持ちが無防備になったのか『あー、体だるい。 これいつ治るんだろう』と思ってしまい、『あ、そういえばもう治らないんだった。悪くなる
一方で終わるんだった』と気が付いてだーっと泣いてしまった」
 「そういえばもう治らないんだった」という気づきに日々耐えることのつらさ。 そして山本さんは本書を書き上げることで、がん患者のリアリティーを見事言語化したのである。作家の仕事であると言っていいだろう。

 

『無人島のふたり 120日以上いきなくちゃ日記』

無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―

無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―

Google Books

 

3人のがん患者、 「頑張らねば」……。

2022-12-26 23:06:35 | 「がん」を読む

 一昨夜知人からのメールに身内が膀胱癌になり入院することになったが、其方は如何ですかとあり、「当方の膀胱癌は今年で4年目を迎えています、3年前・2019年の7月検査手術時抗がん剤の服用がありましたが、翌月の切除手術の結果〝今後は3ヶ月おきに膀胱鏡(カメラ)でチェック〟でいいことになり、今年に入ってチェックも半年ごとに、6月に無事済み次は年末です」と返しました。

うえの一節は、今年の7月31日の「kaeruのつぶやき」からです。それを引用したのは「〜次は年末」のチェックを今日済ませてきたからです。

 

『がんから始まる生き方』 - kaeruのつぶやき

『がんから始まる生き方』というこの本は読み応えのある本ですが、かなりの部分が未読のままになっていました。一昨夜知人からのメールに身内が膀胱癌になり入院することに...

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そして今日の「タイトル」の3人とは、増本一彦氏、山本勝哉氏に私です。増本さんについては、亡くなったあとの「つぶやき」で……、

「死後の世界」としてのこの世。 - kaeruのつぶやき

「死後の世界」としてのこの世。 - kaeruのつぶやき

コロナ禍のニュースそれも世界的な広がりのなかで、ウクライナを巡る戦争か?の動きが加わる、すると健康診断の結果ですと「大腸がん」と「前立腺」の要検査が加わります。...

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山本さんについてはこちらを、

「逗子葉山がん患者会」のこと - kaeruのつぶやき

「逗子葉山がん患者会」のこと - kaeruのつぶやき

葉山新聞社の山本勝哉氏が呼びかけて設立された「逗子葉山がん患者会」ですが、その山本氏の「思い」が記されているのがこの「偶感」です。昨日もこの「偶感」が話しの中心...

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その山本さんから声がかかり、奥さんの手料理を囲みながら気の合った5人ほどでひと時を過ごしたのは23日、と言っても夕方6時から気がついたら10時だったというひと時でした。世界情勢を話し合いたいという山本さんからのテーマで、確かに2022年末に語りあうには相応しかったです。

結果としては葉山町を世界情勢のなかに位置づける、とか葉山町を通じて世界情勢を見るとかになったのでしょう、酔うほどに論じる程に……。

何をなすべきか、ということでは増本一彦同志の遺志をどう受け止めて動くかというところに落ち着いたということです。

—————————

今日の膀胱がんのチェックでは、前立腺に関する値が要注意ということでしたが、次は来年6月ということでした。今年も身体の方は無事通過ですね、そしてあらためて23日の山本さんの元気さが思い出されました。奥さんが冒頭に「全快」と口にしましたが、そんな感じで数日前に会って話した時の顔つきとまったく違い、数年前の顔、いやよりスッキリして声もよく聴けたのです。

さて、「頑張らねば」とは娘を看取った2019年8月8日の「つぶやき」のコメントです、

昨日の「つぶやき」を見てメールで “1945年10月20 日は「赤旗」の再刊の日” だ教えてくれた人がいて「頑張らねば」の幅が広がった思いがしました。こういう仲間と共に新しい年へ向かえることは「頑張」の幅と同時に深みも加えてくれます。

 


小坪と古壺(その3)

2022-12-25 16:37:44 | 時代の現場

(その2)で慰霊碑は初めここに建立されたのではなく「砲台跡の入り口でした」と書きましたが、それがこれです。

右側の写真を拡大すると、

 

更に入り口部分を拡大したのを見ますと、地蔵と数本の卒塔婆風のものと何か記された柱が見られます。

ここ(緯度経度が記されている写真の右側の場所)から現在の場所(🔴印・市有地)へ、「いつ誰が慰霊碑を移したか」分からないそうです。

市有地への石造物が移設された記録は公有地管理上あって当然のことだと思いますが……。

 

『砲台に消えた子どもたち』を書かれた野村昇司さんが生前こう言われました。

「誰も語らなければ歴史の中で『なかったこと』になってしまう。戦争や平和のあり方が議論されている今、もう一度戦争の爪痕を見つめなおしてほしい」  (この「タウンニュース」をご覧下さい)

 

砲台に消えた子どもたち 逗子在住 野村昇司さん(82) | 三浦 | タウンニュース

惨禍は、何も戦時中だけとは限らない。逗子湾を望む飯島崎の一角にあった沿岸防御の「小坪砲台」。終戦から2カ月が経過した昭和20年10月20日、旧軍に放置された砲台跡で...

タウンニュース

 

 

20日慰霊碑に向けて手をあわせながら私は、黒田先生と野村さんの思いを胸に浮かべました。私どもも「語りはじめ」たのですが、このネット時代誰かとなくここを訪れて「語りかけていかれた人々」を知ることができるのは心強いことです。

そのひとりの方のブログです、「逗子の歴史を学ぶ会事務局長」の山田淑江さんがコメントを寄せています。

 

砲台に消えた子どもたち - かばぶ

●逗子の小坪と新宿の間の山、披露山は、鎌倉時代に将軍への献上品を披露する場所だっ...

かばぶ

 

もう一人、東京湾要塞研究家のデビット佐藤さんです、こちらは砲台に関する状況が見られます、クリックしてみて下さい。  

  小坪洞窟砲台

 


嬉しい返信

2022-12-24 14:04:40 | 時代の現場

「良いニュース」をLINEで送った先からこのような論稿が返ってきました。嬉しい返信です、お読みください、本文部分を文字起こしをしておきます。

   国会を解散し、選挙をせよ。 戦後の国のかたちを根本から覆す、安保関連3文書の閣議決定である。 7/7、18日の毎日新聞の世論調査では岸田内閣の支持率は政権発足以降最低の25%。その大きな理由の一つが、防衛費43兆円確保のための増税である。
 庶民の生命を守るために今必要なのは下げ止まらない実質賃金と、上がり続ける光熱費と食費への対策であって、防衛費の記録的増大などではない。 東京新聞社会部編「兵器を買わされる日本」が示すように、防衛省幹部さえ眉をひそめる、日本政府の欧米軍需産業からの武器の計画なき「爆買い」気質は、庶民の命を守るよりも苦しめる。実質賃金は経済協力開発機構(OECD) 諸国の中で、珍しいほどの低額で横ばいが続いている。庶民を置き去りにする内閣の存続意義を今こそ問うべきだろう。
 「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と言い換えたが、実質は敵国が攻撃に「着手」したときに先制攻撃できる。どこまでを「着手」とするか恣意的解釈が入りやすい。 たとえ、外国が日本を攻撃しても、その国は「日本が防衛を名目に攻撃に着手していた」と世界に訴えやすくなる。 そして、もし中台有事で日本が交戦状態に入ったとしても、米軍基地が集中する沖縄は攻撃の対象になるが、被害規模の想定さえできていない。 現在、日米ともに沖縄を、中曽根康弘元首相の言葉を借りれば「不沈空母」化しているが、その非人間性がほとんど意識されない本土の精神の劣化を、今回の防衛方針の転換は進めるばかりである。


小坪と古壺 (その2)

2022-12-22 21:38:58 | 逗子 鎌倉 それぞれ

その2は一昨日の続きで、まずこの地図です、下の方に「集合場所」とあるのは逗子小坪の飯島公園プール前です。

そこからプール脇を回って裏手から正覚寺の駐車場を抜けて「入り口フェンス」です。入り口から慰霊碑まで登り坂ですが歩きやすい道でした。

慰霊碑の周りの草取りなどして、碑に花を供え各自が焼香して思いを伝えました。

これは碑の裏面を見ている会員、

裏面には昭和二四年と彫られていました。

昭和20年10月20日の「事件」ですから、碑が建てられるまで四年の歳月が経っていました。

そして建立されたのはここではなく砲台跡の入り口でした、このことについては後日に、明日にと言いたいのですが明日は一日手を取られることがありますので……。 

最後に案内していただいた地元の市議会議員の丸山さんからの会長宛のメールのなかの一部を紹介させてもらいます。

「慰霊碑を見るだけでなく周りをきれいにして頂いて、線香まであげて霊を慰めて頂いて、心から感謝申し上げます。こんなに手厚くたくさんの方に慰霊して頂いたことは最近では全くありませんでした。有難くて涙が出そうになりました。」

丸山さんはこの碑に眠る草柳喬少年(当時小学五年生)の弟さん(草柳博氏)の女婿でもあります。


人生100歳時代と郷土史

2022-12-21 23:57:43 | 逗子 鎌倉 それぞれ

「小坪と古壺」の続きではなくてすみません。今日は地元の「のぞみ会」のクリスマス会で、誠に賑やかに1年の締めくくりになりました。

来年も笑顔の多い集まりにしましょうと、〆ましたのがこの写真です。

集まりに顔を出した社保協の「たより」です。

「100歳まであと何年??」〜人生100歳時代の設計図〜

 葉山町長が、9月に町内在住の100歳以上の方、26人 (男性3人、女性23人)を表敬訪問したそうです。神奈川県でも、健康寿命が延びる中で、県民の皆様一人ひとりが100歳をひとつのゴールとして、そこから逆算して人生の設計図を描いていくことが大事になると考え、「人生100歳時代の設計図」というテーマを問題提起しています。

神奈川の 「未病を改善する」 取組み
 現在100歳以上の人口は、全国で6万5千人を超え、2050年には約70万人に達すると推計されています。 また、神奈川県は全国一、二を争うスピードで高齢化が進むとされており、医療や介護を要する人が急増するおそれがあります。
 こうした中、神奈川県では、 「未病を改善する」 取組みを進め、心身の状態を「健康か病気か」といった明確に二つに分けられるものとしてとらえるのではなく、 健康と病気の間で常に連続的に変化するものとしてとらえながら、「食」「運動」 「社会参加」の見直しによって、 人々の健康を維持し、 より良い状態にして、健康寿命を延ばそうとする取組みを進めています。 その結果として、元気な高齢者が増え、若者や現役世代にとっても、元気に生活できる期間が延びることにつながる仕組みづくりをすすめています。

「人生100歳時代の設計図」 80歳、90歳、 その時、 何をしていますか?
 健康寿命が延び、 人生100歳時代を迎える中、一人ひとりがそのことを念頭において、 人生の設計図を描くとともに、それを支える働き方や学び方など、社会のあり方を見直していくことが必要です。 また、高齢者に留まらず、若い世代の方々も 「人生100歳時代」 のライフプランを考え、「生きがい」を持って社会に参加する地域づくりを進めていくことが大切です。 葉山町社会福祉協議会では、 葉山町の皆様と一緒に 「人生100歳時代」にふさわしい、誰もが安心して暮らせる地域社会の実現に向けて、 これからも共に考えて推進していきたいと思います。 「人生100歳時代の設計図」 あなたならどう描きますか?
                     引用: 神奈川県ホームページ

 クリスマス会のなかでも、人生100歳時代に向けどう向かっていくのかが話されました。仲間のなかでも96歳を最高齢に90歳代が3人、元気に例会の毎回出席そのうちの2人が35年前の会創立者であることは嬉しいことです。それだけにこの「センターだより」を手掛かりに、会員一人一人の100歳に向けてどう向かっていくか、会員共通の問題として話し合い、事をすすめていきたいと思います。その際「人生100歳時代の設計図をどう描くか」よりも「〜どうデザインしますか」という方が良いでしょう、この笑顔の一人ひとりにあっているでしょう。

さて、今日のタイトル「人生100歳時代と郷土史」について。

自分の100歳へのアプローチをデザインする時、「どう生きてきたか」は住んでいた町や市と深い関係があります。これから高齢あるいは超高齢の時期を暮らしていくうえでは、更に重要な関わりがあります。

それはその町や市の歴史のなかで作られてきた事です。主に「現代」に属する事ですが、それを遡れば戦中戦前はもとより明治から江戸時代ヘ、さらにその先に元があるという事を今回の小坪巡りが教えてくれたことでした。外部の人にとっては観光名所であっても、そこに暮らす人には日常の生活条件です。

小坪の急な坂道や狭い石段も神社や邸跡等を見に行く人にとっては「これが大変だ」という思いで過ぎますが、住んでいる人にとっては子供の頃からの歩き慣れた道です、しかし老いてからの状況は異なって来ます。以前横須賀市内の山地を福祉事業の視点で歩いたことがありましたが、この地形も鎌倉時代の武将にとっては走り慣れたものであったでしょうが、21世紀の高齢者にとっては暮らしにくさの一要因になっていました。

郷土史がそこに住み終焉の地である人の歴史であれば、生活の有り様の歴史であり、それを受けてどう生きていくか、どう人生をデザインするかということへの解答に役立つものであらねば、と考えます。


小坪と古壺 (その1)

2022-12-20 23:07:11 | 逗子 鎌倉 それぞれ

この一枚が今日のタイトルの小坪海岸からの「晴天の富士」です、

遠景の富士山の見事さを知ってもらうにはこれでは小さ過ぎるのですが、人が見ての「見事さ」でしょうから、この人達についてひと言。

 11月8日の「つぶやき」で触れている「逗子の歴史を学ぶ会」のメンバーです。今日こうして集まって晴天の富士を喜んでいるのは、先週予定されながら雨等で延期された「砲台に消えた子どもたち」の慰霊碑を訪れることができるからです。

 その碑に関連することでもありますので、こちらも目を通していただくと有難いです。

 

戦争と戦争後の記憶 ・ 記録。 - kaeruのつぶやき

外出から戻って家の前でカミさんが立ち話をしていました。道を掃いていた箒を上げたり下げたりしているのは、かなり気の入った話なのでしょう。相手の御婦人から「お元気そ...

goo blog

 

あわせてこちらも、 

http://komonjokai.jimdofree.com/

小坪というと「鎌倉殿の13人」で頼朝の愛妾・亀の前の隠れ家を政子が打ち壊す一幕があった場所ですが、それがどのへんだったか、を推定しているのがこちらです、

http://tsubo.orange-shoes.biz/

自分のものもも含め「つぶやき」本文より「目を通して頂きたい」ものが多くなりました。なぜ小坪とあわせ古壺と記したのか、今日歩いた思いの結果ですが、それを述べるにはもう少し考えをまとめる必要があるようです。明日ということで今日は(その1)としました。

では、明日……。