ー1ーの続きとして黒田先生の「私の手紙」を紹介しようと思い、それには「手紙」を一通り読みもう少し黒田先生のことを知ってからと考えたのです。そしたら冊子「最後の葉書」の「黒田康子先生の足跡」にこんな記録がありました。
《 昭和54年 1979 3月 江上波夫氏率いる「東アジアの古代文化を考える会」の一員として、2週間ウルムチ(新疆ウイグル自治区)を旅行》
この時の話を先生から聞いた記憶があり、その時これを頂戴したのでした、
話をしながら見せてくれて、手に渡してくれ「持って行ってもいいよ」と言われたので頂いてきたのですが、写真では赤味がかっていますが全体は灰色でラベルの文字もかすんで見えません。電気スタンド光のせいでラベルの1979が読み取れます。
その時はただ聞いただけで記録もとらず他の資料も見ずでした、終わって、「また聞かせて下さい」「いいですよ私の方も整理しておきますから」と言うようなことで終えてしまっていました。その事だけでなく何時も話だけでこちらもノートをとるわけでなく、テープを取っとおけばといまは後の祭りなのです。
「私の手紙」もまずは先生の書かれたものを記録していくべきなのでしょう。「先生の書かれたもの」と言っても手紙そのものを写すわけではなく、黒田夫妻の手紙を編集された「最後の葉書」(久保岳明氏編集・平成二十七年六月十日 第七刷)によってつぶやいていこうと思います。
写真で見える「やはりうかうかしては……」あたりから写し開始とします。
《 やはりうかうかしてはいられないと思う。しかし、考えてみれば何も慌てる事もないよう気もする。別にとりたてて他人と変わった人生でもなかったし、まあ、云ってみれば、戦争で国に夫を奪われて、以後四十年を一人暮らしして来た事ぐらいが人と変わった所かもしれない。この体験だけは日本人にも他国人にもさせたくない。七十年を生きてきて、私の終始変わらない思いはそれだけだ。
私は五年程前、「この海の続きの海を」 という、夫の鎮魂の書を出した。ベストセラーにするつもりでいきごんだのだが、見事ワーストセラーになって、世の無情を知ったのだが、その時に書き残した部分がある。それは私の彼への手紙の部分である。それを書き残した ーーー つまり書くべき所を書かなかったのは、偏えに自分のずるさによる事は分かっている。いや、ずるさだけではなく、もう一つの理由もある。私の手紙は、どうもある時点で一部分焼き捨てた事があるらしく、どう見ても揃っていないのだ。それに、残っているものも、余程心臓を強くしないと人に見せられるような代物ではないので、このまま私と一緒に棺に納めて貰おうとも思っていたのだが、思い直した。恥は生きている内でなければ書けない。土曜会の久保先生の還暦記念誌に書き残しておくのもよかろう。昭和十五年に二十五歳だった女の記録である事は確かだ。せめて会の人たちが読んでくれれば…などと、これは七十二歳の老女の感傷のさせる業である。》
こうつぶやく様に書き写していると、 まだ先生の話を聴いていた頃は耳も不自由なく聴き取れていた筈だから何かと記録をとっておくべきだった、とまた後悔が……、あるいは記憶にないがどこに記録したものがあるかもしれない、とかすかに雑然とした文書の山に目を向けます。
写真の新疆ウイグル自治区の古代の壺の一部か、擦ればその地の砂か土かこちらの手に移る、この物も雑然とした机の上に置かれたままでいた物です。先生の縁がこの物を近づけたとすればあるべき物は私の周りに出てくるでしょう、 そんなことも期待しながら後を続けたいと思います。