kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

小学校の二年生。

2013-11-30 21:26:29 | kaeruの孫録

 小学校2年生の孫の学校へ爺婆で行ってきました。短い演劇のようなこと

をやるんだ、と聞いていったのですそれは二番目の写真のようなものでした。

 そのまえにこの作品、一番手前の左側=赤い紙を曲げたものが孫の作品、

なんだと読んだら「火山をイメージした」と書かれていました。綿のような物が

噴煙なのでしょう。先日の信濃裏人さんの霧島の写真が頭に浮かび、期を一

にしたものだと思いました。

 演劇というのは「音読げき」という形で、ここでも「かえるくん」ということで

まんざら縁のない場ではないなと、妙に感心して観劇。

         

 観劇といっても良く聞き取れずよく見えずということで結局よく分からず、

でしたが、みんな一生懸命やっていることは良くわかりました。

       


「あの日、天気予報が消えた」

2013-11-30 21:10:51 | せいじの政治カフェ

  これは 天気予報が「軍事秘密」になった日。 2013-11-04 | の

続編ということになります。28日の「赤旗」に記載されていました。

  11月14日のブログではラジオの一聴者としての体験を紹介しましたが、

この記事は当時の測候所の所員としての体験です。増田善信(ますだよしの

ぶ)さん(90)、元気象研究所研究室長。

 気象が暗号化

 当日(1941年12月8日)朝、「ラジオのニュースで軍艦マーチが流れ、開戦

と真珠湾攻撃を知り、大きな戦果に、わくわくする思いをしたのを覚えています」

 午後6時すぎ、中央気象台の気象電報を受信して、天気図を描こうとしました。

しかし――。 「地点も内容もバラバラの通常とは全く違った電報が来たんです。」

 実は同日正午から「気象管制」が始り、気象電報は暗号化され天気予報を一般

の人には知らせることができなくなっていたのです。所長の手元には暗号解読用

の本が届いていて、表紙には『極秘』と大きく印刷されていました。 

 「軍事的に重要な天気に関する情報一切が秘密になった。顔見知りの市民に天

気のことを聞かれても、何も答えられなくて身を切られる思いでしたね」

 地震 ・ 津波も

 台風の進路や暴風雨警報、地震 ・津波の被害も秘密にされました。

 44年12月の「東南海地震」と45年1月の「三河地震」という大地震が起きても、気

象管制の下で一般の人に秘密にされました。犠牲になった学徒動員で働いていた学

生や、集団疎開していた児童の親にすら知らされませんでした。

 「軍事保護法も秘密保護法案も、一番守ろうとしているのが、人の命より『国』です。

憲法で保障された人権や知る権利は無視され、平和主義がひっくり返されてしまう」

 戦中の気象管制が解除され、ラジオの天気予報が再開されたのが45年8月22日。

多くの人が「戦争が終わった」と実感したといいます。

 「天気予報は平和のシンボル。これを絶やさないためにも、秘密保護法案は廃案に

しなくては」と語りました。


登米という町。

2013-11-29 21:23:46 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (11月28日着信)


○現在地  登米に到着しました。

○次の目的地  平泉

○次の目的地までの距離  39.5km

○次の目的地までの歩数  52,852歩で達成です。

 『おくのほそ道』の「石巻」章の終りに「心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)

と云所に一宿して、平泉に到る」と書かれている戸伊摩が登米です。

 この地には私も「3・11」後の支援で石巻に行った時の宿舎として二度ばかり

行きました。 一度は近くにここの出身者である漫画家石ノ森章太郎の生家の

近くだという古風な家でした。二度目もそことは違う民家でしたが、やはり古い

民家で大きな神棚がありました。

 登米市(とめし)は登米町(とよままち)など登米郡の町村が中心に2005年に

合併してできた市です。 登米町は「みやぎの明治村」と称しているように、地域

全体として明治時代の建物が残っているのでしょう。

 二度泊まった家が明治時代からのものか分かりませんが、わずかな時間でし

たが落ち着いた町の雰囲気が感じられて、その町を訪れるという目的だけで行っ

てみたい町です。


一測量士の歌。

2013-11-28 18:23:13 | 詩的なつぶやき

 昨夜の続きです。

 頂いた彼の年表に1974年4月某大学土木工学科を卒業し、ある建設関連

会社に測量士補として入社、その9月東北地方のダム現場にいました。

その時詠んだ詩です、年表に紹介されていました。(行替えは変えてあります)

 

    湖底への村    (1974年9月)

 緑の山々が紅に染まる頃  沢の水に顔を押しつけて飲みこんで  最後にごくんと飲みこんで

 そのまま青い空を見あげたら  すすきのそばに白い線雲があったのだ  しばらく見つめていたら

 なんだか吸いこまれていくような気がして  立ちあがったのだ  首にまわしたタオルで顔をふき

 涼しい風が通っていく感触がたのしくて  そしてまた悲しそうでもあったので  つったっていたのだ

 

 ここはダムの建設現場  2 ・3年後には  この沢も  あのすすきも  あの一本杉も  みんな湖の中

 あの半鐘のある火の見やぐらも  そしてあの葮ぶきの大きな家も  

 このにある分校も  みんなみんな水の中

 

 俺はダム建設付替え道路用の測量をしているのだ  

 俺が長さを測るたびに  俺が角度を測るたびに  俺が杭を一本打つたびに

 一つひとつ確実に  湖の底へと続いていくのだ

 

 美しい小さな山あいの村々が  どうして沈まなければならないのか

 とんぼや、やまめや、沢蟹をとった あの子どもたちのふるさとは

 どうして沈まなければならないのか

 

 この失われていくものたちを 今では  俺にはどうすることもできないのだ

 だから俺はこの湖底へと続く失われていくものたちを  今しっかりと見つめているのだ

 怒りと悲しみをのせた この秋風とともに


ブログに触発されて、多喜二のこと。

2013-11-26 22:55:25 | どこまで続くかこのブログ

 http://blog.goo.ne.jp/setoti1940/ で「蟹工船」の話しを読み、小林

多喜二のことで紹介したい文がありましたので、例によりほとんど引用により

ますが、上のブログ・コメントと合わせて読んでいただければ有難いです。

 

 この文の書き出しの「私」とは、日本共産党の志位委員長です。

 ≪私が、『全集』を読みすすめていて、胸が暖かさでいっぱいになったような

思いに包まれた、小さな回想があります。「十二月の二十何日の話」という回想

です。多喜二のお母さんは、学校というものをぜんぜん知らないで育ったし、忙

しかったこともあって、たくさんのお話を子どもに聞かせるような人ではなかった

そうですけれど、自分(多喜二)が「たった一つ印象に残っている話」として、こう

いう話を聞かされたと書いています。 (略)

 「私の母は毎年十二月の二十何日かには、きまって『おこわ』(赤飯のこと)を

作って、その日になって沢山雪が降ってくれると喜んだ。『これで安心した!』と

云う。 然し、せっかく 『おこわ』 を作っても、雪の降らない年があると、暗い顔を

した、―――母は何時か(忘れたが)その事の由来を話してくれた。

 昔々、母の生まれた村に沢山の子どもを抱えた貧乏な小作が住んでいた。だ

んだん食えなくなって、本当に食えなくなってしまった。お父さんは毎日々々、自

分では一粒の飯も食わないで、子供たちにばかり食わしてきたのだが、それも

とうとうそのどんずまりまできてしまった。もう子供たちは二日何にもたべていな

い。お父さんはとうとう、「神さま、私はこの十何日のうち一粒のごはんもたべない

でやってきました。それだのに子供さえもう死にそうです。私は決心しました、今

夜子供たちを助けるために地主さんのところかへ盗みをしに参ります。』

 それが十二月の二十何日で、お父さんが地主の土蔵から米俵を背負って出てく

ると、神さまの助けか、雪がにわかに降り出してきて、歩く直ぐその後からお父さん

の足跡を消してくれたんだそうです。

 話というのはこれだけです。それをどういういきさつをとって、村の習慣になった

か知らないが、今でもその村の貧乏な人たちは十二月の二十何日に『おこわ』を

たいて、雪の降るのを待っているそうです。」≫

 

 志位さんはこの「回想」を紹介する文章で小林多喜二について、

  不屈で剛毅、愛情豊か―――小林多喜二の生き方から  と書き

 「小林多喜二という日本共産党員の革命的作家、最近、『蟹工船』がブームになる

など若者の中にも広く知られるようになった、私たちの先輩がいます。」と紹介しつつ

その不屈性に学ぶとしています。 あわせて志位さんが多喜二の作品から感銘を受

けるのが、底辺に働く人々にそそがれる暖かいまなざし、家族に対するあふれる愛

情でした。その感想のあとに多喜二のこの「回想」が紹介しています。


「生」と「死」の孤独。

2013-11-25 22:24:08 | どこまで続くかこのブログ

 昨日の訃報を知らせてくれた友人の話では、亡くなった彼は前日まで見舞

いに来た者と話をしていたそうで、どういう状況だったか分からない面もある

のですが、最後まで意識がはっきりしていたことは確かでしょう。 

 

 なぜか、武田鉄矢の「金八先生」 のテーマ曲のひとつが思い出されました。

 「スタートライン」 という曲です。そのなかの一部

 ♪♪ 今、私達に大切なものは

    恋や夢を語りあう事じゃなく

     一人ぼっちになる為のスタートライン

 ♪♪ 今、私達に必要のものは

   光り溢れる明るい場所じゃなく 

   闇に向かって走り出す為のスタートライン

とも歌われます。

 子供から大人へ自立の時期、意識して孤独を求め 「旅たち」 をします。

その孤独の過程は 「自分らしさづくり」 と言っていいでしょう。

 一方高齢者の迎える孤独はどういうものでしょう。 

 

 昨夜のNHKスペシャリ 「 “助けて” と言えない孤立する認知症高齢者」

に見られた孤独は、意識できない孤独状態、という様に感じました。確か

に 「認知」に障害が生じるとは、「自分らしさ」への認識を巡っての問題

だと思います。

 こんな「名言」がアプリで届きました。小説家のスタンダールの言葉だ

そうです。 「最も賢明なことは、自分を自分自身の打ち明け相手にするこ

とだ。」

 この名言に即して思えば、亡くなった彼は最後まで自分を相手に晒し、

相手を通じて自分を認識し続けたと思えます。 ひとり死の向かう孤独

を超えていたのではないでしょうか。 もっとも賢明な最後だった、と感

じています。


訃報。

2013-11-24 22:08:39 | どこまで続くかこのブログ

 年末に向かうなかでの訃報はいっそうつらい思いにさせられます。

 知らせてくれた友人の「まだ若いものなー」が共通の思いです。 その友

人は70歳を越したところ、亡くなった彼はまだ現役の働き手でした、60に

なったばかりでしょう。

 三か月ほど前に 「助からないようよ」 と知らせてくれたのは新宿での仕

事仲間で、在京の仲間の世話役をかってくれているご婦人。彼女の話で、

二人の娘さんが共に30歳を越しているが、二人とも独り者だとのことでし

た。 その時も今日もそのことが気にかかります。

 

 彼だって娘さんのことが気になっていたに違いありません。彼と一緒に出

かけたのは昨年、同じ仕事場の仲間の墓参りでした。 そのことはこの 「つ

ぶやき」 でも触れたと思いますが、生涯独身であった彼女の墓参りでの話

でも、自分の娘さんのことが頭にあったことでしょう。 家族・家庭のあり方

も喜びもそれが成りったってからの話で、今日のように晩婚とか未婚とか、

周りに多く見られるとき、日常の生きる張合いと家庭をもつことが、一体に

ならない、家庭をもつことが不安であるという状況をひとりその人の責任と

か考え方とかに限らず、雇用の保障とか保育問題など社会的な生活の裏

付けを確立することが前提となるでしょう。

 

 年賀状の話も出る時期ですが、同時に年賀欠礼状をもらう時期でもありま

す。  ひとり一人の生活の底に生死のことが深く関わっていることに目を届

けていきたいものです。


石巻に着いて。

2013-11-23 21:49:52 | kaeruの「おくのほそ道」

○現在地  石巻に到着しました。  (11月23日着信)

○次の目的地  登米

○次の目的地までの距離  29.9km

○次の目的地までの歩数  40,055歩で達成です。

 歩いていれば変化が生まれます。それが自分の求めていたことか、自分とし

ては避けたかったことかは別にして。歩かなければ、変化は先方からやって来、

その場合こちらは受け身にならざるを得ません、歩いていての災難は避けうる

可能性がありますが。

 架空の旅でも、歩数と距離によって着くべき所に着く、ということで今回は石巻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  この地については、NHKの 日めくり奥の細道=復興と祭り/石巻

2013-06-26  が最近の映像を見せてくれています。画面では見にくいのですが

祭りとその背景を見て下さい。

 

 長谷川さんの 『震災歌集』・『震災句集』 から 「いのちの歌と言葉および俳句」。

  短歌二首   

    かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを

    みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ

  言葉

     俳人や歌人の中には戦争や大災害は俳句や短歌にすべきではないと考えている人もいる。

   しかし私は人々の言葉にならない喜びや悲しみを俳句や短歌にできないで何が詩歌かと思う。

   詩歌はつねに人々のそばに寄り添っていなくてはならない。

  俳句三句

    大津波死ぬも生くるも朧かな

    天地変いのちのかぎり咲く桜

     列なして歩む民あり死やかくもあまたの者を滅ぼさんとは  ダンテ『神曲』                                                                                                            迎へ火や海の底ゆく死者の列


松島にいる その 3。

2013-11-22 21:29:05 | kaeruの「おくのほそ道」

 松島は芭蕉が「おくのほそ道」への旅発つ時から 「松島の月先(まず)心に

かゝりて」と期待していた歌枕でした。来てみて期待以上の喜びを得て 「松

島は扶桑第一の好風(日本一の風景)にして」 と賛辞をささげています。それ

にも関わらず芭蕉は松島のくだりに句を出していません。 松島で詠んだ句も

出していないのです。

 その理由を長谷川さんは「古池の句」に溯って述べています。「古池」の句

で芭蕉は≪俳句に心の世界を切り開いたのです。≫その世界を詠わない句

を松島のくだりで出すわけにはいかなかった、と長谷川さんは指摘しました。

 

 さらに論をすすめて、芭蕉が自分の句をいれなかったのは、そのことで松島

をいっそう引き立たせたのだ、と述べています。

≪では、なぜここに自分の句を入れまいと思ったのか。それを解く手がかりが

すでに通り過ぎた笠島のくだりにあります。≫

 「笠島のくだり」 とは 「松島のくだり」 を章だてで21とすれば15に当たる一

文です。ここで芭蕉は 「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、

〔笠島を〕よそながら眺(ながめ)やりて過るに、」 と述べ、

   笠島はいづこさ月のぬかり道   と詠みました。

 笠島の歌枕としての由来はここでは省略しますが、芭蕉の旅が歌枕を訪ねる

旅でもあったわけですから、笠島を見ることができなかったのは残念はことで

した。 同時にそれによって笠島にある藤原実方の墓は芭蕉にとって想像の世

界で生き、「おくのほそ道」の読者をも同じ思いに誘います。

 それによって、と長谷川さんは言います ≪この悲運の歌人(実方)への思いも

いよいよ深まります。ぴたり合わせず、ちょっとずらす、このかすかなズレが文章

に奥行きと広がりをもたらすことになる。≫ 

 この笠島での現実に起きた「ズレ」を≪松島のくだりで意図的に、しかも大胆に

実行されているのです。≫と述べ、さらに広重の富士の絵の例をもってその意図

を裏付けています。その絵の富士は山頂が画面からはみ出している、見る人の

目に雲海の中に突き入れているように感じられる。

 ≪松島のくだりで芭蕉が自分の句を出さなかったのは、これと同じと考えてもいい。

自分の句を出せば、きちんとまとまります。しかし、それでは富士山の頂上まで画面

にいれるように小じんまりと完成してしまう。そこで自分の句をわざとはずして、いわ

ば文章を破って大きな風穴をあけたのです。≫

 芭蕉の次の句をあげて、長谷川さんのこのくだりでの話は終わります。

    霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

≪これを絵にたとえるなら、画面全体に霧雨だけを描いて「富士」と題をつけるような

ものです。≫