今、帰宅途中です。9時からのテレビには間に合いそうです。
今夜遅くなりつぶやくか、明日になるか不明です。
とりあえず、ここまで。
今、帰宅途中です。9時からのテレビには間に合いそうです。
今夜遅くなりつぶやくか、明日になるか不明です。
とりあえず、ここまで。
夕食を終えたので二階に戻ろうとしたら、テレビにタモリさんの顔が……。
たしか「赤旗」で最近 見て、珍しいと思ったのでした。
記事の内容はnhkのテレビの司会に出た話でした、この番組だったのか
と、座り直しました。
NHKスペシャル ・ 巨大災害の激化する 「異常気象」 です。 新聞の紹介
では 「なぜ多発?記録的豪雨 タモリが謎を徹底的探求 地球規模の大異
変迫る 未来シュミレーション 巨大竜巻が東京襲来?」 とあります。
「しんぶん赤旗」のタモリさんです。
番組を見て、あらためてタモリさんの記事のなかでの発言を記します。
「巨大地震のメカニズムは、本で読んでいたのと全然違っていた。局地的
豪雨のメカニズムも、見ていただければ本当によく分かります」
今日の番組はシリーズの第1回(異常気象)で、あと明日(31日・スーパ
ー台風)と9月20日、21日の予定です。
昨今の日本における 「異常気候」 も世界的な 「異常」 のなかの現象だと
いうことがよく分かりました。 自分の地域が……、というだけの状況ではない、
大気と大海に起きている変化からくる 「異常」 であることをまず知ることでした。
シリーズの紹介はこちらに、http://navicon.jp/news/25230/
一気に涼しくなって、このまま秋になりきってしまうのかな、いや
いやそう簡単に夏が引き下がりはしません、とか自分で問答しています。
涼しくなったのだから気分として落ち着きが出てきていいのですが、何
となくふわついています。
机に向かって少し硬い本でも、という気分になるにはどうしたらいいか。
そんなことを自分に問い掛けることなく、自分の体なのだから机に座れば
いいのです。ところがタブレットは寝転びながらでも、読めたり書けたり
しますのこれを持って寝転ぶと、硬い本でなく将棋とかフリーセルとかゲ
ームやってしまうのです。
こういう時は俳句の気分になればいいでしょう。こんな俳句がありました。
長き夜をたゝる将棋の一ト手哉 幸田露伴
詩人の大岡信の解説「これはいかにも将棋好きの人の一句。一手指し違えた
ばかりの負け将棋。その口惜しさで、秋の夜長が一層長くなるのだ」
こちらは、タブレットのキーのタッチ加減で何回か消えて、その口惜しさで、
こんな時間になってしまいました。
「てんがらもんラジオ」130回は、
http://www.ustream.tv/recorded/51949633 です。
今日のタイトルの「感動は人生の窓をひらく」はゲストの畠野さんが紹介
された椋鳩十の色紙の言葉です。畠野さんは「椋鳩十の遺徳をしのぶ松風
会」事務局長です。
畠野さんが今日私たちに椋鳩十の話をすることになったのは、まさにこの
言葉通り、自分の中学2年の時椋鳩十の『月の輪グマ』に感動したことに端
を発していました。そして大学のとき椋鳩十の名に出会い、鹿児島在住とい
うことに心を動かされたそうです。
私がそれまで名前だけしか知らなった椋鳩十の作家で詩人で教師であり
図書館長をつとめ、そして信州の出身者である、この人をより知る機会を得
たことにある種の感動を受けています。
畠山さんの話の前の向井さんの西郷隆盛の銅像の話でも、感じたのですが
同じことでもそれを何によって知ったか、誰から聞いたかによって受け取り方が
ずいぶん違います。 銅像のことも椋鳩十のこともパソコンを視聴しながら、イン
ターネットで検索してみて事実としての事柄を知ることができました。
でもそのことが胸に落ちるように理解されるのは、直接そのことをよく知ってい
る人から聞く時が多いのではないでしょうか。
「北の宮沢賢治、南の椋鳩十」と言われたそうです。そのことを聞きながら
インターネットで知った椋の辞世の詩の一節が浮かんできました。
「精神的にも肉体的にも / 松風になりたい」、この番組では松風会の名前
の由来は触れていなかったと思いますが、ここからきていると考えて間違い
ないでしょう。
そして、「椋鳩十の遺徳をしのぶ」という古風な表現も納得でき、思想家と
しての椋鳩十の研究も価値あることと思いました。たとえば、離島の人々の
生活に関して「離島は政治のひずみがくる、このことはものを書く人間として
黙っていられない」と 『離島物語』 を書いたり、戦争が終わった時 「ああ、
終わったか」 と言っただけなど、この人の思想家としての面を知りたいと
思います。
沖縄の新聞「琉球新報」の報道を今日の「しんぶん赤旗」が
「新基地中止を」8割 の見出しで沖縄県民の世論調査の結果を
伝えています。
そのなかで翁長雄志(おながたけし)さんが記者会見で、「沖縄の自己
決定権、歴史などを踏まえながら、あるべき姿に県民がじわりじわり気
づいてきたと思う」 との言葉を紹介していました。
翁長さんは、現在沖縄の那覇市長ですが、11月の沖縄縄県知事選挙
に知事候補とし保守・革新の枠を超え出馬要請を受けています。
25日那覇市議会の5会派による出馬要請の際、要請文を読み上げた
日本共産党市議団の古堅団長は 「知事候補に最もふさわしい人物は、身
を捨てる覚悟でぶれずに信念をつらぬき、行動されている保守の政治家 ・
翁長市長以外にない」と述べています。
すでに超党派でつくる那覇市議のOB有志会での出馬要請で、現職当時
、自民党所属で市議会議長を務めた亀島氏が 「選挙のたびに辺野古移転
はダメと言ってきた。いま立ち上がらないとわれわれはウソつきになる。一致
団結して頑張ろう」 と呼びかけました。
当真・日本共産党元市議団長は 「党派を超えて団結など思ってもみなかっ
たが、保守のみなさんから一緒にやろうと話をもらって心強く、うれしく思った。
必ず勝利し、沖縄は一つだと意気高く示そう」と訴えました。
沖縄の今日の姿が、日本全体の近未来のように思えます。
午後の予定がキャンセルされたので、普段使っていないメールをみたら、
ひとつに134通、もう一つは555通未読のままになっていました。ほとんど
は企業からに案内等でしたがなかには個人からのものもあり、読んでお詫び
をしたところです。
これもその1通で、国宝三重塔と「山宣の碑」。 2014-06-25
で私が 「その後のことなど“実弟さん”が語っていただければ有難いです」と
言ったことに応えてくれていたものでした。6月27日にとどいたいたのです
が、メールの山のなかに置き去りにしていました。
お詫びをして、ここに記しておきます。
その後の事は、小生もいまの活動(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟:詳しくはhttp://chian.yokochou.com/をご覧ください)をするまでは詳しいことを知りませんでした。若い時から、「山宣」大好き人間だったので、長野山宣会に加入して、平林堂の社長と懇意になってからです。
同盟が年2回発行している雑誌「治安維持法と現代」に特別寄稿として別所温泉の山本宣治記念碑を書いてもらったことがあります(2009年秋季号133ページ)。それによると作家の高倉輝氏が、敗戦直後の10月、豊多摩刑務所から釈放され、信州の別所に家族と共に畳なし戸障子なしの農家の蚕室に居を構えたのが1946年2月だったそうです。この4月、戦後最初の衆議院選挙に共産党から立候補し当選する。そのあと1950年6月の参院選でも当選したが、アメリカ占領軍により公職追放され、海外で暮らして9年後の1959年4月に帰国(当時69歳)。6月の参議院選に立候補すれど落選。
以降、東京の三鷹の自宅と上田の間を行ききする生活を送っていた。当時、平林茂衛氏は、国鉄をパージされ、小宮山量平氏などのアドバイスを受けて書店を開業。2階は、共産党の地区委員会事務所だった。そこへ高倉輝さんも良く泊っていたようです。その年の暮れ、別所温泉の柏屋別荘の主人斎藤房雄さんから平林さんへ「高倉先生が東京から来られた折にお連れしてほしい」との連絡が入り、連れて伺うと、「実はあのときの碑(山宣記念碑)は、お預かりしていましたもでお返しします」と言われ、全く予期しない話に高倉氏も驚愕された。
こうして粉々にされたはずの記念碑が再建されたのです。1971年10月8日、京都から遺族の山本平治、山本英治、井出美代をはじめ谷口善太郎代議士など列席、200人に及ぶ参列者で盛大な除幕式が行われました。その後、「長野山宣会」を結成、毎年春に総会、秋には碑前祭を続けています。
平林さんは、このことこそ、この地方特有の「進歩と革新の伝統」の一駒だと言っています。江戸期の農民騒動の発生件数の全国一は信州、その中の一位は上田藩で、特徴は数十年ごとに五回も繰り返されたが、死罪承知の首謀者は何れも「義民」の宮・神・墓として例外なく村人達によって祀られている。
明治期になっても世直し一揆・自由民権運動等でも主役を演じたが、帝国憲法公布後の、日清戦争が終わって数年も経ているのに、子供たちに、軍歌を唄わせることを批判して、真の愛国歌・郷土愛の歌として「信濃の国の歌」をはじめ七歌曲をつくったこと、また、わが国初めての社会主義新聞(平民新聞)取扱所全国七ヵ所のうち一ヵ所はここで、青年たちが読み合わせ会を始めている。大正期になると、自由画教育や農民美術運動、自由大学運動等全国はじめておこなっている。
まだまだ続くがこのへんでおしまいにします。
以上です、若干書き直しもありますがご了承ください。
“実弟さん”有難うございます。「長野山宣会」の碑前祭の様子などもお伝え下さい。
神社の拝殿の隅の段ボールです、中身は祭りの神事のひとつ八乙女舞
の用具ですが、注意を引かれたのが 「うえだ」 の地名。
どういう経過で我が町の我が神社の拝殿に置かれたのか分かりません。
レタスが入っていたものでかなり以前のもの、「JAうえだ・さなだ」の
名が読めます。そこで上田へ行って来た割には紹介不足でしたので、
これはもっと宣伝をせよ、という神様の意思だと思い「上田紹介の巻」です。
自分の思いを妻・子・孫が共有してくれれば嬉しいことで、その一番は
信州の自然、特に山と高原でしょう。もちろん千曲川など川を忘れていは
いませんが次の機会に。
とくに、NHK大河ドラマ決定のいうわけで、このポスターを。
人口約16万で84万の署名ですから、大変なもので甥は3回は署名をしたそうです。
実現するまで署名を続けると市長は言っていたとのことです。
その上田城です。
上田城、真田昌幸・幸村を有名にしたのは2度にわたって徳川勢を撃退した
ことです。 これは二度目の戦い、関が原に向かう徳川秀忠は上田城攻めに
失敗し関が原の戦いに間に合わず家康の激怒をかいます。
その上田城、といっても真田時代のものではありません。
石垣についての説明板がありました。
城の保存整備の過程であらたなことが分かって来ているようで、これも
そのひとつ、本丸の隅の櫓跡で柱を支えていた土台石です。
自然も史跡もふる里で子や孫が思いをつなげてもらいたいもの
ですが、なによりもそこに歓迎してくれる人がいることです。
兄夫婦と甥の一家との歓談はなにより楽しいことです。
嫂が「天ぷらまんじゅう」をつくってくれました、母の頃から好物です。
昨日予定しました地域の子どもの描いた祭ポスターです。地元の町内会
の専用広報板の幾つかのうち目についたものです。
そして、これらも昨日の10時ころまでには神社の参道につくられた掲示版に
張り出されました、それがこれです。
子供たちがつくり祭りを彩るものには提灯もあります。手製の提灯が参道の
足元を照らしてくれます。
これらは今年の祭りから試みられたものです。
去年まで子供が祭りに参加するには、子ども神輿、演芸会への出演、お囃子
がありました。今年はさらに多くの子どもたちが「祭りをつくる」ことに参加し、こ
の祭りと神社と地域と友だちへの思いが一層深まったに違いありません。
パソコンの耐用が限界にきているのか、たまたま今日も調子が悪い
のか分かりませんがいインターネットにつながりません。そしてこ
のタブレットでは写真が取り込めないのです。
本当はこここに朝の散歩途中に撮ったものを三枚お見せしたかった
のです。祭を知らせる子供が描いたポスターです。
さらに神社の参道脇に貼られた子供たちのポスター、それ30枚はあ
りました。それも貼付けたかったのです。ポスターばかりではありませ
ん。お囃子は子供たちによって演じられています、その姿もおみ見せし
たいものです。
途中ですが、このタブレットによる書き込みがなかなか難問で、いら
いらしつづけています。キーの打ち処によっては突然消えるのです。
習うより慣れろ、とか言われても慣れ易い物を作れ、と「つぶやき」、
今夜は休みます、お休みなさい。
明日から森山神社の例大祭です。
今日午前中準備、かなり若い人が加わってきてます。
頼もしいことです。こうなると年寄りも張り切るもので午後3時頃
まで予定が午前中で終わりました。
早朝の「散歩」もありますので今夜はこれでオワリ。