kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

がんと川柳

2019-08-30 21:59:35 | 「がん」を読む

これは8月18日に「がんと俳句」としてつぶやいたもの、

https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/d9d1c8d15e92f81de65526ffeae761a4

今日は川柳です、

https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/670018/

 

のなかに膀胱がんの人の一句、

多分この「がん川柳」は()で括られるものでしょう。

     五・七・五読んだ私も膀胱がん

kaeruも「てんがらもんラジオ」の川柳教室に投句しました、

お題「伸びる」             妻笑顔命が伸びるがんの俺

折込句「や・つ・こ」     病む俺に辛さ見せない恋女房


「地域の助け合い活動」をつくる仲間ー「のぞみ会」

2019-08-29 23:22:19 | 葉山そして人

「葉山のぞみ会」の渡辺さんからお見舞いにあわせて「相談したいことがある」と、メールをもらったのは入院前でした。今日近くの人に用があり、その人も「のぞみ会」会員なので渡辺宅でお会いすることにして、渡辺宅に顔を出してきました。

今日伺った話に関連してもらった資料がこれです、神奈川県社会福祉協議会が県内のボランティア・市民活動組織のいくつかをヒアリング調査をしたもののまとめです。

この中で「のぞみ会」は、

神奈川県に60を越すボランティアセンター等があり、各々に諸団体諸組織がある所属しているが、そのなかで6団体がヒアリング調査の対象になっている。

「外国籍児童の学習支援」「アルコール依存症者の回復支援」「精神保健ボランティア」「障害者とボランティアによる演奏活動」「ADHDのセルフヘルプ・グループ」というのが「のぞみ会」以外の各団体の活動内容で、「のぞみ会」は「地域の助け合い活動」とあります。

「のぞみ会」はもちろん他の組織団体の記載分も目を通して、渡辺さんの相談内容を考えてみたいと思います。


1844年8月28日 パリでの出会いーマルクス、エンゲルス。

2019-08-28 21:07:07 | kaeruの『資本論』

1844年8月28日、エンゲルスはロンドンからドイツへの帰国途中、パリにより、夕方マルクス宅を訪問しています。その時の状況をマルクスとエンゲルスの生涯を描いた伝記小説『プロメテウス』(ガリーナ・セレブリャコフ著)が次のように描いています。

(セレブリャコフについて、 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%

E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%

AA%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%AF )

なお、セレブリャコフがこの伝記小説を「プロメテウス」と名付けたのは、この絵で説明されます。

これはマルクスが編集長を務めていた『ライン新聞』の発禁に対する風刺画(1843年)で、プロメテウス(マルクスのこと)が印刷機に縛り付けられている。文部大臣《リス》にあやつられたプロイセンの鷲がプロメテウスの肝臓をついばんでいる図。


さて当時の日本は?

天保年間で目についたのが、「大塩平八郎の乱」「蛮社の獄」など。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%

BF%9D


私たち日本人は……、どこから来た?

2019-08-27 22:21:30 | どこまで続くかこのブログ

上は昨日の「つぶやき」からですが、

以前目を通していたこの本の

この二枚の図、

上が日本列島に人間が入ってくる三つのうちの2ルートで、

次は、

南の海からのルートです。

今回の台湾からの実験渡海についての展示会が開かれていました。

「これは行かずにいられまい」と、「お休みなさい」の代わりに

「つぶやき」ます。


未知への挑戦

2019-08-26 21:24:31 | どこまで続くかこのブログ

今日は何を「つぶやき」ますか、と自問して自答がこれです。

ヒトが人間になってきたエネルギーは未知への挑戦だった、と思わせられるのがこの記事です。

読みにくいと思いますが「しんぶん赤旗」の8月24、25、26日に掲載されています。

今まで「しんぶん赤旗」を見たことがないという人はこの記事の日の分だけでも、どーぞ。

未知への挑戦です。

1部購入もできます。お近くの共産党事務所にお尋ねください。


川柳の日

2019-08-25 22:42:57 | kaeruの五七五

今朝、看護師さんが「よく眠れました?」と聞くので「眠れませんでした」と。まず小便が睡眠時間8時間に8回、これだけでしたら寝ちゃ起き寝ちゃ起きである程度眠れたのでしょうが、その間に頭の中を川柳が往き来していました。

「てんがらもんラジオ」のちどりさんからメールに「川柳を27日までに」と入っていましたので、頭に浮かびはじめるとなかなか収まらないのです。お題は「伸ばす」折込句「やつこ」で、あーだこーだとやってるとウトウト、すると尿意が……、こんな調子でひと夜明けました。

そして8月25日「川柳の日」なのです。

これについてはこちらに、

病院にいる間は気温も天気も分からずにいましたが、5日ぶりの相州は昼の暑さが夕風には涼しさを感じました。迎えに来てくれた妻と蝉の声を聴いた昼間、夕には虫の音を聴くことができました。

宝暦七年八月二十五日は1757年10月7日です。江戸もすっかり秋の気配だったのでしょう。

柄井川柳の八月二五日の万句会の記事などはこちらからです。

https://senryujk.com/introduction/history.php


膀胱の面白さ

2019-08-24 20:43:34 | 「がん」を読む

膀胱に腫瘍、それが癌だと分かって一気に我が身のなかで膀胱に注目が集まっています。私は健康だ!と決めつけていた七十歳代中ごろまでは、例えば血圧の数値にも関心をもっていませんでした。

同年齢同士での話に出てくるそういう関連の話のなかに入れず、脇での聞き役でした。ところが心臓に難ありと分かり薬を毎日飲むようになって少し認識が変わってきたところでした。

そして今回の事態へ発展です、健康とか身体などにわか勉強で今日もベットでネット巡り、そこで見たのがこれWikipedia の「膀胱」、

魚類には無い膀胱が哺乳類に出来てきたのは、尿や便を垂れ流しにしていたら強いものに食われてしまう、それを避けるためなのでした。

もちろん長い歳月を通じて消化管の一部分が袋状になって膀胱に発展していったのでしょう。一言で「長い歳月」と言います、どのくらいの尺度を頭に置いたらいいのだろう。

その参考なるのがこの本です、

たまたま図書館から半月前に借りておいたもの(この写真はネット)ですが、目次もここで分かります、

この目次の下の方に、

「ヒトの体には五億年の記憶がある」とあります。

これを知ったからと言って我が身の癌がなくなるわけではありませんが、癌の住みついた膀胱について知っておくことは、癌との付き合いをしていくうえでかなり大事なことだと思います。借りてある本の返済日が明日ですのでもう二週間借りておこうと思いました。


経尿道的膀胱腫瘍切除術ー2回目

2019-08-23 16:59:25 | 「がん」を読む

昨日の手術は先月の場合より倍以上の時間がかかりました。手術前日麻酔科の医師から麻酔に時間がかかるとの説明、それによると膀胱の脇を通っている神経(名前を言われましたが忘れました)に関係しているようです。

麻酔に時間がかかるといっても20分くらい多くなる、とのことでしたので前回の倍以上2時間超えはやはり手術に要した時間だったのでしょう。前回と今回の違いは時間だけでなく、何よりも切除されたものの違いです。

前回、手術後見せてもらったのは、まさに細かい肉片でかなりの量が浮いていました。今回はガラリと変わって、ゴミ屑のように黒く細かいものが前回と比べたら3分の1もないでしょう。妻が医師から聞いたのでは三ヶ所から切除したそうです。一ヶ所は前回の跡、あとは別のところから。さて、これが何を意味するのか、後日主治医から説明があり今後の治療方針も話されるわけです。

ところが薬剤師さんが返してくれたお薬手帳に薬について一種類しか記入されていません、薬剤師さんも「今日はありません」と。これを勘違いして薬が必要では無くなった、と思ったのです。妻にそういうと「違うでしょう、後で主治医の先生から説明があるでしょう」と。

患者本人がどんなに「良い結果」を望んでいるものか、どんなことも「良い結果」に結びつけたいか、あらためて娘が「良い結果」「治りたいにつながる情報」にひかれていったかに心痛むのです。

膀胱という臓器についてどれほど知っているか、ましてやその脇を通っている神経などに関心を向けるのは我が身の命に関わるようになっているからです。それでさえ聞いた名前も忘れてしまう。

それでも「良い結果」を現実のものにするためには、医師の知識と経験に依拠し、そこから得られる情報を正確に理解する自分の努力です。そこが楽観的になったり悲観的になったりしやすい、それだけに身近な者の支えが抜かせません、先ほどの妻のひと言のように。また、ワイコマさんからのコメントで伺えるのは、支える人の存在の大切さです。

そう思うと娘が闘病に困難を抱えた様子が分かってきます、望んで選んだことではあるが、夫の理解をこえた治療法、治療に専念できる状況ではなかったと言わざるをえません。