今日のワイコマさんのブログです、
私のコメントでも触れていますが、土曜日曜の二日間は学びの多かったフクシマ行きでした。
何より現地で生の事を運動の中心にいる人から学ぶことの大切さを深めたことで、その一つ政府や自治体の「伝承」ではなく住民自身の運動としての「伝承を!」の立場に立っている、
ここ、「おれたちの伝承館」
そのなかの写真の一枚、
ワイコマさんのブログで能登半島地震、そこからフクシマに続き珠洲市民の原発阻止に思いが飛びました。
今日のワイコマさんのブログです、
私のコメントでも触れていますが、土曜日曜の二日間は学びの多かったフクシマ行きでした。
何より現地で生の事を運動の中心にいる人から学ぶことの大切さを深めたことで、その一つ政府や自治体の「伝承」ではなく住民自身の運動としての「伝承を!」の立場に立っている、
ここ、「おれたちの伝承館」
そのなかの写真の一枚、
ワイコマさんのブログで能登半島地震、そこからフクシマに続き珠洲市民の原発阻止に思いが飛びました。
地震国日本という歴史を背負ってきたし、これからもこの地で生きていくわけですから、これは読んでおくべきと思います。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/saigaishi_nairikujishin.pdf
歴史災害の教訓報告書・体験集 : 防災情報のページ - 内閣府
〜21世紀の4分の1ももうすぐということ。
今から20数年前は「21世紀も間近です」という言葉にいよいよ新世紀だ! みたいな感じでした。その新世紀も早くも24目に入るのも間近なのです。
昨日弟に頼まれた500字ほどの原稿を書きました、これです
掲載されたらあらためて紹介しますが、要は100年という期間を身近に感じるようになった、という思いを書いたものです。
17日に「つぶやき」ました羽生日本将棋連盟会長の羽生さんの言葉、
「とにかく1年が早かった」と。
今年の将棋界の時間感覚は会長の羽生さんをはじめとして「観る将」の人々も含め「早い」で締めくくられるでしょう。
この感じは将棋界だけでないでない、毎日の報道を通じての政治舞台の「早い展開」、年明けには更に大展開が予想されます。
歴史は平均的に進みやしない、過去の10年間が今日の1ヶ月で過ぎるという時代がある、21世紀に入って4分の1を迎える現在がそういう時期だといってもいいでしょう。
2日続けての「昨日の今日」で恐縮です。
タイトルにありますように昨日は日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃のあった1941年12月8日(現地7日)から82年目でした。
ワイコマさんのブログにも書かれていまして気付きました。
雑誌「前衛」12月号の該当記事を紹介しよう思います。
こちらのページを、
海外旅行の定番といえばハワイである。しかしこの地は太平洋戦争の始まりとなったパールハーバーがあり、重要な戦争遺跡でもある。一九四一年一二月七日早朝に日本帝国海軍機が米太平洋艦隊奇襲攻撃した。日本帝国陸軍が英領マレー半島のコタバルへ敵前上陸してから1時間後である。太平洋を挟んで日本とアジアの民に未曽有の惨禍をもたらした太平洋戦争の始まりである。
パールハーバーには、将兵と共に轟沈した戦艦アリゾナを慰霊するアリゾナ記念館を中心に、米軍の太平洋戦争関連資料を展示した「世界大戦武勲記念史跡」がある。当時のローズベルト米大統領はだまし討ちだと 「Remember. Pearl Harbor」を発し、米兵と米国民をおおいに鼓舞した。 七六年後の二〇一七年にトランプ前米大統領がこの地からツイッターで同じ言葉を発した。当時日本では「鬼畜米英」と叫んでいたが死語となった。アメリカでは生きているのだ。
湾には戦艦ミズーリが係留されている。一九四五年九月二日、東京湾のこの艦上でマッカーサー連合国軍最高司令官らと、大日本帝国外務大臣重光葵らによる無条件降伏の調印が行われた。太平洋戦争の終わりである。艦には降伏文書が展示されている。 この史跡には武勲を誇る米海軍の資料が数多くある。その一つに沖縄からの疎開児童を乗せた対馬丸を沈めた潜水艦ボーフィンが係留され、見ていると怒りがこみあげてきた。
ビジターセンターの片隅に広島で被爆し一〇年後に一二歳で亡くなった佐々木禎子さんの折り鶴がある。 接眼レンズ越しに見る折り鶴はあまりにも小さく涙が出そうだった。米軍の聖地に、原爆症と闘い生存を願った少女の折り鶴を展示する運動を起こしたハワイ市民に凄みさえ感じた。終戦から七八年、「Remember Pearl. Harbor] と「No More Hiroshima Nagasaki」 の間にある深い怨念とわだかまりが存在してきた。 二つの相反する趣旨が歴史的地で共存するのは、人間の平和を希求する悶えなのかもしれない。一方、二〇二三年この史跡と広島市平和公園が姉妹協定を結んだ。しかしこの協定締結は、日米の政治パフォーマンスの匂いがプンプンする。
先制攻撃が成功したかに見えた真珠湾攻撃も数年後、 未曽有の惨禍を伴って敗戦となった。この事実はウクライナに侵攻したプーチンも日本軍の二の舞になることを示唆しているかのようである。
撮影は、二〇一四年 二〇一六年~二〇一九年。写真集 「Pearl Harbor海の彼方の戦争遺跡」として新日本出版社から発行。
書かれていますようにグラビアの説明文です、雑誌を開くと、
これを一枚目として8ページ5枚の写真が、その5枚目です
一枚目が戦艦ミズーリで、その次が潜水艦ボーフィンです、同じ文ですがもう一度読んでください。
湾には戦艦ミズーリが係留されている。一九四五年九月二日、東京湾のこの艦上でマッカーサー連合国軍最高司令官らと、大日本帝国外務大臣重光葵らによる無条件降伏の調印が行われた。太平洋戦争の終わりである。艦には降伏文書が展示されている。 この史跡には武勲を誇る米海軍の資料が数多くある。その一つに沖縄からの疎開児童を乗せた対馬丸を沈めた潜水艦ボーフィンが係留され、見ていると怒りがこみあげてきた。
写真集の案内です、こちらをクリックしてみて下さい。
2月8日の「つぶやき」です。今日他用のため「タキジ コロサレタ」に行けなかったのですが、
多喜二が遺したもう一つの文(ふみ=手紙)について、
田口瀧子宛 一九二五年三月二日/小樽
「闇があるから光がある」
そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分るんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味ってみなければならない。
瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当にすることを忘れないようにねえ。 そして苦しいこともその為めだ、と我慢をしてくれ。
僕は学校を出てからまだ二年にしかならない、だから金も別にない。瀧ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。 これはこの前の晩お話しした通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。 安心してくれ。頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に瀧ちゃんを救ってみせる。 瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ。
(次ページ略)
(1行略)
ではさようなら、返事を待っている。
私の最も愛している
瀧ちゃんへ
(1)これは悲惨な境遇にある恋人田口瀧子(タキ)への慰めと励ましの一文。後に多喜二はタキを「身請け」し、若竹町の自宅で一緒に暮らし始めた一九二六年六月七日の「日記」(『全集』第七巻所収)には、「この世の生活事実を考え、体験してきたら、矢張りこの世の中を見る態度が色々に分れる。人生はついに循環小数の中から出れない。闇があるから光がある、そして人は闇と光の中をグルグル廻って歩いている、四を三で割って行って、恰かも四が何時か立たないかと望んでいるかのように。けれどもやっぱり何時まで行っても、三三...... である」と書く。
(2) 小樽市入船町のそば屋(銘酒屋)「やまき屋」の女給の生活。 天狗山山麓にある「南廓」という遊廓の近くにある銘酒屋では私娼を置いており、田口タキもその一人だった。 タキは一九〇八年、小樽郊外の高島に生まれた。父が家業で失敗すると、室蘭の銘酒屋に身売りされ、二三年、小樽の「やまき屋」に転売されていた。多喜二は、二四年一〇月、美人との評判を聞き、友人らと「やまき屋」を訪れ、タキと知り合っていた。
(3)略
「タキジ コロサレタ」は、
この案内は鎌倉市議会議員の高野洋一さんのFbから知り、チラシは鎌倉の小町さなえさんのFbからです。久しぶりの新橋でもあり出かけようと思っています。
さて「タキジ ノコシタ」とは、この一文を読んでです、
多喜二没後90年ということもあり、今年は多喜二に拘ってみようかと思っています。本棚の上に収めてあった『小林多喜二全集』を机脇に置いたりして多喜二の視線を感じられるようにしました、併せて手塚英孝著『小林多喜二』(新日本出版社)も手元に。
先の文は手塚著のp259、次の写真はp159です、
写真、ペンを持っている右手の人差し指、この指が、『一九二八年三月十五日』『蟹工船』を書き上げた指です。
「多喜二はこの作品(『一九二八年三月十五日』)で、弾圧や拷問とたたかう革命家たちのいろんな人間像を、その出身や家族とともに深い共感をもってリアルにえがいた。共産党員の不屈の精神力を残虐きわまる暴力と対比し、天皇制国家権力の本質をあばき、日本文学に画期的な内容を与えた。彼はこの作品でひろく世にみとめられたが、他方では、日本の特高警察の実体を徹底的にあばいたことから、特高警察に憎まれる結果となった」(手塚『小林多喜二』p 142〜143)。
多喜二が「ノコシタ」もの、作品 生き方 それらを引き継いできた人びと……、1933年2月20日以降の日々。
昨日と同じ紙面ですが、読んで下さい。
小林多喜二没後90年 能島 龍三
小林多喜二が特高警察の拷問によって20歳の命を奪われたのは、90年前、1933年2月のことでした。その1年半前には関東軍が「満州事変」を引き起こしていましたし、日本が国際連盟を脱退したのはひと月後の3月です。 多喜二は、日本が破滅につながる戦争にのめり込む、まさにその入り口で殺されたのです。 今「新たな戦前」などと言われ、大軍拡・大増税に突き進むこの国で、改めて多喜二の作品を読み直すと、いろいろなことが見えてきます。
次の文は「満州事変」勃発の3カ月後に多喜二が書いた「級長の願い」という掌編小説の一節です。
「お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました」
貧乏で「み国のため」の戦争募金を出せないので、今日から学校を休まざるを得なくなった級長が、 担任に宛てた手紙に書いた文章です。 父親は6カ月もの間失業しており、家族は食べ物にも困っています。 級長は、戦争が続けば国の支出が増えてみんなもっと貧しくなる、だから戦争をやめさせてほしいと担任に頼みます。戦争はおびただしい税金を使い、貧しい人々を犠牲にして遂行される。 戦争へ戦争へと急傾斜していく、あの時代の人々に向けた鋭い訴え、それは現在にも通じるのではないでしょうか。
. 銃剣向ける水兵
戦争と軍隊に関わる多喜二の小説では、私の脳裏にすぐに浮かんでくるいくつかの場面があります。
「蟹工船」のスト弾圧のシーン、これはあまりにも有名です。 人間扱いされないすさまじい労働環境に抗議して、ストライキを打った蟹工船の労働者たち。その前に帝国海軍の駆逐艦が現れます。「俺たち国民の味方だろう」と思っている労働者たちに、水兵の一隊は銃剣を突き付けたのでした。軍隊は国民のためにあるのではない。あの時代にあっては、文字通り命がけの表現だったことでしょう。
「何するだ!」
「何するだ! 稲 ‼︎ 稲 ‼︎」
これは「不在地主」の中の帝国陸軍の演習を見物していた小作農たちの叫びです。敵方の奇襲を受けた一隊が、慌てて実りかけている田の中へ逃げ込んで、大切な稲を踏みにじっている。それを見て手を振りながら走ってくる農民たちの悲鳴です。指揮を執る士官は冷談ですが、兵隊たちは気の毒そうにしている。 主人公は、その兵隊たちの中にも「小作人の倅達がいるんだろう」と考えます。
軍隊は国民を守る組織ではないという本質、しかしその構成員である兵隊は国民から徴集されている、 そんな矛盾を多喜二はこの場面で鮮やかに描出しています。現代、大震災時の救援に当たり、被災者に感謝された自衛隊員は、米軍と共にたたかう時にも国民を守る存在でいられるのか。 そんな事も考えさせられます。
人々の心の交流
もう一つ、「地区の人々」という小説の中に、赤子を背負った貧相な「出面取りの女」(日雇い労働者)が、街娼をしている美都に千人針を頼む場面があります。
美都が「私でもいゝの?...…..」 と聞く。
「あーア、何云うだんべ!心一つです。 誰だって勿体なくいたゞくいきますだよ!」
出征する 「おどオ」のために必死で千人針を集める「女」はそう返事します。美都はこの「女」の身の上に深い同情を寄せるのです。 最底辺で生きる人々の心の通い合いが、残酷な徴兵の実態を背景に印象深く描かれています。
貧困、格差、性の搾取、そして戦争と多喜二が命がけで闘い、書いた問題は過去のものではありません。 歴史に学ぶという意味でも、多喜二の文学は今、豊かな生命力を発揮することでしょう。
(のじま・りゅうぞう 作家・日本民主主義文学会会長)
✳︎小林多喜二没後30年文学のつどい 2月11日午後1時半、東京・全労連会館。講演能島龍三「多喜二は文学で戦争にどう向きあったか」、作品朗読井上百合子(映画「わが青春つきるとも」主演俳優)。作家のトークなど。 参加費1000円(オンラインとも)。03 (5940) 6335 (日本民主主義文学: 会)。 オンライン申し込み = info@minsyubungaku.org
昨日の「つぶやき」に私・三葉子の三句を載せましたが、同時に「同盟文芸」に弟の荘八も三句応募しています。実は私がある程度推敲しているのでここに紹介してもいいと勝手に判断しました。
というのは、三句とも多喜二忌を詠んだものです。
荘八句
「戦前」に✖️記す筆や多喜二の忌
多喜二の忌心に刻す文字血痕
我が手にも「白青白旗」多喜二の忌
昨日の「しんぶん赤旗」ですが、
小林多喜二は、90年前の1933年2月20日に虐殺されています。この日を前に『小林多喜二の手紙』を開いて目を通しています。
表紙の2人はもちろん「田口タキ」と「小林多喜二」で、書かれている文字は『小林多喜二の手紙』の「手紙」(置き手紙)の一枚で文庫本に紹介されている最後159通目で1933年1月と想定されています。
2022年という時代、長い歴史の一時代であるが私の人生という歴史的にはまことに短い期間中のその最終盤であるこの日——2022年10月11日——にウクライナという国でひと組のカップルが、このような思いで誕生していることは希望です。
ここに9日のタイトル「親子3代夫婦」の3組の夫婦をお見せして、ウクライナの新しい夫婦の親夫婦と祖父母夫婦にお祝いと連帯の言葉を添えたい、親夫婦、祖父母夫婦がここに甦っている、世界を新しくするために❗️