鎌倉駅江ノ電口で、内の奥さんと待ち合わせて、暖かいものを食べようと
御成通りを歩き「らーめん店」が見つからず、若宮大路に出て「ラーメン」の
赤い幟を見つけ店の前へ、「準備中」の張り紙。
そんなことが三軒ほど続いて、大路から小町通りへ入る横道でそば屋さん
が営業中。昼飯時と夕食時のあいだの中途半端な時間によくぞやっていて
下さいました、「なかむら庵」というお店です、入ってみるとやはりお客さんは
いません、お二人のために営業してますとは言われませんでしたが。
天ぷら蕎麦の汁が美味かった、汁もというべきですしそうなのですがここ
は汁の美味さを強調したいところです。 終わって奥さんの丼をみたら底が
乾いているかと思うくらい何もありません。 小生の底には3ミリほど残ってい
たので飲みほして 「うまかってね」。
暖かくなった体で小町通りでました。 雨で人出の少ないまま夕方を迎えた
通りは歩きやすく四つ角の煎餅屋で「濡れ煎餅」を買い、かじりながらの歩き。
川喜多映画記念館へ向かう角をまがり館の手前で、左に入ります。
コンクリート塀の上に伸びている木の枝を見上げて木蓮の芽が、と言われ
ますが夕闇のなかでよく分かりませんが、季節はそういう季節です。
裏道の角に「チェンジ 鎌倉 〇〇××」と市議会議員の肩書で看板が目
立ちました。 この四月議員選挙、先日の日曜日にはわが町の仲間と鎌倉
の日本共産党議員の応援に行ってきました。
鎌倉が古都鎌倉の「らしさ」を保ち続けるには、世界遺産問題の含めて
どうあるべきかは鎌倉人のみの課題ではないでしょう。
駅を出てバスターミナルを抜けると角に不動産業の赤い看板が目に入り
ます。ここは少し前は老舗という感じの漬物屋さんの店であったはずです。
駅の周辺に四軒の書店がありました、一軒が閉店一軒は店を狭めて仕舞
いました。
資本の論理が浸食し浸透して人も街も、個性を失い一様な顔を化粧し
しまうのか。 以前、藤沢駅周辺を歩いて「なんとつまらない街なのだろう」
と思ったものです。たしかに買い物が目的であったり見る聞く食べるなど
の便利さを問われれば、便利ですということになるでしょう。それならば
便利さを競うことがその街の特徴を生みだすのでしょうか。
鎌倉らしさ、逗子らしさ、葉山らしさ、そしてあなたの住む村町市らしさ。
私らしさ、私たち夫婦らしさ、私たち家族らしさ。この神社らしさをこの地
域の人びとと創り出し共有していきたいという思いが「酔いどれの一夜」
にあったのだと思います。
日本の神は八百万の神といわれ、海・山・峯・岩・河・川・森林・大木・獣
・などなど。かけがえのない物のなかにかけがえのない己を投影して神
を創り出してきたのでしょう。しかしそこに権力の論理が浸食し浸透する
こによって「らしさ」が蹂躙されてきたのではないでしょうか。