kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

七福神って幾つ?

2024-01-12 23:31:14 | 三浦半島

本を返しに行った図書館でちょっと手にしたのが、この本

開いて目についたページに、

先日お参りした七福神も入った三浦半島のなかの七福神かと思ったら、

三浦市内の七福神でした。

(黒い字はその七福神、赤い字はネットの七福神)

ところがネットでは公式サイトとして、

先ほどの黒字で書いた③大椿寺と④光念寺が無くなり、❸海南神社と❻妙音寺が入っています。

「公式」という意味もよくわかりません、拝んだ恩恵を保証するわけでもないでしょうから何が基準で、「公式と非公式」を分けるのでしょうか。七福神+二福神をまわってみようと、この町には20年以上前ですが一年ほどお世話になっていますし……。


三浦の地名に つい !

2023-10-18 22:13:36 | 三浦半島

「昨日の今日のこと」ですので、

三浦市毘沙門・盗人狩 (昨日は赤いマルの浜諸磯でした)

「しんぶん赤旗」のなかでも、普段でしたら見向きもしない釣り欄、

 三浦半島の南端、三浦市の毘沙門港はコロナの後、駐車ができなくなっています。そのためか比較的釣り人も少なく、おすすめの穴場スポットです。潮通しがよいのでメジナ、アジ、そして秋にはイナダも回遊してきま
す。
 9月10日、私は三浦海岸駅からバスで毘沙門下へ向かいました。今回は私単独の釣行でした。 毘沙門港から岩場の道を20分ほど歩き、盗人狩へ向かいました。盗人狩左岸の岩場に道具を置き、釣り開始です。
午前8時、サオを出し第1投。ワクワクの一瞬です。しかし、残念ながらアタリはなし。 9月の残暑。午前中なのに、太陽がさんさんと照りつけます。
 マキエをしますが手応えなし。暑さにぼーっとしたころウキが急に沈み、強い引きがありました。あわててわれに返り、サオを合わせるとおちょぼ口の姿が現れました。「カワハギ」です。 型もよく、大型です。心は高
鳴ります。が「あっ、タモを忘れた!」とその時、気付きました。この大きさの魚は取り込めるか、不安でした。柔らかい渓流サオなので弓なりに曲がり今にも折れそうです。                   とっさの判断で、駆け上がりの岩場にカワハギを乗せました。糸を緩ま
せると、ハリが外れ、逃げられてしまいます。サオを立てつつ、片手で道糸を引き寄せます。どうにか平らな岩場に乗せカワハギを確保!「ホッ」と一息。やればできるとニンマリ! 心の中ではピ−ス!        

その後、また同サイズを追加しました。そのうちマキエが効いてきたよたようで、中型のサバの入れ食い状況が続きました。

さすがにサバは回遊魚でハリにかかると、 磯場を右に左にと走り、下に引きます。私も負けずにサオを握ります。こん身の力を出して釣り場の盗人狩 「えい!」と引き抜き、釣り上げました。こんなやり取りが釣りの醍醐味です。その後、続けて10尾釣り上げました。 クーラーボックスが満杯になったので、11時30分、納竿としました。
 釣果は、サバ25㌢10尾、メジナ38㌢1尾、カワハギ30㌢2尾。5月ごろ、あんな小さかった「サバっ子」が、9月になり、こんなに大きくなって戻ってきてくれました。
 残暑が続く日々でも季節は着実に秋になっていると感じました。釣った
魚のうち、カワハギは1晩冷凍保存(寄生虫の予防)し、その後刺し身に。サバは、何回かに分けてフライにしました。
身がふっくらとして、おいしいと家族に好評でした。 東京・所澤文江


ノベサオ : 6.1㍍、道糸 : 3号、ハリス: 6号、ハリ: 5 号、シモリウキ5号
エサ:オキアミ、マキエ : 集魚剤


我が町の古墳。

2023-06-07 18:15:37 | 三浦半島

昨日の吉野ヶ里遺跡の石棺の蓋開けに便乗しての「つぶやき」ではないのです。実は今日句会の仲間と逗子市と葉山町にまたがって造られている長柄桜山古墳に吟行に行こう、ということになっていたのです。

ただかなり前からの雨の日々で、難しいなぁという感じでした。やはり昨夜も雨で主宰から中止にしましょう、とのメールが入っていました。朝の天気は久しぶりの晴れ、でも山道ですから雨が降っていないから好い、とは言えません。

地元にいる者として案内役になりますが、前日の雨だけでなく数日間の雨量は山道を歩くには、それも老人連中ですから難儀以上に危険でもあります、中止が正解でした。

参加予定の皆さんにメールに添付した逗子市作成のリーフレットをアップしておきます。

リーフレットに「平成11年3月に地元の考古学愛好者によって第1号墳が発見され〜」と記されていますが、発見者の東家洋之助さんとは当時郷土史などを勉強していた団体で一緒でした。発見された古墳の近くの団地住民で、散歩の時も考古学愛好者の目で周りを見ていたのでしょう。


行ってきました 「どんど焼き」、 御利益あり❗️

2023-01-15 22:18:41 | 三浦半島

昨日、どんど焼きに行くのが当たり前かのように書きましたが、実は今年が初めてでした。毎年妻が行っていて、カエルは冬眠中ということでサボっていたのです。

どうして今年になって行ってみようか、と思うようになったのか? 氏子会の世話人を辞めて神社にも顔を出さなくなり、そろそろ神様の罰が怖くなったのか仏心ならぬ神心に惹かれたのか、神ならぬカミさんに伴われてバスに乗り出かけた一色海岸です、

手に袋を持って行くのがカミさん、ここまでは私が持っていたのです(注:念のため)。9時に点火ということでしたので、10分くらい遅れました。

接待のテントの前で早稲田ゆきさんとお会いしましたので、衆議院議員早稲田ゆきさんを挟んで老夫婦が……、パチリしてもらいました。

なんだか早稲田さん窮屈そうですね。

接待のお酒やお汁粉コーヒーを頂き、ひさしぶりの人と言葉を交わして、

火も小さくなって来ましたので帰り道へ、でもかなりの人が松をはじめ飾り類を抱えているのと行き交いました。

神社によって参拝し歩いて帰路へ、10時半くらいにすれ違う人も飾り物を抱えていたので、これは昼近くまで火が絶えないかな、と。

家について気づいたのですが、昨夜からの鼻水が出なくなっていました、なるほど御利益あり、来年から毎年行かねばと思いました。


小坪と古壺(その8)/古壺新酒

2023-01-12 18:25:27 | 三浦半島

 昨年12月の小坪巡りを行った「逗子の歴史を学ぶ会」の新年最初の例会が10日でしたが、「増本さん」の実行委員会と重なり出席出来ませんでしたが、いただきました報告等では、慰霊碑拝礼を受けての今後の取組みについて、地元の関係者の方々の意向も踏まえ具体化しようとなったようです。併せて、神武寺の山城としての側面について知見を広げること、大切岸と鎌倉地域と三浦一族との関係など、現在の逗子市域の中世期における歴史的位置などに関心を広げていくようです。

タイトルの古壺は、地名の小坪に関連させて「古壺新酒」に結びつけました、高浜虚子の提唱による言葉です。虚子はこの言葉を通じて「俳句は容器として古い壺(形式)に花鳥諷詠という新しい酒(内容)を盛る」と主張したわけです、温故知新に通ずるところ、あるいは歴史を学ぶ意味にも繋がるかと思います。

詳しくはこちらで、

高浜虚子が「古壺新酒(ここしんしゅ)」を提唱した経緯を知りたい。 | レファレンス協同データベース

高浜虚子が「古壺新酒(ここしんしゅ)」を提唱した経緯を知りたい。 | レファレンス協同データベース

レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ...

レファレンス協同データベース

 

「小坪と古壺」 番外編

2023-01-08 18:36:02 | 三浦半島

慰霊碑から須賀神社へ回って、葉山一色の森山社から「三十三大祭」と「つぶやき」出しましたら、これが目につきました。

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「葉山観光ガイドマップ」(平成16/2004年発行)の一部なのですが、この「歳時記」に24件の行事が載せてあります、そのうち「祭」がつくものが12(含神楽)あり半数です。「祭」は歳時記という季節により生活に結びつく行事として、町内の人々のなかに広くファンを有しているのです。と同時に「祭」の主体は各神社の氏子会ですから一般的なイベント的な行事とは趣を異にしています。そこが祭の歴史性でそれへの理解を広げ深めることが課題としてあります。

そんな思いで、最近の「はやまガイドマップ」(2021年発行)を見たら、「歳時記」も「祭」も無くなっていました。

https://www.town.hayama.lg.jp/material/files/group/15/20220223guidomap.pdf


小坪と古壺(その7) 「須賀神社、森山神社」の続き

2023-01-07 18:22:37 | 三浦半島

12月に須賀神社へ回った時は「三十三大祭」のことは話に出ていなっかと思います。2028年ですから両氏子会は当然準備に入っているでしょうが、五年先ということとなると一般的にはまだ「予定」のなかには入ってこないでしょう。

私のことで言えば前回の「大祭」(1996/平成8年) はあることすら知りませんでした。当時は夏の祭のお囃子の練習の音で、かなり離れた神社が祭に入ったと感じるくらいだったでしょう。警察官上がりの親戚の人が町内会の役員をやっていて祭の際の交通整理を手伝うことになったのが2000年頃でしょう。それがきっかけで氏子会世話人になり、今まで思いもしなかった経験をさせてもらいました。数年前に世話人はやめていますが、地域への関心に広がりとか深みとかが持てるようになった気がします。

前書きが長くなりました、本文です。

この写真は、須賀神社の拝殿に掲げられているもの、

こちらは森山神社の境内に入る入口側の立てられているもので、

両方の「三十三大祭(行合祭)」の部分ですが、

須賀神社には「三十三年に一度」と記されていますが、

森山神社には、

「行合祭 満三十二年目毎に執行」と記されています。

年齢表示の「数え年」と「満年齢」との違いに類することなのか、分かりませんが、須賀神社からの男神(素戔嗚尊・スサノオノミコト)が森山神社の女神(奇稲田姫命・クシナダヒメノミコト)が逢いに来たら「一年の時間差で逢えなかった」という事のないように配慮して欲しいものです。


小坪と古壺(その6)

2023-01-06 17:22:29 | 三浦半島

あの日、2022年12月20日の小坪巡りで慰霊碑から次に回ったのは須賀神社でした、案内してくれたのは引き続き地元の市議会議員の丸山さん。丸山さんが案内してくれたお陰で、普段は入れない祭殿内で拝むことができました。

この神社を正月の三日に参拝されたというブログがありました。

アップされたかばぶさんは、慰霊碑を訪れたブログが縁でごく最近ご挨拶を交わさせてもらった人で、昨日の「kaeruのつぶやき」にもコメントを頂きました。

須賀神社について紹介されている部分をお借りします。

全文はこちらです。

 

謹賀新年2023 - かばぶ

●明けましておめでとうございます。本年も――おそらくこれまで同様に当「かばぶ」...

かばぶ

 

かばぶさんの須賀神社紹介で嬉しいのは、葉山の森山神社との「三十三年祭」について「32年ごとに」と書かれていることです。この三十三年祭を紹介する記事をみるとかなりの例で「三十三年に一度」としています。かばぶさんのブログでも分かりますが、取り上げる対象を正確にとらえて示されていますが、この短い文のなかでもそれが感じられました。

なお、葉山町の一色住民で数年前まで森山社の氏子会の世話人の一人であった者として、ここで「結構大きい」森山神社を紹介しておくべきでしょう。

神社としては大きい方ではないでしょう、葉山町に幾つもある神社のなかで小さい方ではありませんが、大きな方なのか、今年は神社巡りをしてみようかと思います。ただこの神社が一番古いことは確かで、それが小坪の須賀神社との「三十三年祭」と繋がっているのか、8世紀からのこの地についての勉強から始めなければなりません。2028年を前にして気持ちは動くのですが……。

神社の位置の確認はこの写真で、逗子から来て御用邸の手前です。


小坪と古壺(その5) 

2023-01-05 17:49:11 | 三浦半島

慰霊碑を離れると「つぶやき」ましたが、気になったことがあり今日逗子図書館に行って来ました。

はじめにこの写真、

 (その4)で紹介させてもらいました「かばぶ」さんのblogからです。ここに見える卒塔婆に「安田」とあります。卒塔婆は2本、比較的新しいものの裏にかなり古い感じのものが見られ、「安」の一字が読めます。この写真を載せたブログのアップは2015年4月9日とありますが、写真撮影は3月22日と説明されています。卒塔婆は私の家でも毎年お盆に新しく立てます、以前は春秋の彼岸も立てていましたので、毎回立つ時には入れ替えていましたが最近はかなり古いものが残っています。

 その目で2本の卒塔婆を見ると1年間くらいの差を感じられます、卒塔婆の裏には盆法要とか彼岸法要とか年月日が記されていますので、裏が見られたらなー、と。

この花について、かばぶさんは

「新しい花が供えられているところから、事故でなくなった子供に縁のある方だろうか、一応、この所在を知って参る人がいるらしいことが判る」

と記しておられますが、3月22日という日付から言って、彼岸に参ったのではないかとも推測できます。その方が卒塔婆を立てた安田家の方かは分かりませんが、推測を許していただくと、10月20日の命日に卒塔婆を立てられ多分盆と春秋の彼岸には花を供えられる、そんな感じがします。

 なお、慰霊碑の地蔵像に祀られている14人の少年のなかに3人の安田少年がいて、兄弟ではないので三件の安田家から犠牲者を出してしまっています。その名前を現在知ることが出来るのは、郷土誌「手帳」に14人の少年の氏名が記録されたお陰です。それは逗子市で郷土史研究を進めてきた黒田康子(しずこ)先生の尽力でした。

「手帳」(1975〜2008)の第81冊に黒田先生は、先の「少年」を訪ね歩いた記録と共に、次の新聞記事を「この記事は、事件後三十年たって、はじめて事の真相らしいものを語ったものである」として紹介しています。

(昭和五一年八月十四日・毎日新聞湘南版)

本文部分の文字起こししておきます。

 逗子市小坪の海浜マンション群を見下ろす小高い山の中腹。夏草に覆われた旧軍の防空壕前に、小さなお地蔵さんが一つ建っている。 傍らの角塔婆に書かれた戒名は、もう墨の色も消えかかっているが「……童子」 ばかり十四人分。終戦直後の二十年十月二十日、この壕内で起った爆発事故で死んだ子供達のものだ。他に二十三人がヤケドをするなど大事故だったが、警察(当時は葉山署)にも市役所(当時横須賀市)にもいっさい記録はなく、新聞報道からもれて、地元の限られた人達しか知らない惨事だった。それがこんど外務省から公開された戦後外交機密文書の中で、ささやかに記録されていた。それも母親たちに言わせると必ずしも正確ではない。

   ※  事故と記録

 文書は当時の終戦連絡横須賀事務局から外務省の同中央事務局にあてた二十年十月分の業務報告 (十一月二十三日付)。旧海軍の便せんを使ったペン書き十五枚のうち一枚の中ほどに、たった六行したためてあった。

「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ。右ハ米軍ニ依リ立入禁止解除セラルルヤ、付近ノ住民墟門刹到シ、鉄片、又ハ木材等ヲ拾収セントシ、墟内暗キ為、国民学校児童「マッチ」ヲ擦リタル瞬間、墟内ノ火薬ニ引火セル結果、児童十四名死亡、二十三名火傷ヲ負ヒ、湘南 「サナトリウム」収容、手当ヲ施シツツアリ(市側報告)。
 あれから三十一年。当時を知る関係者は数える程になった。そして記憶も人
によって違いが見られるが、大筋で一致しているのは、「死んだのは国民学校(現在の小学校)の男の子ばかり。 ほとんどが壕の前にすえてあった大砲(米軍の相模湾上陸に備えた)のまわりで遊ぶのが目的だった。「壕内の鉄片や木片ひろいは子供の用事ではなかった」という。このため「マッチを擦ったのは子供ではなく、ロウソクを持って壕内に入った大人が、ロウソクが短くなって持てなくなったから、下に大量に落ちていた鉛筆のような形のものにさしたとたん燃え出した」と話すものもいる。
 いずれにしろ終戦から二ヶ月。火薬類が残っていながら出入り自由になった危険な壕。壁面はコンクリートで包まれていただけに、爆発した火災はまとめて
砲台の側に吹き出し、一人は眼前の海に転落して即死。残りはみんな大やけど。事故当時、大人も含めて周囲に何人いたかわからない。後略