慰霊碑を離れると「つぶやき」ましたが、気になったことがあり今日逗子図書館に行って来ました。
はじめにこの写真、
(その4)で紹介させてもらいました「かばぶ」さんのblogからです。ここに見える卒塔婆に「安田」とあります。卒塔婆は2本、比較的新しいものの裏にかなり古い感じのものが見られ、「安」の一字が読めます。この写真を載せたブログのアップは2015年4月9日とありますが、写真撮影は3月22日と説明されています。卒塔婆は私の家でも毎年お盆に新しく立てます、以前は春秋の彼岸も立てていましたので、毎回立つ時には入れ替えていましたが最近はかなり古いものが残っています。
その目で2本の卒塔婆を見ると1年間くらいの差を感じられます、卒塔婆の裏には盆法要とか彼岸法要とか年月日が記されていますので、裏が見られたらなー、と。
この花について、かばぶさんは
「新しい花が供えられているところから、事故でなくなった子供に縁のある方だろうか、一応、この所在を知って参る人がいるらしいことが判る」
と記しておられますが、3月22日という日付から言って、彼岸に参ったのではないかとも推測できます。その方が卒塔婆を立てた安田家の方かは分かりませんが、推測を許していただくと、10月20日の命日に卒塔婆を立てられ多分盆と春秋の彼岸には花を供えられる、そんな感じがします。
なお、慰霊碑の地蔵像に祀られている14人の少年のなかに3人の安田少年がいて、兄弟ではないので三件の安田家から犠牲者を出してしまっています。その名前を現在知ることが出来るのは、郷土誌「手帳」に14人の少年の氏名が記録されたお陰です。それは逗子市で郷土史研究を進めてきた黒田康子(しずこ)先生の尽力でした。
「手帳」(1975〜2008)の第81冊に黒田先生は、先の「少年」を訪ね歩いた記録と共に、次の新聞記事を「この記事は、事件後三十年たって、はじめて事の真相らしいものを語ったものである」として紹介しています。
(昭和五一年八月十四日・毎日新聞湘南版)
本文部分の文字起こししておきます。
逗子市小坪の海浜マンション群を見下ろす小高い山の中腹。夏草に覆われた旧軍の防空壕前に、小さなお地蔵さんが一つ建っている。 傍らの角塔婆に書かれた戒名は、もう墨の色も消えかかっているが「……童子」 ばかり十四人分。終戦直後の二十年十月二十日、この壕内で起った爆発事故で死んだ子供達のものだ。他に二十三人がヤケドをするなど大事故だったが、警察(当時は葉山署)にも市役所(当時横須賀市)にもいっさい記録はなく、新聞報道からもれて、地元の限られた人達しか知らない惨事だった。それがこんど外務省から公開された戦後外交機密文書の中で、ささやかに記録されていた。それも母親たちに言わせると必ずしも正確ではない。
※ 事故と記録
文書は当時の終戦連絡横須賀事務局から外務省の同中央事務局にあてた二十年十月分の業務報告 (十一月二十三日付)。旧海軍の便せんを使ったペン書き十五枚のうち一枚の中ほどに、たった六行したためてあった。
「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ。右ハ米軍ニ依リ立入禁止解除セラルルヤ、付近ノ住民墟門刹到シ、鉄片、又ハ木材等ヲ拾収セントシ、墟内暗キ為、国民学校児童「マッチ」ヲ擦リタル瞬間、墟内ノ火薬ニ引火セル結果、児童十四名死亡、二十三名火傷ヲ負ヒ、湘南 「サナトリウム」収容、手当ヲ施シツツアリ(市側報告)。
あれから三十一年。当時を知る関係者は数える程になった。そして記憶も人
によって違いが見られるが、大筋で一致しているのは、「死んだのは国民学校(現在の小学校)の男の子ばかり。 ほとんどが壕の前にすえてあった大砲(米軍の相模湾上陸に備えた)のまわりで遊ぶのが目的だった。「壕内の鉄片や木片ひろいは子供の用事ではなかった」という。このため「マッチを擦ったのは子供ではなく、ロウソクを持って壕内に入った大人が、ロウソクが短くなって持てなくなったから、下に大量に落ちていた鉛筆のような形のものにさしたとたん燃え出した」と話すものもいる。
いずれにしろ終戦から二ヶ月。火薬類が残っていながら出入り自由になった危険な壕。壁面はコンクリートで包まれていただけに、爆発した火災はまとめて砲台の側に吹き出し、一人は眼前の海に転落して即死。残りはみんな大やけど。事故当時、大人も含めて周囲に何人いたかわからない。後略