http://blog.goo.ne.jp/setoti1940/ で「蟹工船」の話しを読み、小林
多喜二のことで紹介したい文がありましたので、例によりほとんど引用により
ますが、上のブログ・コメントと合わせて読んでいただければ有難いです。
この文の書き出しの「私」とは、日本共産党の志位委員長です。
≪私が、『全集』を読みすすめていて、胸が暖かさでいっぱいになったような
思いに包まれた、小さな回想があります。「十二月の二十何日の話」という回想
です。多喜二のお母さんは、学校というものをぜんぜん知らないで育ったし、忙
しかったこともあって、たくさんのお話を子どもに聞かせるような人ではなかった
そうですけれど、自分(多喜二)が「たった一つ印象に残っている話」として、こう
いう話を聞かされたと書いています。 (略)
「私の母は毎年十二月の二十何日かには、きまって『おこわ』(赤飯のこと)を
作って、その日になって沢山雪が降ってくれると喜んだ。『これで安心した!』と
云う。 然し、せっかく 『おこわ』 を作っても、雪の降らない年があると、暗い顔を
した、―――母は何時か(忘れたが)その事の由来を話してくれた。
昔々、母の生まれた村に沢山の子どもを抱えた貧乏な小作が住んでいた。だ
んだん食えなくなって、本当に食えなくなってしまった。お父さんは毎日々々、自
分では一粒の飯も食わないで、子供たちにばかり食わしてきたのだが、それも
とうとうそのどんずまりまできてしまった。もう子供たちは二日何にもたべていな
い。お父さんはとうとう、「神さま、私はこの十何日のうち一粒のごはんもたべない
でやってきました。それだのに子供さえもう死にそうです。私は決心しました、今
夜子供たちを助けるために地主さんのところかへ盗みをしに参ります。』
それが十二月の二十何日で、お父さんが地主の土蔵から米俵を背負って出てく
ると、神さまの助けか、雪がにわかに降り出してきて、歩く直ぐその後からお父さん
の足跡を消してくれたんだそうです。
話というのはこれだけです。それをどういういきさつをとって、村の習慣になった
か知らないが、今でもその村の貧乏な人たちは十二月の二十何日に『おこわ』を
たいて、雪の降るのを待っているそうです。」≫
志位さんはこの「回想」を紹介する文章で小林多喜二について、
不屈で剛毅、愛情豊か―――小林多喜二の生き方から と書き
「小林多喜二という日本共産党員の革命的作家、最近、『蟹工船』がブームになる
など若者の中にも広く知られるようになった、私たちの先輩がいます。」と紹介しつつ
その不屈性に学ぶとしています。 あわせて志位さんが多喜二の作品から感銘を受
けるのが、底辺に働く人々にそそがれる暖かいまなざし、家族に対するあふれる愛
情でした。その感想のあとに多喜二のこの「回想」が紹介しています。