織田信長、鳴かぬなら殺してしまえ時鳥。
豊臣秀吉、鳴かぬなら鳴かせてみせよう時鳥、
徳川家康、鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥。
もう一人、鳴けぬなら一緒に泣こう時鳥。
織田信長、鳴かぬなら殺してしまえ時鳥。
豊臣秀吉、鳴かぬなら鳴かせてみせよう時鳥、
徳川家康、鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥。
もう一人、鳴けぬなら一緒に泣こう時鳥。
昨日は体の疲れ、今日は精神の疲れるのです。
kaeruにも精神があるのか? あります、繊細で
傷付きやすい精神が体中に張り巡っているのです。
これで中々取扱は難しいのです。
それはそれとして、こういう時は子供の寝顔など見るといやされるのですが、もうそういう機会は無い、そこでこんな「ひとこと」で。
⇒ 入れ歯を外してブラシで掃除。小1の孫が「おじいちゃんの歯はいーなァ。痛い時はそれで歯医者さんに見せればいいんだネ」。
【kaeru-23 さんが 2014年03月08日 に書かれた記事をお届けします。】
ということで、gooからのお知らせと昨年の「つぶやき」です。
以下に掲載します。
【 後期高齢者の命の尊さ。
「kaeruのつぶやき」のブックマークにもなっていますが、ブログ友という
より先輩の「雲=gooブログはじめました!」さんが、今日誕生日満87歳に
なりました。
>続きを読む 】今年も雲さんに「米寿、おめでとうございます」、をお届けしました。私の10年先輩で、1927年生まれ、どんな年だったのか、年表をめくって目についたのが7月24日の芥川龍之介の自殺です。当時新聞に発表された「手記」に自殺の動機について、「或る友人に送る手記」としてこう書かれています。「 君は新聞の三面記事などに生活難とか病苦とか、或いは精神的苦痛とか、いろいろ自殺の動機を発見するであろう。しかし、僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。(略)(自殺者は)何のために自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少なくとも僕の場合はただばんやりした不安である。何かただぼんやりした不安である。~」(1927年7月27日 東京日日新聞)同じ「手記」のなかに「 僕の考えたのは僕の自殺する場所である。僕の家族達は僕の死後には僕の遺産にたよらなければならぬ。(略)僕は僕が自殺したために僕の家の売れない事を苦にした。従って別荘の一つもあるブルジョア達にうらやましさを感じた。君はこういう僕の言葉に或るおかしさを感じるであろう。僕もまた今は僕自身の言葉に或るおかしさを感じている。」 とあります。芥川の自殺をうけて書かれた文芸評論 『「敗北」の文学』 を宮本顕治が著したのは翌々年の1929(昭4)年8月です。芥川の手記にある「ばんやりとした不安」こそ、宮本顕治が 『「敗北」の文学』 で立ち入って解明したものであり、現代でも精神の科学性を何処に求めるべきかを示していると思われます。それにしても雲さんの88歳を機に久しぶりに手にした 『「敗北」の文学』 、読みの浅さを感じさせられます。
夕食後眠くなりひと寝入りと思い横になり、二寝入り三寝入りしてしまう。
以前も言い訳めいたつぶやきをしましたが、こうつづくとぼやきになります。
もう少し寝ていたかったのですが、今夜中にと、それには眼の覚めるよう
なことを、と思い浮かんだのは今朝のNHKの朝ドラで、二組続けての抱擁。
見た人は分かります。見てない人も目の覚めるような抱擁といえばお婆さ
んが赤ちゃんを抱っこしたとは思いませんでしょう。
「カーネーション」では女主人公が仕事仲間と相思相愛になり、二人が準備
に総力をあげた開店日の朝、「好きです」の言葉を交わしての抱擁。
「花子とアン」のそれは、主人公ではなく 2014-07-15 でつぶやきまし
た白蓮と若い恋人との姿です。
ここで、話は一転して日本国憲法第24条です。
この条文がすぐ頭に浮かぶ人は、多分幸せな結婚をし生活の基本を民主
主義的な基礎において出発したと思います。
手元に日本国憲法がありますか?なければこちらから。
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM
ここでは、やさしく訳した条文を、 『世界がもし100人の村だったら』 の
池田香代子訳。
≪結婚は、当事者が同意すれば、
それだけで成立します。
結婚とは、当事者どうしが
おなじ権利を持つことをふまえ、
たがいに力をあわせて維持していくものです。
結婚相手をえらぶことや、財産にまつわる権利や、
相続や、どこに住むかをえらぶことや、離婚など、
結婚と家族にまつわる法律は、
個人の尊厳と両性の真の平等をふまえて
つくられます。≫
今日の「しんぶん赤旗」文化欄の見出しはご覧の通りです。その書き出しは
「今、NHKで人気を集めているのが朝の連続テレビ小説 “花子とアン” に登
場する伯爵令嬢と炭鉱王の物語だ。それは私(歌人永野朝子)の故郷の炭鉱町
で起きた柳原白蓮と伊藤伝右衛門の結婚話が下敷きになっている」。
大正三美人のひとりと称された白蓮の離婚について、当時の新聞に中条百合
子(後の宮本百合子)が次のように述べています。(1922/10/24読売新聞)
「私は白蓮さんの歌を拝見する度に、ある小さな不満を感じていました。あんな
に歌で自分の生活を呪ったり悲しんだりしているが、実生活ではまだ富の誇りに
妥協して、二重の望みに生きているという気がいたしました。そして、今度の事件
を見ますと、しみじみ女としての理解と同情の念が湧いてきます。(略)
夫人がこういう思いつめた最後の手段に出るまでには、どれ位人知れぬ悩みを
重ねていたか、決してこれは浮わっ調子な笑い話ではないと思います」。
百合子が「小さな不満」を感じていた歌とは、永野さんの引用の
石の床石の枕に旅寝して/あるが如くも冷たさに泣く
年経ては吾も名もなき墓とならむ/筑紫のはての松の木かげに
などでしょう。
そして、白蓮が夫伝右衛門に送った離縁状を載せた大阪朝日新聞(10/23)は、
「愛なき結婚と夫の無理解が生んだ妻の苦痛と悲惨の告白」と書きました。
その後宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と結婚、召集された長男を敗戦直前空襲
で失います。そのことを永野さんの引用する歌でみます、
夜をこめて板戸をたたくは風ばかり/おどろかしてよ吾子のかへると
英霊の生きてかへるがありといふ/子の骨壷よ振れば音する
これについて、永野さんは「焦土の原に、いとし子を詠んで嘆く。その深い悲しみは、
戦後、平和運動へ身をていしていく新たなバネとなった」とし、広島・長崎への憤りと励
ましの歌を紹介しています。
この犠牲が世界平和の道しるべ/わがをとめ等よ泣くのでないぞ
人の世にあるべきものか原爆の/いくさは遠く根の国へゆけ
永野さんの文の最後、
≪いま、安倍政権が再び日本を戦争のできる国にしようとしている。しかし、「戦争反対」
の声は連日、首相官邸をとりまき膨れあがっている。その中に数多くの白蓮の姿が、あり
ありと、私の目には映っている。≫
白蓮が己の存在の自由を求めていた時期、1922年7月15日日本共産党が創立され、
今日がその92周年です。
(出し物解説カタログ) (終演後挨拶する人形遣いの方々)
今日「相模人形芝居大会」という催しがあり、kaeru夫人から誘いをうけ、お
供してきました。何かの案内をみて神さんが申し込んだら抽選にはいり参加
証が届いていたのです。
てっきり神さんの好みで申し込んだものと思っていたら、そうではなく私が取
り寄せておいたチラシによって申し込んだとのこと、憶えのないことなのですが、
考えてみると翌檜さんのブログで子ども歌舞伎や地元の歌舞伎などを拝見して
いるうち、我が近くでこういう伝統的は催しを観る機会があったなら、という気持
ちになっていたのでしょう。
厚木市の林座・長谷座と小田原市の下中座、平塚市の前鳥座、南足柄市の
足柄座の五つの座がこの伝統芸能を継承し「相模人形芝居連合会」を組織し
ています。もちろん初めて観た人形浄瑠璃の実演でしたが、TVで垣間見たの
とは大違いで、なかなか引き込まれました。
出し物について解説する能力がありませんが、カタログのなかに次の企画が
入っていました、しばらく続けて観てみようと思います、そのうち何か解説じみた
ことをつぶやけるかもしれません。帰りロビーで人形が披露されていました。
6日夜の宴会と二次会は、いずこも同じ酔い心地境地で昔馴染みの無礼
講でしたが、来れなかった人の近況も分かりその人への気遣いもあって、酔
いの深まりも独特の浸み方です。
次の日は上田散策、宴会だけで昨夜中に帰宅した地元の従弟や早朝次
の予定で帰った内の神さんなどがいなくなって十二名で車に分乗。まずは
上田城へ、「上田城初めての人」と幹事がたずねると一人だけ、北海道から
参加の従兄弟の奥さん。 だがその従兄弟も 「はじめて来たのと同じだよ」と
言います。 多分何十年振りでしょう、変わったのは当然です。 三年に一度ぐ
らいここに来ている私でも、その都度変わっているのに気付きます。
公園の一画に工事の人が入っていました。 「ここに昔料亭があったでしょう」
と、 私が言うと 「そうそう」 と応じてくれる兄嫁と従妹、 「そこの娘が小学校の
時同じクラスだった」 と私が言います、大柄で美しかった女の子の姿が浮かび
ます。 そこに建物が無くなったのはかなり前でした、この 「いとこ会」 は十年前
位からやり始めて、今回四回目ですが最初の時終ってから自分ひとりでここへ
立ち寄った時はなにもやっていない建物だけがありました。 次に来たときには
もう建物は無かったと思い出されます。
三回目は上田から離れたところでやったので、ここへ寄っていませんから、
この数年空き地のままになっていたということでしょうか、そして今回工事の人
がいたということは新たな変化が公園の一画に生れ始めているということで、
次何時になるか分かりませんが、様変りしていることでしょう。
上田城域内の真田神社の裏、西櫓の元に立って市内を見下ろします、築城
当時この断崖の下まで千曲川の流れがあり、この辺を尼が淵と呼び、城も一
時尼が淵城と呼ばれていたと何かで読んだ記憶があります。
この城で有名なのは真田石と名付けられた石垣の大きな石で、その前には
由来を書いた木札が立てらています。 石垣全体を見ながら、最近ペルーを訪
問した従弟に 「ペルーの石造物とこの石垣の造りは同じかね」 と聞いたみまし
た。 昨夜彼ら夫婦がペルー訪問のDVDを見せてくれて、色々聞かせてくれまし
たので。
石の種類も違えば工法も違うでしょうが、彼の話では石造物の表ばかりでなく、
中も全部石でつくり上げられているとういことでした。日本の築城においても、表
面の石の背中にはより多くの石が積み上げられているに違いありません。 江戸
時代の築城家の争いを描いた「富士に立つ影」という小説を思い出しましたが、
それは築城術が戦国時代にとどまらず、武士の戦いを支えてきた重要な要素だと
いうことを示しています。
以前、古墳見学の折、専門家の話で古墳をつくる技術は農業の発展を支えた
田畑つくり、農道・水路・石垣などなどの技術から発展したものでそういう生産的
技術の上に成っていると聞かされ、そうだろうと納得したものでした。
城の石垣のことからペルーや古墳づくりへと話が飛びました。それも気心の知
れた身内と歩くことから生まれるものかと思い快い散策です。
昨夜は月齢14.8、満月、満月を望月ともいいます。
望月といえばこの和歌
此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば
平安時代栄華を極めた藤原道長がこれを詠んだのは、娘たちを入内させ
三代天皇の外威となり全盛期を迎えた時・1018年でした。
その二年前、同じく月を詠んだ和歌でも
心にもあらでうきよにながらへば恋しかるべき夜半の月かな
は、その道長に天皇の位を追われた三条天皇の和歌で、『百人一首』に
もとられています。
道長・三条などの天皇貴族間、貴族対貴族などの権力闘争において、各々
のガードマン的役割をはたしていた「兵=つわもの」が時代を背負って立つの
は、平安時代の次の時代、鎌倉幕府よって幕が開かれた「武士の時代」です。
昨夜、この湘南の地では僅かの時間、雲間から満月がアリバイ証明的に見
られましたが、ところ変われば見えたり見えなかったりだったでしょう。それ以
上に参議院選を終えたあとのそれぞれで、見えるもの見えないものがあった
ことでしょう。
月の満ち欠けが「天体の理(ことわり)」であるならば、時代の推移は「社会
の理」、その遅速は「政治の理」であり「人心の理」です。
この間、詠み手はどんな心を詠んだのでしょう。「赤旗」紙の歌・句・詩に注目
したいと思います。
仕事先で初音を耳にしました。 三階建ての二階、窓側は増築部分の建築
中。 どこで鳴いているのか、まるで天井裏から聞こえてくるようでした。
建物の裏手にでも梅の木があるのでしょうか。 暖かいをこえて暑いという気
候に鶯も一気に声が高くなったのでしょうか。 この鳥の鳴くときは木に止まって
いる時なのか、飛びながら鳴くのか、それとも両方ともなのでしょうか。
「梅に鶯」というのですから木にとまって鳴くのは確かでしょう。 ならば、「鶯
の谷渡り」とは鳴きながら谷をこえていく様をいうのかな?
春告鳥と名がついているのですが、今日のような陽気では「老鶯(ろうおう)」
(夏の季語=夏になっても鳴き続ける鶯のこと)になったのか、と戸惑って高鳴
きしたのかもしれません。
聖母像海を背にして初音きく 清蛙
眼が覚めましたが起きるのがつらい、が寝ているわけにはいかないのが
浮世の辛さです。 磁石の-(寝床)から+(からだ)を引きはがすようにして
立ちあがります。 早く仕事を終えてふたたびここに戻り、「お前(寝床)」の上
に体を横たえるのが何よりの願いだ!と二三歩あるき始めて、本当に目が
覚めました。 夢のなかでも一生懸命起き上がる「真面目な」勤労者精神の
発揮です。
それにしても、いよいよ、「春眠暁を覚えず」の季節がやってきたわけです。
昨日は休日、その証拠には歩数計の数字は朝の赤旗配達の4000歩から動
いていません。 帰ってきて風呂に入り朝飯をくってから寝床に潜って午前中寝
ていたし、その前日は日曜日で歩いていません、体調が悪く夜出るべき会議を
欠席して寝てましたから寝不足で、こういう夢になるわけがありません。
kaeruは季節の変わり目を身をもって、夢をもって知るのです。
俳句の季語 「蛙(かわず)の目借り時」 とは、晩春の眠気を誘う時期のもので
すが、一足早くやって来た春です。
「老いては子に従え」 から 「老いては床に従え」に……。