kaeruのつぶやき

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新たに学ぶー 『新版 資本論』

2019-09-29 23:36:57 | kaeruの『資本論』

『新版  資本論』の第一分冊を買ってきました。

新書版と並べてみると、

 同じページを開いてみます、

新書版では、

が新版は、

四行目から違います、この「注」の全文は、

〔1843年の末から経済学の研究をはじめていたマルクスは、1848ー49年のドイーツ革命敗北後、ロンドンに亡命し、大英博物館を拠点に経済学の研究に集中した。当時の研究の内容は、二四冊にのぼる「ロンドン·ノート」をはじめ、 多くのノートに記録されている。 マルクスは、 この研究をふまえて 、1857ー58年にのちの『資本論』への最初の準備草稿(『1857ー1858年草稿」)を書き、さらに著作「経済学批判』の執筆にすすんだが、1859年6月に公刊された『経済学批判 第一分冊』 は、「商品」および「貨幣または商品流通」の二章を含むにとどまった。マルクスは、続いて、続巻執筆の準備にかかり、1861年8月から63年夏までのあいだに、第二の準備草稿(『1861ー1863年草稿』)を書き上げた。この準備草稿には、経済学の歴史の詳細な研究も含まれていた。マルクスは、1863年夏から65年末までの時期に、『資本論』全三部の最初の草稿を、第一部(1863年8月ー64年夏、初稿)、第三部前半(1864年夏ー年末)、第二部(1865年初め一夏、第一草稿)、第三部後半(1865年夏ー年末)の順序で書き上げた。マルクスは、第二部第一草稿のなかで、恐慌が資本主義的生産のもとでは周期的に起こる循環の一局面であることを発見し、「利潤率の低下傾向」を資本主義的生産の没落の動因とする以前の立場を乗り越えた。これを転機に、『資本論』の著作構成も、第三部後半(1865年夏ー年末)、第一部完成稿 (1866年初めー67年4月)、および第二部の諸草稿で大きく変更された。こうして、1867年9月、『資本論』第一部の初版が公刊された(出版者は、ドイツ·ハンブルクの様マイスナー)〕

ここに触れています「恐慌が〜発見」を転機に『資本論』の構成も大きく変更されるのです。しかしエンゲルスの第二部、第三部の編集にには諸条件の制約によってマルクスの「発見」が見落とされています。今回の新版はチラシの広告文の通りです、

この新版に基づいて新たに『資本論』を学ばねばと思い、不破さんの20日の講演をテキストに「つぶやき」たいと思います。


校正者の目

2019-09-26 20:11:16 | 逗子 鎌倉 それぞれ

この講演会の「資料集」作製の最終段階で少しお手伝いしています。主に原稿の校正的なことですが、素人とプロの違いを教えられました。

この文中に一字間違った漢字がありました、私も他の人も気づきませんでしたが校正の仕事をやっていた人が指摘しました。

逗子市小坪の住吉城址に関する記述で15ヶ所「住吉」と書かれていますが、その「10」の住吉の吉が別字です、これについて『新潮 日本語漢字辞典』に、

吉野家は確かに、

 吉田茂の署名では、なるほど……、

 

吉兆も、成る程なるほど……、

ところがわが町のお店は、

吉田茂の署名も「吉田」になっているものもありますので……。

それにしても校正者の目の違い、眼光紙背に徹しています。


生誕100年ふたり、加藤周一と金子兜太

2019-09-23 13:50:53 | どこまで続くかこのブログ

昨日の「しんぶん赤旗」です、

この記事が目に入っていたので本屋でこちらが目に入りました、

そこでWikiを、

今日が兜太生誕100年という日で、その4日前に加藤周一が産まれていたのです。この二人の生涯を重ねてたどれば戦前戦中戦後・日本国百年の有り様が浮かび上がるに違いありません。それは「戦前か」と指摘されるこんにちにあって、知と文芸がどうあるべきかを示すことでしょう。

加藤周一の「思想の核」が軍国主義への怒りにあったということ、金子兜太のこの書に示されている気概、

おふたりが示された知と文芸の時代に対しての有り様を真摯に学び、受け継ぎ受け渡していくべきと、思います。


歴史は地中にひそむ。

2019-09-20 23:39:38 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日の住吉城址に関連した史跡としてこちらを、

北に鎌倉駅、南が逗子駅で海側の住吉城址の背中の山のなかに「名越切通」と「大切岸」があります。

一昨日講演会の件で教育委員会に顔を出した際、受付にあったこのチラシ、

今日のタイトルとのことでは、

読みにくいので書き写しです、

切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことです。大切岸は、 長さ800m以上にわたって高さ3-10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続しています。

従来、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし発掘調査を行ったところ、現状の断崖は四角い板状の石材を切り出す作業を大規模に行った結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されました。

石切りが行われた時期ははっきり判りませんが、宝永4年(1707年)に噴火した富士山の火山灰が上に堆積していたので、石切り作業はおおむねそれ以前に終了しています。一方、14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに周辺の山から切り出した石材が盛んに用いられていますので、ここで大規模に石切りが行われたのも、その頃が中心ではないかと考えられます。

この結果のみをもって、大切岸に鎌倉を防御する目的は一切なかったと即断することはできませんが、従来の通説を再検討する必要に迫られています。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮が、この付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。

従来の「防衛遺構」と考えられていたが「石切作業場遺構」だったというわけです。
 
さらにこちらも、

こちらも書き写して、

いわゆる「鎌倉七ロ」で、切通路そのものを対象とした発掘調査は、名越切通以外では行われていません。

平成12年度に第1切通部分で通路を構断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。

平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、 かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。

以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。

 
   以前この道を通り、なるほどこの狭さでは大軍が押し寄せることは出来ぬ、鎌倉防衛の役割に納得!していたものでした。数百年前のことでも目の前の「現実」をもって組み立てる、イヤハヤ歴史観です。

ここにも歴史の面白さ、深さに引き込む渦を感じます。

二つの住吉城址

2019-09-19 23:28:12 | 逗子 鎌倉 それぞれ

午前中から夕方まで、28日のこの講演会のことで過ごしました、

講師の伊藤さんのレジメの最初、

ここには「小坪の住吉城」とは書かれていません、「相模住吉城」それも「再検討」とあります。相模国には住吉城といわれる城址が二つあります、逗子市小坪と平塚市。

こちらが逗子市小坪で、

平塚市はこっち、

さて講師はどういう話をするのでしょうか、28日のお楽しみです。

雨の残った16日に小坪住吉城址を見てきました

台風に吹き落とされた木の枝が石段にかぶさっています、

踏み越えてあがると、

この「住吉城址」と書かれた金属板がこちらでは、

城巡りを楽しんでいる人のネット情報です、いつ頃写したものか分かりません。この「案内板」を誰が書いたか個人か団体か、いつ書いたか分かりません。

分からないことが渦を巻いて歴史の奥深くヘと引き込むのです、なかなか抗うことが難しい渦です。   


がん世代。

2019-09-18 21:35:28 | 「がん」を読む

同年齢の知人が私の癌についてたずねながら、自分も癌の手術を受けたのだとメールを送ってきました、2日前のこと。今日は中学生同級会の案内にこの種の話がのっていて、同級会常連のなかでも一番頑丈そうな彼が……、と思わされ、手術後の彼と飲み交わすためにも必ず出る、と返信しました。

久しぶりにこの本を開きました、

そしてこのページ、

このページについては、ここで「つぶやき」ました。

https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/bf924ff5bf14273d538628c3abaed02d

この本を通じて癌については少しでも理解したいと「つぶやき」続けてきたのですが、ここからアップすることに躊躇しました。やはり「死」です。

当時私は娘の死は避けられないという思いと、娘もその頃石垣島に戻った自分の娘に「さよなら」とスマホで口にしていました。それを妻がたしなめていたり、我が家の内で生と死が交差していた時期です。

我が身の生死については、直面できたのは生です。知人の場合は転移の状況からいけば死の姿を見た、という思いです。それだけに当面する課題の達成に向け懸命さが伝わってきます。10月から11月にかけて、催しを組んでそれへの参加を!と伝えてきてます。もちろん「行く!」と返信しました。

同級生の場合はどうなのだろう、顔を突き合わせ互いに語り分かりあい何ができるか見えてくるでしょう。

何れにしても人生も収穫の秋です。