kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

「どっこい」と全日自労。

2013-01-31 18:25:28 | 本のひと言

 映画「どっこい生きてる」について、以下のWikiの説明をそのまま借用し

ます。誰かから「手抜きをするな」のメールが入るかもしれません、確かに

こういうやり方は手抜きです。今夜これから会議ですので、御容赦下さい。

なお、映画の題名は「どっこい生きている」ではなく「どっこい生きてる」です、

訂正します。

Wikiの説明文より

人情紙風船』、『戦國群盗傳(総集篇)』などの映画作品をつくってきた前進座の戦後の映画作品。日雇い労働者の一家の食うや食わずの生活と絶望から再起に向けた格闘を描いた。ホームドラマでありながら、中流層の穏やかな生活の営みはなく、貧困との闘いや一家に降り掛かる災いを中心にドラマが展開されていく。ヴィットリオ・デ・シーカ監督『自転車泥棒』など、イタリアンネオレアリズモの作品の影響が色濃く反映したものとなっている。フランスの俳優ジェラール・フィリップもこの作品を見て、高く評価した[1]

美術監督の久保一雄が「わかれ雲」(五所平之助監督)と本作の美術で、毎日映画コンクール美術賞受賞。脚本には、記録映画出身の岩佐氏寿前進座の座付作家・演出家平田兼三。監督は、戦後の左翼映画の旗手、今井正。出演者は前進座以外に飯田蝶子岸旗江木村功が協力した。一口50円の出資者を募集して、400万円の製作費で作られた[2]

 
 全日自労について、は 『じかたびの詩』 のカバーにある説明文をそのまま書
き写します、これも手抜き、かな。
 
 戦後、失業対策事業に働く日雇労働者や失業者を中心に組織され、戦争と失業と貧乏に反対して闘い続けてきた労働組合です。
 昭和55年8月、全国建設などと組織統合し「全日自労建設一般労働組合」と改称し、建設産業を軸に下請、パート、臨時の労働者なども広く結集することをめざしています。組合員は10万人。
 機関紙 “じかたび” は、労働組合機関紙としてはただ一つ、ジャーナリスト会議賞をいけています。週一回発行、有料個人購読制で組合の内外に10万人の読者がいます。
 
 (注:この説明文は1980年8月発行の『じかたびの詩』に掲載されているものです)
 
 この二つの「説明文」についての私のコメントは別の機会に、会議へ急ぎますので……ではまた。 
 
 
 

どっこい生きている。

2013-01-30 19:50:32 | 本のひと言

 昨日の「詩・みち」には21歳になった育子さんの「言葉」が添えられていま

す、詩が「じかたび」に発表されたのが1971年4月で次の「言葉」はその10

年後のものです。

 

 「十年前の “じかたび” に詩 『みち』 が掲載されたとき、全国のおじさん、お

ばさんたちに、はげましのお手紙をいただきました。私は今、田川郡糸田宮床

団地の町立保育所に保母として勤めています。私がまだ中学生のときに、みん

なの運動でできた保育園です。母は、いま、夜おそくまで研究委員の先生に手

紙を書いています。全国のおじさん、おばさんが安心して働いていける “道” が

できるようにと。みなさん、いつまでも元気でがんばってください。私も炭鉱の落

盤で死んだ父の分までがんばります。      育子 ・ 21歳。」

 

 この「言葉」にある「研究委員」について。

 『じかたびの詩』 は1980年8月の発行で、その第3部を「拝啓 失対制度調

査研究委員様」として、そのはじめに次の文章は付されています。

 「第三部は、全日自労が1980年6月からとりくんでいる「失対制度調査研究委

員への手紙」運動のなかから、一部の手紙を収録した。労働省は、失対事業制

度をどうすべきかを五年ごとに検討してきているが、1980年(昭和55年)が、そ

の年にあたり、調査研究会(代表委員・大河内一男東大名誉教授ら7人)を発足

させた。この委員に、一人ひとりの体験をふまえた訴えをしようという運動。みんな

集まり黒板にわからない字を書いてもらい、三日も四日もかけて書いた手紙、昔を

想いだして涙にむせび鎮静剤をうって書きあげた手紙、カナばかりの手紙もある。」

 

 今朝、昨日の約束の育子さんの「言葉」と全日自労について、書くことを考えはじ

めたら、「どっこい生きている」のフレーズが浮かびあがってきました。タイトルにした

ので、映画「どっこい生きている」についても触れたいのですが、全日自労について

ももう少し書かなければなりません、併せて明日にします。


ヨイトマケの唄、「じかたびの詩 みち」

2013-01-29 23:28:33 | 本のひと言

 暮れの紅白歌合戦で美輪明宏の「ヨイトマケの唄」が大変反響をよび、

一日で2万件の書き込み、「白組で最も印象に残ったアーティストは?」

の問いに「美輪明宏が42%」と、という圧倒的な数字を示しました。

 私は当日視聴できませんでしたので、昨夜ITで見聴き、なるほど分か

る!の感想です。よろしければ下記で、見聴きして下さい。

(下記URLをドラッグし右クリックしてみて下さい、該当ページに移動できます)

http://www.youtube.com/watch?v=j7ncJpQj8Hg

 

 次の詩は 『じかたびの詩』 から (1971年4月小学校6年生の女子)

 

        み   ち              奥田 育子 (福岡・田川市)

 

  お母さんの仕事は 道をきれいにする仕事だ でこぼこの道をけずったり

  じゃりをまいたり 道の横の草をかったりする ほそうをし、みぞを作り

  町や村の人によろこんでもらう仕事だ

 

  わたしの家にも “みち” がある お父さんが死んで、悲しかった道

  小さな子どもを育てた、苦しかった道

  兄ちゃんは就職、わたしは六年生 やっときた、なだらかな道

  でも、兄ちゃんが およめさんをもらい

  わたしがおよめさんにいったりする坂道が待っている

 

  お母さんにも、失対うちきりという、怒りの道がきた

  お母さんは政府に要請ハガキを書いて

  どこまでもつづく、正しい道を きりひらくといっている

  

  お母さん、がんばれ! 

  わたしの家に明るく  しあわせな “みち” ができるまで  

 

  (今夜は詩の紹介だけで、育子さんの「言葉」と全日自労については

   明日に、なお詩の行分けは変えてあります)


「過去の中にある未来」

2013-01-28 21:52:54 | 本のひと言

 今日のタイトルは「しんぶん赤旗」の文化欄の「古書店の窓から」から

頂きました。永井荷風の『墨東綺譚』(昭和15年版)を読んでの思いが綴

られています。「本の世界に引き込まれる。荷風が生き、歩いた帝都東京

に、連れて行かれる。(略)/荷風はこの本のなかで明治維新、関東大震

災後の、江戸の風情が失われていく帝都東京のさまを嘆く。」

 

 書き手は荷風が嘆いたこの街も大空襲によって焼き払われ、この古本

が戦火からの生き残りかと愛おしく感じ、撫でながら次のように考えていく。

「古本は単に過去のかけらなのではない。あったかもしれない無数の未来

をはらんでいるものなのだ。わたしたちは、動かしがたい必然の、今、ここ、

に生きているのではなく、さまざまな偶然が重なった、今であり、ここ、に生

きているだけでなのだと、古本は教えてくれる。

 過去を手にし、過去の中にある未来を考え、わたしたちの未来を考え、わ

たしたちの今から未来を創造する。古本はそんな営みを手助けしてくれるも

のなのである。」

 

 昨日買った古本『手記 じかたびの詩 ー失業と貧乏をのりこえて』は全日

自労一般労働組合・早船ちよ 編(1980年)、「じかたび=地下足袋」はニコヨ

ンと呼ばれた時代の父の詩でもあり、私のこれからを示すものでもあります。


仏の守り、神の加護。

2013-01-27 21:50:07 | 葉山そして人

2012-07-25 の「kaeruのつぶやき」に

「昼食を共にした坊さんと俳句の話をしてきた」と書きました。

 

 その坊さんが大怪我をしました。

 昨年の暮の26日、自宅の目の前の崖地の木立に溜まった枯葉の山を

きれいにしたいと仲間と7mほど上から掻き落している時、体の向きを変

えた瞬間すべり落ちました。

 打ちどころが悪けれが即死、幸いというべきか両脚骨折で命が助かり

ました。見舞いに行った人に「神の加護によって」助かったと述べたそう

です。私が見舞ったときもそう言っていました。この坊さんは僧侶ではあ

るが寺の住職ではありません。フリーの坊さんという言葉があるのか分

かりませんが、そういう状況の坊さんです。

 そういう状況であっても坊さんは坊さんです、何よりも仏に守られてとい

うのが自然だと思うのですが、実際にはそうではなかったのです。あまりこ

だわることもないのかも知れませんが、意外な感じがしたので触れてみま

した。この坊さんは北陸のある地方都市の出身だそうですが、私と故郷の

話になったとき郷土を出て一度も戻っていない、とのことで何かの事情が

あるのだろうと思いそれ以上の話にならなかったのです。

 

 それにしてもこの人にとってもこの町が、終焉の地になることはほぼ間違

いないでしょう。お互いが人生の最終期を共にし合う縁を通じて、お互いの

精神史につい知りあう機会になればと思います。


夢飛行船。

2013-01-26 20:42:12 | どこまで続くかこのブログ

 「監視カメラ」が部屋にあって24時間前の姿を映しだせば、寝床にバッタ

ンキュー、蛙が四肢を伸ばして日干しになってる図であったでしょう。その時、

二時間ほど寝てつぶやくかと思いつつ眠り込んでしまいました。

 結局10時間以上寝たことになって、心地よい朝を迎え「しんぶん赤旗」配

達に出かけましたが、途中で仲間がこの時間になったんで何かあったのだ

ろう、代りに配達をと持っていたのと会い、すまんといって受取り配達終了。

 

 そういえば、明け方近くでみた夢が気になります。昔二十歳代の新聞配達

で暮していた頃、新しい読者の家を確認するため表札が、暗いなかで読み

とれなく困ったものでした。その頃はまだ郵便受けなど普及しておらず、新聞

も二枚戸のあわせ目から差し込んだものです。

 はっきりしないのですが、明けやらぬ道で木造の家の前でモタモタしていた

印象が残る夢でした。たぶん時間的には起き出さなければならないと、夢時

計?が知らせていたのでしょう。50年経とうと夢時計はかなり正確です。

 

 夢には二種類あるようで、己の意志=思いが投影されたものとそうでない

もの。そうでないと思ってもなんらかの思いが込められているのかも知れま

せんが。意志が投影された夢には現実の己の方向性が反映しています。

夢占いについては不案内ですから同じことか違うことか分かりませんが、己

の意志が船の舵にように夢の方向性を保っているのでしょうか。

 

 まあ、夢の話ですから船とか飛行機という固いものではなく、といって風船

のようなまったく風頼りでなく風を使いつつ向かうべき方向を持つだろう飛行

船が似合うでしょう。

 夢飛行船、今夜はどこへ向かうか、そしてあなたも飛行船でいずこへ。 


他でもないその日の俳句。

2013-01-24 22:24:02 | 詩的なつぶやき

   ああといひて吾を生みしか大寒に    矢島渚男

   この人、1935・昭和10年1月24日生まれ。

 生地長野県丸子町、この地方の冬の寒さを私は身をもって知っています。

子供の頃の記憶では朝起きると自分の息で布団の縁が薄く氷ついている

のでした、 住まいが良くなった現在ではあり得ないかもしれませんが。

 丸子町は今では上田市の一地区になっていますので、二年先輩の同郷

の人でした。 こちらは生れは東京ですし六月ですから、この句をもって私の

「その日の俳句」ではありませんが、五・七・五によって特定のその一日を詠

み表わすとすれば詠み手にとってこの日にこの句は動かないでしょう。

 

 昨日、日に一句なり一首を配した本から三句を紹介しました。 実は昨日

という一日を言葉にするとどう言い表せるのだろう、とすこし考えたのです

が三句を借りて代わりにしました。

 ひとつの計画がとん挫し、代わりにともいえる一つの計画への準備に費

やされた一日を、報告文ではなく一日の持つ内実を言いとめておきたいと

思った時、散文ではなく韻文で適切に表現できると感じました。

 自分の生活のなかに変化の必要性と可能性を見出し、その可能性を現

実のものに発展させる内部の力が言葉として出てくるとすれば、それはか

なり短いものになる(こんな風にだらだらにならない)、筈だと思うのです。


この句に今日を表わす。

2013-01-23 22:52:19 | 詩的なつぶやき

 1月23日の句。

 『虚子一日一句』  星野立子

   首縮め雪解雫を仰ぎつつ   高浜虚子    

 

 『折々のうた 三六五日』  大岡信

   一片を解き沈丁の香となりぬ   稲畑汀子

 

 『癒しの一句』  田中裕明・森賀まり 

   命ある家ある寒の水がある    山本あかね


濡れ煎餅かじりながら。

2013-01-22 23:58:19 | 逗子 鎌倉 それぞれ

 鎌倉駅江ノ電口で、内の奥さんと待ち合わせて、暖かいものを食べようと

御成通りを歩き「らーめん店」が見つからず、若宮大路に出て「ラーメン」の

赤い幟を見つけ店の前へ、「準備中」の張り紙。

 そんなことが三軒ほど続いて、大路から小町通りへ入る横道でそば屋さん

が営業中。昼飯時と夕食時のあいだの中途半端な時間によくぞやっていて

下さいました、「なかむら庵」というお店です、入ってみるとやはりお客さんは

いません、お二人のために営業してますとは言われませんでしたが。

 天ぷら蕎麦の汁が美味かった、汁もというべきですしそうなのですがここ

は汁の美味さを強調したいところです。 終わって奥さんの丼をみたら底が

乾いているかと思うくらい何もありません。 小生の底には3ミリほど残ってい

たので飲みほして 「うまかってね」。

 

 暖かくなった体で小町通りでました。 雨で人出の少ないまま夕方を迎えた

通りは歩きやすく四つ角の煎餅屋で「濡れ煎餅」を買い、かじりながらの歩き。

川喜多映画記念館へ向かう角をまがり館の手前で、左に入ります。

 コンクリート塀の上に伸びている木の枝を見上げて木蓮の芽が、と言われ

ますが夕闇のなかでよく分かりませんが、季節はそういう季節です。

 

 裏道の角に「チェンジ 鎌倉 〇〇××」と市議会議員の肩書で看板が目

立ちました。 この四月議員選挙、先日の日曜日にはわが町の仲間と鎌倉

の日本共産党議員の応援に行ってきました。

 鎌倉が古都鎌倉の「らしさ」を保ち続けるには、世界遺産問題の含めて

どうあるべきかは鎌倉人のみの課題ではないでしょう。

 駅を出てバスターミナルを抜けると角に不動産業の赤い看板が目に入り

ます。ここは少し前は老舗という感じの漬物屋さんの店であったはずです。

駅の周辺に四軒の書店がありました、一軒が閉店一軒は店を狭めて仕舞

いました。

 

 資本の論理が浸食し浸透して人も街も、個性を失い一様な顔を化粧し

しまうのか。 以前、藤沢駅周辺を歩いて「なんとつまらない街なのだろう」

と思ったものです。たしかに買い物が目的であったり見る聞く食べるなど

の便利さを問われれば、便利ですということになるでしょう。それならば

便利さを競うことがその街の特徴を生みだすのでしょうか。

 鎌倉らしさ、逗子らしさ、葉山らしさ、そしてあなたの住む村町市らしさ。

私らしさ、私たち夫婦らしさ、私たち家族らしさ。この神社らしさをこの地

域の人びとと創り出し共有していきたいという思いが「酔いどれの一夜」

にあったのだと思います。

 日本の神は八百万の神といわれ、海・山・峯・岩・河・川・森林・大木・獣

・などなど。かけがえのない物のなかにかけがえのない己を投影して神

を創り出してきたのでしょう。しかしそこに権力の論理が浸食し浸透する

こによって「らしさ」が蹂躙されてきたのではないでしょうか。


久女忌 菊枕。

2013-01-21 22:01:04 | 詩的なつぶやき

 1月21日は「久女(ひさじょ)忌」。〈谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ〉

の絶唱で知られる女性俳句の先駆者、杉田久女の命日です

 ではじまるのは今日の赤旗「潮流」欄です、このあとを読んでいただけるの

でしたら、下記を。

(下記URLをドラッグし右クリックしてみて下さい、該当ページに移動できます)

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-21/2013012101_03_0.html

 

 松本清張の短編に久女を書いたものがあったはずと短編集をめくってみました。

 「菊枕」と題し新潮文庫の傑作短編集(一)に収録されていました。この短編集

の解説をしている平野謙はこの(一)巻の「或る『小倉日記』伝」「菊枕」「断碑」

「笛壺」「石の骨」を「いわば松本清張をして松本清張たらしめたおもおもしい作

品に属する」と評しています。

 

 他の短編は別にして「菊枕」の久女(小説ではぬい)と夫(同圭助)そして虚

子(同栴堂)を描きつ、夫婦関係の重さと師弟関係の重さと男女関係の重さ

を俳句という軸を中心に書いています。 地球が地軸を中心にして回転してい

るくらいの確実性をもって久女は俳句を中心に自分が回転するものと、そして

地軸は虚子に支えられていると信じていたのでしょう。しかし、「師の虚子に疎

まれて「ホトトギス」同人を除名され」(「潮流」)、その後鬱鬱と過ごします。

 

 「菊枕」にかかれた久女。

 その後も、ぬいはしきりに栴堂に手紙を出した、その数は前後二百数十通に

達したという。終わりになるほど常態を失った。文面は前後の意味がわからな

くなり、一通一通、哀訴したり、憤激したり、電報で前便の手紙を取り消ししたり、

また以前にかえったり、支離滅裂であった。(略)

 ぬいは昭和19年、圭助につれられてある精神病院にはいった。

 

 1946年・昭和21年に病院内で亡くなりました、生れは1890年。

  

   ちなみぬふ陶淵明の菊枕          

   白妙の菊の枕をぬい上げし         

   ぬい上げて枕の菊のかほるなり