休呟日(きゅうげんび)という単語を自作し使いはじめて2回目です、これ重箱読みなんでしょう。
今日は風邪気味、久しぶりぶりに部屋のゴミ箱がテッシュでいっぱい、早目に寝ます、明日朝早く起きます。
休呟日(きゅうげんび)という単語を自作し使いはじめて2回目です、これ重箱読みなんでしょう。
今日は風邪気味、久しぶりぶりに部屋のゴミ箱がテッシュでいっぱい、早目に寝ます、明日朝早く起きます。
今日はこれ‼️
そして、日本共産党29大会決議案のこの一文を……、
④ 気候危機打開・原発ゼロ、食料とエネルギー自給率向上――持続可能な経済への改革をすすめる
世界情勢の変動によって、暮らしと経済の根幹であるエネルギーと食料を輸入にたよる脆弱(ぜいじゃく)さがあらわになっている。食料自給率を38%にまで低下させ、再生可能エネルギー普及は先進国で最低水準という自民党政治は、日本だけでなく世界に対しても大きな害悪をもたらしている。
気候危機の打開……気候危機は、自然災害の深刻化や農業・漁業への影響をはじめ、日本社会の各分野にも重大な被害を及ぼしている。23年9月の国連「気候野心サミット」で岸田首相は演説を準備したが、発言を拒否され出席できなかった。G7のなかで唯一、石炭火力発電からの撤退期限を示さず、大型石炭火力の建設を続ける日本政府は、国際社会で発言する資格がないとみなされたからである。
2030年まで残された時間は多くない。2010年比で5~6割のCO2削減という目標、すでに確立している技術を活用した具体的戦略、排出量の多い企業との協定などに直ちに踏み出すことが強く求められる。日本共産党の「気候危機打開2030戦略」(2021年9月発表)に本気でとりくむことが、国際社会における日本の責務である。
再エネ・省エネへの普及は、「コスト」ではなく未来への投資である。省エネ・再エネへの大胆な投資を進め、新たな雇用をつくることは、地域に根差した持続可能な経済の発展にとっても豊かな可能性のある道である。
異質の危険をもち、最悪の高コストで、「核のゴミ」を増やし続け、再エネ普及を妨害する原発頼みをただちにやめ、脱炭素・原発ゼロの日本をつくる。
食料自給率を向上させる……国際情勢、異常気象、世界的な食料危機は、「食料は輸入すればよい」という無責任な政策がいよいよ通用しない時代となったことを示している。食料自給率38%という異常事態を打開し、50%への引き上げを緊急の目標とし、輸入自由化路線の転換、食料主権の回復をはかる。農家の所得に占める補助金割合は、ドイツ77%、フランス64%に対し、日本はわずか30%にすぎない。価格保障・所得補償を抜本的に強化することを農業政策の柱にすえ、予算を大幅に増やして、農業を基幹産業として再生する。
このタイトルを「しょうげつめいにち」と打ち込んで、松月命日とか嘯月命日などしか出て来なくて、余り使われていないのかと思ったりしたのですが、勘違い、「しょうつきめいにち」なのでした。
祥月命日という言葉の意味は知っていたのですが、使ったことが無く今月が義父義母の祥月で、今日27日が父、1日が母の命日でした。1日の墓参りについては「つぶやき」にありませんが婆さんに同行、その日には我が家の庭の花を供えましたが、今日は庭には花らしいものはありません、我が家の庭は確実に、秋から冬に移っています。
婆さんが花屋に寄ることにし、私は掃除道具を持って直行。
グーグルアースからで墓地の入口、
この上段に親戚の墓が数段下に我が家の墓、毎回2カ所をお参りするのですが、上段と下では掃除に手間がかなり違うのです。落ち葉とドングリ、特に今年はドングリの落ちが多いのではと感じました、1日も墓所全体に落ちていて踏み歩いたのですが今日もそれ以上という感んじで、上段の墓掃除と下段のそれとは労力にかなりの差があります。
墓の話が長くなりましたが、タイトルに関係してはこちらで、
祥月命日を私は祥月は音読みと音読み「ショウゲツ」と読んでいたので検索しても出てくるはずがなかったのです。「ショウツキ」と重箱読みをしなければ正解にならないのでしょう。
(昨夜終わり近くで夜食に、戻ってきたらgooIDとか書かれていて、何やらやっているうちパスワードを、となって画面が書き込みにならなくなり、他の用事でiPadから離れていまして先ほど新しいパスワードで、出直してこの時間で昨日の18時表示で投稿しました。)
タイトルにしました言葉、今朝がた何かのチラシに書かれていたのです。それをここでもチラシごと紹介しようと思って、机の周辺の紙の重なりや本やノートの間を……、見当たりません。
今の世の中、あれだこれだの現象を追っていては見えない変化に気付かず過ぎて行く。こんな時こそ、時代の本質的な変化を見抜く眼力が必要、というような意味のことが書かれていて、「『資本論』を身につける」という趣旨の言葉があったのだと思います。
これはなかなか面白い、「『資本論』を読みましょう」でも「学びましょう」でもなく「身につける」のです。身というと身体ですから、発言やお喋りまたは書く事が『資本論』的だけでなく、日常の身体の動き言うならば生活が『資本論』的になる、ということでしょう。
エンゲルスが「『資本論』は労働者階級の聖書」と言ったことがありますが、要はキリスト教を信じ日常生活も聖書に依拠する信徒のように、労働者階級の一員として自ずから『資本論』的日常生活になっている、また日常的に己の生活を『資本論』によって律していく、そんなイメージが「『資本論』を身につける」事なのでしょう。
日本共産党の29大会決議案の『資本論』に触れたヶ所、
日本共産党がその理論的基礎を科学的社会主義に置いているわけですから、その理論的な要の書としての『資本論』を身に付けることを意識して読み、「学習に挑戦しよう」は理にかなっています。
新聞の休みの日は休刊日というなら「つぶやき」を休む日を「休む+呟く」で休呟日と言って間違いではないでしょう、が今までそういう熟語を見たことがない、ならば本邦初公開です。
今日は午後いっぱいと夜いっぱいの2回連チャン会議で、それを忘れぬうちにちょっとまとめておかなければならないので、さらに明日朝は早めに起きなければならないので、「今日は休呟日です」。
「しんぶん赤旗」を配達し終わって、夜明けのなかで『資本論』そのものに触れようと思ったのです、がある宿題を思い出しました、
これなのです。
ここで〝「つぶやき」は明日以降〟と言ってそのままになっていました。
実はマルクスのこの手紙のなかでこう言っている部分、
「それはそうと、ぼくはいましゃにむに仕事をしている。妙なことに、ひどい貧乏にとりつかれながら、いまほどぼくの頭がよく働いているときは、この数年来なかったことだ。」
妻が死にたくなった、と言うほどの貧困のなかでも「よく働く頭」が当時何を研究していたのだろう、それが『資本論』執筆とどう関わっているのだろう、という疑問が湧いたのです。
それはマルクスの『資本論』を読むということがどういう事か、それにはマルクスの頭とはどういう頭なのか、知っておきたくなります。
この人の言葉から、
Wikipediaの「エンゲルス」からですが、マルクスの死に際して語った言葉です。マルクスの頭脳とは、それを失うことが「人類は頭一つだけ低く」なるそういう頭脳でした。
そういう頭脳だからこそ、悲惨ともいえる苦境のなかでも己の研究課題の追求から離れなかったのですが、その追求課題とは何だったのか。
不破哲三著〝『資本論』全三部を読む 新版 第一分冊〟の年表から、
1862年6月18日、例の手紙が書かれた6月に
「ロートベルトゥスの地代論などの研究。
続いて、リカードウの地代論、利潤論、恐慌論などの
集中的な研究。 地代論では、絶対地代論を基本的に完成
させた。恐慌論では、「資本論」準備過程でのもっとも
包括的な研究となる。」
とあります。この記載は手紙のこの部分に通じます、
いまやついにぼくはあの不愉快な地代論もかたづけた。……ぼくはずっと前からリカードの理論が完全に正しいということには疑いをもっていたが、ついにそのごまかしを摘発した。
不破さんは同書で、
「『資本論』が、経済学にそれまでの歴史の徹底した研究の上に成り立っている」(同種p102)
と述べていますが、この部分もその一端です。
不破さんが同書の、
「三 マルクスは、『資本論』をどのように準備したか?」
の締めに総括的に述べている次の言葉も『資本論』を読むうえで肝に銘ずるべきものと、あらためて思い自らの課題にしなければと思います。
「このように、『資本論』には、その最初の草稿が書き上げられるまでにも長い歴史があり、第一部を刊行したあとでも、全体を仕上げるためのマルクス自身の苦闘と努力の歴史があり、さらにマルクス死後、残された草稿を編集するエンゲルスらの労苦の歴史がある、文字通り、 それ自身の歴史のなかにある著作なのです。みなさんに、この歴史の全体を自分の手で調べなおすことを注文するわけではありませんが、『資本論』を読む時、そういう歴史をもった著作だということは、ぜひ頭においてほしい、と思います。」(同書p88)
はじめに日本共産党第29回大会決議案のことから、ここです、
あらためて強調点を書けば、
党の現状、世代的構成に照らして、青年・学生、労働者、30代〜50代のなかでの「党勢倍加」は、党の現在と未来がかかった死活的課題
だということです。
これは「共産党は大変!」というだけの話ではないことは、分かるでしょう。どの分野でも「このまま行けば……」という世代的継承問題を抱えています。どの分野などと大きな事を言う前に、どのウチでもと言ってもいいでしょう。
そこで我が家の話です、今日「爺、息子、孫」の三世代が揃って作業をしました、孫が同居しているとか近くに住んでるウチでは珍しくないかも知れませんが、我が家では初めてなんです。
庭の木の枝が伸び近隣近くまで伸びた枝の切り落としに、息子が来たのですが若い人を伴っていたので知り合いの職人さんか、と思い声をかけたら孫でした。首に手拭を巻いた姿はなかなか似合っていて、こういう姿ははじめて見たので、スマホ漬けの姿からは見られない「我が孫よ!」という感じでした。
作業は息子中心ですが20代直前の孫も80代半ばを過ぎた爺もそれなりの役割を果たし、ばあちゃんが買っておいた電動ノコギリが威力を発揮したこともあって、2時間ほどで作業完了。
業者の見積もりでは電線も絡んで難しい場所なので、昇降台付きの車が必要になる、予算数万円とのことでしたが……、コーヒー1杯づつで「有難う、またよろしく❣️」。
世代的継承というのは、こういう繋がりが各家庭毎に、また各分野ごとにつくられていくということでしょう。それだけに日本共産党として「世代的継承」に取り組むということは、日本社会が抱えている課題に立ち向かうことを意味しています。
そんなこともあって、明日は50歳代の党員に嫁さんを紹介する相談に出かけ、ついでに政治的な話もしにいく予定です。
いつもの「ばあちゃん+爺」たちの集まり「葉山のぞみ会」で、近づく葉山町長選挙に関連した話。先日発表された現町長山梨さんの町長選に向けての政策が話題として出されました。
この中身に触れなかったわけではないのですが、私が話題として出したのはこちらの2題、
その1
その2
特に、その2は婆婆爺爺グループにとっては朗報で、大いに行き先に関心をもっていきたいものだ、との話になりました。
昨日までネットで配信されているここから決議案をコピーして読んでいたのですが……、
一気に読もうとするとやはり、紙の新聞の読み方は、
両手で紙面を大きく広げ、決議案五万字を掌に感じながら、読み進めるのは一種の快感です。
読んでいる部分がいつも全文のどこなのか、が頭に収められて入ってくる感じが最終段落の「夜明け」に結びついて、今朝の「しんぶん赤旗」の配達時に迎えた葉山町の夜明けにつながりました。