kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

FM放送、インターネット、ブログ、そして 「しんぶん・ざっし」。

2014-05-31 16:44:52 | 「てんがらもんラジオ」

 夕方 「湘南ビーチFM」 という放送を聞きながら 「てんがらもんラジオ」

のことを考えています。 女性の声です、若い人のようです。 かなり早口に

感じられて時刻の案内以外は聴き取れず、話が二三分であとはジャズ風

の音楽。

 このあと逗子の 「ぱそこん塾」 が7月から開く講座の紹介がありました。

あわせてフリーマガジンに掲載されていることがアナウンスされていました。

年4回発行されているマガジンはこれです。

かなり以前のものですが偶々「葉山を歩く」という号でしたので手元にありました。

 

 29日の「てんがらもん」を聴いていてメモしておけばと思うものがあり、その時

これらの 「情報」 が文字情報になっていたらかなり有効ではないだろうか、と思

いそれでこのマガジンを思い出したのです。

 ゲストの黒木さんと村永さんのやり取りも面白く、一度聴いておけばいいという

ものでなく、文字になっていば重宝だと思いました。 「おばあちゃんの知恵袋」な

ど 「お得情報」 としてメモしている人もいるかもしれませんが、何かをしながら聴

いている人も多いでしょうからあとで 「読める」 とすれば安心です。それに内容を

他の人にも伝えたいという場合にの役に立つわけです。 それは当然 「てんがら

もん」 の宣伝にもなります。


Pa(パー)からGoo(グー)へ、今夜のPC。 

2014-05-30 21:30:02 | どこまで続くかこのブログ

 以前にもつぶやき、というよりぼやきましたが 「なぜ接続できないのか分か

らない」 ということは 「~できるか分からない」 と同じことです。

 半月ほど前にも接続できないPCと接続器をもって店に行って若い女性が

短時間で接続させたので、今回もと出かけました。

 この前の人と違う女性でしたが彼女の前でなかなかPCが立ち上がりません。

やっと立ち上がったのですが、なんとちゃんと接続されています、??? 

 彼女は接続器がDisconnectedになっていたのでしょう、と言う。 DisとDis

が無い場合の違い位分かります、と言いたかったのですが、目の前のPCが接

続されているわけですか、もう用は無いわけで彼女の気は待っている次の人

の方に移っていることはたしかでしたので、あやふやな気持ちのまま店を出て

きました。

 前回も接続状況が好調だったのは二三日でしたので、とりあえず 「今夜は

Good」 ですが何時 Pa になるか分かりません。

 

 さて、「てんがらもんラジオ」 に関連してですが、地元の 「湘南ビーチFM」

は今までほとんど聴いていないかったので、すこし意識的に聴いてみよう思

い、今も聴きながらキーを打っているのですが、先ほどからジャズだけです。

頭の回転には都合のいいリズムです。

 この放送にはフリーマガジンが年4回だと思いますが発行されています。

 他に番組のなかで葉山町教育委員会が提供する番組の内容を小冊子に

して出され図書館などおかれています、もちろん無料です。

 なお、「湘南ビーチFM」は http://www.beachfm.co.jp/index.html 

で見れます。 番組表をザ―と見たところでは、「てんがらもん」 に匹敵するも

のは見当たりません。

 フリーマガジンなど放送と文字(絵・写真)情報について別に考えてみたい

と思います。


曾良との別れ……。

2014-05-28 17:53:27 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (5/25着信)

○現在地  全昌寺に到着しました。

○次の目的地  永平寺

○次の目的地までの距離  21.8km

○次の目的地までの歩数  29,192歩で達成です。

 途中山中温泉着がありました。この間メールの表記の仕方が変わり、

アプリ関係は別表記になっていることに気づかずにいました。20日に着

信していました、記録だけしておきます。

 

 例によって、長谷川櫂さんのテキストの一文です。

≪山中は温泉の町です。芭蕉は曾良とも別れることになります。曾良が

お腹をこわし、先に発つことになったのです。(略)≫

 このあと 「おくのほそ道」 本文が続きますが、ここではそのなかの句を

記しておきます。

   行き行きてたふれ伏とも萩の原     曾良

  (テキストは縦書きで、「行き行きて」は「行/\(繰り返し記号)て」)

≪曾良の 「行/\て」 の句は芭蕉を残して一人旅立つときに詠んだ別れ

の句です。これから先に旅立ちますが、かりにどこかで行き倒れになると

しても、そこもきっと萩の花ざかりでしょうというのです。言葉の調べも情景

もいい句です。それに答える芭蕉の句……≫

  今日よりや書付消さん笠の露          芭蕉 

≪きょうから私は君と別れて一人旅するのだから笠に書きつけた同行二人

(ににん)の文字を消さねばなるまい。これも別れの句です。≫

 芭蕉が全昌寺に着くと、前の晩に曾良が泊まっていて芭蕉に句を残して

いましした。

  終宵秋風聞やうらの山              曾良 

  (よもすがらあきかぜきくやうらのやま)

≪「終宵」の句、一人旅の淋しさに昨夜はついに寝つけず、一晩中、裏山の

秋風を聞いていました。これもまたしみじみとした別れの句です。本文(にあ

る)の「一夜の隔、千里に同じ」は一夜であろうと、すれちがってしまえば千

里も離れいるのとかわらないというのです。≫


 【蛇足】 以前読んだ小説に 「一夜の契り、千年を満たす」 という意味の言

葉がました、思い出しましたのでメモとして。

 


会えずの別れ。

2014-05-27 12:07:14 | 非詩的なつぶやき

 「会わずの別れ」は芭蕉が会うことを期していた俳人一笑に亡くなられ会うことも叶わなかったという話でした。今朝、上田の中学の同級生からの電話は、「はっちゃんが亡くなった」という連絡です。

 「はっちゃん」は「甲子」の「甲」を「はつ」と読ませるのです。以前賀状の端に「甲」を「はつ」と読むのは「甲乙丙丁」の最初にあるからですか?と尋ねたことがあったのですが、その年あたりから同級会にも出てこなくなり、賀状も来なくなっていました。

 同級生の話で、「誰にも会わない」ということで、癌を病んだということ以外状況がわからず、自宅にいるということは分かっていたものの今朝の訃報を聞くことになってしまいました。

 もう三十年くらい前、東京・新宿で一緒に活動していたご婦人がやはり癌に倒れ入院しているということなので、知らせてくれた人に入院先を聞いたら、彼女も親族以外とは一切会わない、との話でした。そういえば、同じ仕事場での仲間も会えずの墓参りになったのですが、彼女も自分のことは死んでから知らせて欲しいと親族に頼んでいたとのことでした。

 神話のイザナキとイザナミの物語は黄泉の国へ死んだ妻のイザナミを訪ねて行ったイザナキに「~わたしを決して見てはいけません」と言います。しかし、見てしまいます。そこには蛆虫がたかった姿がありました。驚き逃げ帰るイザナキへ「よくも私に恥をかかせたな!」と怒るイザナミの声が響きます。

 人の生活を個人単位でみた時、その芯にあるものは自尊心であろうと思います。それを傷つけたくない、傷つけられたくないという思いが「会わない」「会いたくない」「知らせるな」「見るな」という表現になっているのです。それが傷つけられたとき「恥をかかされた」ということになります。

 人間がひとり一人かけがえのない絶対的存在であるということが全ての事・物の前提です。そしてその一人のなかに宿る自尊心はその人の精神的活動が集約され、その人の個性の芯になっているものと思います。

 さて、この「自尊心」をcomが産み出す製品が持つことができるのでしょうか?


三日目の正直 ・ 将棋のアプリ。

2014-05-26 20:23:38 | どこまで続くかこのブログ

 ことの起こりは先月の日曜日の一日、前日泊まった孫と半日付き合うこと、

それも孫が風邪気味なので家の中でとのことになって、何をやろうかと。

 「将棋できるか」、「できるよ」、「やろう」となったが駒も盤も見当たりません。

仕方がないので逗子まで買いに出ました。100円ショップで盤と駒で200円

+税、往復のバス代の方が高くつく買い物でした。

 

 もともと勝負事には弱く、将棋も駒の動かし方を知っている程度ですが、小

学校3年生には勝てるでしょう、とまずやってみましたらやはり勝ちました。

では角抜きでとやりこれも勝ち、爺の面目を保ったと思っていましたら、

「爺ちゃん、角が二枚あるよ」、「えっ」

脇にしておいた角に私の手がいつの間にかのびていたのでした。

 これは約束違反、反則負けです。

 

 と云うような事があってこれからの孫との付き合いを考えて、「将棋アプリ」

をアイホにいれて遊び出したのですが、これが面白いのです。

 この二つともkaeru(後手)の勝った時ですが、左の場合は駒の動きが分かり

やすいですが、右は各駒がどうかかわり合い取るか取られるかが分からなくな

ります。 その点comは「天才」です、 瞬時に筋を読みとっての攻防でとても

kaeruの力量では太刀打ちできません。

 互角ではなく角抜きで対戦して5回に1回くらい負けてるという水準での勝負です。

 

 

 以前も将棋に関心があったようで、「将棋入門」という種の本が二冊ありました。

いずれも子供向けのものです。1987年発行の本に「将棋とコンピューター」という一

文があり、こんなことが書かれています。

≪今のところ、コンピューターの棋力は、~、これから先まだかなり強くなることは予想

されます。だけど、いくらなんでもプロ棋士より強くなるようなことはないでしょう。≫

 しかし、現在ではプロ棋士がかなわぬcom棋士が現れています。

 comの可能性は将棋の世界でも予想を超えて発展しているといっていいのでしょう。

 

 そういう状況はますます速度を速めるでしょう、そのなかで人間の想像力と創造力の

価値がいっそう高まるに違いありません。その意味では 「赤毛のアン」や「花子」に描か

れる 「想像の翼」 の意味は物語の域から生活の場に現実性をもってきています。


三日目の正直 ・ 『赤毛のアン』。

2014-05-25 17:58:23 | どこまで続くかこのブログ

 22日、帰宅途中で雷雨にあいまして、駆けだしたら転びそうになって、濡

れても骨を折る心配はない、転ぶよりずぶ濡れを選び、風邪気味に。

 それを口実に床のなかを定位置にして読みはじめた 『赤毛のアン』 に取

りつかれていました。 あわせてアイホの「将棋アプリ」 で遊ぶことをおぼえ

これにもはまっています。 以上はkaeru弟から来たメール(のつぶやきが

休んでるので心配しています!体調でも悪いのですか?)とチトセさんのコメ

ント(PCが不調?)に答えつつ、三日間のサボりの言いわけです。

 

 『赤毛のアン』、文庫版だけでも村岡花子訳の新潮文庫からは11巻がケース

入りで出され、その他何種類ものが出されているようです。

 松本侑子訳(集英社文庫)を読みだしてみて、この作品はコンピューター時代

が生み出した翻訳本だとの思いを強くしました。 他の人の訳でも同様のことは

言えるのでしょうが、この場では松本訳に限っています。

 2014-05-21の「つぶやき」でも触れましたが、松本さんが 『赤毛のアン』

の翻訳を頼まれ原書を読んでそれまで、児童文学・少年少女小説という枠で

みていたものを、原文は子供向けのものではなく、ヴィクトリア朝の大人向け

の文体だと知ったそうです。

 なかでも作品中に英米文学からの多くの引用文が含まれその出典探しに

苦労されます。それを助けたのがインターネットの活用で、手元の集英社文

庫版の巻末の「訳者によるノート」にその成果が盛り込まれています。

 なお、作品の内容について訳者の「あとがき」から。

≪ 『アン』 を読むことで私たちは、一人の少女の確かな成長と、それがまわり

の大人たちに幸福をもたらす過程を目のあたりにして、しみじみと感動につつ

まれる。

 (略)そして、死という人生の結末へむかって弱っていくマシューとマリラ……。

この作品には、育っていくもの、老いていくもの、という二つの生が交差している。

その中から世代をこえても変わらない幸福の真実を、『赤毛のアン』は私たちに

教えてくれるのだ。≫

 マシューとマリラとは孤児のアンを養女として愛する独身の兄と妹、この老いた

兄妹がアンへの愛情から愛すること愛されることの喜びを通じて変わっていく姿

が大変魅力的であろうと想像しながら、まだ全体の三分に一程を読んでいるとこ

ろです。


「てんがらもんラジオ」から学んだこと。

2014-05-25 01:35:05 | 「てんがらもんラジオ」

  第117回 2014/05/22 09:59

(てんがらもんラジオ) http://www.ustream.tv/recorded/47862798

 今回の番組で学んだことは第一に、ハプニングへの対応です。

 予定したゲストが来れなくなった!

 その時の舞台裏の舞台をそのまま見せてもらいました。

 まず、リーダーの姿勢です、多分村永さんの心の中はあわてたのでしょう、

しかし、「慌てず騒がず」といいますが少々騒ぎはありましたが、ニコニコしな

がらの「騒ぎ」ですから、周りが慌てないですみます。やはりこの番組ではは

じめての体験でしょうが、これまでの色々な体験をつうじて身ついた度胸の

良さが分かります。 それに関係者との連携の良さです。 局長がピンチヒッター

として直ちに対応したことにそれが伺えました。

 

 第二に、「国際ロータリークラブ」という団体について認識を新たにで

きたことです。この名前は知っていましたが、どこか縁遠い団体で一部のお

金持ちの集りかと誤解していました。「職業を通じて社会に奉仕する」という

理念には共感するものがあります。ゲストの伊藤さんの言葉から積極的に地

域の課題に取り組もうという姿勢が感じられて、鹿児島市内に10の組織が

あるとのことですが、これからも具体的な活動の紹介も含めて関係者がこの

番組に登場してもらたいものです。

 

 三番目はロータリークラブを概略をきいて、FM銀河の中崎局長の話の理

解がより深まりました。 FM銀河に係わるようになった経緯はいかにも職業人

らしいもので、出入り業者としてとのことです。

 NPO法人によって開局され、途中から運営を引き受けることになったようで

すが、開局の目的の 「地域の活性化」 は引き継がれています。それは平均

年齢70歳余のご婦人が中心になっている 「てんがらもんラジオ」 が局全体

のなかでも比較的比重が大きいらしいこと。 それは高齢者の多い地域を反

映しているのでしょう。

 職業を通じて地域に奉仕する団体の話は、地域の活性化に寄与する経営

者の姿に通じると感じました。

 FM銀河運営会社全体のことは http://fm786.jp/company/ 

 

 放送中 「色々な団体があるんですね」 という発言がありましたが、それを

地域に知らせ、各団体がお互いを理解する切っ掛けをつくることも、この番組

の役割のひとつかなと思い、それが出来るのも長年にわたって活動してきた

人のなし得ることかなのでしょう。 それがこの番組の魅力にもなります。

 なお、開局当時の記事は #mce_temp_url#


昨夜も「赤毛のアン」のことだった筈でした。

2014-05-21 12:38:19 | 本のひと言

 赤ん坊は寝ることが「仕事」だとか言われていますが、年寄りもそうなり

つつあります。よく寝る子は育つ、よく寝る老人は?

 こんな書き出しはなにか言い訳じみたことを言う場合で、昨夜、書き込

みを抜いたブロガーの言い訳です。夕食をとったら眠くなりひと寝入りした

らブログをの積りがつもりだけに終りました。

 

 今日の本題は、これです。

 横浜(ばかりではありませんが)の有隣堂書店の広報紙「有鄰」の2000年

2月号「本とインターネット」という座談会での松本侑子さんの発言です。

 

 写真の<「赤毛のアン」の引用出典を電子図書館で検索>とあるところです。

ここの部分を引用してみます。

≪『赤毛のアン』の翻訳がこの春に集英社から文庫化されてます。『赤毛のアン』

は児童文学というイメージが強く、実際、今までのは子供むけに要約して訳され

たものでしたが、私は全文訳をやったんですよ。すると、原文に「汝、何とかしたま

え」みたいな古い文章や詩的なせりふがたくさんある。でも、アンは十一歳だから、

そんな古風な英語をしゃべるのはおかしいと思った。それはシェイクスピア劇のハ

ムレットやマクベス、バイロンやテニスンなどからの引用だったんです。≫

 その引用文の検索に威力を発揮したのがインターネットであることはこの座談会

の「題」から言っても当然です。その一例として、

≪「薔薇」「名前」「香る」という単語三つで検索すると、『赤毛のアン』 の中の一節は、

時制は違っているけれど、『ロミオとジュリエット』のジュリエットのせりふだったとか≫

と述べておられます。

 その部分は集英社版の文庫の「訳者あとがき」のなかで、

≪文中に、古い言葉づかいの、詩のような芝居の台詞のような劇的な文章やしゃれ

た言いまわしがたくさん出てくることに気がついた。たとえば≫として

「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香る」という一節が紹介されています。

 これを読んで、このコメントの意味が分かりかけてきました。

 名前に何があるの (赤い風車)2014-05-20 07:08:13

私のブログでも、「名前になにがあるの」をなんどか引用、、っていうか、ほとんどちゃ

しているのですけど、、そして、そのうちの半分くらいには、花子とアンにも使われた、

「「何がなるの」って書いてある本があるけど、バラがヘクソカズラなんて名前だったら、

決してあんなにかぐわしくはない」って(翻訳は私の勝手な訳ですから)セリフを使ったり、、

(略)

 多分、芦塚(赤い風車)さんは、この文庫で62頁の

≪「人は名前よりも、行いが肝心ですよ」 マリラは、ためになる教訓を垂れるべきだと、ここ

ぞとばかりに言った。

 「そうかしら」アンは思いに耽った顔をした。 「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く

香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。 薔薇が薊(あざみ)とか座

禅草(スカンク・キャベツ)とかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。」≫

に関して述べておられるのでしょう。

 座禅草(スカンク・キャベツ)より「ヘクソカズラ」の方が分かります。


今夜はこれ=『赤毛のアン』

2014-05-19 23:28:04 | 本のひと言

  まず今日の「赤旗」の「潮流」です。(太字はkaeru)

 NHKの朝のドラマ「花子とアン」のタイトルバックに出てくるアンと緑の美しい風景は、モンゴメリの小説『赤毛のアン』の舞台、カナダの東海岸の湾に浮かぶ平和な島です▼カナダは100年前の1914年、第1次世界大戦が始まると、自動的に参戦しました。イギリスから戦争の遂行について相談がなく、首相ですら新聞記事以上のことをほとんど知らなかったという、大英帝国の自治植民地でした▼人口800万人の国で、18歳以上の男性63万人を遠くヨーロッパの西部戦線に送り、塹壕(ざんごう)の中で6万人余を戦死させました。4年3カ月続いた戦争に巻き込まれるのが、村岡花子が訳した『アンの娘リラ』(新潮文庫)の青年たちです▼小説は、アンの娘リラの視線で描かれ、ドイツ軍とたたかう連合軍の勝利を祈り、赤十字少女団の活動に参加し、戦場の兄たちや友人、恋人を思い、大きく揺れ動きます。母のアンは、詩人の心をもつ次男を亡くし、悲しみにくれます▼戦争が終わり、自ら志願しながら負傷して帰ってきたアンの長男に「僕は戦争というものを十分見てきたから、戦争など起こり得ない世界をつくらなければ」と、著者は語らせています▼村岡花子は本の「解説」で、「著者モンゴメリ夫人の戦争に対する憤りや平和愛好の熱情を、私たちは読みとりたいのです」と書いています。1000万人超の戦死者を出した第1次大戦の直後に出版された作品に、第2次大戦を経験した自身の思いを大きく重ね合わせているようです。


 今年は著者 = L・M・モンゴメリの生誕140年にあたるそうです。新訳の 『赤毛のアン』 がでました。村岡花子訳

は省略本だったので、日本初の全訳文を手がけてと訳者の松本侑子(ゆうこ)さんは述べています。

 私の本棚に文庫の「アン」が何冊かありますが、自分で買った記憶はないし読んだおぼえもないので妻のものか

娘が置いて行ったものでしょう。 なにか子ども向きの本という思いもありました。

  ところが訳者の松本さんは、≪ 『赤毛のアン』 は児童書ではなく、英文学と聖書から百カ所の引用、複雑な伏線

が張りめぐらされた奥行き深く知的な文学である≫ と述べています。