「スポーツ赤旗」的と言っても神奈川県版的、まあ、kaeru版でしょうか。
これですから、
それに今夜の成績を加えると、
去年の悪夢の交流戦を消し去る活躍を!セ界を元気付けて欲しいです。
そして広島と先ずリーグ優勝を争いましょう。
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そして広島と先ずリーグ優勝を争いましょう。
昨日昌幸の「あそこの城(名胡桃城)からは、沼田が丸見えだ」とのセリフを紹介し、名胡桃城と沼田城の位置を空から見てみました。
「丸見え」とは、こんな風に見えるという写真があります。
左に見える利根川を境に沼田城側が北条氏、手前名胡桃城側が真田氏の領域です。
もう一枚。
昨日のGマップを更に近付けて見ます。
この二つの城が歴史の表舞台に出てくるのが来週の「真田丸」です。
平山さんの『真田繁信』の続きに移ります。
【 この名胡桃城事件は、沼田の北条方が城を奪取したのは確かだが、その詳細については不明な点が多い(黒田基樹・2013年)。事件の背景には、秀吉の裁定に対する北条氏の不満があったのは事実だが、実は真田氏も北条領に認定された地域の引き渡しを完全履行してはいなかったことが指摘されている(丸島和洋①、2014年)。
北条氏直も、十二月七日付の条目において、上杉景勝が信州川中島と名胡桃城とが 知行替になったとのふれこみで軍勢を途中まで派遣してきたため、これを恐れた沼田から加勢の要請があったことや、真田は吾妻領のうち北条方に引き渡すべき村々から百姓を追い出し無人の状況にするなどの嫌がらせを行っていたことなどを訴えている(『戦北』3563号)。いずれにせよ、北条・真田両氏と上杉氏を含めた境目における三者の思惑と不満が、偶発的な衝突を生んだのであろう。
この情報はその日のうちに徳川家康の知るところとなり、真田氏よりも真田信幸から家康のもとへ正式に報告がなされた(『家忠日記』)。家康はただちに秀吉に北条氏の名胡桃城奪取を報告した。真田昌幸が家康の与力大名であったから、秀吉への上訴は徳川氏を通じて行われるのが原則であったことがわかる。『加沢記』によれば、真田昌幸は当時上洛中であり、秀吉のもとにつめていたといわれ、北条氏の名胡桃城奪取を京都で知ったという。怒った昌幸は、ただちに秀吉へ北条氏の非違を訴えたとされる。】
ここまでは平山さんの『真田信繁』の第2章「父昌幸に寄り添う」の「ニ、豊臣政権下の真田信繁」のなかの「名胡桃城事件の勃発」です。このあと「小田原出兵と真田父子」に移るのですが、その部分は後日になります。
昨日の『真田信繁』からの引用文に1字誤っていました。最後の1行は「昌幸に知行」ではなく「昌幸の知行」でした。あわせて「知行」についてWikipediaから紹介しておきます。全文は https://ja.m.wikipedia.org/wiki/知行 で 。
【 知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。
その中で、様々な主体が担っていた所領支配は、武士の手中へと収まっていき、「知行」の語は、武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味するようになった。知行面積=知行高は、主君が武士に賦課する軍役の基準となり、その知行高の算出は、戦国期においては貫高により表された。江戸時代になると、知行高は石高で示された(一部では永法も用いられた)。平和で安定したこの時代、知行高は、厳格な体系を持つ武士内部の身分指標の役割を持つようになった。】
以下『真田信繁』からに引用の続きです。
【 真田が失う沼田領三分のニに相当する分は、徳川家康が替地を補償することにした。また秀吉は、北条氏がこの裁定を受諾し、さらに当主氏直が上洛するとの誓約書を提出すれば、ただちに上使を派遣して沼田領裁定を確定させることを約束すると言明した。
北条氏はこの裁定に大いに不満で、沼田領全域の割譲を強く主張したが受け入れられず、逆に秀吉は使者を小田原に派遣し、返答を催促した。もし拒絶すれば即開戦というのは誰が見ても明らかであった。ここに北条氏は屈服し、天正十七年六月、秀吉より提示された条件受諾を表明し、北条氏政が出仕するとの一札を提出した。
北条氏の条件受諾を確認した秀吉は、七月に沼田領裁定の執行を実施した。沼田城には北条氏政家臣猪俣邦憲いのまたくにのりが入った。いっぽうの真田昌幸は、旧沼田領の三分の一を統括する拠点の一つ名胡桃城に鈴木主水もんどを配備したと伝わる。また徳川家康は秀吉の指示通り、真田昌幸に対し沼田領三分のニの替地として信濃国伊那郡箕輪みのわを与えた。ここは高遠城主保科正直の所領であったが、家康は保科氏から取り上げたのであろう。
真田氏はこれを受けて、沼田領割譲によろ知行を失った家臣に対し、箕輪領で替地を宛行う作業を実施した。それは天正十七年十一月三日のことであった。この箕輪領における替地宛行状発給を開始したのは、真田信幸であった。そしてその日に、名胡桃城事件が勃発したのである。】
このあと事件について書かれていますが、その前にこの城の位置を見ておきます。
風船が名胡桃城、右下方の☆印が沼田城趾です。
(所在地 - 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地)
来週の「裁定」では昌幸に「名胡桃城はひときわ高いところにある。あそこの城からは、沼田が丸見えだ」とのセリフがあるようです。
名胡桃城事件そのものについては、明日に。
名胡桃城が出てくるのは来週「裁定」ですが、ドラマ「真田丸」の視聴を通じてこの城の歴史上の位置を知りました。城の名前は記憶にはありましたが北条氏滅亡に繋がるものとして理解できました。
その辺を平山さんの『真田信繁』で記しておきたいと思います。
【 天正十四年に徳川家康が上洛し、豊臣政権に従属すると、北条氏は同年十一月から臨戦態勢に入り、真田昌幸が上洛した天正十五年より小田原城をはじめ領内各地の大改修を始めた。
その間、豊臣秀吉は、天正十五年三月から九州平定戦を実施し、島津氏を降伏させ九州の国分を完了した。そして、いよいよ秀吉は関東(北条氏)と奥羽(伊達・最上氏ら)平定に向けて動き出す。
天正十五年十二月三日、秀吉は家康に対し「関東・奥両国迄、惣無事之儀」(関東・東北地方の戦争停止命令)の実現について一任し、敵対する勢力を「成敗」してもよいとした。家康は関東と奥羽と対峙する豊臣政権の重要な柱石と位置づけられた。これにより、徳川・北条同盟は形骸化した。北条氏は、十二月二十四日に全領国下に「天下御弓矢立」を発動し秀吉襲来に備えた。
天正十六年四月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎える行幸を実現させた。これは、「日本国王」足利義満による後小松天皇の北山御行幸に倣ったもので、自分の権威確立を意図したものであった。この時秀吉は、徳川家康以下の諸大名より起請文を提出させ、関白の命令への服従を誓約させた。天皇の権威を背景に天下を治める体制(関白政権)を、確固たるものとしたのである。この聚楽第行幸に際し、秀吉は北条氏政・氏直にも上洛を促したが、彼らはこれに応じなかった。秀吉は不快感を示したと伝わる。
秀吉は、北条氏の上洛を促すべく、北条・徳川・真田三氏間で懸案となっていた沼田・吾妻領問題の解決に乗り出した。もちろん秀吉は、天正壬午の乱終結時の領土分割協定の内実は承知していた。家康は信濃佐久郡等を自力で奪取していったのに対し、北条氏は真田昌幸に敗れて沼田・吾妻領を制圧できなかったのがそもそもの原因である。だが、秀吉は北条氏を上洛させ、豊臣政権への臣従を優先させるために、妥協案を提示した。それは、上野沼田・吾妻領のうち、沼田城を含む沼田領の三分の二を北条氏のものとし、名胡桃城を含む三分の一は「真田墳墓の地」であるという由緒を考慮して、真田昌幸に知行とするというものであった。】
名胡桃城の名前が出てきたところで、ー1ーとします。この裁定に対する北条氏真田氏の動きが名胡桃城事件へとつながっていきますが、長くなりますのでその分は明日に。
ブログのカテゴリーを「kaeruの孫録」として久しぶりと思い見てみましたら去年の夏休み以来でした。この間孫とのつき合いがなかったわけではありませんが、孫中心にとなると10ヶ月近くのご無沙汰だったとなります。その点婆さんはかなり回数が増えるでしょう。
遅く起きたら婆の置手紙「ジジの来るのを楽しみに待っているのですからね」と書かれていたのでいそいそとタブレットを持ってお出かけです。
ですから今夜は、この「オリンピック」の写真から、
運動会というと騎馬戦ですが、プログラムに騎馬戦という文字がありません、「南丸!!春の陣」これは大河ドラマの影響でしょう。
この苦い顔は徒競走で1位になるとババには公言していたのに6人中4位だった、という顔です。「どの顔して人前に出られるんだ!」などとは言いません。背後の賑やかな装いは6年生の「全力ソーラン」の衣装です。
さすが6年生です、力強く盛り上がりました。来年はこの群舞のなかで小学校最後の運動会でしょう。
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
「生ましめんかな」
というこの詩の後半はこちらでお読み下さい。
この産婆さんの体(産婆は血まみれのまま死んだ)を覆った血には、被爆による己や近くの人の血と生まれ出た赤児がまとっていた母親の血が混じっていたに違いありません。
「てんがらもんラジオ」のゲストの話のなかには子供時代の「夢」を忘れず鹿児島の地で実現する話が幾つもありました。今回の藤崎剛さんが自分でも驚いた小学校4年生のときの夢の実現の話です、これは番組では話されていないことで、イッターネット時代だからこその情報です。
これです、
小4の藤崎少年は城博士になりたいと書かれていますが、博士願望は城にとどまらず歴史全体に広がっていくのです。鹿児島県会議員としての活動は歴史の枠を越え県政全体に広がっていますが、そのなかでも少年時代の熱意をいかした取組が藤崎さんのこのfacebookからも伺えます。
https://www.facebook.com/fujisakitakeshi10574/
番組はこちらで、http://www.ustream.tv/recorded/87369126
chidoriさんのブログとワイコマさんのコメントもあわせて見て下さい、こちらです、「てんがらもん218回 歴史大好きの話」 。
藤崎さんがお城への関心から歴史全体へと発展させてきたお話を聞きながら、少年時代の環境というようなものが大きな役割を果たしていただろうと思えるのです。同級生の家にあったお城の本から、何人か友人の父親などの歴史の蔵書も関心の的になっていきました。本での知識獲得の段階から鶴丸城跡を実測するなど野外活動へとが広がって行きます。お子さんが通う幼稚園もさかのぼれば薩摩藩の武家屋敷の跡であり、歴史に残る逸話の舞台であったりします。そのことを解き明かしたりしました。
明治維新150年もカウントダウンに入っている段階です。前迫さんも言われていましたが藤崎さんの話を引き続き伺える機会が欲しいと思います。あわせて前迫さんの「鹿児島言葉」の時間に関連して、明治維新当時から「薩摩言葉」を引き継いできた祖父母の世代からこの「文化遺産」を後世に伝えていくことも大事な事業かと思いました。
「葉山倶楽部」の話ですからまずこれを、
葉山だけではなく、東京と神奈川を走りまわっています。
なんで走りまわるのかというと、お年寄りを笑顔にするためです。
ならば若い人、ーそうです、この人です。
肩書は「フリーランスライター」「レクリレーション専門介護士」44歳、富永幸二郎さん。白板に向かっているのは菖蒲とアヤメとかきつばたの違いをお年寄りに解説している姿で、二週間ほど前でした。
今日は「のぞみ会」に、ちょうど食事時でした。
顔を出した町長と懇談その後写真、町長は後ろ左二人目です、私は…略。
富永さんはこんな本を出しています。
介護士として活動しているなかでつかんだお年寄りが笑顔になることの大切さ、どこをどう押せば笑顔になるか「50のスイッチ」を見つけました。今日手にしたばかりの本ですので、ページを追いながらおいおい紹介していきたいと思います。
なお、詳しいくはこちらを、http://www.otominaga.com/kitekyo/
「来てくれる教室」で。
「真田丸」第20回「前兆」での聚楽第落首落書事件、その犯人について「民の仕業だ。大勢の民が、殿下に対して、同じ思いを抱いた。それが、あの落首になったのだ」と三成の言葉を一昨日の「つぶやき」で紹介しました。
ドラマでは犯人としての尾藤道休の首をもっての幕引きがはかられましたが秀吉の怒りはおさまらず罪の無い近住の住民をも磔にと、それを糾す三成に切腹を、と申し渡す時、北政所寧の出現でおさまったという筋書でした。
道休と同じ門番17人がとらえられ磔にされたことはドラマで触れられましたが、史実ではこの後も道休の住んでいた一帯が焼かれたり、住民が60余人磔になっているそうです。
このように天下人の怒りにあえば情け容赦なく命が奪われる「民」とは、当時どういう人たちだったのか、という思いがわいてきます。その時この図が目に付きました。
この時点での「真田丸」登場人物の関係図です。真田家など「家」毎にグループ分けされてます。左下に4人がどのグループにも入っていませんが、いずれも伊達家とか元黒田家とかで、左端上の「出雲大社の巫女 出雲阿国」だけがグループ外の人でしょう。
誠にドラマを見ての浅い受けとめなのですが、当時の「民」とはここで描かれている枠、グループ分けに入っていない人々のことになるのでしょう。血縁関係はもとより主従関係も含めて枠外の人々ということです。
先にあげた三成の言葉のあと信繁に、「だから殿下は、あれほど恐れたのかもしれませんね」というセリフがあります。この枠外の人々を恐れる天下人・豊臣秀吉ということです。勿論この言葉は脚本家・三谷幸喜が言わしめたことですが、不自然には聞こえませんでした。
時の権力者にその時代の「民」への「恐れ」がどういう形で現われるか、この時代には「残虐さ」をもって現れたのですが、400年後の現代では何をどう恐れているのでしょうか。
昨日の「つぶやき」の「前兆」は1600年天下分け目の関ヶ原を前に秀吉の天下支配の破れ目を示唆するものでした。今日の「前兆」はそこから400年余の21世紀の日本国での天下分け目の兆しとしての「前兆」です。
「前兆」そのものというより昨日の俳優横田栄司さんに倣って言えば「前兆の予兆」と言うべきでしょう。「前兆」として示し得るのは7月の参議院選挙の結果をもってでしょうから。
それは、以下の新聞記事です。
これについての日本共産党志位委員長は、
私はここに至った大きな要因として、私自身も何回か参加した戦争法反対の国会前行動をはじめとする全国各地での運動の力だと思います。もちろん日本共産党の「国民連合政府」提唱のインパクトや各野党の共同協同の努力があったからこそですが、その原動力が国民という「民の言動」であったことは疑いの余地がありません。